『銀木雪花』

 この国は神の国だ。山や風、岩や木に宿る神もある。人が死後、神になることもあれば、古くなった道具が神になることもある。あらゆる物、あらゆる現象に、神の息吹が根付いている。右を見ても左を見ても、上を見ても下を見ても、未来を見ても過去を見ても神がいるのだ。


 そんな神々を祀るため、どんな土地にも神社や祠がある。中には人々から忘れ去られ、打ち捨てられてしまうものも少なくない。漆羽うるしば神社もその一つだ。かつてはそれなりの神社だったが、今は山の中腹で鬱蒼と生い茂る雑木林に半ば呑み込まれ、荒廃した姿を晒している。


 しかしそんな場所にも、足繁あししげく通う者はいた。ある時は謎の美少女を自称し、ある時は田中と呼ばれたその少女の本名は、銀木しろき雪花せっか。蒼銀の髪をなびかせ、冷たい空気を纏う半人半妖の雪女だ。


 スニーカーで山道を駆け上ってきた彼女は、頬を上気させたまま境内に飛び込んだ。たちこめる霧を突っ切って、真っすぐ社殿の前にはせ参じる。膝に手をつきながらも、休む間を惜しんで呼びかけた。


「漆羽様、雪花が参りました! やりましたよ! 土御門つちみかどの陰陽師を出し抜きました!」


 直後、周囲の雑木林が不自然に騒ぎ始めた。カラスがいっせいに飛び立ち、黒い羽が無数に舞い降りてくる。明らかに多すぎる羽は黒い塊となり、やがて巨大な影を象った。


 それはさながら、死神のような不吉な姿だった。異様に細長い四肢の先で、鋭い鉤爪が光を放ち、外套のように全身を包む闇の翼は、陽炎のように揺らいでいる。白骨化した鳥の頭部からは、深淵に続くような眼窩が覗いていた。


 漆羽鬼神。古くからこの土地に居座っている神だ。それが姿を現したことで大空はたちまち赤黒く染まり、周囲には息も詰まるような神気が立ち込める。


 巨大なくちばしがカツカツと音を鳴らすと、低いしゃがれ声が直接、雪花の頭に届いた。


「余計な手出しは不要。貴様にはそう伝えたはずだが?」

「で、でも……! あのクソ陰陽師たちの活動はこれ以上、看過できません!」


 畏れに震える肺から息を絞り出し、雪花はそびえ立つ鬼神に熱弁をふるう。


「土御門が代替わりして、五年。既に多くの怪異が、あの女たちに狩られました。放っておけば、漆羽様がおっしゃっていた『大いなる計画』だって、邪魔してくるに違いありません……!」


 その瞬間、巨大な嘴がガバッと開き、ゲラゲラと哄笑を吐き出した。


「クハハハ、小娘が笑わせるな。その件は貴様とは関係のない話だ。貴様はしょせん人間混じりの半端もの。これ以上、首を突っ込むな」

「で、ですが、それでもあたしは漆羽様のお役に立ちたいのです!」


 雪花はパーカーのポケットからある物を取り出し、献上した。


「これを!」


 土御門から奪ってきた片眼鏡だ。


「これさえ取り上げてしまえば、あいつらも今までのようには戦えないはず! もはや漆羽様の敵ではありません! この地の妖たちが囲碁に蹂躙されることもなくなります!」


 漆羽鬼神が爪を伸ばすと、片眼鏡は雪花の手を離れ、浮かび上がる。雪花は得意げに胸を張った。


「さあ漆羽様、お納めください! そしてあたしを褒めてください!」


 だが漆羽鬼神の反応は鈍い。つまみ上げた片眼鏡を弄びながら、気だるげに唸る。


「貴様の助けがなければ、あの出来損ないの陰陽師に吾輩が後れを取るとでも言いたいのか?」

「え? あ、いえ、決してそのようなつもりは!」

「挙句の果てにこんな玩具おもちゃを押し付け、恩に着せようとは。思い上がりも甚だしいぞ、小娘」

「も、申し訳ありません。しかし……!」


 その時、重々しい空間を引き裂いて、閃光のような風が吹き込んできた。風に乗ってきた何者かが、中空で急制動をかける。それは筋肉質な巨体をパッツパツの執事服に包み、鼻から上を天狗面で覆った男だった。彼は空に浮かんだまま、仰々しく頭を下げる。


「我が主よ、駿臣しゅんしん仙足坊せんそくぼう、ただいま戻りましてございます。こちらを……」


 彼は無造作に手に提げていたある物を、主である漆羽鬼神に差し出す。それは鹿のような不気味な獣の巨大な生首だった。


「半世紀前より三つ隣の山に居ついていた、目障りな神の首にございます。お納めください」

「クハハハ、よくやった!」


 漆羽鬼神は、生首をつまみ上げ、丸呑みにする。数秒の後、突如として新しい翼が生えてきた。白骨化した鳥の頭部の右側に角が伸び、纏う空気がより禍々しくなる。


「満ちている。呪いに染まった神の首は、力に満ちている!」


 恍惚と高揚の雄叫びが轟く。漆羽鬼神は雪花を見下ろして言った。


「分かるか、小娘。これが捧げものだ。吾輩が本当に必要とする力だ」


 仙足坊は慎み深く一礼する。彼はまさしく完璧な従者だ。雪花ではとても敵わない。


 主の虚ろな眼窩は、淡々と告げた。


「この片眼鏡はもらっておく。貴様のこれまでの誠意に免じ、今回のその不躾な態度も見過ごそう。……だが次はない。貴様はもう二度とこの領域に踏み入るな。貴様を追放処分とする」

「ま、待って。待ってください、漆羽様!」


 呼び止める雪花の声も虚しく、漆羽鬼神の巨大な影は雲散霧消し、再び現れることはなかった。空の色が元に戻っていく。


 取り残された雪花に、仙足坊が声をかけた。


「山の麓まで送りましょう」


 彼女は怒りの眼光を返し、それを拒絶した。


「不要よ! あたしは子供じゃない!」


 そして雪花は肩を怒らせ、境内を飛び出すのだった。


   ○


「あああー! 漆羽様に嫌われてしまったぁー!」


 雪花は滂沱ぼうだの涙を垂れ流しながら、夜道を行く。両腕で顔を覆い、何度もしゃくりあげる。道に迷った子供のように、足取りがおぼつかない。途中で何度も道を外れ、隣接する畑に突っ込みそうになる。


「あたし、頑張ったのにぃ~! ひっ、ひっ……」


 目は腫れあがり、鼻も詰まり、髪はベッタリと頬に張り付いている。とても人に見せられる顔ではない。誰ともすれ違うことなく家まで戻れたことは、不幸中の幸いと言うべきか。


 ちょっとした地震であっけなく潰れてしまいそうな木造二階建てアパートの、外付け階段で二度転ぶ。さらに部屋の前で鍵を取り出そうとして、うっかり財布を落とし、小銭をぶちまけた。


「あああ~」


 あまりにも情けなさすぎる。情けなさすぎるあまり、逆になにもかもがおかしくなって、襲ってきた哀しみの波をやり過ごすことができた。不思議と笑いがこぼれてくる。


「ふ、ふふ。くくく。あたしは……めげない! あたしはめげない!」


 ほとんど空元気だ。それでも自分に言い聞かせるため、彼女は繰り返す。


「そうよ、あたしは絶対、敬愛する漆羽様のお役に立つんだから。追い返されたくらいで、めげたりしない!」


 小銭をかき集めた彼女は、グシグシと顔をぬぐう。冷蔵庫にしまっておいたプリンでも食べて、元気を出そう。元気が出れば、いい考えがわいてくるはずだ。


 しかし開け放ったドアの向こう側には、意外な人物が待っていた。


「ようやく帰ったか。そなたを待っておったぞ、雪女」


 アロハシャツと星形のサングラスは、一度見たら忘れられない。あの鷺若丸さぎわかまるだ。


「え? え? え? なんで?」

「話せば長いが。彼女が調べてくれたのだ」


 鷺若丸が背後を指し示す。段ボールが積まれた廊下の奥に、一人の女子が立っていた。


「え、えっと、お邪魔しております。勝手にごめんなさい」


 フワフワした桜色の髪と、気弱そうな顔に覚えがある。囲碁部部長の桜谷敷さくらやしきステラだ。


「その……、鷺若丸さまの提案で、身元を探らせていただきました。うちの生徒だったようなので、この子に頼んで職員室の名簿から住所を……」

「この子?」


 ステラが両手を差し出す。その上に乗っていたのは、千六百八十万色ゲーミングカラーに光り輝きながらふんぞり返って自己主張している人形ひとがただった。……陰陽師がいる!


 雪花は反射的に踵を返した。しかし玄関の外の相手は、きっちりと逃げ場を塞いでいた。


「どこへ行くつもり? 半妖」

「げっ、土御門!」


 陰陽師としての衣装で身を固めた、天涅だ。彼女は自身より身長で勝る雪花を、強引に玄関まで押し戻し、後ろ手に扉を閉じた。


 前門の陰陽師、後門の囲碁馬鹿ペア。完全に挟み撃ちの格好だ。


 雪花はパニックを押し隠しながら、喚いた。


「あ、あんたたち、こんな壁のクソ薄いアパートで騒いだら、どうなるか分かってんの? 隣の部屋のヤンキーとか、神経質なノンダクレのおばさんとかが、すぐに乗り込んでくるわよ!」


 なかなか意味不明な脅し文句になってしまったが、天涅は真面目に応じてくる。


「問題ない。あらかじめ《遮音結界》を施してある。どれだけ騒いでも助けは来ない」

「ああ、そう。……あとでその結界の作り方、教えて」


 状況は最悪だ。まんまと待ち伏せに嵌まってしまった。


 右腕の刃物を構えた天涅が、声を低く押し殺す。


「奪った【黄金棋眼鏡おうごんきがんきょう】を返せ」

「は! 残念だったわね! あんなガラクタ、もう手放したわよ」


 雪花も、ただでやられるつもりはない。ボクシングの構えで、虚空を殴って威嚇する。その顔の一部に蒼い幾何学模様が浮かび上がると、室内の温度が急速に低下し始めた。


「ちょうどよかったわ。イライラのぶつけ先を探してたところよ。せいぜい、雪だるまになる心の準備をしておきなさい」

「半妖ごときが、口だけは一人前ね。おまえがわたしに勝てる道理はない」


 まさに一触即発の空気が漂う。口先だけでなく、本当に命のやりとりをしようという緊迫感だ。そんな二人の間に、おずおずと口を挟む者がいた。ステラだ。


「あ、あの。こんなところで長話もなんですし、二人とも上がっていってください。実はさっき、ピザの出前が届いたところで」

「ここあたしん家なんだけど!」


 一瞬怯んだステラだったが、すぐに「ああ!」と手を打って続ける。


「えっと、その……わたくしの奢りですので、ご安心ください。サラダにポテトにミネストローネ、サイドメニューも充実ですわ。どうか遠慮なさらず」

「あんたはちょっと遠慮しろ! あたしは別に、お金の心配してるわけじゃないの。今はそれどころじゃないから。ピザはこいつの墓前にでも供えることね! って、あれぇ~?」


 雪花が素っ頓狂な声をあげたのは、一瞬目を離した隙に天涅がいなくなっていたからだ。慌てて視線を巡らせると、陰陽師は草鞋わらじ風のブーツを脱ぎ捨て、家に上がるところだった。さっきまでたぎらせていた殺気が嘘のように、迷いのない足取りでリビングに向かっていく。


 置いてけぼりを食った雪花の前で、鷺若丸がサングラスを押し上げる。


「そなたの所在を教える条件として、そなたを傷つけぬよう、約束させた」

「……よく、聞き入れられたわね、それ」

「苦労したが、ぴっつぁを奢ると言ったら、すぐだった」


 すかさず天涅から訂正が飛んできた。


「人を食い意地の張った女みたいに言わないで。半人半妖の生死なんて、人のお金で食べるピザに比べれば些事だと思っただけ」


 そこまで言われても、雪花はなかなか信用できない。


「あの狐女まで同意するとは思えないんだけど。なんか裏があるんじゃないの?」

「あー、狐殿は……」


 鷺若丸の困り顔が、天涅のボストンバッグに向かう。内側でなにかが動き回っているのか、もぞもぞと蠢いていた。よく見ると狐のストラップがぶら下がっていない。


「けんかいのそーい?……で、封印された」

「……マジ?」

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