弐:蒼銀

『土御門天涅Ⅰ』

 翌日、放課後。今日も鷺若丸さぎわかまるは数学棟廊下端に顔を出していた。今は桜谷敷さくらやしきステラと、机を挟んで向かい合っている。二人の間に横たわるのは、歪んだ二つ折りの碁盤だ。欠けてガビガビになった板は、ガラス製の碁石を置く度、ガタガタ音を立てる。


 二人は対局をしているわけではなかった。碁石の入った碁笥ごけは、どちらも鷺若丸の手元にある。彼が一人で石を並べているのだ。再現しているのは昨夜の対局だった。


 ある程度の力量を持つ碁打ちなら、自分が打った対局は、頭から尻まですべて記憶している。記録を確かめずとも、どういう手順でどういう戦局に至ったか、盤上に並べ直すことが可能なのだ。それはどの石にも意味があるからに他ならない。


 全ての手は、相手との駆け引きだ。攻撃、防御、牽制。常に目的を持っている。それが序盤、中盤、終盤と、積み重ねられていく。まるで物語のように。だから彼らは、数百手にも及ぶ戦いを、一つのドラマとして記憶できるのだ。


 終局した盤面を見て、ステラは感嘆の息を吐く。


「この対局が……」

「うん。我のことを呼び出した、実は半分妖怪らしき女を追いかけて、ピカピカ光る囲碁を仕掛けてきた、謎の女陰陽師との一局なり」

「……。えっと。何度、説明されても、意味が頭に入ってこないのですが……。でも、この囲碁がすごいことは分かります!」


 彼女は興奮していた。鷺若丸の腕前には及ばないステラだが、アマチュアとしては最高レベルの高段者だ。盤面から打ち手の実力を測るくらいのことはできる。この対局は、一線級トッププロ同士の戦いと言われても信じられるほどに、ハイレベルなものだった。


「相手の方も相当なものですが、流石は鷺若丸さま。凄まじい強さですわ!」

「……うん、そうだな」


 鷺若丸も自ら認める。


 平安の時代にいた時、彼は一介のアマチュア碁打ちに過ぎなかった。囲碁を愛する気持ちと向上心は誰にも負けないが、それでも棋力きりょくはそこそこ止まり。恐らく今のステラにも勝てなかっただろう。


 しかしこの時代に来た時点で、彼は爆発的に強くなっていた。原因は分かり切っている、あの童子たちと過ごした時間だ。いったいどれだけ囲碁に浸っていたのか、今となっては分からない。数日か、数か月か、数年か。あるいは本当に千年もの間、ずっと囲碁と触れ合っていたのかもしれない……。


 いずれにせよ確かなことは、鷺若丸が相当な打ち手に成長を遂げたということだ。棋力きりょくが伸びたことを喜ばない碁打ちは、そういない。もちろん鷺若丸も、自分が強くなったことは純粋に嬉しく思っていた。にもかかわらず、眼前の盤を見つめる彼の表情には険しさがにじむ。


 ステラはおずおずと声をかけた。


「なにか気になることが?」

「……気になることばかり、だ」


 鷺若丸は重々しく唸った。相手を服従させるための結界。光でできた碁盤と碁石。謎の片眼鏡。半人半妖と陰陽師。……この一局は、なにもかも普通ではなかった。しかし鷺若丸がなにより引っかかっていたのは、「手ごたえのなさ」だ。


「あの陰陽師は強かった。読みは鋭く、打ち回しはいと鮮やか……!」


 それらはあの狐女の妙な自信にふさわしいものだった。


「にもかかわらず、何故なにゆえだ。少しも滾らざりけり……!」


 囲碁とは、魂と魂のぶつかり合いだ。いつもなら一局を打ち終えた後、その内容が良かれ悪しかれ、心に熱が残る。しかし、昨日はそれがまったくなかった。おかげで鷺若丸の心はずっと、不完全燃焼な闘志にさいなまれているのだ。


の一局から感じたのは、そう、ひとえに風に舞う布切れと殴り合ったかのごとき、うつろ……」


 この気持ち悪さの理由を求めるように、彼はまた同じ対局を並べ直す。眠気を誘うように窓から差し込んでくる昼下がりの日差しでさえ、彼の真剣な表情を緩ませることはできない。


 しかし、彼が答えに辿り着く前に、廊下から来訪者の足音が聞こえてきた。二人は顔を上げ、そちらの方を向く。そこに黒髪ショートの小さな少女が立っていた。


 伊那いな高の制服姿で、タイツと皮の手袋を着用している。顔面以外の露出はゼロだ。


 鷺若丸が「あ!」と目を丸くする。彼女は昨夜、光の結界で対局した、あの陰陽師だったのだ。


「ま、まさか入部希望!? えっと、書類のサインはこちらに――あーっ!」


 盛大にすっ転ぶステラを無視し、陰陽師の少女は真っすぐ鷺若丸だけを見て告げた。


「おまえと二人だけで話がしたい。ついてくるか、無理やり引きずられていくか、選んで」

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