『《夢幻の間》』

 田中は光の矢に貫かれた肩をなでた。湧き出した氷が傷穴を塞ぐ。応急処置は、これで十分。痛みは治まらないが、命に直結する傷ではない。それよりも今は、囲碁の行方だ。


 石が盤上に置かれる度、鈴のような深い音が鳴り響く。盤面にはおびただしい数の黒石と白石が並んでいた。ルールを知らない者の眼には、複雑で無秩序な模様にしか見えないだろう。少なくとも、傍らに座る田中にとってはそうだ。いくら真剣に見つめても、(あ、あの辺の形、ネッシーみたい)以上の感想は出てこない。


 そもそもどうなったら勝利したことになるのか、田中にはそれすら分からないのだ。不思議な石音を聞きながら、ソワソワと身じろぎするしかない。どちらが勝っているのか、どうにか戦況の手掛かりが欲しくて、彼女は対局者たちを観察する。


 黒番の鷺若丸さぎわかまるは、真剣な眼差しを盤上に注いでいた。じっくりと思考してから、人差し指の爪と中指で挟んだ石を、丁寧に盤上へ運ぶ。その所作は、とても静かで落ち着いていた。大きな音を出しているわけでも、攻撃的な姿勢をとっているわけでもない。にもかかわらず、その姿には何故か異様な迫力があった。これまでの子供っぽい姿が、まるで嘘のようだ。直視していると肌が総毛立ち、息が詰まる。


 目を逸らすように、今度は対面、白番の陰陽師に視線を向けてみる。彼女は鷺若丸とは対照的に、急かされるように石を置いていた。考慮時間をほとんど使わない。鷺若丸の手にかぶせるようにして、さっさと手番を終えてしまう。


 両者の近くには、互いの持ち時間を表す光の砂時計が漂っているのだが、さっきから鷺若丸の砂ばかり減っていた。大丈夫なのだろうか。


 心配になって鷺若丸を見守るものの、彼の表情に焦りの色はない。陰陽師の方は、その間も片眼鏡の奥で、黒く染まった眼球を絶えずぎょろぎょろと泳がせている。額には小さな汗が浮かんでいた。焦りから来るものだろうか? 田中には判別がつかない。


 やきもきする彼女に一抹の安心感を与えたのは、狐耳の女、忌弧きこの存在だった。両者を横から見つめる彼女の顔には、とてつもなく分かりやすい表情が浮かんでいた。見開いた目をぐるぐる回し、青ざめた頬には滝のような汗が流れている。今にも泡を吹いて、卒倒しそうなありさまだ。彼女は明らかに狼狽していた。


(鷺若丸が優勢……ってことでいいのよね?)


 対局はなかなか終わらない。一手目から優に一時間以上が経過している。


(ってか、まだ終わんないの? 一ゲーム、長すぎじゃない……?)


 雰囲気に流されていっしょに正座してしまったのは失敗だった。足が痺れて限界ぎりぎりだ。田中は下唇を噛んで、祈るように待ち続ける。


 するとやがて、鷺若丸が口を開いた。


「これにて終局だな」

「……ええ」


 終わりは、突然に訪れた。まったく分からないが、どうやら決着がついたらしい。二人はそれからしばらく盤上の石を並べ替えていたが、やがてそれぞれ数字を口にした。


「白、八十一もく

「……黒、九十一もく

「盤上で十もく、黒が多い。コミの六目半もくはんを差し引いても、三目半もくはんが残って、黒の勝ちだ」


 黒石を持っていたのは鷺若丸だ。鷺若丸が勝ったのだ。彼は粛々と頭を下げる。


「ありがとうございました」


 その瞬間、今まで声を抑えていた忌狐が、とうとうこらえきれなくなった。


「ば、莫迦なッ! こんなクソガキが、【黄金棋眼鏡おうごんきがんきょう】を持つ天涅あまねに勝利するなど……!」


 負ければ生殺与奪権さえ奪われかねない勝負を吹っかけているのだから、彼女たちにはそれなりの自信と裏付けがある。しかしこの決着は、それらを根本から覆すものだった。その動揺は推して知るべし、だ。


 忌弧は鷺若丸に噛みつく。


「貴様、いったいどんなイカサマを使った!」


 その言葉で、鷺若丸の瞳に鬼が宿った。


「その発言、戯言では済まぬぞ」


 静かな口調ながら、忌弧を黙らせるほどの怒りがこもっている。


「我は真剣に対局し、正しく勝利した。不審なりと言うのであらば、一手目から並べ直そうぞ。 この三目半もくはんは覆らぬ!」

「このっ、餓鬼めぇ……ッ!」

「忌狐、そこまで」


 爪を構える狐耳の女を制止したのは、意外にも陰陽師の少女だった。彼女は敗北を悔しがる様子も見せず、ただただ鷺若丸へ興味の視線を向けていた。


「おまえ、いったい何者?」


 問われた彼は、星形のサングラスをかけて答える。


「大した者ではない。一介の囲碁指南役だ」


 少女と狐耳の女は、揃って首を傾けた。鷺若丸の言葉の意味が、理解できなかったのだ。なにか真意があるのでは、と深読みしてしまう。


 その隙は、ずっと息を殺して様子をうかがっていた田中にとって、絶好のチャンスだった。


「もらったァ!」


 一気に陰陽師へ躍りかかる。白い指の向かう先は、対局中ずっと怪しい光を放っていた片眼鏡だ。しかし田中はあともう少しのところで、跳ね返されたように地面に転がった。


「ぐえっ」


 暴力を禁止する、結界の拘束力がまだ残っていたのだ。おまけに急に立ち上がったことで、痺れた足に血液が流れ込む。のたうち回って、悲鳴をあげた。


「足ぃいい! め、めっちゃビリビリするぅ!」

「……こいつ」


 反応した陰陽師が、周りに人形ひとがたを呼び寄せる。集結した人形ひとがたは黄色く点滅し、衛星のように周囲を漂った。さらに彼女自身も護符を構える。


 田中の不意打ちは失敗だ。しかし彼女は、諦めない。咄嗟に手を差し出した。


「なら!……“勝利報酬として、その眼鏡を寄こしなさい”!」

「……!」


 陰陽師が身を固くする。それは抗うことのできない、絶対の命令だった。陰陽師自身の左手が、片眼鏡を掴む。人形ひとがたの防御も、光り輝く護符も、役には立たない。それは囲碁によって強制された、彼女自身の意志だからだ。


 震える左手が、田中の方に片眼鏡を運ぶ。その動きは、最後の抵抗をするように、とてもゆっくりとしていた。それでも最終的に、片眼鏡は田中の手に収まった。


「やった! ついに土御門つちみかどの片眼鏡を手に入れたわ!」


 田中が無邪気に歓声を上げる。しかしその台詞が終わるかどうかというタイミングで、陰陽師が即座に襲い掛かった。右腕の中から手首を突き破って、金色の直刀が飛び出してくる。呪力のオーラをまとった鋭利な切っ先が、闇夜にぎらりと煌めいた。


「その呪具は回収する! しかる後、おまえを三枚におろす!」

「わーっ!」


 すんでのところで斬撃をかわして、田中は距離をとる。


「ちょっとちょっと! これはあたしが手に入れた、正当な報酬でしょ?」

「奪い返すなとは命令されなかった!」

「う、奪い返しちゃだめ!」

「命令は一度きり!」


 陰陽師は戦闘体勢だ。田中は背中を向けて逃げ出した。もはやここに用はない。振り向きざまに手を振る。


「助かったわよ、鷺若丸! じゃあね!」

「あ、おい、褒美は……」


 呼び止める声も聞かず、彼女は《夢幻むげんの間》から退室する。勝者の報酬が受け渡された時点で、結界の拘束力は失われていた。


「待て!」と、陰陽師が後を追う。しかし逃げる田中が腕を振った。

「《氷雪よ、吹き荒れろ》!」


 突如、結界の周辺に、強力な風が吹き荒れた。硬い雪が混じった、肌を裂く冷風だ。まるでこの一帯だけが、南極になってしまったかのような異常現象だ。


 風は数秒と経たずに止んだが、その時既に、田中は姿を消していた。


「……小賢しい真似をする」


 もちろん、このまま逃がす気はない。陰陽師は一瞬だけ鷺若丸に意味ありげな視線を投げかけると、すぐに雪女の行方を追って走り出した。


 一方、弧耳の女はその後に続かない。結界の中に残り、鷺若丸ににじり寄る。彼女は彼の周りをうろつきながら、匂いを嗅ぎまわった。


「この匂い。覚えがあるぞ。そうじゃ! どうしてすぐに気づかなかったのか……! もしそうであるならば、式占しきせんに出ていた星の正体は……!」


 彼女は鼻の頭にしわを寄せ、問いただす。


「貴様……! この時代の人間ではないな?」

「いかにも、その通り」


 役目を終えた碁盤が薄らいでいく。わずかに白み始めた稜線を背に、鷺若丸は歯を見せた。


「我は鷺若丸です。千年の時を超え、平安の世からやってきました。我は囲碁が大好きです。そなたも囲碁は好きですか?」

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