『闇夜の陰陽師』

 陽が沈むと、本居もといの町は圧倒的な夜闇に包まれる。それを払うには、この田舎町の灯りは頼りないと言わざるを得ない。しかもその多くが駅周りの住宅地に集中しているため、人の寝静まる頃にはますます少なくなってしまう。街灯と街灯の距離は遠く、すぐ足元にある歩道と敷地の境さえ判然としなくなる。


 闇とは、たとえ人の世がどれだけ変わろうと、変わることなくそこにある未知、原初の恐怖だ。そしてその中には、今も「それら」が息づいている。人の理を離れ、古の恐怖に従って、人の世の裏側で跋扈する、異端のモノども――すなわち、怪異だ。


 その夜、粘つく音をたてながら、なにかが側溝の中を蠢いていた。蓋の隙間から湧きあがったそれは、ヘドロのような液状の身体で、あるものを形作った。


 手。五本の指を持つ、人間の手だ。


 掌に切れ込みが走り、割け、瞳が出現する。眼球はぎょろぎょろと瞳孔を躍らせ、闇の中に子供の姿を捉えた。


 伊那いな高の制服をまとった女子生徒だ。体躯は幼く、不釣り合いに大きなボストンバッグを抱えている。こんな遅い時間にどこへ出かけていたのか、住宅地の真ん中をゆっくりと歩いている。その無防備な背中は、怪異の本能をくすぐった。


 ヘドロの手は、ゆっくりと側溝の中に戻ると、少女の後を追いかけ始めた。粘っこい音をたてながら這い進み、徐々に獲物との距離を詰めていく。


 ふと、少女が足を止めた。そしてゆっくりと振り返る。彼女は気配を感じていた。春にしては妙にべったりとした湿り気が、肌にまとわりつく。


「……」


 側溝の中から、あの粘つく音がする。しかもその音は、一つだけではなかった。街灯の陰から、ゴミ捨て場の陰から、路地の陰から。同じ音が重なり合って聞こえてくる。


「……ッ!」


 少女は走り出した。それが狩りの合図になった。音が一斉に速度を上げる。そのどれもが少女を狙っていた。あっという間に肉薄する。


 怪異たちはいっせいに物陰を飛び出した。どれも手首から先だけの、ヘドロでできた手だ。


 それらはスポットライトのような街灯の下、少女の背中に襲い掛かった。制服をわしづかみにするため、鉤爪状の指先が広がっていく。その刹那、手はぐにゃりと目を歪めた――獲物の肉を引き千切り、身体に取り込み、時間をかけてゆっくりと溶解させていく様を思って。


 少女と手の姿が、街灯の外の暗がりに消えた。


 少女は手に捕まってしまったのだろうか。しかし悲鳴は聞こえない。出遅れた他の手たちが、困惑したように動きを止めた。先陣を切った手たちの気配がなくなっている。にわかには信じがたいが、消滅させられたのだ。なにか尋常ならざる方法で。


「ナニガ起キタ」

「俺ガヤラレタ」

「俺ガ減ッテシマッタ!」


 ヘドロの手たちは、甲に浮き上がった口から喚き声をあげ、周囲を探る。そこに気だるげな呪文が響き渡った。


「万物は泡沫うたかた、されどここに結ばれるは絶対の契約。光よ、闇よ、宇宙の定礎ていそをここに編め。《夢幻むげんの間》、開放」


 闇夜に、何本もの光の線が走る。線は半透明の面を形作り、面は大きな立方体を組み上げた。光の結界だ。ヘドロの手たちは、九畳ほどの空間に閉じ込められていた。慌てて結界をかきむしるが、光の壁には、傷一つつかない。


「グギャギャ!」

「閉ジ込メラレタ!」

「誰ノ仕業ダ!」


 その声に応える者がいた。


「わたし」


 壁に群がる手の後ろから、退屈そうな瞳が見下している。結界の中に立っていたのは、先ほどの少女だ。しかしいつの間に着替えたのか、格好が違っている。制服の代わりにまとっているのは、大胆に改造された漆黒の狩衣かりぎぬだ。片方の袖がない。露出した右腕にはボルトやプレート状の金属が埋め込まれ、金色の檜垣ひがき模様を作っている。黒いショートヘアの上には烏帽子がそそり立ち、その右目には金細工の片眼鏡が輝いていた。周囲には紙の人形ひとがたが舞い踊り、赤く光りながら手を威嚇する。


 彼女は漂う邪気を払うように大きな袖を広げ、淑やかな所作でその場に座り込んだ。


 ヘドロの手たちは、すかさず飛びかかる。しかしその動きは、縫い留められたように途中で静止してしまった。ピクリとも動かない。いや、動けない。


 近くに転がる少女のボストンバッグから、嘲笑が聞こえた。


「ククク、無駄じゃヨ」


 狐のぬいぐるみがポンッと破裂し、煙幕が立ち上る。その中から蠱惑的な女が姿を現した。やはり時代がかった衣装の女だ。頭には狐の大きな耳が二つ、背後には金毛の尻尾が九本。彼女は真っ赤な唇を、扇に隠した。


「ここ、《夢幻の間》は、神聖な領域じゃ。この内で互いを傷つけ合うことは許されん。もしここから出たいのなら……、方法はただ一つ」

「方法ダト?」

「ナンダソレハ!」

「言エ!」


 口々に手が騒ぎたてる。それに答えたのは、烏帽子の少女だった。


「わたしと囲碁すること」

「ハァッ!?」

「ハァッ!?」

「ハァッ!?」


 確かに、座り込んだ彼女の前には、いつの間にか脚付きの大きな碁盤が置かれていた。結界と同じ光の線で造られた、半透明の台だ。その四角い上面には、縦横に十九本ずつの線が刻まれている。そしてそれだけではない。その横にあるのは、やはり光でできた球状の入れ物――碁笥ごけだ。中には光の碁石が詰め込まれている。囲碁に必要な道具が、一式そろっていた。


 だがヘドロの手には囲碁が分からない。ヘドロの手は、下水の怪異だ。闇に潜み、人を襲い暮らしてきた。力や狡猾さにおいては自信がある。しかし囲碁などとはまるで縁がなかった。


 それでも狐耳の女は容赦なく追い打ちをかけていく。


「手合いは互先、コミは六目半もくはん。どうじゃ、平等じゃろ? 持ち時間は互いに九十九分、切れたら負けじゃ。もちろん、対局を拒否しても構わんぞ。ただしその場合、おぬしの持ち時間が削られていく。零になったら、敗北じゃ」


 狐女はおどけた素振りで続ける。


「この対局は上下関係を決める戦いじゃ。敗者は勝者に従わねばならん。ククク、踏み倒しは通らんぞ」


 ヘドロの手が尻込みする姿は、狐女の口元に意地の悪い笑みを浮かべさせた。


「ああ、そうそう。我々が勝った場合になにを命令するか、あらかじめ教えておいてやらんとな。――抵抗をやめ、大人しく消滅せよ、じゃ」


 つまりヘドロの手が生き残る道は一つしかない。この囲碁に勝つことだ。しかしルールを知らなければ、それは事実上不可能なことと言っていい。その絶体絶命を知ったうえで、狐女は愉悦の表情を見せつけているのだ。


「では、良き対局を期待しておるぞ! 天涅あまね

「……」


 天涅と呼ばれた少女は、墨に浸したような瞳で碁笥ごけに手を伸ばす。そして――


   ○


急急如律令きゅうきゅうにょりつりょう


 ヘドロの手は敗北した。勝者となった少女のまじないによって、その輪郭が煙のように消失し始める。


 手は悲鳴を上げた。納得がいかなかった。街の闇に潜み、幾人もの人間を狩ってきた。そこそこの怪異に育った自負もある。それが、こんなわけの分からないゲームで一方的にやりこめられ、消滅しようとしている。こんなことがあっていいはずがない。いいはずがないのだ!


「チクショウ! チクショウ!」

「テメェラ、楽シイカ! コンナ、コンナ卑怯ナ、ヤリ口デ!」

「俺ヲ倒シテ! 楽シ……イ、カ――」


 怨嗟の声が泡のように消えていく。


 そして、ただ静寂が残された。


 少女はぽつりと呟く。


「別に」


 結界と共に光の線へとほどけていく碁盤を一瞥し、彼女は心底つまらなそうに立ち上がった。


「虚しい。……すべてが虚しい」


 少女は狐女を引き連れて、そのまま夜の闇に消えていく。


 そしてすべては何事もなく収まった。……かに思えた。


 しかしそこにはまだ一人、物陰に潜んでいる者がいた。気配を殺して、じっと一連の様子をうかがっていたのだ。


「やっぱ、あのけったいな術をどうにかしないと、マズイわね……」


 路地の闇の中、氷のような蒼い瞳がらんらんと輝いている。その観察者は苛立たし気に唸り、爪を噛んだ。


「なにか……なにか手を用意しないと」

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