第6話

「……勃たないね」

 啓介の股間を踏みながら、真昼はため息をつく。啓介は呆れたようにこちらを見上げ、敵意を露わにしている。バカかよ、と目が語っていた。

「はあ、失敗したなあ。流石に、冷静じゃなかった」

 そう言って、洗面所につながるドアに視線をやる。あさひは真昼の命令で、汚れた下半身を洗い流している。一人になった今、自分のしたことに後悔しているころだろう、と真昼は思う。シャワーの音に交じって、えずくような声が聞こえる。今頃嘔吐しているのかもしれない。

 ならばいい、と真昼は思った。

 これであさひは、もう啓介とは一緒にいられないだろう。啓介がどう思おうと。

 真昼とあさひは、両親の再婚を機に姉妹となった。

 彼女たちの両親は、再婚してからほどなくして帰らぬ人となり、あさひは人生の大半を真昼と過ごした。

 真昼は血のつながらない妹を疎ましく思っていた。真昼は誰の庇護も受けられないまま、しかし美しく育ち、幼いうちからその美貌が武器であることを学び、磨き上げていた。

 一方で、あさひはただ、そこにいるだけで愛されていた。

 あさひは父の連れ子だった。彼は美男子ではなかったが、愛情をたっぷり受けて育ったもの特有の、無防備な魅力があった。着ているものは上等で品がよく、耳に心地いい声は異性を魅了し、当時彼の周りにいた中で、最も美しかった女と燃えるような恋に落ち、そしてあさひは生まれた。

 一方で、真昼は父親の名前を知らない。生まれたときから母と二人暮らしで、その母は時折酒に酔い、真昼と誰かを見間違えながらこういった。

「あの子さえいなきゃ、結婚なんかしなかった」

「だまされたのよ、私は」

「あいつ、殺してやりたい」

「どいつもこいつも、死ねばいい」

 平時はとてもやさしい母だった。よく笑い、周りを見て、よく気の付く人だった。けれども、その奥にはあんな本音が隠れていて、彼女は常に、味方を作るために戦っていたのだと真昼は幼いながらにわかった。

 母はけして美人ではなかったが、その娘である真昼は美しく生まれた。似てないね、と言われるたび、母の笑顔の鎧にひびが入るのが隣で見ていてわかった。そういう日は酒量が増える。なんども母の話を聞くたび、父にあたる人間は、いわゆるヒモのようなものだったという。お嬢様学校を出て、よい縁談だって望めた母がこうして身を粉にして働いているのは、その男の美貌のせいだということらしい。真昼は母を馬鹿だと思う。

 しかし、父については感謝していなくもない。

 真昼が美しく生まれたのは、父のおかげでもあるだろうから。

 整った容姿の強みに真昼が気づいたのは10歳にもならないころだ。片親であるということをきっかけに、おとなしい女のクラスメイトがいじめの対象になった。彼女を叩き、踏みにじり、死ねと平気で中傷する人たちは、しかし同じ境遇のはずの真昼を標的にはしなかった。それに気づいてから、真昼は彼ら、彼女らが、快いと感じられるようにふるまった。笑顔をまとい、さりげなく身体に触れ、頼り、そして、謙虚さを惜しまない。それを続けると彼女が何か言う前から、彼女の意に添うように動く女子生徒が現れた、男子も時に熱い視線を向け、そして理由なく贈り物をされることが多々あった。

 いじめを受けた生徒はどこかに転校していってしまったけれど、いなくなった彼女の机には、悪意に満ちた花が手向けられた。しかし、それから数日後には、彼女のことなど誰も話題にもしなくなった。

 ああ、死んだのだな、と思った。殺されたのだ、とも。

 あんなに傷つけられ、尊厳を踏みにじられ、大層深い傷を負っただろう。

 けれども彼女は何も残せず、ただ、この教室から姿を消した。

 真昼と同じ境遇で、思うこともいろいろとあっただろうと思う。抱えているものも、大事なものも、好きなものも、嫌いなものも、譲れないものもあったはずだ。

けれども、それらすべてが、この教室では無価値なものに貶められた。

 それを、殺されたと言わずしてなんと言うだろう。

 両親が事故で死んでから、姉妹の経済面での面倒を見たのは父方の祖父母だった。旧家ゆえにいろいろも面倒があり、姉妹を引き取ることはしなかったが、援助は惜しまなかったし、たまの機会に合えば相貌を崩して姉妹を可愛がった。

 しかし、ある時から、真昼は向けられる愛情に序列があることに気づいてしまった。

 あどけなく笑うあさひは、ほんとうにかわいかった。ただし、それは孫として、という但し書きがつくだろう。幼いあさひは、真昼の相手にならない。……今は、まだ。

 あさひは美しく、そしてあどけなく、弱さがある。誰からも踏みにじられなかった者でしか持ちえない余裕がある。助けてもらう才能がある。真昼では決して得ることはできない。

美しさの価値は相対的なものだ。

真昼にとって、己の唯一の価値を既存しうる、あさひという妹は存在していてはならなかった。

こんなこともできないなんて、馬鹿な子、いちいち聞かないで、言われてもないことしないで、あんたは考えたって無駄なんだから。

──誰も愛してくれないよ。

言葉一つ一つを、真昼は呪いをかけるみたいにあさひに吹き込んだ。

どうか死んでくれ、死んでくれと願いながら。



「もういいや」

 一向に変化の見られない啓介の股間に見切りをつけ、真昼は彼の身体をうつぶせになるように転がす。啓介はあさひの小水に顔を突っ込み、うげ、といいながら顔を何度も振る。

 その様子を真昼は満足そうに眺め、啓介の手を縛っていた手ぬぐいをほどき始める。濡れて固くなっており、なかなかほどけそうにない。腫れている指が痛々しく、それがなんとも愉快だった。

「まだ、あさひのこと好き?」

「……どうかな」

 髪をわしづかみ、床に軽く叩きつける。頭蓋骨と水面を叩く音に交じって、啓介の悲鳴が響く。

「好き?」

「……前、ほどではない……」

「そ」

 この期に及んで嫌いとは言わないことに不満はあれど、少なくともこれで破局はするだろう。仮にまだ、啓介の方に気持ちが残っていたとしても、あさひの方をなんとかすればいい。

 啓介の頭を解放してやると、重力に従って、再度彼の額が床を打つ。びしゃ、とひときわ大きく水面が跳ね、真昼の顔に雫が触れた。

 舌打ちをしたのと同時に、手ぬぐいが緩む。啓介は素早く這い、真昼の元から逃れた。額は赤くなり、目は充血している。髪はぐしゃぐしゃで、いかにも惨めな格好だった。

「きったなー。シャワーでも浴びてきたら? 替えの服はないけどね」

 にやにやしながら言うと、啓介は真昼を睨んで何か言いたげにしたが、すぐに諦め、とぼとぼと玄関の方に向かう。洗面所にこもったあさひを気にするそぶりもない。

「あのさ」

 玄関の手前で、啓介が振り返った。

「あさひがどうとか、気にしないでいいんじゃないか」

「……どういうこと」

 意味が分からず、真昼は思わず聞き返す。

 啓介はうんざりとした顔で応える。

「あさひがモテるかとか関係なく、あんた、彼氏くらいできるだろ……」

 そう言って、啓介は去っていく。

「……は?」

 啓介が去ってしばらくして、ようやく真昼は声を漏らした。

──あさひがモテるかとか関係なく、あんた、彼氏くらいできるだろ。

あいつは。

 私に恋人がいない腹いせで、あさひを踏みにじり続けたと、そう思っているのだろうか。

 大事なことだ、と言った。けれど、内情を話はしなかった。

そうしたら、こんな風に決めつけられてしまうのか。

真昼は苛立ちを隠さず、手近にあった椅子を蹴った。指にあたって予想外に痛く、それがまた腹立たしかった。

音に驚いたのか、あさひがゆっくりと、洗面所から出てくる。真昼が睨むと、びくっと身体を震わせながらも、その口元はなにかされるのではないか、という期待を隠そうとしない。

啓介など、所詮はあさひに寄ってきたお邪魔虫だ。あさひには一生、真昼より格下であってもらわねばならない。そのために、彼氏など作ってはならないとあさひに教え込むために、今日のことを画策した。

真昼自身のことを、理解してもらいたい、なんて考えはさらさらなかった。

それなのに、なんだ、この気持ちは。

勝手に決めつけやがって。

真昼はしきりに歯ぎしりをし、頭を掻き、足でたんたんと床を叩く。

「くそ……」

 真昼は怒っていた。

 彼女にとって美しさの価値を守ることは、人生の核にあたる部分だった。決して、モテとか恋人とか、そういうレベルの話ではないと自負している。

 それが、あんな軽薄に要約され、軽視されている。

 無価値なものに貶められている。

「殺す」

 殺さなければ。

 啓介の世界観を踏みにじり、心を貶め、その価値を奪う。そうしなければ、啓介の中での真昼は、嫉妬に狂った愚かな姉のままだ。

「あさひ」

 真昼は玄関の方を睨みながら、妹に命じる。

「あんた、海野と別れるな。なんなら結婚しちゃいなさい」

「え……?」

「あいつを逃がすなって言ってるの。あいつは、マゾよ。あんたと同じ、最下層の。それを自覚させてあげるの」

 そういう風に殺してやろう。

「でも、啓介君は」

口を挟もうとするあさひの頬を掴み、目を合わせる。そのとたん、彼女の顔はとろんと緩む。言葉を失った唇は、ちいさくはくはくと息をしている。桃色の頬から、暖かな体温が伝わってくる。

 憎らしいほど、魅力的な顔。真夜中の太陽のようだ。

「死ね」

真昼は、あさひの顔に唾を吐く。

それを浴びて、あさひはかすかに微笑む。

 

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美の奴隷 羊坂冨 @yosktm

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