第4章27節

【27-1】

それからの数日間を、永瀬晟は半ば呆然自失として過ごしていた。

自分が体験したことがあまりにも現実離れしていたので、自分の心と現実との折り合いを付けることが難しかったからだ。あの夜永瀬は、鳴り響く緊急車両のサイレンと、人々が口々に放つ怒号が織りなす喧噪を後にして、林海峰と共に無人の研究室に戻った。

本当は最後まで事件現場に残り、状況を見届けたい気持ちが強かった。しかし、

「これ以上ここにいても無意味です」

と林海峰に促され、その静かな迫力に押されるようにして大学に戻ったのだ。研究室で落ち着いたところで林は、彼が梶本の精神世界に入り、そこにいた<神>から知り得た事実――梶本恭子が何故、そしてどの様にして、あの怪物の様な姿に変身し、あれ程凄惨な殺人を繰り返すに至ったのかを詳細に語った。

「永瀬先生には、そのことを知る権利があります」

というのが、彼が語った理由だった。

話を聞くにつれ永瀬は、彼女の運命を弄んだ<神>への憤りを禁じ得ず、その思いを彼にぶつけた。

「何の目的で<神>は、梶本君にあんなことを。私は到底納得出来ない」

「<神>に何らかの意図があった訳ではないのです。<神>は数万年、あるいは数十万年前と変わらず、そこにいただけなのです。ただ梶本さんにとっては、<神>が近くにいたことで、不幸な偶然が重なってしまった。ボルトン夫妻が亡くなったのも、蔵間先生たちがその場に居合わせたのも、それ以前に<神>がボルトン夫妻を共生者として選んだのも、すべて偶然の積み重ねだったのです。仮にそれが、どこかの誰かが仕組んだ予定調和だったとするなら、何ともお粗末で、不愉快極まりない結末ですが」

永瀬の怒りを代弁するように、林は静かに、そして最後は吐き捨てるように言うのだった。少し冷静さを取り戻した永瀬は、事件の真相を警察に告げるべきではないかと林に図った。しかし林は首を振り、

「そうすることで誰も救われません。梶本さんだけでなく、彼女に殺された方々も、そのご家族も、そして永瀬先生や私もです。そもそも梶本さんが、あのような凶行を働くことになった経緯について、警察や世間一般を納得させる説明自体が不可能です。やはり事実を公表することは止めておきましょう」

と静かに、しかし永瀬の反論を許さない強い口調で言ったのだった。

確かに梶本が行ったのは紛れもない犯罪行為、残虐な殺人だった。その事実は変えようがない。しかし事実を詳(つまび)らかにすることで、犠牲になった人々の家族や友人の受ける傷は、逆に深くなるのではないだろうか。犠牲者たちが殺害された理由やその状況を知っても、その人たちの悲しみの量が減る訳ではない。

――この事件の場合は、むしろ真相を明らかにしない方がいいのかも知れないな。

自分自身を納得させる言い訳かも知れないと思いつつも、永瀬は林の意見に同意した。梶本恭子の最後の願い、自身が怪物と化したことを、誰にも知られたくないという願いを無碍(むげ)にすることは、彼には出来なかったからだ。

――林さんの言うように、<神>が実在し、偶然にもその力で怪物と化した人間によって被害者たちが殺害されたと主張しても、警察も世間も信じはしないだろう。

永瀬はそう考えて、無理矢理自分を納得させるのだった。

ただ梶本と犠牲者たちが身元不明のままでは、さすがに彼女たちが浮かばれないだろうとも思ったので、その懸念を林に伝えた。すると林は、

「それはこちらで処理します」

と請け合ってくれた。実際翌日の午後には、梶本と被害者たちの身元が警察によって公表されることになったのだ。おそらく林が教団を通じて、密かに警察に情報を流したのだろう。

――まったく油断のならない男だ。

永瀬はその手際の良さに、呆れる思いだった。

そして事件の翌日から、事の成り行きに呆然としたままの永瀬にとって、容赦のない慌ただしい日々が始まることになった。事件の報道は日本だけでなく海外をも駆け巡り、世間はまさに興奮の坩堝と化した。廃ビルで起こった爆発現場から5体の焼け焦げたバラバラ死体が発見されたのだから、それも当然だろう。当初は爆破テロの疑いも持たれたが、その憶測は即座に警察によって否定され、漏れたガスへの引火が原因と発表された。その結果、世間の人々は概ね胸を撫で下ろす一方で、興味本位の一部マスコミの中には何故か残念がる向きもあったようだ。

そして犠牲者として梶本恭子と本間雪絵の身元が発表されてからは、マスコミ関係者だけでなく、大学とは縁も所縁もない野次馬までもが大挙して押し寄せる始末だった。箕谷の事件が発覚した直後に対策が取られていたおかげで、それら部外者の学内への立入りは辛うじて阻止することが出来た。中にはYouTuberと称する不審者が、塀を乗り越えて学内に侵入しようとして警備員に阻止され、警察に突き出される騒ぎもあったようなのだが。

そんな中で永瀬は、生まれて初めて記者会見というものに臨み、マスコミの矢面に立たされる羽目になった。箕谷の事件を含めて、こちらから積極的に情報発信した方が、世間の騒ぎを早期に沈め、その眼を大学から逸らすのに有効であるという林海峰の意見を、学長と富安学部長が入れた結果だった。会見での記者とのやり取りは、後から見返すと赤面してしまう程しどろもどろだったが、どうにか乗り切ることが出来た。本来記者会見には、研究室の責任者である蔵間顕一郎教授が出席すべきだったのだが、彼の性格がマスコミ対応に全く不向きであることや、事実関係を最もよく知るのが永瀬であることを考え、学長と学部長の間で取り決められたようだ。確かに蔵間を記者会見の場に出すと、どのようなハプニングが起きるか予想できないと考え、彼は渋々ながらその意見に賛同した。しかし永瀬はこの話し合いの裏に、林海峰の暗躍があったのではと、いまでも疑いを持っている。

事件は結局、老朽化したビル内のガス漏れによる爆発事故として処理された。そして梶本を含む犠牲者たちの死因は遺体の損壊状況が甚だしく、現時点では特定不能と発表されたのだった。その結果、爆発が事故であったのか、それとも事件であったのかも、世間では依然として不明のままである。被害者たちが何故そこにいたのか、おそらく警察もその理由を特定出来ずにいるのだろう。そしてこのまま時間の経過と共に、世間の目は次の関心事へと移ろって行き、やがて事件は迷宮入りして行くものと推測された。

――林さんの言う通り、誰にとってもその方が良いのだろう。

永瀬はそう思い、心の中で梶本恭子と本間雪絵、そして箕谷明人や他の顔も知らない犠牲者たちの冥福を、幽かな胸の痛みと共に祈るのだった。


【27-2】

漸く永瀬の生活が落ち着きを取り戻したのは、事件から2週間あまり経過した頃だった。大学の構内には学生たちの姿が戻り、間近に迫った前期試験の準備に余念がない。

――それにしても今年の夏は長いな。

永瀬は噴き出す汗を拭いながらそう思った。既に9月も終わりに近づいているのに、東京ではまだまだ真夏の暑さを引きずっていたからだ。この様に異常な気候も、もしかしたら<神>の思し召しなのかも知れないなどと、最近の永瀬は考えたりする。

その日彼は、意を決して林海峰を夕食に誘った。場所は以前に彼と行ったことのある、駅近くのイタリアンの店だった。その時この店で、彼は林海峰から、彼の素性や彼の父の精神世界にいたという<神>の存在、そしてその<神>を彼の精神世界の中に捕らえて封印しているという、到底信じ難い話を聞かされたのだった。そして今ではそれを事実として受け止めている自分がいることに、只々唖然としてしまう。今思えば、あの夜が自分の人生を、それまでの平凡な日常から非日常へと激変させた転換点だったのである。

レストランは空いていて、永瀬たち以外に一組の客がかなり離れた席に座っているだけだった。コースの料理が出尽くして食後のエスプレッソを一口飲むと、

「では永瀬先生、本日お誘いいただいた訳をお聞かせいただけますか?」

と言って、林は向かい合って座った永瀬に微笑みかけた。

――やはり読まれていたな。

そう思った永瀬は、

「実は事件のことで、どうしても林さんに確認したいことがあったんです」

と、率直に言った。

「どの様なことでしょうと?」

と言った後林は、

「私にお答え出来ることでしたら、隠し立てなくお話しします。どうぞお続け下さい」

と、姿勢を正して先を促した。

「ありがとうございます」

永瀬は礼を言うと、徐(おもむろ)に話し始める。

「林さんは、いえ、林さんの教団――九天応元会(きゅうてんおうげんかい)では、どの様にして今回の事件と、英国で起こった事件とを関連づけたのですか?以前お聞きした、英国の連続殺人犯が、ボルトン先生がお住まいだった区域を担当する郵便配達人だったというだけでは、いくら何でも話が飛躍し過ぎていると、僕は思うんです」

「やはりお気づきでしたか」

林はそう言って一つ溜息をついた。そしてテーブルに身を乗り出すと、

「これからお話しすることは、教団の極秘事項に該当します。ですので、決して口外しないことをお約束頂けますか?」

と言って、真剣な眼差しを永瀬に向ける。永瀬は彼の強い口調に少し躊躇したが、どうしても好奇心の方が勝ったので、「承知しました」と言って頷く。それを確かめた林は椅子に背を戻す。

「今から30年前のことです。当時私はまだ、この世界に生まれていませんでした」

林はそう言って、徐(おもむろ)に語り始めた。

「その当時英国のロンドンに、リチャード・パルマーという科学者の一家が住んでおられました。パルマーさんはKCL、キングス・カレッジ・ロンドンで教鞭を取っておられた法医学者であり、医師でした。パルマー夫妻は、その時から10年程前に九天応元会の教義に触れ、やがて入信を希望するに至りました。理由は定かではありませんが、キリスト教の教義と、科学者としてのご自身の立ち位置の間に、何か大きな矛盾を感じておられたためではなかったかと推察されています。しかしその時点では、パルマー夫妻のご希望は叶いませんでした。何故ならパルマー教授のお父上が、敬虔なキリスト教徒だったからです。それから10年の歳月が流れ、先生のお父上が亡くなられた後、ご夫妻は正式に教団に入信されました。しかしそのことは、周囲には秘密にされていたようです。そしてご夫妻の入信から数か月後に、パルマー家を悲劇が襲いました」

林はそこで一旦言葉を切り、永瀬を見た。永瀬は固唾を飲んで話に聞き入っている。

「パルマー夫妻にはトミーという、当時8歳になる男の子がいました。そのトミーの容姿がある日を境に急激に変化していったそうです。具体的には、四肢と頸部が徐々に伸び始めたのです」

「手足と首が伸びた?」

永瀬は一瞬虚を突かれ、林の言葉を繰り返した。それがどの様な変化だったのか、すぐには思い浮かばなかったからだ。

「そうです。手足と首が通常ではあり得ない長さに伸びたのです。しかも、僅か数週間の間にです」

「そんなことはあり得ない。いや、あり得るのか。梶本君や英国の殺人犯のように」

「英国の信徒経由でその情報を得た祖父は、急遽英国に渡り、パルマー家を訪ねました。そしてそこで、トミー少年の苦しむ姿を実際に目撃したのです。パルマー教授は祖父に助けを求めましたが、祖父にはトミーを救う手立てがなかった」

「その後、そのトミーという子はどうなったんですか?」

「残念ながら、交通事故で両親と共に亡くなりました。祖父がパルマー家を訪れた翌日だったそうです。これは推測に過ぎませんが、事故の前にトミーは既に亡くなっていたのではないかと思われます。何故なら祖父が見た彼は、息も絶え絶えの様子だったからです。そして」

「息子の姿を世間に晒すことを恐れ、パルマー夫妻は死を選んだ」

林の言葉を引き取って、永瀬はそう続けた。

「それも今となっては、想像に過ぎませんが」

そう言って林は、やや沈痛な表情を浮かべた。

「そのトミー少年の件が、今回の事件にも関係しているということですか?起こった事象自体は、確かに似ていますが」

気を取り直して訊いた永瀬に、林は答える。

「祖父はパルマー家の事故の直後に帰国し、調査を開始しました」

「調査、ですか?」

「そうです。トミー少年に起こった肉体的変化に、強い関心を抱いたからです。以前お話ししましたが、教団には過去にトミー少年の様な肉体的変化を起こした人間に関する記録が残されていました。そしてその記録には、その変化が<神>の関与によるものであると示唆されていました。そこで当時教団の最高幹部であった祖父は、パルマー家の周辺にいた人々について密かに調査を始めたのです」

「それは何故ですか?」

「トミー少年の変化が、教団の記録にあるような<神>の関与によるものであるならば、彼の周辺に<神>がいたのではないかと考えたからです。祖父は英国在住の教団関係者に、パルマー夫妻周辺の人たちの観察と調査を指示しました。パルマー夫妻は、それ程交友関係の広い方々ではなかったようですが、それにしても気の遠くなるような作業だったようです」

「それはそうでしょうね」

永瀬は、仮に対象が自分のような交友関係の極端に狭い人間だったとしても、大変な労力だろうなと想像する。

「そして教団関係者による、長年にわたる地道な調査の結果、2年程前にボルトン夫妻の存在が浮かび上がってきました」

「30年間も調査を続けてこられたんですか?!それにしても、どんな理由でボルトン先生が?」

「明確な証拠があった訳ではないのです。しかしボルトン夫妻の周囲では、幾つか<神>の存在を示唆する様な事例が報告されていました。例えばご夫妻と接触した人々の中に、共通する不思議な感覚に襲われたというような事例です。しかし我々が調査対象としていた方々の中には、パルマー夫妻とボルトン夫妻の共通の関係者が複数おりましたので、中々絞り込めずにいたのです」

「不思議な感覚ですか?」

「そうです。頭の中を何かが通過していくような感覚だったそうです」

「それは<神>が、その人たちの精神世界に触れて情報をコピーしたという。教授が、いや、教授の中の<神>が我々にしたような…」

「その可能性が高いと思われます。そして我が教団では、2年前からボルトンご夫妻とその周辺の様子を注視して来ました」

「それは監視ということですか?」

「いえ、あくまでも観察です。我々には彼らに何らかの危害を加えたり、プライバシーを侵害する様な意図はなく、その様な行為は厳に禁止していましたから」

永瀬は林の反論に少し納得がいかない一方で、彼らが行ってきた遠大な行為に、呆れる思いを禁じ得なかった。

「まあ、監視か監察かという議論は不毛ですから止しましょう」

そう言って林は話を戻す。

「先生のご質問に戻りますが、今回の事件と英国の事件の関連性に思い至ったのは、あのベンジャミン・トーラスという犯人の写真を入手したからではなく、30年前パルマー家に起こった悲劇に関する情報を持っていたからです」

「では林さんの来日の目的は、事前に事件の発生を予測していたからなのですか?」

「いえ、さすがにそれは違います。あの様な事件が起こるなど、想像もしていませんでした。私の来日目的は最初にお話しした通り<神>の研究のため、大脳生理学に関する知見を得るために、蔵間顕一郎教授のご指導を仰ぐことが目的でした。蔵間先生の研究室を留学先と選択したのも、純粋に先生が世界的権威であることが理由でした。先生がボルトン教授の教え子であったことは、もちろん情報として持っていましたが、私の留学と今回の一連の事件とはまったく関連がありません。しかし」

「しかし?」

引き込まれるように永瀬は林の言葉を反芻する。

「私の来日の予定が早まったのは、蔵間先生が英国で、ボルトン先生夫妻の奇禍に巻き込まれたという情報を得たからでした。私はその時、何か予感めいたものを持ったのかも知れません。非科学的ではありますが」

――ああ、そういうことだったのか。

永瀬は事情を聴いて、漸く胸にわだかまっていた疑問が解けた思いだった。

「そして来日後に私は、蔵間先生の周辺に<神>の存在があることを強く感じました。そしてあの日ここで、先生に私の経験談をお話ししたのです」

「何故私に?」

「先生に私の話を記憶していただくことで、蔵間先生の近くにいる<神>の興味を喚起するためです。我が教団では、<神>が直接人間の精神から情報を得ている可能性について、既にかなりの確信を持っていましたので」

「ああ、そういうことだったんですか。だから教授は、話もしない林さんの過去の経験を知っていたんですね。漸く理由が分かりました。しかし林さん。貴方は何故ご自身の経験を、直接<神>に開示しなかったのですか?」

「私は<神>が、私の精神に直接接触することを阻止することが出来ます。それは生来のもので、11年前の<神>との接触以降に発現したようなのです。私がその能力を行使して<神>との接触を拒むのは、私の中にいる<神>を無暗に刺激してしまうことを恐れるからなのです。先生にそのことを肩代わりさせてしまい、大変申し訳ありませんでした」

そう言って林は深々と頭を下げた。

「そんなことはもういいですよ、林さん」

永瀬がそう言うと林は、

「ありがとうございます」

と彼に向かって頭を下げた。

「そして教授に呼ばれた貴方は、あの日<神>に関する様々な質問をされたのですね?」

「そうです。あの様な機会は、これまでの教団の歴史の中でも稀有のことでした。私はその貴重な機会を逃すまいとして、あの様に直接的な質問を幾つも投げかけました。大変不躾とは思いましたが、様々な疑問に回答を得ることが出来ました。しかしその後がいけませんでした」

「その後とは?」

「梶本さんを止めることが出来なかったことです。私は早い段階から研究室内の異変を感じていました。その時にもっと踏み込んでいれば、梶本さんを救済することが出来たかもしれない。このことは私の人生の中で、最大の痛恨事です。いくら後悔しても足りない」

「林さん、もうその話は止しませんか?貴方のおかげで梶本君は、人として人生の最後を迎えることが出来たのですから」

永瀬はそう言って、本心から林を慰めた。梶本恭子に起こった悲惨な出来事を予測することなど、誰にも出来なかっただろう。林は永瀬の思いやりを沈黙で返した。その眼には感謝の色が浮かんでいる。

その眼差しに少し照れた永瀬は、「ところで林さん」と言って彼への質問を続けた。

「あの鏡はどこにあったんですか?」

「ああ、あれですか。あの鏡はビルの三階で偶然見つけたものです」

「偶然!」

「そうです。初めは梶本さんの注意を引いて、彼女の精神世界に入りやすくするために使うつもりでした。相手の注意が私に向けられていると、その人の精神世界に入ることが出来ないからです」

「あなたはそれ以前にも、他人の精神世界に入るということを、実行されていたのですか?」

「はい。祖父や、教団幹部に事前の了解を得て、修行の一環として行っておりました。まったく予備知識のない人物に対して行うのは、今回が初めてでしたが。しかしあの時点で梶本さんは、既に永瀬先生に気持ちを集中していましたので、鏡を使用しなくても彼女の精神世界に入ることは容易でした。尤もあの鏡は、彼女の世界の中で、彼女の注意を引くのに大いに役立ってくれました。おかげで彼女の中の<神>と会話することが出来ましたので」

「あの鏡がなかったら、どうされたんですか?」

「その時は、別の手段を考えたと思います」

そう言って林は、涼し気な笑みを浮かべた。

「そうだったんですか」

永瀬もつられて微笑すると、質問を続けた。

「答えにくいかも知れませんが、林さんは梶本君に身に起こった変化を、いつ頃から予測していたのですか?」

「それはかなり後になってからです。具体的には、箕谷先生のご遺体を発見してからです。あれは常人のなせる業ではありませんでしたから」

「ああ、そうだったんですか」

「はい、それ以前は異変を感じつつも、正確に予測は出来ていませんでした」

「そうですよね。誰にもあんなことは予測出来るはずがない。私たちは<神>ではないのですから。だとすると、箕谷君を殺害した時点で、梶本君はかなりの変化を遂げていたことになりますね。いくら距離があまり離れていないとは言え、あの廃ビルから箕谷君のマンションまで、よく人に見とがめられずに移動できたもんだなあ…」

「先生は、我が教団が収集した噂話を覚えておられますか?」

永瀬の自問に、林がそう問いかけた。

「噂話ですか」

「はい、そうです。『がんちゃん』という路上生活者の方の目撃証言と、あのビルに灯りが点っているという噂話、そして」

「確か、民家の屋根や低層マンションの屋根伝いに移動する人物いたという。ああそうか。それが梶本君だったと」

「確証はありませんが、梶本さんは無意識にか、あるいは意図的になのか、人目を避ける目的で、そのような移動手段を取ったのかも知れません」

「なるほど。ところで林さん。本筋とは離れてしまうのですが、二つ程、僕の興味本位の質問をしてもいいですか?」

「ええ、勿論です」

「一つ目は、精神世界の中では、林さんや相手はどんな形で存在しているんですか?目に見えるという表現は当てはまらないかもしれませんが、どのようにご自身や相手を認識されているのでしょうか?」

「なるほど。当然の疑問ですね。まず私は、自身をこの物質世界の中で認識している像、つまり鏡に映る映像として認識しています。もちろん自分自身の姿かたちが見えている訳ではありませんが。そして対象者ですが、こちらはおそらく私の印象に左右されて、異なる形状として認識されます。例えば父は、直前に見た牢獄の中で蹲る姿そのままでした。一方梶本さんは、黒い大きな影のように認識されました。そして<神>は、明確にその形状を認識することが出来ず、その世界全体として漠然と認識されました。逆に相手から私がどのように認識されているか不明ではありますが。そうだ。良いアイデアが浮かびました」

「どんなアイデアでしょう?」

永瀬はつい、釣り込まれる。

「一度先生の精神世界に入らせていただけませんか?そしてその中で先生が、私をどの様に認識されるのか教えていただきたいですね。非常に興味深いのでぜひお願いします」

林が真顔を向けてそう言ったので、永瀬は慌てて拒絶する。

「や、止めて下さい。もしどうしてもと言われるのであれば、先程仰っていた教団幹部の方で試して下さい」

「そうですか。残念ですね」

そう言いながら林は、人のよさそうな笑顔を永瀬に向けた。

――この男はどこまで本気で言ってるんだ?

少し恐ろしくなった永瀬は、無理やり話題を転換する。

「ところで林さん。二つ目の質問をしてよろしいですか?」

「はい、どうぞご質問なさって下さい」

「林さんは11年前に<神>をあなたの精神世界の中の、ある領域内に封印したと仰ってましたよね?」

「はい、その通りです」

「その<神>は現在、どのような状態なのでしょう?例えば、頭の中であなたに話し掛けて来るとか」

「ああ、そのことですか。そうですね。<神>を封印した当初は、かなり頻繁にコンタクトを取ってきて、非常に煩わしかったです。しかしことごとく無視していると、やがてそれも止みました。今はその領域から抜け出す機会を、虎視眈々と狙っている状況なのではないでしょうか」

「そうなんですね…」

そう曖昧に返しながら永瀬は、林の心の強さに驚嘆する思いだった。

――頭の中で話し掛けて来る言葉を無視し続けることが出来るなんて、どれ程強靭な精神力なのだろう。やはり若くして1,000年以上も空いていた教主の座に座るだけの素質を、この人は持っていたということだろうか。

「先生、どうされました?」

林に訊かれて、永瀬は我に返った。そして、その日の締め括りの問いを彼に投げかける。

「ああ、失礼しました。それでは林さん。最後にもう一つ、いいですか?」

林は黙って肯く。

「これは以前お聞きしたことかもしれませんが、林さんの教団――九天応元会では、何故それ程<神>への関心が高いのですか?教団の創始者の方が、<神>と接触してからその研究が始まったと仰っていましたが、それにしてもその関心の強さは研究の域を超えているように感じられます。もちろん教団にとっての機密事項であれば、お答えいただかなくても構わないのですが」

永瀬の問いに、林は少しの間黙考した後、意を決した表情を作って語り始めた。

「永瀬先生。仰る通りそのことは我が教団の最高機密の中でも、最も重要な事柄に直結しています。従って本来であれば部外者である先生にお話し出来る内容ではありません。しかし私は、既に先生を<神>との交信に巻き込んでしまいました。それを今更機密であるからと隠し立てすることは、やはり人としての倫に背くことでしょう。これからお話しする内容は、教団内部でも私を含む数名の者にしか共有されていません。ですので、くれぐれも内密にお願いいたします」

そう言いながら林は少し声のトーンを落とす。永瀬は緊張で口の中が渇くのを覚えたながら、黙って彼に頷いた。

「九天応元会の開祖である林清虚(リンチィンシィー)が、西域を旅する過程で<神>と交信を行ったことは既にお話ししました。その交信の中で清虚は<太歳(タァィスゥェイ)>という言葉に触れたのです」

「<太歳>、ですか」

「はい。実際には<太歳>という言葉を聞いた訳ではなく、交信の中で<神>から伝えられたイメージを中国語で表現すると、<太歳>という言葉に当てはめることが出来ると言った方が正確だと思います」

「既に当時の中国、唐ですか。唐ではその言葉が使われていたということですね?」

「仰る通りです。中国語で<太歳>は幾つかの意味を持っています。一つは天空の星、金星であるとも木星の対となる鏡像の星とも言われるものです。もう一つは太歳星君と呼ばれる凶神です。道教においては天空の幾つかの星を神に擬えていましたので、その星のイメージから派生したものと思われます。あるいは所謂(いわゆる)妖怪の一種としても<太歳>と呼ばれるものがあります。それを地中から掘り出すと、その人に災いが起こると言われています。いずれにせよ<太歳>は負のイメージを持つ言葉なのです。そして清虚が神の交信から伝えられたイメージとしての<太歳>という言葉は、教団に一つの使命を与えました。具体的には清虚が遺した秘録の中に、彼が<神>から受け取った<太歳>という言葉は世界の破滅や終焉という意味を持つこと、<太歳>とは何かを究明することが、九天応元会の使命であることなどが綴られています。私も教主の座を襲った後に、その記述を実際に目にしています。それ以降我が教団では、<太歳>の実態究明に力を注いで来ました。清虚の秘録よると、<神>の研究はそのための唯一の手段とされていたのですが、未だ力及ばず、その実態は不明のままなのです」

ここまで一気に語った林は、コップの水を口に含んだ。永瀬は彼の話の壮大さに、只々圧倒されるだけだった。

「先生にとっては、荒唐無稽と響く内容かも知れませんが、今お話ししたことが、我々が<神>の研究に全力を傾けている真実の理由なのです。お分かりいただけましたでしょうか」

永瀬はその言葉に思わず頷いていた。<太歳>という言葉は初めて耳にするが、その解明のために全力を注ぐその姿勢は、自身が携わる自然科学の研究に対するものと、ある意味共通すると考えたからだ。

一呼吸おいた林は、さらに真剣な表情で話を再開した。

「現在私は、一つの危惧を抱いています。それは今回立て続けに発生した、ベンジャミン・トーラスの事件と、梶本先生の事件です。いや、先程お話したトミー・パルマー少年の事件と合わせれば、三件の類似事件が30年という短いスパンの間に発生しています。それが<太歳>と関連するのかどうかは不明ですが、少なくとも現在蔵間先生の中にいる<神>が関与している可能性が高い。そう考えると、近い将来、何か我々が想像できないような事態が発生するのではないか。そう考えてしまうからです」

その言葉を聞いて、永瀬は思わずたじろぐ。自分の身近にいる、蔵間顕一郎という存在が、以前にも増して恐ろしい存在に思えたからだ。その思いを察したように、林は言った。

「少し言いすぎたようですね。永瀬先生、あまりご心配なさらないで下さい。蔵間先生とは先日個別に面会しました。その際<神>にはこれまでの事情を説明して、今後他者の精神世界への干渉を控えていただくよう依頼しました。未和子さんの<神>を含めてです。<神>は私の話に非常に興味を持ったようですが、一応そのことには納得いただいております」

そして林は穏やかな表情に戻った上で、態度を改めると、

「ところで永瀬先生。私の滞在期間がそろそろ終わります。非常に残念ですが、近々成都に帰らなければなりません。これまで色々とご教授頂き、本当にありがとうございました」

と言って、永瀬に向かって深々と頭を下げた。

突然の告知に驚いた永瀬は、

「いつ帰られるのですか?」

と慌てて訊く。すると林は、

「実は、来週早々の予定です」

と答えて、また微笑んだ。

「それはまた、急ですね。こちらに来られる時も急でしたが」

永瀬は半ば呆れて言った。

「そうでしたね。申し訳ありません」

永瀬は、やれやれという表情を浮かべると、

「名残惜しいですが、お気をつけてお帰り下さい。私もこの四か月余りの間に、何物にも代えがたい経験をさせて頂きました。林さん、ありがとう。貴方のことは一生忘れないと思います」

と言った。そしてその後、「多分」と付け加えて片目を瞑って見せた。

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