第4章 18節

【18-3】

それはおそらく蓑谷明人(みのやあきひと)と思われたが、その頭部の在り様は、生前の彼からあまりにもかけ離れていた。彼の頭部は、顎を含む下半分が体幹に対して右を向いているのに、上半分は逆に180度左を向いていた。つまり頭部が鼻梁のあたりを中心に、左右に捻じれているのだ。そして右の眼球が眼窩から飛び出し、鼻は左右斜めに伸びている。口からは血の混じった泡のようなものを噴いたらしく、その痕跡が口から顎にかけて残されていた。皮膚の色は青黒く、顔の所々に死斑のようなものが浮かんでいる。

――どのような力が加わったら、顔がこんな状態になるのだろう?

永瀬は一瞬蓑谷の遺体に見入ってしまった。後から思えば不謹慎なのだが、何かの前衛芸術の作品の様に映ったからだった。しかし意識が現実世界に戻った途端、物凄い勢いで吐き気が込み上げてくる。永瀬は手で口を押えてキッチンに駆け込むと、シンクに向かって激しく嘔吐した。一頻り嘔吐した後、ゼイゼイとむせ込んでいる永瀬の背後から、

「大丈夫ですか」

と、林の声がする。

「何とか」と喘ぐように言って永瀬は振り向いたが、そこに林の姿はない。まだ寝室にいるようだ。しかしその後、林の声は聞こえてこない。その沈黙に急に不安を覚えた永瀬は、意を決して寝室に戻ることにした。恐る恐る寝室のドアから中を覗くと、先程と同じ位置に佇む林の背中が見えた。彼は無言で蓑谷の死骸を観察しているようだ。

永瀬が声を掛けようとしたタイミングで丁度振り向いた林は、

「警察を呼びましょう。永瀬先生、お願い出来ますか」

と、有無を言わさぬ口調で言う。その強い調子に押された永瀬は、頷いて携帯電話を取り出すと、42年の人生で初めての110番通報を行った。呼び出し音が鳴っている間、何故か自分が物凄く緊張しているのが分かった。

「お待たせしました。**警察です。」

電話の向こうから流れてきたのは、柔らかい女性の声だった。

ほっとした永瀬は、

「あ、あの、今同僚の住んでいるマンションに来ているのですが、そ、その同僚がどうやら亡くなっているようなんです。」

と、しどろもどろになって切り出す。

電話の相手は一瞬緊張したらしく、少しの間が開いたが、

「状況を詳しく教えていただけますか。」

と、当然すぎる確認をしてきた。

「え、えっとですね…。」

緊張した永瀬が、更にしどろもどろになりそうなのを察したのか、林は鮮やかな手つきで携帯を奪い取ると、

「お電話変わりました。通報者と同行している者ですが。」

と言うと、要領よく説明を始める。

「林といいます。この部屋に住んでいる通報者の同僚が、数日間無断欠勤しているので今日私と二人で訪ねて来ました。通報者は永瀬さんとおっしゃいます。職業ですか。東都大学の教員です。ええ、二人ともそうです。いえ、私は違います。通報者の永瀬さんと、この部屋の住人の方がそうです。蓑谷明人さんと言います。はい。インターフォンを鳴らしても中から返事はなかったのですが、ドアがロックされていませんでしたので、二人で室内に入りました。はい、そうです。そして奥の寝室を覗くと、ベッドの上にこの部屋の住人、箕谷さんらしき人が横たわっていました。はい、顔の確認は出来ませんでした。頭部の損傷が激しいので。はい、そうです。場所は**区***のマンションです。名前はコーポ***、303号室です。はい、承知しました。では、到着されるまで部屋の外に出て待っています。はい、よろしくお願いします」

最後にそう言うと、林は携帯の通話をオフにして永瀬に返してよこした。そして、

「すぐに警官が来ますので、外で待つことにしましょう」

と言うと、さっさと寝室を出て玄関に向かった。

永瀬がその後を追おうとすると、

「あまりあちこち触らない方がいいですよ。指紋が残りますから。」

と、林が彼に振り向いて言った。永瀬は慌てて壁についた手を離す。その様子を見た林が、また微苦笑を浮かべる。林に続いて外に出た永瀬は口の中に苦みを憶え、先程自分がシンクに嘔吐したことを思い出した。

「林さん、どうしよう。さっきシンクで吐いてしまったんだけど。そのままにして置いていいんだろうか」

不安になった永瀬が言うと、

「そのままにして置きましょう。下手に触ると証拠隠滅と思われますよ」

と、林は恐ろしいことを言った。

――自分たちが犯人と思われる可能性があるということだろうか?

「大丈夫ですよ、永瀬先生。我々があの様な方法で殺害するのは不可能ですから。仮に疑われたとしても、すぐに容疑は晴れると思います」

すかさず林が、永瀬の不安を読んだように、そう言ってくれたが、釈然としない気分のまま永瀬は黙り込んだ。

――蓑谷は、何故殺されなければならなかったのだろう?

彼との付き合いは、学生時代を含めると10年以上にもなる。その間の印象からすれば、箕谷は性格に多少の癖はあったものの、強く他人から恨まれるような人間ではなかったように思う。もちろん永瀬は彼の生活のごく一部、大学の研究室における生活しか知らない。彼の人間関係についてもそうだ。だから彼が大学以外の場でどのように振る舞い、他人と接しているのかを、永瀬は全くと言ってよい程知らなかった。その永瀬の知らない蓑谷の生活の中で、他人とのトラブルが絶対になかったとは勿論言い切れない。しかし永瀬が知っている蓑谷の性格は一言で言うならば小心で、特に人づき合いにおいては臆病で、殺意を持たれる程濃厚な人間関係を築けるとは思えなかった。

――では偶発的な、例えば侵入してきた強盗に殺害されたようなケースが考えられるだろうか?

動機としてはあり得るが、状況としては無理だ。そもそも強盗犯があのような殺害方法を取るとは思えない。殴るとか刺すとか、もっと単純な方法を採用するはずだ。

――あるいはそれも自分の思い込みに過ぎないのか…。

その時近づいて来た喧たましいサイレンの音に、永瀬は我に返った。

下を覗くと、5台の車に分乗した大勢の警官が、丁度マンションの前に到着するのが見えた。車から降りた警官の内、10名程が3階まで上って来ると、すぐさま箕谷の部屋を封鎖する。現場検証に入るようだ。

そして永瀬と林は、室外に残った一人の刑事から1時間以上も事情聴取を受けることになった。狼狽え気味の永瀬を他所に、林がてきぱきと刑事の質問に答えてくれたのが幸いしたのか、今後も捜査に協力することを条件に二人は漸く解放された。しかし捜査協力の中には、研究室の家宅捜索も含まれるようだった。永瀬はそのことを、事件の経緯を含め、早急に蔵間顕一郎と富安学部長に報告しなければならないと思った。学内に警察の捜索が入るとなると、それなりの措置を事前に講じておかなければ、大騒ぎになることが予測出来るからだ。マスコミ対策についても協議しなければならない。これから先に起こる騒動を想像して、永瀬は少々げんなりとした気分になった。

永瀬と林が連れ立ってマンションの1階に降りると、外は野次馬で溢れていた。マンションの玄関を塞ぐようにして、黄色の立入り禁止のテープが貼られている。そしてその前に制服の警官が2名、彼らを阻止するように立ちはだかっていた。

永瀬と林がテープを潜り、警官の脇を通り抜けて駅に向かって歩き出した丁度その時、報道関係者と思われる一団が続々と到着し始め、辺りは騒然となった。

「危ないところでしたね。もう少し出るのが遅ければ、彼らに包囲されるところでした」

林の言葉に永瀬ははっとした。確かにあの連中に囲まれると、厄介なことになっていただろう。

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