第4章 18節

【18-2】

研究室の雰囲気が、これまでになく不穏になっていた。

――そう感じているのは自分だけなのだろうか?あるいは自分が不安定になっているから、そう感じるだけなのだろうか?

体調を崩している助教の梶本恭子(かじもときょうこ)は、まだ研究室に出て来ていない。かなり具合が悪いようだ。マンションを出たまま帰って来ない本間雪絵(ほんまゆきえ)の行方は、彼女の父親が警察に捜索願を出してから5日経った今でも、依然として分かっていなかった。それに加えて今度は、助教の蓑谷明人(みのやあきひと)まで音信不通になってしまったのだ。

永瀬晟(ながせあきら)は今、物凄く切羽詰まった状態にあった。こんなことは、これまでの人生で初めてだった。

研究室の責任者である蔵間顕一郎(くらまけんいちろう)に、今の状況について相談したかったし、それ以外にも決めてもらいたい事柄が色々とあるのだが、何故か蔵間は以前にも増して、研究室内の状況に無関心になっていた。それは彼が置かれている、特殊な状況のせいなのかも知れないが、結果的にそのしわ寄せが、全て永瀬のところに回って来ているのだ。彼は研究室の運営や、学生と研究生の管理を一手に負うことになり、その負担とプレッシャーは尋常なものではなかった。

幸いなことに、林海峰(リンハイファン)が学生たちの世話を、それとなく見てくれている様子なので、研究室内は一見落ち着いてはいる。しかしそれも時間の問題だろうと永瀬は思うのだ。学生たちの不安や不満が高まっているのを、彼らの態度からひしひしと感じるからだ。本間の失踪は、既に研究室の皆が知っているし、助教の二人が揃って研究室に出て来ていない状況はどう考えても異常である。学生たちが不安に思うのも無理はないのだ。

永瀬は取りあえず、梶本と蓑谷の状況を確認するために、二人の住居を直接訪ねることにした。林にそのことを告げると、意外なことに彼は同行を申し出てくれた。彼は宗教団体の教主ということもあって得体の知れない部分が多いのだが、それを除けば非常によく気の回る親切な男なのだ。その時も彼が同行してくれるのは、正直言ってありがたかった。

研究室内のことは最年長の大学院生に託し、永瀬は林と連れだって研究室を後にする。先ずは、箕谷を訪ねることにした。林が地図検索アプリで調べた結果、彼の住まいは大学の最寄り駅から私鉄に乗って6つ目の駅で降り、徒歩10分程の場所にあるようだ。

外はまだ残暑が厳しかったので、歩いているうちに永瀬は汗びっしょりになっていた。しかし横を歩く林を見ると、それ程汗をかいている様子もない。

(不思議な男だな)

永瀬はつくずく思う。道教教団の教主という、この得体の知れない男はいつも涼し気な表情でいる。時折「暑いですね」などと口では言うのだが、その言葉とは裏腹にあまり暑そうな感じがしないのだ。その様子を見ていると、道術を使って体温を調節しているのではないかなどと、つい非科学的なことを考えてしまう。

箕谷の住まいは、独身者向けらしい4階建てマンションだった。

エレベーターで3階まで昇った永瀬は、部屋のチャイムを押し、

「蓑谷君。いませんか?」

と、インターフォンに向かって呼び掛けた。何度かそうしてみたが、やはり応答はない。諦めかけて林を見ると、彼はノブに手をかけてゆっくりと回し、ドアを少し手前に引いた。どうやら鍵は掛かっていないようだ。林は永瀬に目くばせすると、静かにドアの内側に滑り込んだ。永瀬も一瞬の躊躇の後、彼に続いた。

室内に入った途端、異臭が鼻を突いてくる。

思わず手で鼻を覆った永瀬は、

「蓑谷くん。永瀬です」

と、暗い室内に向かって呼び掛けてみたが、やはり反応はなかった。その時急に玄関が明るくなったので、永瀬は思わず飛び上がりそうになった。慌てて林を見ると微苦笑を浮かべていた。どうやら彼が照明のスイッチを入れたらしい。永瀬は自分の狼狽振りに赤面する。

玄関には狭い上がり框があり、正面と左手にドアがある。玄関同様に照明は落ちているらしく、いずれのドアの向こうも暗かった。足元には男物の靴が何足か散乱していたが、照明の燈っていない室内には人の気配は感じられなかった。永瀬が林を見ると、彼は永瀬が止める間もなく靴を脱ぎ、正面のドアを開けて室内へと入って行ってしまった。永瀬はその素早さに一瞬唖然としたが、我に返ると仕方なしに林に続いた。

林は入るとすぐに照明のスイッチを入れ、室内を明るくする。そこは8畳程のLDKで、奥に開けられた大きめのガラス戸からは、隣の建物の壁が垣間見えた。日当たりはあまりよくないようだ。ガラス戸の先はベランダらしく、物干し竿に掛けられた洗濯物が風に揺れている。

リビングに蓑谷の姿はなかったが、玄関よりも更に強い異臭が漂っていた。見回すと、ベランダに向かって左手にもう一つドアがあった。部屋の造りから寝室と思われる。それを認めた林は、やはり躊躇なくドアを開け、室内に入って灯りをつけた。林がドアを開けた途端に、耐え難い臭いがあふれ出てきたので、永瀬は思わず顔をしかめてしまった。物凄く嫌な予感がしたので、永瀬は部屋の中を見るのを躊躇する。しかし、いつの間にかハンカチで口元を覆った林が手招きするので、仕方なしに彼の脇から室内を覗き込んだ。

そこはやはり寝室だった。広さは6畳程である。壁際に置かれたベッドの上に、上下グレーのトレーナーを着た人が横たわっていた。頭部から胸のあたりまで薄手の掛布団に覆われていたので、その顔は見えなかったが、間違いなく蓑谷だろうと思われた。

その時林が永瀬を見た。その目が、掛布団を外して確かめましょう――と言っている。

しかし永瀬は嫌だった。ベッド上に横たわっているのは蓑谷に違いないが、彼がただ眠りこけているのではないことを、室内に充満する異臭が物語っていたからだ。しかしそんな永瀬の気持ちに一切斟酌することなく、林が無造作に掛布団を捲り上げてしまった。そして掛け布団に隠されていたものが、否応なしに永瀬の眼に飛び込んで来たのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る