第4章 双頭魔人 17節

【17-1】

暗い室内に電話の着信を知らせる振動が響いた。

放置していると留守番電話サービスに切替わり、くぐもった男の声がする。

――きっとあいつだ。あいつの声なんか聞きたくない。

そう思ってその女は両手で耳を塞いだ。それでも男の声は容赦なく、直接脳髄に染み込むように聞こえて来る。

「いるんだろ?分かってるぞ。今から行くからな。待ってろよ」

――また来る?来ないで。来ないで。来ないでえええええ。

女は頭を抱え、心の中で繰り返し絶叫した。

―――じっとしてたら、またあいつが来る。ここを出なきゃ。早く出なきゃ。

――早くあそこに逃げよう。あそこなら誰にも見られないし、食べる物も蓄えたし。

――そう言えば最近すごくお腹が空く。食べても食べてもお腹が空く。どうしてだろう?

――そんなことより早くここから出ないと。あいつが来る前に出ないと。

取り止めのない思いに翻弄されながら、女は身支度を整えようとした。しかし灯りを点けるのが怖くて、結局財布だけを持って部屋を出る。そして誰にも見られないようにそっとマンションを後にした。

――何で私がこんな目に。何で私がこそこそと逃げ回らなきゃならないの?何で?

そう思うと、どす黒い怒りが込み上げて来る。そしてそれは彼女の中で急激に膨らんでいった。その怒りの膨張に合わせて、自分の体まで膨らんでいくようだった。

女は人目を避けるようにして、何とか目的の場所にたどり着いた。そこは最近、テナントが全部いなくなったビルだった。女は用心深く人目を避けてビルの裏手に回る。

鍵の壊れた裏口から中に入ろうとした時、女は少し離れた場所に立っている人影に気付き、思わず立ち尽くしてしまった。自分が見知った顔だったからだ。

――あの女だ!何であいつがこんな場所に。何で?

相手は目を凝らして、こちらを見ているようだった。その時になって慌ててビルの影に身を隠したが、遅かったようだ。こちらを見ているその女の顔に驚愕の表情が浮かんだからだ。

――まずい。見られた。よりによってあの女に見られた。

――気づかれた?私だと気づかれた?きっとそうだ。きっと気づかれた。

――何とかしないと、何とかしないと、何とかしないと…。

怒りと恐怖が同時に込み上げてきた。それに合わせて、体が弾けてしまいそうな圧力が、女の体内から急激に押し寄せて来る。そして女の理性の箍(たが)は消し飛んだ。


***

夏期休暇の終わりまで残り一週間程だったので、大学のキャンパス内を行き交う学生の数は徐々に増えているようだった。とは言っても講義期間中に比べれば、その数はまだまだ少ない。しかし永瀬晟(ながせあきら)の所属する研究室では、かなりの学生が休み中でも普段と変わりなく実験に勤しんでいた。学部生の中には、休暇を利用して旅行に出かけたり、帰省したりする者も若干はいた。しかし大学院生になるとそういう訳もいかず、修士論文や博士論文作成のために、毎日忙しく実験に取り組んでいるのだ。

蔵間顕一郎(くらまけんいちろう)宅での、林海峰(リンハイファン)と<神>との問答に同席して以来、永瀬の日常は随分と変わってしまった。その変化は第三者には明確に分からないかも知れない。しかし彼自身の内部では、それ以前と以後で、心の在り様が全く違ってしまっている。そもそもあの場では、<神>が実在するという、以前の彼であれば到底受け入れられないような話を、事実として受け入れてしまったのだ。それ程彼らの言葉が、それを事実と思わせる強いオーラの様なものを纏っていたせいだと思う。そのオーラは言葉そのものではなく、あの場にいた自分以外の三人が発するものだったのかも知れない。いずれにせよ普通人の自分は、そのオーラに完全に飲み込まれてしまい、いつの間にか洗脳されてしまっていたのだろう。

後になって冷静に考えれば、林や蔵間が語ったことが事実であるという証拠は何一つない。そもそも<神>が実在するという前提が荒唐無稽なのだ。その上に、いくら精緻で堅牢な理屈を積み上げても、それは単なる妄想に過ぎないではないか。

――もしかしたら蔵間父娘と林が結託して、自分を揶揄ったのではないだろうか。

永瀬はそう考えようとして挫折した。林は兎も角、彼の知る蔵間顕一郎という人は、絶対にそんな悪巫山戯(わるふざけ)をする性質の人ではなかったからだ。彼の娘の未和子も同様だった。つまりあの時に蔵間や未和子は、事実を語っていたことになる。そう考えると、永瀬はもはや林や蔵間と、以前の様に普通に会話することは出来なくなってしまった。

蔵間顕一郎は、本人は全く認識していないとはいえ、精神の中に<神>を住まわせているというのだ。永瀬は彼と話していると、相手が蔵間本人なのか、それとも<神>なのか分からなくなり、著しく混乱してしまう。

それは彼にとっては、とても怖いことだった。

当然のことながら蔵間と接する際には、それまで以上に慎重になってしまう。その様に警戒心を抱きながら彼と接することが、永瀬の神経を著しく疲弊させるので、蔵間との会話を極力避けるようになってしまった。

一方の林海峰は、あの日以降も蔵間や他の研究室のメンバー、そして勿論永瀬とも、以前と変わらない穏やかな態度で接している。その挙措や言動には、何一つ違和感が認められない。研究室では静かに文献の抄読に集中し、疑問に感じたことは永瀬に質問してくる。その態度も極めて自然だったが、それが返って永瀬には薄気味悪かった。

それも当然であろう。彼は平然と<神>と会話してしまうような、永瀬の常識からは完全に逸脱した人間なのだから。

――どういう巡り合わせで、こんな目に遭わなければならないんだろう?こんな非日常的な状況に置かれて、平静でいられる訳がないじゃないか!

永瀬は図らずも自分が置かれてしまった状況に嘆き、憤りを覚えざるを得なかった。

あの日以来永瀬は、席に座ってぼおっとして考え込んだり、仕事上の些細なことを見落したりすることが多くなった。研究室のメンバーが彼に話しかけても、即座に反応出来ず、用件を聞き返す場面が増えてきたりしたのだ。

助教の梶本恭子(かじもときょうこ)が彼のその様子を心配して、

「永瀬先生。何か心配事でもあるんですか?」

と聞いてきたが、

「大丈夫。そんなことはないよ」

と、お茶を濁すしかなかった。自分たちの教授の精神の中に<神>が住んでいる――などとは口が裂けても言えないし、言っても信じてもらえないだろう。

そう言えば、その梶本が一週間以上も研究室に出てきていない。彼女からの電話連絡では体調を崩しているということだったので、まだ回復していないのかも知れない。今思うと、夏期休暇期間に入った頃から元気がなく、顔色も優れなかったような気がする。今年の夏は早くから気温が記録的な高さになっているので、暑さにやられてしまったのかも知れない。

大丈夫だろうか――と思い、もう一人の助教の蓑谷明人(みのやあきひと)に訊いてみたのだが、あれ以降連絡はないという。梶本は入学時に東京に出てきて以来、ずっと一人暮らしだと聞いていたので、永瀬は急に心配になって彼女の携帯に連絡を入れた。しかし着信音の後、すぐに留守番電話に切り替わってしまった。益々不安が募ったので、彼女から何か連絡がないか確認しようと箕谷のデスクに行ってみたが、彼は席を外していた。同じ部屋にいた学生に訊いてみたが、

「さっきから見かけません」

という素っ気ない答が返ってきただけだった。その学生も実験が忙しくて、それどころではなさそうだ。

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