第二話:傷物同士

「内通者?」


 様々な種類の数値が絶え間なく流れるモニターから目を離さずに、透夜は相手が発した言葉を反復する。

 隣には人懐こい笑みを浮かべながら同じようにモニターを見つめ、忙しく作業をする男――世那良純せなよしずみの姿。彼はセミロングの茶色い癖ッ毛を掻きながら頷く。


「そういう可能性もあるということだよ透夜君。君のユニットは、特にクロハちゃんが入ってから、いろんな組織から危険認定されてるからね。甘い言葉で機関の人間を引き入れて内側から壊してしまおうと考える奴がいてもおかしくはない」


 世那の言葉に、透夜は背後のベッドで眠る少女に目を向ける。

 全体白塗りの、清潔すぎるとも言える部屋。ベッドを囲むように、規則的な電子音や何かを示す数値を吐き出す機械たちが所狭しと並べられている。

 異能管理機関アーク。ユニット‘Silence’に与えられた建物の中の、メディカルチェックルームという部屋の一つ。世那は‘Silence’に所属する異能者のメディカルチェックを任された男だった。


「確かに、赤城さんも緋村も言ってました。まるで招かれたように、自分たちを待ち伏せしていた奴らがいたって。二人とも相性最悪の異能者と相対することになって大変だったと愚痴っていたっけ」


 赤城と戦闘した、身体を鋼鉄のように硬化する異能を持った男――哀川にはエムと呼ばれていた。

 緋村と交戦したのは、水を生成し自由に操る異能を持った忍姿の女性――緋村の見立てでは蒼嵐の構成員。

 どちらも相性最悪な組み合わせでの戦闘だった。

 今回は簡単に言えば、哀川の住むあの屋敷への奇襲作戦だった。そのために事前に緋村に潜入任務を任せて情報を集めたり、屋敷の守りが薄くなる時間帯を狙ったりしたつもりだった。

 それにもかかわらず、まるで待ち伏せのような形で対応されてしまった。しかも異能者という伏兵までオマケされて。


 内通者。


 振り返ってみれば、そんな不穏な言葉が状況を説明するのに最も適したもののように思えて、透夜は眉をひそめる。


「でも、仮に内通者がいたとして、目的は何だったんだろうねぇ。結果的に君たちはミッションを達成できた。赤城君と緋村君と交戦した相手は、足止めする程度に戦って引き揚げたらしいじゃないか。そのまま戦っていれば彼らを殺せたかもしれないのに、だ。少なくとも哀川の様子からして、彼らは助っ人を装った何かだったのは間違いない。彼らの行動が、そのまま内通者だか知らないが、僕らの情報を流す何者かの狙いに繋がる。まぁ、ただ単にどこかの組織が哀川をスカウトしに来ただけって線もあり得るし、考えることはいろいろできるよね」


 世那は最後に安心させるように言うが、モニターを見つめる透夜の表情は晴れない。

 常に最悪の事態を想定すること。後ろ向きではあるが、それが透夜の行動や思考の指針だった。

 もし内通者、そうでないにしても機関の情報を流す輩が近くにいるとしたら、それは由々しき問題だ。ユニットの作戦行動は基本、電子的な通信手段や、それこそ魔法を使った情報伝達手段を用いない。内容は隣にいる世那が機関から何らかの手段で受け取り、それを口頭で受け取ることで初めてユニット内で共有される。


 そうすると真っ先に疑うべきは世那になってしまうのだが、彼のことは現段階では信じるしかないと透夜は判断する。メッセンジャーとしての彼を信じないことには、そもそも機関という大元の存在も疑わざるを得なくなり、収拾がつかなくなる。


「まぁ、この件は僕もそれとなく探ってみる。内通者がいるとしたら、どちらかと言えば僕の近く、ひいてはアーク本部にいると考えるのが自然だしね。こういうのは‘抹消者’にだけ目が行きがちだけど、‘探索者’や‘更生者’にも目を光らせた方が良いかもね」


 世那はキーボードを叩きながら言って、それから手を休めて大きな伸びをする。釣られて欠伸を我慢しながら顔を向けると、世那の目元に隈ができていることに気づく。


「寝不足ですか。本部でどんな仕事をしているのか知りませんが、あまり無理はしないでください。探りもお任せしたいですが、メンバーのメディカルチェックができるのは貴方しかいないんだから、倒れてもらっては困ります」


 あくまで事務的に、透夜は労いの言葉をかける。世那が今している仕事は彼にしかできない、代わりのきかないもの。それと、透夜の‘理想’を賛同はしなくとも理解はしてくれる良き話し相手という個人的な理由から、彼にはできるだけ危険な目には遭って欲しくなかった。


 探る相手が探索者――異宝を探索するプロフェッショナルたちや、更生者――異能犯罪者の異能を異宝や魔法などで無力化し、社会へと戻すカウンセラー的な役割の人々なら、そこまでの危険は及ばないはずではあるが、念のための忠告だった。


「寝不足というか、最近あまり寝つきが良くなくてね……。嫌な夢を見たみたいなんだが、だいたい起きると何だったのか忘れてるんだよね。まぁ、心配してくれてありがとう。とりあえずクロハちゃんのチェックは終わったから、後は任せたよ」


 目の下の隈のせいで、四十二という年齢にしては若々しかったいつもの笑みは、今は相応に疲労感が出てしまっている。部屋を後にする世那の背中に短く返事をして、透夜はまたしばらくモニターを見つめる。


 映し出されているのはすべて、ベッドで眠る少女、クロハのデータ。

 血圧、精神状態、各臓器の状態ともに大きな問題は無い。

 すべて正常なその数値はしかし、彼女にとっては異常だった。


 黒ノ翼。透夜が命名した、彼女の身体に現れるフィジカル系と呼ばれる分類に属する異能。この系統の異能は、行使者に必ず異常――例えば背中の骨が通常より大きく発達していたり、身体の一部に普通ではあり得ない器官が存在していたり――が無ければおかしいのだ。


 魔法使いや異能者の身体の中に血液のように流れるアステルの反応以外、彼女が一般の女の子と変わった部分は少なくとも観測上、存在しない。

 異常を観測できるのは、彼女が力を解放している間のみ。

 彼女が‘クロハ’ではなく、‘黒羽’と呼ばれている時のみ。


「クロハと黒羽。きみ達がいつか一人の女の子として、ことを、僕は願っているよ」


 静かな寝息を立てて目を瞑る少女に、透夜は語り掛ける。

 彼女と、

 クロハが、いわゆる二重人格であることを、ユニットのメンバー全員には伝えていた。けれど、あえてホスト人格であるクロハには教えないようにと、透夜は言い含んでいた。

 知らないのは当のクロハのみ。彼女は未だに、自分が二つの人格を持っていることを知らない。


 機関という環境の中で、どちらかが自然に消滅して人格が統一されることを期待して、メンバーたちは黒羽の存在に対して、沈黙を守っている。残った方が本物で、その人格として生きていくことが、‘彼女らしく生きる’ということで、とても正しいことだから。

 少なくとも透夜は、他のメンバーたちにそんな認識を持ってもらうようにしていた。


「……ん?」


 それはほんの一秒間だけ鳴った電子音と、視覚的な違和感。

 ぼんやりと眺めていた、なんの変わり映えもしなかったモニターにわずかな異変を感じた。

 それは、精神状態に、ほんの少しの揺らぎを示すもの。


「彩音さん。ちょっとがあるんですけど、来ていただけますか?」


 透夜は反射的に、ユニットメンバーの神楽木彩音かぐらぎあやねをこの状況の適任者と判断して、連絡を取ることにした。




*****




 自分は常に一定の自分でいられているのか。

 異能の自覚が無い小さい頃は、よくそんな疑問が頭に浮かんだ。


 クロハ。


 生まれてきた時に親からつけられた名はもう忘れてしまったけれど、それが今のわたしの名前。本当の名前を思い出したいとは思わない。その名前を思い出せば、それこそ機関で過ごした二年間の‘わたし’を失いそうだったから。

 あの人に。音無透夜という人に出会わなければ、ここまで心穏やかなわたしにはなれなかっただろうから。

 物心ついた時から、わたしの周りには壊れた何かと、黒い羽が散らばっていた。

 ある時は四肢を千切られてバラバラになったお人形。

 ある時は血だらけになった同級生。

 自分の意識とは関係なく、気づいた時には目の前にあるものを壊そうとする自分がいた。そうしたいという欲求も自覚もなく、わたしは黒い羽とともに舞って、破壊を振りまいていた。


 怪物。悪魔。


 しだいに周りの友だちも、家族でさえもわたしを遠ざけて、そう呼ぶようになった。

 現実の世界に、わたしの居場所はなくなっていった。

 かと言って、仮想現実の世界に、わたしの居場所があったわけでもなかった。


 Mirrorミラー


 わたしが小学校低学年のあたりからサービスが開始して、現在まで、世界中で大流行しているSNSの一つ。無料アプリとしてダウンロードできて、附属で送られるタブレット端末とVDGバーチャル・ダイブ・ゴーグルがあれば誰でも入手・利用可能なそれは、従来のものとは画期的な違いがあった。


 Mirrorでは、VDGを神経へ直に接続し、SNSでありながら仮想現実世界に五感をほぼ完全に伴ってダイブできる。


 自分の分身であるアバターが、自分だけの‘街’(コミュニティ)を持ち、五感をフルに使ったVRサービスを受けられる。


 VRの中では何だってできる。空も飛べるし、電子通貨を払えば実際に栄養にはならないものの、食べたいものを自由に作り出すことができる。プロフィールを設定すれば自分が知りたい、見たい情報しか‘ポスト’と呼ばれるメール欄には入ってこない。


 他人と触れ合いたければ、好きな時に‘扉’を開けて、チャットルームやゲームの参加も可能。

 それまで流行っていたTwitterと同じように、‘窓’と呼ばれる場所に自由にひとり言のようなコメントや写真、人によっては自分の創作物を載せることができる。


 見たくないものは見なくて良い。

 やりたくないことはやらなくても良い。

 関わりたい人としか関わらなくて良い。

 逆に、倫理や道徳、法律に触れる事柄すらも、VR内で可能なことであれば許された。


 そんな、人を堕落の底に突き落とすようなウェブサービスがもはや当たり前で、リアルで居場所が無くてもMirrorの中にならあると希望を抱けた、少なくとも西暦二〇四八年時点ですら、わたしの居場所は無かった。

 簡単なことだ。

 Mirrorに入るためにVDGを装着したは良いけれど、わたしはそれを無意識のうちに外して、壊してしまうのだ。

 壊しているという自覚が無かったから、その時のわたしは理不尽に世界のすべてから存在を全否定されているかのような気持ちになっていた。

 一度希望を抱いた分、不必要に傷ついて、わたしの心はいつも真っ暗な井戸の底にあるみたいだった。

 現実は、色の無い世界で、わたしを否定する。

 仮想現実は、楽園の幻想をただ見せるだけで、わたしを拒絶する。

 わたしが全部壊していただけだったのに。

 わたしが全部否定していただけだったのに。


 ――助けて、誰か助けてよ!


 だからあの時、自分が初めて必要とされるんじゃないかと思って、嬉しくて飛び出した。

 寒い冬の夜。路地裏で、女の子が顔の怖い男の人たちに囲まれていた。

 ありがとう。

 その一言が聞きたくて。わたしはまだこの世界に必要なんだと思いたくて、初めて意識的に異能を解放した。

 飛び散る血肉。

 連鎖する悲鳴。

 わたしの手は猛禽類の鍵爪のように変形して、背中には大きな黒い翼が生えていた。

 あぁ、何かを壊す時、わたしはいつもこんな姿をしていたんだ。

 ぼんやりとした意識の中で、惨劇は終わって、わたしは女の子の方に振り返る。

 さぁ、言って。お願いだから。


 ――ば、化け物……!


 だけど、女の子の口から出たのは肉片になった男たちと同じ悲鳴。

 感謝なんて無くて。許可なんて無くて。

 そこには恐怖と拒絶だけで。

 死への願望の引き金は、自分でも驚くほど突発的に引かれたんだ。

 中学校の屋上で、わたしは透夜に呼ばれた。


 クロハ。


 あの人に止められたからなのか、それとも自分の生存本能が翼を使ったからなのか、どちらにせよわたしは生き残って、機関に身を寄せている。

 透夜の言葉通りに機関が、わたしがわたしらしく居られる場所かどうかは、断言できない。それでも必要とされていると分かるだけ、元々いた世界よりはましだった。少なくとも今は、‘本当の自分’でいられるような気がする。

 何よりわたしの踏み入れた世界には、おとぎ話のような魔法も不思議なアイテムも現実に存在していた。怪物と罵られる日常を送るより、何でもできる仮想現実に浸るより、透夜に連れてきてもらった世界は新鮮だった。

 仮想現実よりも幻想的な現実の存在。

 ユニットのメンバーも、みんな優しくしてくれる。種類は違うにしても、同じ異能という違いを抱えている分、みんなのわたしを見る目は、まるで‘普通の人’を見るようだった。

 突発的で無意識的な破壊行動も、機関に入ってからはかなり抑えられているようだった。

 肝心のミッションの時の記憶は、異能を解放しているせいか、ほとんど無いのが残念だけれど。

 たぶんわたしは今、幸せなのかもしれない。

 必要としてくれている人がいる。隣で頑張ったねと褒めて、笑ってくれる人がいる。

 紛れもなく、わたしが思い描いていた、欲していた幸せ。

 でも。

 でも、本当にこれで良いんだろうか。

 理由の解らない、でも強い焦燥感がわたしの全身を、日を追うごとに蝕んていく気がする。


 わたしは本当に、こんなに幸せで良いのだろうか?


 贅沢な悩み。

 傍から見ればそう言えることが、今のわたしには自分を根底から揺るがしかねない深刻な問題な気がしてならなかった。



*****



「あ、とーやさんお疲れ様でーす! クロハちゃん、どうでした?」


 透夜がメディカルチェックルームからレクリエーションルームに移ると、異様に高いテンションで栗色の髪の少女――有明涼佳が声をかけてきた。涼佳はキャスター付きの丸椅子に座りながら、何が楽しいのかくるくると回りながら近づいてくる。


「昨日の今日で元気だねスズは。クロハなら大丈夫、特に問題らしいところは見当たらなかったよ」


「本当ですかぁ? でもさっきメディカルルームにあやねーさんが入っていくのを見たんでけどね~。 なんかあったんじゃないんですか? なんならこの眼鏡をはずして?」


 涼佳は触れそうなほど顔を近づけて、着けている赤渕の眼鏡をずらすフリをする。一見ただの眼鏡に見えるそれは、涼佳の異能である‘フィーリングライト’の効果を抑えるもの。

 人の心の状態を色として視ることのできる涼佳の力を抑えるために、機関が特別に開発して支給したものだった。

この眼鏡をしてしまえば、よほど強い感情しか視ることができないのだという。


「彩音さんには念のために来てチェックしてもらっただけだから……特に問題は無かったよ」

「言い淀むところがあからさまに怪しいのですが。相変わらずとーやさんは分からないなぁ。たぶん私これ、眼鏡をかけてなくても同じこと言いますよ? ま、いっか。ささ、とーやさんもお菓子でも食べてのんびりしましょ!」


 熱しやすく冷めやすい。さっきまでテンションうなぎ登りで興味を示していたものに、数秒後には興味を失くしている。犬のように人懐っこそうな顔なのに、猫のように移り気な女の子。それが、透夜が二年間彼女と顔を合わせ続けて抱いた印象だった。

 透夜は内心ほっとしながら、涼佳が指をさした丸テーブルを見る。そこには煎餅やチョコレート、ティーカップには紅茶が淹れられていた。


 レクリエーションルーム。


 ユニット‘Silence’が活動のために機関から与えられている建物の中で、メンバーが一番集まる部屋であり、ミッションを伝達する場所でもある。

 特に涼佳はこの部屋を自分のもののように使う傾向があり、ミッションが終わると目に留まったメンバーを‘お茶会’に誘っている。


「しばらくミッションも無いんでしょ? のんびりしようぜ、監視者ウォッチャー


 声のした方にいたのは緋村だった。丸テーブルの向こう側のソファに座って、テレビを観ているようだ。彼は‘お茶会’の常連で、透夜は二人が今みたいにこの部屋でだべっているのをよく見かける。


「僕らへの依頼はいつ来るか分からないっていうのに……でもまぁ、少し休むくらいなら」


 透夜は渋々といったふうに椅子に腰かけ、ティーカップに手をかける。中身は彼が好物のアールグレイのようで、自然と心が落ち着いた。


「それにしても、今回のクロハちゃんもすごかったですね。壁を壊してそのまま首を取っちゃうなんて。狙撃は私の領分ですから、とーやさんが任せてくれたら私もターゲットをサクッとできたんですけど……。さすがにそこまで物理法則を無視した戦法は取れませんでしたよ~。うちのエースは違いますねぇやっぱり」


 一口飲むのを待って、涼佳は弾丸のように昨日のクロハの鮮やかな仕事ぶりを興奮気味に話し始めた。

 涼佳の能力は直接的な戦闘に向いたものではない。けれど実戦ではターゲットを色で、どこにいても補足できるその目を使って狙撃手の役割を担っている。透夜はその口ぶりから、涼佳がクロハに若干の対抗意識を燃やしているようにも感じた。

もともとあの作戦は、合図とともにクロハが側面の窓を割って侵入し、不意打ちを食らわせるというシンプルなものだった。クロハの異能‘黒ノ翼’と‘異能殺しの刃’、それに相性有利の赤城が協力すれば、電撃を操る哀川との戦闘も最小限に済むと踏んだのだ。多少の異能の打ち合いが予想された中で、まるで狙撃のように一瞬で勝負がついてしまったのだから、涼佳の気持ちも分からないでもない。


「スズには屋敷から逃げる敵の殲滅をお願いしたし、抜かりなくやってくれたから感謝してるよ。ああいう細かいことはクロハにはできない、スズにしか頼めない仕事だったからさ」

「本当ですかぁ? もう、とーやさんはそうやって女の子を言いくるめるのが上手いんだから」

「それほどでもないよ」

「別に褒めてませんー」


 涼佳は楽しそうに言って、粒のチョコレートを口に放り込む。口の中で味わっているのか、頬がハムスターのように膨らむ。これだけで機嫌が直れば簡単で良いが、涼佳の場合は本当に直っていそうだと内心で苦笑する。


「ウォッチャーが言いくるめる相手は女の子だけじゃないんだぜスズちゃん。オレが死ぬ思いであのくノ一とやり合ったってのに、『自分の弱点を知る良い機会になったじゃないか』とか言って、サラッと流そうとしたんだぜ?」


 煎餅を齧りながら、緋村も会話に入ってくる。戦闘時には獅子の鬣ように立てた金髪を下げて、黒い半そでのシャツに寝間着のズボンというかなりリラックスした姿だった。ミッション時の気性の荒い獅子や虎のような印象から、一気におとなしい猫のような雰囲気に様変わりする。


「零次の能力はけっこう反則級なんだよ。そういう相手でもなければ負けを知らずにもっと大変な目に合うかもしれないだろ? 今回はたぶん、試練だった。そう思った方がただ『危なかった』って思うより有意義だよ」


「ほーらまた! そうやって理屈を並べて話を綺麗にするなっての!」


 緋村との会話では、透夜の口調は砕ける。年齢の離れたユニットメンバーが多い中で唯一の同年代と言える緋村は、透夜にとって友人と言っても良い距離感があった。


 そんなパイロキネシス使いに襲い掛かった、‘蒼嵐’のメンバーらしき、くノ一の能力。偉そうなことを言ったが、自身の身体を水に変えて自由に操る彼女について、透夜も具体的な対策を考えられていない。万が一また彼女との遭遇があった場合に、緋村との対面をなるべく避けるくらいのことしか現状はできない。


「とーやさんはさっぱりし過ぎなんですよ! ま、れいさんが囮になっている間に私がしっかり撃ち抜きますんで、もし機会があれば任せてくださいよ」

「その時は早めに頼むぜ……」

 涼佳の助け舟に、緋村は苦笑いをしてソファから立ち上がる。菓子を取りに来たようで、煎餅の包みをいくつか掴んで、空いた片手でティーカップを傾けはじめる。

 ずずっ、と緋村が紅茶を飲む音がピリオドであるかのように、部屋からは音が無くなる。

 ただそれは嫌な沈黙ではなかった。

 平和、平穏と言っても良い穏やかな静けさ。

 多くの人が心のどこかで求める、ゆるやかに流れる時間。

 この二人は幸せだと、透夜は思う。

 少なくとも他の異能者は、こんな時間を過ごせないほど過酷な環境に身を置いているはずだ。

 自分の力を自覚しないまま周りから奇異の目を向けられ、弾圧される者。

 追い込まれて犯罪に走り、機関や他の勢力によって命を危険にさらされている者。

 後者は自分たちの責任が多分にあるとは言え、基本的に異能者と呼ばれる存在は、現在の世界ではこんなささやかな幸せすら感じられない場所にいる。


「二人が機関に身を置く理由って、何だろう?」

「ん……?」

「どうしたんですか急に?」


 ぽつりと零れた透夜の質問に、二人はそれぞれ怪訝な顔をして訊き返す。

 機関に身を置く理由。

 哀川が最期の時まで拘った、彼らと同じ異能者がこの場所にいる理由。

 ‘探索者’や‘更生者’とは違い、‘抹消者’としてユニットに組み込まれている限り、それは同じ異能者をいずれ自らの手で殺す宿命を含んでいるということ。

 人を殺す。

 それが罪であるという認識は、異能者と一般人の垣根を越えてある程度普遍性を帯びているもの。

 罪悪感に嫌悪感。

 精神をもってすれば、感じざるを得ない感情だ。


 目の前にいる二人は異能持ちであっても決して‘異常’ではないと透夜は思っている。

 そんな彼らに、ここは堪え切れる場所なのだろうか。


「今さらって感じですけど……ここにしか居場所、というか生きる場所が無かったからですかね。どの組織よりも先にこの機関に拾われたのも幸運だったのかもしれませんけど、私ここでのお仕事、結構気に入っているんですよ。なんか正義の味方っぽくて良いじゃないですか?」


 正義の味方。

 単純な見方をすればそうかもしれない。

 異能を使って様々な事件を起こす異能犯罪者たちを、同じ異能を以って成敗する。

 悪=共同体内に混沌をもたらすものを断つことが正義であり正常とするならば、この見方はきっと正しいのだろう。

 ただ、だからこそ他の組織の異能者には狂気の沙汰にしか見えないのだ。

 正義や秩序を振りかざして同胞を屠る機関の異能者たちの姿は、インディアンに対するコンキスタドールそのものなのかもしれない。


「オレはスズちゃんほど前向きでもなければ、あっちゃんほど後ろ向きではないんだけどさ……」


 煎餅を齧る手を止めて、緋村も話し始める。

 あっちゃん――今は自室で眠っている赤城敦の理由は、明白だった。

 ここにいなければ殺されるから。

 抜けたら即抹消という処置を取るほど機関も短気ではないが、いずれ‘正常な社会’への反動で犯罪行為をしてしまえば機関の抹消対象になるし、他の組織からどんな理由で命を狙われるか分かったものではない。

 機関を抜ければいずれ殺されてしまうというのは、遠くてもあながち間違ってはいないのだ。

 少し言い淀んでから、緋村は言葉を続ける。


「オレは力の使いどころを少しでも制御できる環境に身を置きたかったのよ。ほら、オレ以外のパイロ持ちってだいたい、無意識に力を発動して誰かを傷つけちまって、自分も塞ぎ込んじまうっていうケースが少なくないだろ? オレはたまたまそうならなかったから良かったけど。ここには異能を制御するためのトレーニング施設もあるし、力の使いどころもはっきりしている。同じ異能者を殺すってのは、まぁ、言っちまうとそこまで罪悪感みたいなものはない。やるしかないだろ? そうしなきゃこっちが危ない」


「おや、れいさん、珍しく真面目に話しますね」

「珍しくは余計だって。ま、あんまり話したこと無かったからな」


 涼佳のからかうような調子とは反対に、緋村はティーカップを傾けて顔を反らす。

 やられないように、やるしかない。

 二人の感覚は、異能を持っていない人間からすると、あまりにも冷えて、どこか麻痺してしまっているのだろう。

 異能を使い、この場所に留まるのは、最終的に自分が生きるため。

 何も間違ったことではない。と言うより、ここで彼の生き方を否定してしまったら、

 異質を徹底的に排除し、仮初の、幸せ紛いのモノを手に入れた‘社会’の住人と。

 例え今、その片棒を担ぐ機関に身を置いていても、音無透夜個人がそれを認めるのは、何としても避けたいことだった。

 異常の烙印を押され、異常を強いられる彼らが、正常であることを証明するために。

 そもそも、‘社会’の言う正常は、どれほど潔白で神聖なモノなのだろうか。

 正しさの絶対性を証明することこそきっと、夜空の星を探すより難しい。

 こちら側から見れば、‘社会’の方が異様な世界なのだ。


「じゃあ、異能者が自らの生きる場所を離れるっていうのは、いったいどういう意味を持つんだろうね」


 ティーカップに手を伸ばして、透夜は次にそんな質問を投げかける。

 口を濡らしたアールグレイは、すでにぬるくなっていて、香りも褪せてしまっていた。


「……」


 二人は答えず、透夜もその先を言わない。

 沈黙が部屋を包む。

 先程の平穏なものではない、張り詰めたような静けさ。

 音の無い部屋で、透夜は口を開く。


「実はさっき、クロハに相談を受けたんだ。機関を抜けたいって……そう言っていた」



*****



 西暦二〇四八年までに、この‘社会’、特にこの国はどれだけの正しさを見殺しにしてきたのだろうか。

 全世界的な政治、経済的不安。

 絶対的な信仰と、‘大きな物語’の消失。

 人々が今まで信じてきたものは、数ある物語の終焉とともに、手足をもがれるように潰えていった。

 しかし失われた正しさへの信仰は、昭和を過ぎ、平成があっけなく消えてからも、まるで亡霊のように時間の流れに縋りついているかのようだった。

 正しさの死体に縋る大人と、多様性という言葉の誕生で複雑多種な世界を知り、既存の概念に束縛を感じた次の世代の人々。

 かと言って、彼らにも本当の正しさなどというものが何なのか分からない。本来正しさというのは流動的であり、その共同体の構成員によって常にそれが時代に合っているのかということが議論され、研磨されていくべきもの。それにもかかわらず、テクノロジーの進歩で情報は氾濫し、すでに人間の能力では処理できないレベルに達していた。

 だから彼らは考えるのをやめ、現実に壁を作った。


 Mirror。


 次世代型のSNSは、正しさを問わない楽園として、人間に社会以外の居場所を提供した。この新技術の導入に、時代はそれが正しいものなのかどうかという議論を、もはや必要としていなかった。

 一方、現実の社会にはもはや半世紀前の正しさの死体も、玉座にどっかりと腰を下ろしたまま。そこにいる身体を持った人間たちは、意識だけをMirrorに移し、それを拠り所にした、権力者たちの奴隷だった。

 意味を持たない正しさと、‘正しく聞こえるようなもの’を盲信し、異物を認めようとしない不寛容な社会。


 はりぼての‘社会’の完成。


 しかし彼らにはそんな無様な現実よりも大切な、仮想現実をそれぞれ持っているから不満を口にすることもなかった。

 もはや国や共同体の体裁を成していない、形だけの社会が今の日本で、この社会的病は他国をも侵食しようとする勢いだ。

 もともとはみ出し者だった魔法使いや異能者は、この事態を静観した。

 遥か昔から自分たちを迫害し、都合の良いように使ってきた彼らの社会がどうなろうと知ったことではない。むしろそういった変化で自分たちが生きやすくなるのなら放っておこう。


 ただ一つ、異能管理機関アークだけは、設立から受け継ぐ理想を守るために、積極的に無意味な正しさを維持しようと、‘社会’に手を差し伸べたのだった。



*****



 組織を抜ける意思を伝えて一週間後、わたしはあっけないほど簡単にその許可を得ることができた。

 ユニットのみんなに送迎会を開いてもらった。この場所で嬉し涙を流したのは何度目だろう。見慣れた部屋を最後に見渡した後、わたしは目隠しをされて車に乗せられた。


「あなたの感情はそのままに、記憶をリセットします。異能に関しては、この薬を打ち込めば症状を抑えることができます。もし感情の暴発などで力を解放してしまってもご心配なく。また記憶を消して、違う場所で新しい人生を提供しますよ。いつだって私たちはあなたの味方です」


 車に揺られて連れてこられたのは、メディカルチェックルームにも似た真っ白な部屋。

 麻酔をかけられたのか、はっきりとしない意識に呼びかける声は、そんなことを言っていたような気がした。たぶん、機関の‘更生者’と呼ばれる人たちだろう。異能を抑えて、現実の社会に戻るのだという実感がだんだんと確かなものになってきた。

 記憶を消す。それでわたしは、今までの‘わたし’を続けられるのだろうか。


「確かに意思や心というものは記憶の積み重ねが生み出す部分が大きいですけれど、私たちの施す術は綺麗さっぱり記憶だけを切除するものです。ご心配には及びません。あなたはあなたのまま、現実の社会に戻ることができるのですよ」


 今のまま社会に戻れば、わたしは拒絶されず、認めてもらえる。

 そんな無根拠な自信を胸に、完全に目を瞑る。

 何人かの人たちの話す声が、だんだんと遠くなっていく。

 首筋に細い圧がかかって、わたしの意識はぷっつりと途絶えた。

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