-7- 其の壱

『タケル様のお電話ですか?』

――はい。ルナはどうですか?


『今は安定しておられます。こんなことを言うのは、医者としてどうかと思ったんですが』

 ――どうしました?


『いえ。昨夜、お世話をしていた若い看護士が、彼女から“ありがとう、タケル”って呼ばれたようで。すぐに“何でもない”と誤魔化されてしまったようですが……寂しいんじゃないですかと聞いても、そんなことないって。でも、内心は、ぜんぜん違うんだろうなと思ってしまいまして、私も人の親ですし』

 ――ごめんなさい。今は、いけません。どうしても。


『どうしても、ですか?』

 ――どうしても、見つけないといけないことがあるんです。


『……ならば、最後に一つだけ。それが終わったら、あなたはすぐに戻ってきてください。これは医者としてではなく、彼女を思う一人の人間として、約束してください』

 ――それは必ず。


 僕は、そう言って電話を切った。



 波の音がしていた。

 橙色の日が、もう海に落ちようとしている。


 

 エジソンの手記によれば、死後の国は海の中にあるらしい。

 古いノートだった。

 誰かの妄想にしては、研究所の中に隠されてあったり、長くて理解できない数式が書かれていたりと、あまりにディテールに凝り過ぎている。これは本物なのではないか。僕にそう思わせるには十分な材料だった。

 僕は羽田へと飛んで、そのまま沖縄へ向かった。


 沖縄だと断定した理由は、沖縄由来の伝説に話が酷似していたからだ。

 この海の底には、ニライカナイがあるという。

 死後の楽園。

 魂が行きつく場所。

 だが、ここからどうしたものか。

 伝承では、沖縄からはるか東の海にあるとされる。

 さらには、海の中だ。

 ここで、僕は行き詰る。

 現実から逃げたにしては、僕の逃避行はうまく行きすぎたところもある。

 だが、死にゆく彼女を忘れることだけは、できなかった。

 そして、今も僕はまだ彼女を思う。



      ◇



 僕は、スキューバダイビングの講習に申し込んでいた。

 水の中に潜るには、と考えた結果だった。

 しかし、それでも沖までは辿りつけない。はるか海の果てまで行くには、どういう方法があるだろうと考えて、僕は「絶対に許されない」という考えに至る。「一人で沖まで行って潜ることができないだろうか?」なんて、初心者だと察されても、自殺志願者だと思われても許可は下りないだろう。こんな初心者講習でも地道に重ねていくしかない。

 または、そこから意図的にはぐれるか、だ。

 船は青い波間を行く。

 晴れやかな空の下なのに、青は少しだけ曇って見えた。

 じりじりと僕の身と心を焦がす。

 あるいは、もっと酷いことも考えることはできるだろう。

 誰かを脅したり、船を盗ったり、非合法な手段に出るというのも可能だ。

 船を盗み、酸素ボンベも盗めば、日本海溝にまで行けるかもしれない。

 そんなことを考えながら、僕はウエットスーツの膝に頭を埋めた。


「いっそ亀を助けて、行けるんならな」

「ボクが乗せていくってのもありだね」

「え?」


 隣に、ソラが座っている。

 みんなが装備を付けているのに、彼は今まで通りの服のまま。

 ここまで着いてくるとは――というか、いるべくしてここにいるのか。


「君のこと、僕って助けたことでもあるの?」

「あると言えばあるし、ないと言えばないかな」

「またそんな謎かけみたいな」


 船は止まり、沖とは言えないがダイビングが可能なだけの深さのある地点にたどり着いた。

 インストラクターや他の客たちが、降りていく中、僕とソラだけが取り残される。


「まあ、僕らも行こうか」

「……」

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