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 家族というのもが、良いものだとは思っていなかった。

 家族というものは、幸せのかたちなのだという。

 そんなの嘘でしょ?

 それが家族から、学んだこと。


 

 結局わたしたちは、アメリカから日本に帰ってきた。

 千葉のはずれ、海に近い町で静かに暮らし始めた。

 神の国がないという主張を、言葉のハンデがある国で主張することとは大変だった。

 でも、収穫がなかったわけではない。

 あの人に出会ったこと。

 わたしをまっすぐに見た人がいたこと。

 それにあの言葉。

 わたしは、わすれない。



 

「でも、収穫はあったな」と父が言う。

「何がですか?」

「キリストの教えというのは、面白い。仏教みたいに面倒なことはいわない」

「でも、厳しいところもあると――」


 言葉を言い切る前に、頭を叩かれた。

 いつも、そうだ。


「うるさいぞ。お前は、いつも」

「ごめんなさい」


 また叩かれる。

 謝っても、意味はない。


「細かいんだよ、オマエ。それに星空月海様を逃がそうとしたことまだ許したわけじゃないぞ。それに足まで無駄にくれてやって……」


 くどくどと何かを言い続けている。

 母は、こちらを見ずあらぬ方向に目線をやっている。

 彼女が助けてくれたことはない。

 幸せは、ここにはない。

 あの言葉も、薄れるほどに。



 

 わたしが大人になっても、父と母の態度は変わらなかった。

 でも、それでも星空月海様はわたしに話しかけてくれた。

 いえ、それどころか、違う名前まで教えてくれた。これはわたしだけの秘密。

 誰にも教えない。大事なこと。


 

        ◇


 

 帰国後の五年間、わたしは父に対し従順に働いた。

 父が教えを広めるときにも積極的に行動し、気に入られるように動いた。

 母が嫌なことがあった時は、家事を受け持ち、廊下に雑巾をかけ、なるべく母を甘やかすように努力した。

 すべてを最後の日の布石にするために。

 父母らのために生きた。



 

 幼かったあの日、バケツで星空月海様を持ち出した日。

 あの日から、水槽の見張りは厳重になった。

 けれども、そこから続いた真面目な態度に父母の態度は緩んでいった。

 わたしが十六を迎えた日、父母は特にわたしの誕生日など覚えている様子もなく、珍しく二人揃って家を出ていく。それが共通の目的なのか、逢引きなのか、はたまた全く別の用事だったのか、特に興味はない。


 けれど、二人同時にいなくなることを好機と言わずに何と言おう。

 家のことを見てくれているお手伝いさんたちも、もうわたしは買収済みだ。掃除を手伝ったり、わたしの少ないお小遣いをなんとかかき集め、お菓子の差し入れを行ったりしている。多少のことは見つかっても、目をつぶってくれるだろう。

 たとえバケツを持って、廊下をうろついていたとしても。



 

 そう、わたしは再び星空月海様を連れ出した。

 運命か、住んでいた町は海に近い。

 だから、楽に逃がすことができた。


「じゃあね、もう捕まるんじゃないよ」

 彼は最後に何度もお礼を言った。


 これで良かったのだ。

 わたしのことは分からない。でも、彼は幸せになった。

 それで十分な成果だ。

 このまま家出を続ける。

 もう帰らない。


「幸せになれるんだろうか、わたし」


 

           ◇


 

「大丈夫ですか?」


 人の多い町、そこでなら働き口もあるかもしれない。

 と思ったのに、その簡単にはいかないもので、数日仕事先も見つからず、水だけを飲んで倒れる寸前まで落ちぶれた。

 けれど、家には帰れない。

 帰る体力もすでにない。

 そんな行き倒れのわたしに、声をかける男の人。


「大丈夫――ではないです」

「で――ですよね! そこ病院なので、行きましょう」

「あの、わたし、お金が……」

「いえ、僕の父のやっている病院です。治療費は、問題ありません。それより見殺しにする方が、僕にはできませんよ」

「ふふ……変な人ですね」


 つい笑ってしまった。

 目をしっかりと開けると、なぜか照れた顔のその人がいた。


「あの」彼は照れくさそうに呟いた。「お名前を聞いても?」

「姫子と言います」

「僕は、日向晴士郎です。空が晴れるの、晴と書くんです」


 空が晴れる。

 いい響きだった。

 わたしが彼と幸せに暮らしたことは、ここで特に言うことではないかもしれない。

 

 

        ◇


 

 行く時代を経て、日向家は病院の経営を止めた。

 多くの男たちが会社勤めを選び、そうして生きてきた。


 

 その日、日向朝日は女の子を生んだ。

 名前は、ルナ。

 ずっと前から決まっていたかのように、すんなりと朝日の頭に浮かんだ名前だった。

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