第8話 一歩、足

 ヨロズハは荷物をまとめはじめる。タダシの妻の家から出る準備だ。持って行けと言われ渡された食料を袋に詰めているとき、ヨロズハは口を開いた。


「本当に帰り……山の麓まで連れて行かなくていいのか?」


「ああ。平気だべ。オイラはしばらくここにいるだ」


「そうか」


 タダシと妻は手を取り合い、にこやかに言った。その手の絡ませ方に、ヨロズハは純然たる愛を感じた。共に生き、共に笑う間柄。


 ヨロズハはその光景を見て何か心の中にむず痒く、湿った感覚が広がった。何か欠けているような、何か失ったような感覚。それはかつてあったもの。しかし今は無い。


 ヨロズハの目から一筋の熱いものが流れ出た。彼女が頬に手をやる。指先は濡れていた。


「ど、どうしただ?ヨロズハ!」


「い、いや……なんでも……」


 そうは言うものの、ヨロズハの目から溢れるモノは止まらない。一筋、また一筋と流れ落ちる。


 タダシの妻はゆっくりと布団を退けた。そしてよろよろと立ち上がり、涙を流すヨロズハの元へと歩み寄る。彼女の隣に座ると、ヨロズハの小さな肩に手を回した。


「歌を集めるために、そして王の素晴らしさをより広めるために住んでいたところを離れたのよね。それは寂しいわよね」


 その言葉はヨロズハ心のど真ん中を射抜いた。その矢はじんわりと胸に溶け込み、温かくどうしようもなく悲しい気持ちをヨロズハに感じさせた。


「……わ、私は不甲斐ないな……ちょっと寂しいくらいで……こ、こんなになって……」


 ちょっと知り合った夫婦が、ちょっと仲睦まじくしているのを見ただけだ。それなのに彼女は肩を振るわせ、タダシの妻の胸に顔を埋めた。彼女はヨロズハの真紅の髪を撫でて、優しく尋ねる。


「王宮にいた時、ヨロズハさんはどんな人にお世話になってたの?」


「マンヨウ王はいつも歌を褒め、優しくしてくれた……母上は歌い方を手取り足取り教えてくれる……族長は勇ましく皆を守るために必死な人だ」


 ヨロズハは弱々しい声でそう答える。それをタダシも、タダシの妻も感じいるように聞いていた。ヨロズハの言葉の終わりを待って、タダシの妻は彼女を抱く腕を少し強めた。彼女の赤い袍が皺を刻む。


「ヨロズハさん。アナタは人の素敵なところを見つけられる。そして好きになれる。これは才能よ。これからもたくさんの人に出会えるでしょう。好きな人が増えることを願うわ。この旅に幸多からんことを……」


「うん。わ、わかった」


 嗚咽混じりのお世辞にも綺麗とは言えない声で簡潔に答える。ヨロズハを持ってしてもそれが限界だった。


 息を整えるのに三分、荷物に手をかけるのに十分、出口の障子の前に立つまでに十五分かかった。不自然なほどにゆったりとした身支度に夫婦は何も言及しなかった。


 ヨロズハの前にある障子の一マスが少し破れていた。穴からは青い空と新緑がチラリと見える。向こうの世界に行く。そう決めたのは彼女自信だ。歌は歌い始めたら歌い切らねばならない。彼女の信条の一つだ。


「ありがとう」


 ヨロズハはニコリと笑う。タダシと妻は笑い返した。奥で腕を組んでいるタダシの義母は肩をすくめる。


 障子をガラリと開け、軒先に出る。ピシャリと障子を閉めて彼女は靴を履いた。


「ゴシチ、シチゴ出ておいで」


 袍の脇からスルリと二体が現れる。シチゴもゴシチもなぜ呼ばれたのか分からずにキョロキョロと不定形な体と頭を動かしていた。


「フタの村は逆に山を降りたところだ。二人と一緒に歩きたいんだ」


 シチゴとゴシチはきゅー、と鳴くとヨロズハを先導するようにふよふよと進み始めた。彼女は二体の後に続く。


 山を降りるのもなかなか大変だ。何度もヨロズハは足をさすった。足首と膝に詰め物をしたように動かしにくくなってくる。


 岩から飛び降り、ツタを切り裂く。狼をやり過ごし、苔で滑って転ぶ。そんなふうに山を降りていく。


 中腹まで降りる頃にはあたりは暗くなっていた。月の明かりも届かない木の下などは完全に闇だ。ヨロズハはあたりを見渡し、腰の高さほどの岩を見つけた。


「この岩の影で休もう。シチゴ、ゴシチ」


 二体は関節のない体で伸びをするような仕草を見せる。そしてあくびをしてヨロズハの袍の中へと入っていった。一方で彼女は周りの木にメカブのねばねばを塗りつけていた。防護の呪術だ。これがなければヨロズハはこの旅で何回も獣や妖獣に食べられなければいけない。


 ヨロズハは岩にもたれかかり、夜空を見上げた。月に少し雲がかかっている。


 彼女は一年前マンヨウ王を賛美する歌を歌った時に王に言われた言葉を思い出していた。


「見よ。ワシが手を伸ばしても月にかかる雲は退かせん。故に人は完璧ではないのだ。思った通りにはいかんのだ」


 不意にそれ思い出した彼女は自然とその言葉を口に出していた。マンヨウ王はいつも謙遜する。それこそがかの王の美徳の一つであるとヨロズハは思う。だが王はこう言ったのだ。と。


「王のおっしゃる通りだ。思い知らされたな……こんなに別れが寂しいなんてな。思い通りにはいかないな」


 ヨロズハは自重気味に呟くと目を瞑った。さっさと眠って心をリセットしたかった。


 彼女が瞼を開けるのも億劫になるほどに眠気が来て、月も高くなるころ、ガサリガサリと枝葉をふむ音がする。


 ヨロズハはパッと目を開けて、岩の裏に隠れた。息を潜めながら、岩の横から音のする方向を覗く。三名の男女が松明もつけずにそこにいた。


「お嬢さんよぉ。バレてるぞ」


 どくんと心臓が跳ねるような気がした。このがヨロズハを指すのは自明だ。彼女は観念したように岩の陰から顔を出した。


「盗賊の類か?」


「違うよ。ただお嬢さんに一緒に来てもらいたいだけだね」


 そう宣う男の手には麻縄があった。他の二人はナタのようなものを持っている。確実に人攫いの類である。三人はニヤニヤと笑いながらヨロズハの方へと向かってくる。


「む、無駄だぞ!呪術の壁があるんだ!」


「ん?あぁ……こりゃまた」


 男はそう言うと麻縄を地面に置いた。ヨロズハは目を顰めた。彼が何をしでかしてくれるか分からない。


 男は羽を舞いあげるように足を振り上げると、一気に解放するように振り抜いた。乾いた轟音がした。


 ヨロズハは目を見開いた。目の前の男が蹴りひとつで木をへし折って見せたのだ。その木はメカブのねばねばを塗りつけた木だ。しかしその柱は折れて地に臥した。ズドンと言う音がすると、カラスが飛び去る。ヨロズハはカラスに紛れて逃げてしまいたかった。しかしそうもいかない。


 彼女は完全に腰を抜かしていた。蹴りで木を折る人間と、ナタを持った人間が近いているのだからそれも無理はなかった。


「なに、大人しくしてれば痛くはしないぜ」





 

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