澱重ナル者

亜未田久志

第1話 渇望ト相対ス


 某国の紛争地帯にて。

 少年は血の溜り場の中で夢を見た。流れ出る血は温かく。身体は冷たくなっていく。その中で確かに少年は見たのだ。自分を救った者の刃を。鈍く光るナイフはお世辞にも綺麗とは呼べず。血に塗れていた。

「ああ、まだ救えるものがあった」

 心底、救われたかのような声、少年は違うと思った。救われたのは自分なのだと思った。だけど声は出ない。その血に塗れた刃をしまう姿を惜しく思った。もっと見ていたい。彼が人を斬る様を。ずっとずっと。それが少年の願いだった。

 そして――

 

 かつてワンマンアーミーと呼ばれた男は一人の少年の父親となった。

兵蔵ひょうぞう?」

 呼ばれた少年は向き直る。空港で日本行きの飛行機に乗るのだ。

「ああ、今行くよ」

 親となったその人から名も無き少年は残井兵蔵ざんいひょうぞうと名付けられた。心に刃を秘めた敗残兵。

 なんと皮肉な名だろうか。だけど彼は満足していた。平穏の世を享受する。


 はずだった。


 小さな武道教室の講師として暮らしていた青年はある日の帰り道。女性の悲鳴を聞いた。足を急がせる、警察に通報は済ませた。では時すでに遅しとなってはいけないと思い悲鳴のした方に駆け出す。

 路地裏へ入る、そこに在ったのは――

『ひひひ』

「うわぁ!?」

「なっ」

 ではないか。尋常ならざる状況に狼狽える兵蔵。

「今、悲鳴を上げたのはお前か?」

「ち、ちが、ちがうけど、そんなことどうだっていいだろ!?」

『ひ、ひひひひひ!! わたしを襲おうとしたのよねぇ!!』

「……」

 兵蔵はさて自分はどちらを助けるべきなのだろうと思案する。暴漢か、異形か、なかなか難しい二択だった。だが今まさに男を喰らおうとしている異形の女を前にして身体が勝手に動いていた。

――こっちのが強そうだ。

 ただ理由はそれだけでよかった。背から竹刀を抜き出すと異形の腕を受け止める。重い重い一撃に身が軋む。それに対して獰猛な笑みを浮かべていたのは異形かそれとも。

 すると上から声がかかる。

「人の身じゃ無理よ」

 凜とした女の声だった。思わず見上げる。和装の女が路地の上、横の家の屋根にいた。

「誰だ」

「我が名は句天くてん、そこのおりにピリオドを打ちに来た」

 一瞬、駄洒落か? と思った兵蔵だったが、その身が発する人ならざる気配に只者ではないのを感じた。

「澱とは?」

「一般人に説明する暇はない!」

 一閃、句天が屋根から降りる、それだけで異形は消え、女性だけが残った。遅れて句天が着地する。

「なにをした」

「一般人は寝ていろ」

 当身を打たれる、一瞬の出来事だった。しかし。

「甘いな、それで気絶するのは鍛えが足りないやつだけだ」

「んなっ」

 当身が失敗した事に赤面する句天に兵蔵はしてやったりと言った感じだ。

「……あんた」

「ん?」

「そう、そういうこと」

 句天は頷くと、その場から逃げようとしていた暴漢を捕まえる。

「逃げるなよ女の敵」

「……忘れていた」

 遅れて警察が駆けつける。

「私は公の機関が苦手でね、あとは説明頼んだよ」

「はぁ!? おい待て句天!」

「じゃあな、もう会う事も無いだろう!」

 その言葉が嘘になるとは今は二人共、思っていなかった。

「なんて説明したらいいんだよ、これ……」

 説明に悩んでいると暴漢が。

「俺は被害者って事に……」

「ならねぇよ」

 一蹴して兵蔵はしばし思案するのだった。

「あのわざは尋常ならざるものだった。人の手には余る……」

――あの高みに至りたい。

 燻っていた火がまた灯る。己が身を焦がす焔。

「父さん……俺は……」

 その日の月はひどく眩しかった。そして始まる兵蔵の長い長い夜の物語。血濡れた刃を思い出す。自分を構成する原体験。その欠片ピースが埋まってしまった音がした。

 心の虚を埋めるもの。それはに他ならない。人はそれを渇望と呼ぶ。青年は今、それに相対している。

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