扁桃体の存在意義

芳岡 海

扁桃体の存在意義

「なあ、もし超能力使えるとしたら、心が読めるか、力が最強になるか、痛みを感じないか、恐怖を感じないか、どれがいい?」

 俺の横で車止めに腰かける保田が聞いた。

 二台分の小さなコインパーキングから路地を眺めている。俺らの視線の先で、黒シャツのスーツのどう見ても堅気じゃない強そうなおじさんが一服を終えて立ち去ったところだったから、保田がそんなことを思いついた理由は明らかだった。心が読める超能力を俺すでに使えてんだよな。コイツ限定だけど。


 コインパーキングの端っこの車止めに二人で尻を乗っけて、さっきファミマで買ったガリガリ君ソーダを齧る。

「俺、痛み感じないのが一番強いと思うんだよなあ」

 保田が続けた。

「それ、相手の攻撃無力化してるだけで、強いのとは違うんじゃん?」

「拷問も効かないよ」

「拷問されてる時点で捕まってるぞ」

「目の前でナイフとか刺されて平然とされてたら、普通ビビらない? あ、ちょっとヤバいやつかもみたいな」

「相手の方がヤバいやつだった場合終わりじゃん。痛み感じなくても体は傷ついたら死ぬでしょ」


 んー、と保田は考える顔。ガリガリ君をまた齧ってから、「じゃあ三上は?」と俺に促す。

「心が読めてもさ、読めたところでどうしていいか分かんなかったら意味ないよな。『こいつ今から俺にこんなことしようとしてるんだ~。で、どうやって切り抜けたらいいんだろ?』みたいな」

「やっぱ力が最強か」

「不意打ちとかでやられたらそれも結局意味ないけどな」

 溶けかけのガリガリ君を横から齧り、はっきりしない答えを言う。


 曇りの午後のコインパーキングの空気は、温室みたいにこもっていた。

 二人でサボった卓球部は今頃基礎練が終わったくらいだろう。見上げると、黒ずんだビルの壁で切り取られた白い空があった。


「でも現代社会で、不意打ちで襲われたりナイフで刺されたりとかそうそうないよな。だいたいビビってビビらせて終わる」

 喋った俺の声がビルの壁に反響している気がした。襲われる、とか、ナイフ、とか言った声があらぬところに届いてたらどうしよう。

「ビビらないでいられるんなら強いよな」

 ガリガリ君を全部口に放り込んで保田が言う。保田が何をイメージしているのか分かって俺は頷く。

「基本、脅しとかきかないよな」

「……フッ。無駄だ。俺に脅しは通用しない」

「くそだせえ」

 パーキングのアスファルトに足を投げ出して笑う。


 夜の仕事っぽい女の人がスマホをいじりながら、ひらひらしたドレスに不釣り合いなパーカーを羽織って前の道路を通り過ぎていった。

 駅から一本入ったこの路地は飲み屋街だ。昼間の今はまだ普通だけど、夜はネオンと客引きの人たちであやしい空気になる。卓球部をサボった中学生の俺らがなんでこんな通りのコンビニに来たかっていうと、逆に知り合いに見つかりにくいだろうという作戦だった。

「恐怖を感じない相手だと、そもそも読む心もないってことになるのか」

 食べ終わって暇そうな保田がまた言った。

「俺やっぱ痛みを感じないが最強だと思うんだよな。自分で言っといてあれだけど、痛みを感じないのと恐怖を感じないのって、ほぼ一緒だな」

「そうか?」

 俺は上を向いて残ったガリガリ君を口に落とす。


「あとどーする? ゲーセンでも行っとく?」

 部活をサボった放課後にすべきことリストでもあるように俺は言った。

「そうだなー」

 保田は生返事を返す。スマホを見ながらアイスのついた指をなめ、制服のズボンでごしごし拭いた。

 コインパーキングの前を黒塗りの車が通り過ぎる。ベンツかどうかは分かんない。軽自動車でも磨けば黒光りすんの?

「痛みを感じない人、っていうのは聞いたことあるけど、恐怖を感じない人、っていうのもいるらしいな」

 俺の横で保田が言った。スマホで調べていたようだ。気になるとすぐ調べ出すこいつの癖はいいけど、他の行動が中断するのはやめてほしい。

「脳の扁桃体が損傷してるんだって」

「実際感じなかったら困るだろうな。危険に気づかないとか」

 立ち上がって、アイスの棒を街路樹の植え込みに向かって放った。通りかかりの黒スーツのおじさんとかに怒られたらどうしようって思うのも、恐怖の一種なのかな。

「へえー」

 まだ車止めに座ったままの保田が、スマホを見て声をあげる。

「何?」

「恐怖を感じないから、ホラー映画も毒蜘蛛も平気。知らない人が突然顔を近づけても不快感を感じない。でも他人の恐怖の表情を読み取ったり、人の信頼性を判断するのが難しい。危機回避能力が著しく欠如している」

「いいことも悪いことも、って感じだな」

 保田の横に立って答えた。トラックが一台鈍い音を立てて通り過ぎる。チャイムの聞こえない昼間って時間がもったりしている。

「危機回避能力の欠如のために危険な目に遭っているが、通常の人と比べてトラウマが少ない」

 読み終えた保田が、それってさあ、と顔を上げた。

「力とか関係なく、結局一番強くない?」

「確かに。メンタルの強さ」

 俺も頷いた。保田が何をイメージしているかが分かったから。


「とりあえず行くか」

 保田が立ち上がって伸びをした。

「明日は卓球部行っとく?」

「一応? まあ週一、二行けばいいでしょ」

 コインパーキングの精算機と「空」を表示する看板の前を通り、まだ活気のない道路に出た。

 やっぱ制服でこの通りにいるのはちょっと気まずい。真っ直ぐ行けばすぐに健全な大通りに出る。塾とかもある。


「脳の訓練しようかな。扁桃体の働きを鈍くする訓練」

 歩きながら保田が言った。意味深な表情で、両手の人差し指で頭を押さえてみせる。脳の深部に意識を届けるというように。

「扁桃体は脳のかなり内側の方にあるらしい」

「そこ働かないと最悪死ぬじゃん」

「現代社会でそうそう危険はねえよ」

 頭を押えたまま保田は言う。その姿勢で歩きながら、正面から来るトラックを避ける。残念ながら車避けてる時点で恐怖を感じている。

「まずこの道路で恐怖を感じないと思って真ん中歩いてみろよ」

 車道に保田を押し出して俺が言った。押し出す前には車が来ないことを確かめていた。俺の扁桃体はちゃんと働いているようだった。

「脳も体も鍛えれば鍛えられるって、部長も言ってたもんな」

「そうそう。日々の積み重ねってやつな」

 卓球部部長の口調を二人で真似て言い合った。


 卓球部の三年たちはなぜか、二年の中で保田を叩き上げることに生きがいを見出していた。

 返事の声の大きさから、集合するタイミング、基礎練の取り組み具合も、ジャージのズボンから出ているTシャツの裾の端まで、保田だけは部長の決めた物差しに寸分違わずぴたりと合わなければ許されないらしかった。

 他の部員が目の前で素通りされる事柄が、保田だけは許されず全員の前で咎められ、余計に走らされ、時には怒鳴られた。

 俺には理不尽としか思えなかったが、部長がそうするならいいとでもいうように他の三年も保田に厳しくあたり、彼の前でだけ手を抜く同輩もいた。

 いくら卓球部でも体育館で先輩に怒鳴られれば、後輩の保田は身をすくめて、言われた通りに歯切れのよい返事を挙げるしかなかった。


 あの恐怖はなんなのだろう。命の危険を感じるわけはない。社会的な危機を感じているのだろうか。

 確かに、私服姿の部長が日曜日のイオンモールでお母さんの買い物待ちとかしてたら、何もこわくないもんな。それはそれで悲しいな。悲しいは、脳のどの部分だろうか。


 通りを出る。途端に日常。途端に多くなる人通り。

 その道で俺たちは今日一番の危機を感じた。生命の危機ではなく社会的な危機のほうだ。

「あれ、副部長じゃね」

 保田が言ったのとほぼ同時に、駅前の交差点を渡ってくる卓球部三年の副部長がこちらに気づいた。目が合ってしまった。卓球部のくせに背の高い目線が、人混みの中から俺らを睨む。体育館でなくともやっぱり先輩という緊張感が走った。

「おい、保田と三上かよ」

 先輩が人混みに構わず言った。真っ直ぐ歩いてくる。

「なんでここに?」

 俺はそう言いかけて、そういえば副部長は手首を怪我して先週から部を休んでいたのを思い出した。

「お前ら部活は?」

 先輩は俺らの正面まで来ると、今俺らが歩いてきた通りの方に目を向けた。

 やべ、と隣で保田が言う。よりによってすぎる。おい、と俺が保田に言う。目が合うと保田は「おう」という顔をした。

「今消えれば、証拠不十分ですよね?」

 俺の言葉に対して先輩が何かを言うより早く、俺と保田は、駅前の交差点の歩道をそれぞれ別の方向へ走り出した。俺はバスターミナルの人ごみへ。保田は高架下の方へ。「え、え?」と戸惑う先輩の声が背中に聞こえた。

 こういう時にだけ、保田とはなぜか息がめちゃくちゃ合う。だから部活がサボれてしまう。


 がーっと走って人混みに紛れて、ロータリーをぐるっと回った。反対側の高架下まで行って保田と合流した。なんで合流できるのか分かんないけど、こいつとは言わなくてもできるのだった。

 保田は路駐する自転車の列と買い物帰りの主婦グループをすり抜けて、笑いながら駆けてきた。道脇へ倒れ込むようにして両手でガードレールをつかむ。卓球部に相応しい貧弱で色白の顔を上気させている。

「扁桃体、やっぱ大事かも」

「は?」

 こっちも息を切らせながら聞き返す。急に走ったから脇腹が痛い。

「だって、やべえ! って思って走り出したらめっちゃ走れたもん。部活じゃ絶対あんな走れないのに」

 保田はやたら清々した顔をして笑った。

「いや俺、逆に扁桃体麻痺してた」

 ふらつきながらガードレールにもたれて言い返した。

「あ、どうしよう見つかっちゃったなーって冷静に思うところだったのに、走ってたら全然平気になったわ」

「まあ本当に平気になったかは知らないけどね」

「先輩、明日部長に言うかな?」

「三上の言う通り証拠不十分でしょ」

 保田はまだ息を切らせながらけらけら笑う。俺は暑くなって制服のシャツをパタパタやった。

 二人とも部活をサボって歓楽街から出てきたところを副部長に見られた直後とはとても思えない顔をしていた。扁桃体の働きは走ると鈍くなるのか? それとも友達と息がぴったり合うといいのかも。まあただハイになってるだけだろうけど。

「ま、どの道、死ぬわけじゃないし」

 さっぱりした気分で言った。保田が笑って頷いた。

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扁桃体の存在意義 芳岡 海 @miyamakanan

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