使い勝手

昨今世間を賑わした検察庁高官関連の醜聞に接して、「使い勝手のいい人」という言葉が頭から離れない。


数年前には使い勝手の良さを武器に国税庁長官に栄進(その後辞任)した自称エリートもいたし、大臣ポスト欲しさに同様の行動をとる政治家の先生方は枚挙にいとまがない。これは官僚や政治家に限ったことではない。「原子力発電は安くて地球に優しいエネルギー源である」という神話を、政府や電力会社(いわゆる原子力村の面々)に忖度し、マスメディアを通して全国津々浦々まで流布させる「使い勝手のいい芸能人や評論家・大学教授」が多数派であったのも東日本大震災までの日本における(今となっては懐かしい)呑気な日常であった。


自らの良心に忠実であろうとする一部の「使い勝手の悪い人」にとっては、いつの間にか「神の見えざる手」が働いて発言の場を奪われていく悪夢のような日常でもあったのだが、世間の人々は見て見ぬふりをしてきたのだ。いじめの標的になることを恐れて、加担しないまでも遠巻きに傍観者をきめこむ大多数の「大人しい子どもたち」や、明明白白な犯罪行為を、自らのあるいは仲間の保身のために「いじめ」「体罰」「行き過ぎた指導」「不適切な指導」などと便利な言葉で言い換えて火消しに専念する「大人の対応ができる先生方」のように。彼らもまた、学級担任や学校長にとって「使い勝手のいい生徒たち」であり、教育委員会や文部科学省にとって「使い勝手のいい先生方」である。


コロナ禍を生きる我々は、再び「使い勝手のいい人」を無自覚に求めてはいないだろうか。自粛要請という名の「正当な補償もない私有財産の収奪」も、「心を一つにして頑張る」日本人の美徳としての文脈で語られることが多い。パチンコ店の営業問題にしても、休業要請の科学的妥当性や正当な休業補償の議論は話題になることさえ稀で、前近代国家よろしく「強制的な自粛」に異議申立てを行った者を晒し者にするような政治家が大多数の支持を集めているのが現実である。(まるで「強制的なアクティブ・ラーニング」のように!)


エーリッヒ・フロム、ハンナ・アーレント、藤田省三らの著作を読むまでもなく、近代国家における民主主義社会は、多数決や理不尽な同調圧力により多数派が少数派を圧殺または黙殺するシステム(全体主義社会)ではなかったはずである。


欧州諸国のCOVID-19への対応を知れば知るほど、日本が鹿鳴館でダンスの練習を始めてから140年近くを経てなお、私にとっての坂の上の雲ははるか彼方に遠ざかるばかりである。


2020.5.27

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