悲しみの鬼 ひっきぃ

@hitujinonamida

悲しみの鬼 ひっきぃ

 哉眼(やがん) が自宅に帰ると、紅い寒菊が咲く庭に、祖母が横たわっていた。その腰元には年老いた黒狸が寄り添っている。どうやら、どちらも亡くなっている。


 成人式に自分を送り出した今朝は、笑顔でぴんぴんしていたと言うのに。


 哉眼は最初ぼんやりその光景を酔いの冷めない頭で眺めていたが、はっと我に返り、荷物をその場に放り投げ、走り出した。


 近所の並々公園内の野球場に着くと、着慣れない羽織袴姿のままフェンスをよじ登り、グラウンドの中央でへたり込んだ。


 立ち上がり、空を見上げるとお月さまが登っていた。


 


「[[rb:哉眼 > かなめ]]!」


 がしゃんと響いたフェンスの音と共に哉眼の隠し名を呼ぶ声がした。


 友人の[[rb:徳人 > のりと]]が血相を変え、フェンスの向こうから叫んでいた。


 哉眼と同じように袴姿で立っている。


 ガタイの良い体つきと、刈り上げた精悍な黒髪が凛々しいが、その表情と声は未だ幼く、何だかくしゃくしゃだった。


「胸騒ぎがしたんだ。なのに、お前全然携帯に出ないし、それでお前の家に寄って来たら、ばあさんと狸…倒れてた。」


 徳人は下唇を噛みしめながら鼻を啜った。


 釣り目で強面のイケメンが台無しだ。


「うん」


 哉眼は月を見上げまま答えた。


「祖母ちゃん倒れてたぞ。」


 徳人は必死でフェンスにしがみ付き、隙間から哉眼を睨み付けた。


「うん」


 哉眼は徳人の方を見なかった。ただ静かに自分のいる場所に立ち、懐から扇を出した。そうして大きく両袖で空を仰ぎ、天の月に向って一礼する。


「なぁ、知ってるか、月は空の目なんだと。きっと祖母ちゃん達が俺を立派に育ててくれた事、月は見ていてくれたよな?」


 頭を月に向って下げたまま何処か独り言ちに哉眼は語った。


 茶釜[[rb:ちゃがま > ふりがな]] [[rb:哉眼 > やがん]]が祖母の家で暮らし始めたのは、四年前の事。


 夏休み明け、学校へ行けなくなった哉眼を、半ば強引に父が連れてこられたのだ。


 どうせ家にいるなら祖母の看病をしろと言う理由だった。


 祖母の三男坊になる父とて、煙たがって厳格な祖母の家に近寄らないというのに。


 きっと父は妻が不倫相手と家を出た上、一人息子が登校拒否となっては体裁が悪いと思ったのだろう。そう思い父を怨んだ。


 秋に音連れた祖母の一軒家は、以前に増し寂れ、家の周りに咲く大輪の朱い菊が殊更鮮やかに見えた。夕陽に照らされ赤々と染まるその家の周りの風景が、嫌に恐ろしく感じたのを、今も覚えている。


 湧き上がる思いを噛みしめながら、哉眼は舞い始める。


 足裏で地を踏みしめながら、哉眼は自分が祖母の家で暮らし始めた日を思い起こした。


 それはたった数年前の事。


 哉眼が自分を好きになれなかった頃の話。


 哉眼が一番に思い起こしたのは六畳ある畳の部屋。その薄暗い和室で、老婆の咳が響き、呼応する様に男のため息が漏れた。


 当時高校一年生だった哉眼は、何も聞こえていないふりをして、正座で俯いたまま息を殺し、身動きをしないよう、全身の重力を下に向けた。


「取り合えず、コイツここに置いて行くから。」


 再度重々しい溜息を付くと哉眼の父親は立ち上がり、古い一軒家を出ていった。


 哉眼は目で父を追う事もせず、ただ頑なに正座の姿勢を保っていた。しかし哉眼には、さっさと迷わず車に乗る父の姿が、瞼の裏で見えていた。


 外から父の車のエンジン音が聞えたところで哉眼は「はぁ」と大きく息を付いた。


「すいません、お世話になります。」


 かすれた声で三年ぶりに会う祖母に哉眼は言った。


 高校に入り、身長が百七十センチにまでたっしたと言うのに、まだこの細身の老婆が怖いのだった。


「ふん、他人行儀だね。」


 哉眼の祖母は口端を引っ下げていた。


 昔は美しかっただろう卵顔は今は痩せこけ、性格の鋭さに拍車をかけている。頬に二本通ったほうれい線が、彼女の心身を貧相なものに見せた。


(何で俺だけ、こんなババアの家に連れてこられなきゃいけないんだ。どいつもこいつも世間体ばっかり気にかけやがって、誰も俺の気持ちなんて聞いちゃくれない。そもそもお前らが自分の見栄の為に、体裁の良いだけの結婚をして、間に合わせで出産をして、肝心なモノがないまま家庭何か築こうとするから、俺みたいな駄目な奴が生まれるんだ。)


 言いたい事は沢山あったが、哉眼はただ顔を伏せた。


「じゃあ、部屋に行くよ。」


 哉眼が立ち上がろうとすると、また祖母が咳を始めた。


 気にかけたい、声をかけたい、と、素直に哉眼も思う。が、また素っ気無い態度で、鋭い言葉を突き付けられるのかと考えると、父と同じようにただ重たい溜息が出た。


「どいつもこいつも」


 かすれる声で哉眼はぼやいた。


 祖母の咳を耳にしながら何もできず、片膝を上げたまま身動きを取れずにいた。


(サッサトクタバレバイイノニ)


 哉眼の思考が、感情を離れ、独り歩きし始める。今顔を上げれば、口からとんでもない暴言が出てしまいそうだで、唇を噛み締めた。


 障子から夕陽が射しこんでくるのが、顔を伏せていても分かった。


 光が眩くなるにつれ、どんどん祖母の咳が酷くなっている。


 煩わしく思いながらも、夕陽の眩しさに顔を下げていられない。


 哉眼は顔を上げた。


(何かおかしい)


 夕陽で影って見えないが、祖母の背中が、こんもり盛り上がっている。


 瞬きをして目を凝らすと、祖母の背中には、痩せて皺だらけの、角の生えた何かがいた。


(鬼だ)


 初めてそれ見るのに、哉眼には分かった。角が生えていた事もあるが、おどろおどろしい醜悪な佇まいから、鬼と言う表現がしっくり合ったのだ。


 痩せた黄色っぽい茶色の毛並みで、ナマケモノノような風体。毛むくじゃらで長い手足を祖母に巻き付けている。


 鬼は祖母の右肩にあごを乗せながら、濁った色の息を吐いた。


 すると祖母の咳が一層酷くなり、仕舞に祖母は布団にへたり込んでしまう。


「おい、やめろ!」哉眼は鬼の肩を掴み引っ張り上げた。


 すると鬼は表情一つ変えずに首を回し、空虚な眼で哉眼を凝視した。


「ひっ」 


 尻餅をついた哉眼に躊躇なく鬼が飛びつく。鬼の腕が哉眼の体に巻き付いた。


 哉眼の抵抗も虚しく、長い手足に絡みつかれ、指一本相手に反撃できない。


 すると鬼の腕が哉眼の体をすり抜け、両手で二つの肺を鷲掴みにした。


 哉眼は仰け反り、叫びながら口から泡を吹いた。発狂する哉眼の肩に鬼が顔をのせ、その苦悶の表情を凝視している。


 その底知れぬ暗い瞳に哉眼の身体は総毛立つ。


 哉眼は心の中で叫んだ。助けて、助けて、助けてと。しかし声にはならなかった。


(ああ、どうせ俺の事なんて、誰も助けちゃくれないんだ。)


 そんな自虐的な思いが哉眼の脳裏を過った。噴いた泡が首を伝い、床に落ちる。そのまま涙を零しながら白目を向いた。


 祖母はというと、ぜいぜい言いながら、布団に倒れ込んみ大きく呼吸し、酸素を体内に取り込むのに必死の様子だ。思考が回らず、哉眼に意識を向けられない。


「このひっきぃが!そいつを離せ!」


 哉眼の意識が消えかけた瞬間、風を切る音と共に、勢いよく開けられた引き違い窓から、真っ黒の毛玉が現れた。


 するとそれは、回転しながら鬼に体当たりし床に着地する。


 鬼は頬に大きな引っ掻き傷を付けられた。


 それでも尚、空虚な表情は変わらなかった。


「逃げろ!」


 突然窓から舞込んで来た、真っ黒の塊は狸だった。


 哉眼は訳が分からないまま、走り出し裸足のまま狸が入って来た窓から外へ飛び出た。


 取り合えず、人気のある所へ出ようとした。


 しかし夕陽に照らされた住宅地は、人っ子一人いない。


 違和感を感じながらも哉眼は近くの並々公園まで走った。


 しかしここにも人の姿は見つからなかった。 以前来た時は夜も賑わっていた野球場や、テニスコートがも抜けの殻だ。辿り着いた噴水の音だけがやけに耳に響く。


 哉眼は走り疲れ、膝を付いた。水辺に緑の茂る石垣と、木々の間で呼吸を整える。と、目の前の草が慌ただしく動いた。


「ひっ!」


 思わず哉眼は後方に飛びのく。


「案ずるな、わしだわし!」狸が草の合間から出て来た。先程哉眼を助けてくれた黒狸だ。鬼に果敢に向かっていったので大狸のように思っていたが、実際は猫程の大きさだった。


「さっきの化け物は何だ?あれはやっぱり鬼なのか?」哉眼は黒狸にたずねた。


「お、わりと冷静だな。」[[rb:黒狸 > くろたぬき]]が二本足で立ち、ぽんっとお腹を叩いた。


「慌てても、一文の得にもならないだろ。」


 黒狸はじっくり哉眼の両目を凝視した。哉眼がいぶかしる顔をすると、そっぽを向いて川辺に添えられた石に腰かけた。哉眼も同じようにする。


 黒狸はそこら辺に落ちていた小枝を摘まみ上げ、「ほいっ」っと言いながら空に投げた。すると枝はパイプに変る。更に黒狸が指を鳴らすと、指先に火が灯る。


 黒狸は火をパイプ穴にかざし、お腹を大きく膨らました。


「はぁ~。」


 と、黒狸が煙を吐く。と、煙が怪しくひとりでに動き、小さな鬼の形になり動き出した。


「あれは悲鬼ひっきぃといってな。「悲しみの鬼」と書く。秋にはよく出るんだよ。人の悲しみに呼応し、肺の気を奪う。肺は、悲しい気持ちが強すぎると、それだけで弱ってしまう。憑かれた人間は悲しみに捕らわれ、引きこもりがちになってしまう。そうやってどんどん悲しみのループにはまるんだな。」


「如何すれば、ばあちゃんを助けられるの?」


「そうさなぁ、そもそも悲鬼は人間の悲しみに寄り添っているだけなんだ。お前、あの祖母の悲しみを癒せるかい?」


まるで親戚のおじさんの様に馴れ馴れしく黒狸はたずねた。


 胡坐をかいた太々しい態度で、上半身仰向けになりパイプを咥えている。


 哉眼は両膝に両手を置き、落ち着きなく指を動かし、ズボンの布地を引っ張りまわした。


「…どうだろう、俺出来損ないだから。」


「出来損ない?」


自虐的な哉眼の物言いに黒狸は眉をひそめた。


「俺、夏休み明け、学校に行けなくなって、こっちに連れてこられたんだ。」


「そうだったのか。」


 哉眼は自虐的な物言いをしながらも、慣れた調子で自分の事情を説明していた。


「親父もお袋も、本当に思い合ってたわけじゃ無い。世間体の為に結婚して、間に合わせで俺が生まれただけ。形だけで中身がない。だから、お袋も他の男と出ていったんだと思う。俺はそんな出来事の結果だよ。空っぽで中身がない。」


「そんな言い方するな!!」


 直情的な怒りが黒狸の全身を奮い立たせた。


 黒狸の全身から黒い煙が湧いて出たかと思うと、突然5メートルもの巨体に早変わりする。


 哉眼は驚いて石からずり落ち、尻餅を着いた。痛いと感じる余裕も無く、目の前の巨大生物に恐怖した。


 黒狸は巨大化して尚、怒りが収まらないらしく、大きく膨らませた腹をヘビメタのドラム並みに激しく、瞬速で叩いた。首を三百六十度回しながら、口から火を吹き、雄たけびを上げている。


 すると公園の草の影から、わさわさと数匹の服を着た珍妙な狸たちが現れた。


 数匹の狸達は巨大な黒狸のまわりに集まると、ぽんぽこぽんぽこ腹太鼓を叩き、声を上げながら踊り始める。


 するとまた、石垣の影から、野球服の子狸達が現れ、踊りに加わった。


 するとまた、木々の影から、テニスウェア姿のメス狸達が現れ、踊りに加わった。


 するとまた、どっかから、パンクな服装のピアスをした狸達が現れ、踊りに加わった。


 公園はもう、狸、狸、狸、狸、狸、三十匹近くの狸が集まってマイムマイム宜しく、火を噴く黒狸をキャンプファイヤー代わりに囲みながら、くるくる回り踊っている。


「お前も踊れ!」


 ピアスを付けた見知らぬ狸に哉眼は手を引かれ、よく分からないまま踊りの輪に加わった。


 よく分からない状況に、反発したい気持ちを押さえながら、哉眼は見様見真似で踊った。


「どうだ、哉眼。悲しいい気持ちが無くなっただろう。」


 三十分くらい踊ったところで、何故か誇らしげに黒狸は言った。


「そうですね。何だかくだらないことをしたら、悩んでいた事もくだらなく感じて来ました。」


 黒狸の巧みな腹づつみが終わると、狸達は思い思いに立ち去って行った。


「どうせくだらない事をするなら、自分も周りも楽しめる事をしろよ。お前も狸の端くれ何だからな。」


「狸?」


 その時やっと哉眼は自分の異変に気が付いた。自分の両手を見ると毛むくじゃらになっている。


 飛び上がって驚き、水辺に向かうと、そこに映っていたのは月明かりに照らされた狸だった。


「何んだこれ!?どうなってんだ!!?」


 哉眼は慌てふためき、何度も飛び上がった。


 普段は無い身体の跳躍力に、目にした自分の姿は幻でなく、現実だと分かる。


「だいたい、人間が人間だけでこれだけ増えるわけないいだろ。夜更かしが好きな奴はだいたい化け狸か化け狐の血が混じってるんだよ。」


「俺もそうだって事?」


 哉眼は毛むくじゃらの自分の体を両手で触りながら確認している。


「何、珍しい事じゃないさ、人間の身勝手な開発で、住む場所を追われた者たちは、人間に成りすまして生きるしかなかったんだ。」


「いやいやいや!そんな事より、俺のばあちゃんを助けてよ!今みたいに巨大化出来たり、火を噴いたりできるなら、鬼の一匹くらい倒せるはずでしょ!?」


「いやぁ、それは出来ん。」


 黒狸はしょんぼり項垂れた。かと思うとそのまましぼみながら、元の大きさに戻っていく。


「何で!?」


「わしはここいらの狸の大将だ。狸やその子孫を助けられても、人間は助けられない約束だ。」


「何それ!誰が決めたの!何で!?」


「人間は化け狸の力を悪用する危険があるからさ。人間の身勝手は自然破壊を招く。わしはそういった問題が怒らないように、狸達及び狸と人間の合いの子を保護し導く役割なんだ。」


「じゃあ、じゃあどうすればばあちゃんを助けられるのさ。」


 哉眼は肩を落とした。


「人は有って『七癖』と言うが、それが悪癖になると、だいたい病に移行する。その悪癖は快楽主義な食べ過ぎだったり、出世欲からくる頑張り過ぎだったり、プライドの為の意固地が過ぎたりする事で起こる。そうして自分の中に変なしこりをつくるんじゃ。それが病の邪気や鬼を寄せ付ける要因になる。最初は、あのばあさんも正義感が高く気骨な女だったのかもしれん。しこしどんどん意固地になって誰に対しても気を許さず、攻撃的な態度で出るようになったんだろうな。だから、みんな気遣い疲れをして、離れて行ってしまったんだよ。同年代の友人ならそんな彼女のプライドも理解してたのかも知れないが、良い奴は人間も獣も先に逝ってしまうもんじゃのう。」


 長々と話す黒狸の話を聞きながら、哉眼は数少ない、祖母の情報を脳裏で寄せ集めた。確かに哉眼の祖母は物言いや性格や目つきがキツイが、悪い事をする人ではない筈だ。


「…しかし、助けたってあの老婆はもうもって2,3年の寿命だぞ。」


 黒狸の言葉に哉眼の眼は意図せず鋭くなる。自分とてさっきまで祖母を煩わしく思っていたというのに。


 黒狸は哉眼の反応に気づいているのか、いないのか、ただものおげな顔で月を見上げた。


「見ろよ、あの真ん丸お月様。月言うのは『天の目』なんだ。だから目が閉じたり開いたりするみたいに形を変える。天に召されるその日まで俺達は見張られている。あのばあさんだって天に召されれば、それなりの采配は受けられるだろうさ。」


 頭ではこの相手が助けてくれたのだと分かっているのに、抑えようとするほど、狸になった哉眼の体が震えた。


 獣になったせいだろうか。顔を伏せ歯を食いしばっても喉の奥が唸るのを止められない。


(今相手に飛びついてしまったら本当にこのまま獣になってしまう。)


 そんな予感が哉眼の頭を横切るも、体の震えを押さえるのにだんだん、いっぱいいっぱいになり、人間の思考回路が薄れていった。


 黒狸は哉眼のそんな様子に体ごと向き直ると、目元にシワを寄せて微笑んだ。


「人間の家族も学校も嫌になったんだろ?このまま狸として暮らしたらどうだ?わしとしては若い狸が増えると助かるから迎えに来たんだ。」


 黒狸は哉眼の目を覗き込みながら、パイプを手に意地悪く右の口端を上げた。


「この腹黒狸!」


「ふ~んだ。全身黒いもんね。」


 黒狸は哉眼にお尻を向けて尻尾をふった。


 あからさまな長髪に哉眼は唸りながらその尻尾に飛びつく。が、あっさり尻尾の先っぽで掃われてしまった。


 哉眼は地べたに着地すると、再度飛び掛かろうとした。


「悲しみを笑い飛ばしておやり。」


 黒狸の言葉に一瞬で哉眼の身震いが去り、その場にお尻を付いて座った。


「悲しみは何かを“喪失”した時に起こる感情だ。何も失わないで生きるなんてありえない。だから失ったモノを忘れられるほど、幸せな思い出を一緒に作ってあげなさい。」


 哉眼は何時の間にか人間の姿に戻り、すすり泣いていた。


「家へついて来てくれませんか、黒狸さん?俺が襲われたら、祖母を助けられない。どうか俺を守ってください。その後で、俺を狸にするなり、何なりとして下さい。」


「黒狸じゃない。大黒だいこくだ。」黒狸はそう名乗るとにかっと笑った。


 哉眼が大黒を連れ、祖母の家へ帰ると、家の周りの赤い菊が風にさらされ、世話しなく揺れていた。


 哉眼が数本赤い菊を摘み、家へ入る。


 すると家の中は悲鬼が吐いたであろう茶黒い霧が充満していた。


 奥から咳をしながらすすり泣く声が聞こえてくる。


 「ばあちゃん!どうしたの?」


 あの気丈な老婆が泣いている事に驚き、哉眼は廊下を慌ただしく走り、音を立て襖を開け祖母の部屋へ入った。


 祖母の部屋は一際霧が立ち込めていた。霧の中心に隠れて見えないが、泣いているのはやはり祖母だ。


「ばあちゃん、何がそんなに悲しいの?」


 霧を掃いながら祖母の側まで近づこうとするが、目の前を覆われしまい、中々進めない。


 一方再び悲鬼に憑りつかれ、布団に沈み込むように項垂れていた祖母は、突然帰って来て騒ぎ立てる哉眼の音に、声に苛立った。


「うるさいよ!」


 もともと静かだった部屋に、別種類の静けさが加わり、更に空気が重くなる。


「…ごめんなさい。」


 哉眼はどうする事も出来なくてただ謝った。


 祖母には立ち込める霧が見えているのかいないのか哉眼には分からなかった。ただ照明を点けていない部屋は、重々しい闇で部屋を満たしてる。


 次第に老婆の苛立ちが、またすすり泣きに転じていった。


「立ち退きを強哉眼されても、夫が蒸発しても、息子たちがここに寄り付かなくなっても、ずっとこの家を守って来たけれど、何の意味があったんだろう。近所の友人達も殆ど亡くなって、もう本当に私は独りだわ…。どうせ、お前だって嫌々来たんだろ!」


 何処か縋るような声で祖母はまた泣き始めた。


 再び茶黒い霧が濃くなっていく。そして家中に響くほど祖母の咳は一層酷くなった。


 哉眼は大きく深呼吸した。


 そして意を決して照明のボタンを押す。


 両手に赤い菊を持つと大きく空を扇ぎ、踊り歌いだした。


「月が出た、出た、月が出た。よい、よい。」


 哉眼がお道化ながら歌い踊ると、赤い菊で掃うように霧を煽った。


 祖母は哉眼の歌につられ、俯いていた顔を上げると、孫の姿を見て目を見開いた。 


 祖母は哉眼のその姿を見ると「ふふふ」と口に手を当てて笑った。


 悲鬼も珍しそうに、祖母の背中から哉眼を覗き見る。


 すると、立ち込めていた霧がだんだん薄まっていった。


 哉眼は泥を目の周りに塗り、狸のような顔になっていた。


 祖母と目が合うと、気恥しそうに笑ってから、哉眼はまた踊りす。


 お道化ながら腹鼓をしステップを踏む。それは狸の腹太鼓を表してるのだと分かる。


 しかし恥ずかし気に踊る哉眼の踊りは、覚束なく強張っていて、踊と言うには粗末で、お遊戯と言うには可愛げが無い。


「ああ…。」


 それでも、必死に踊る哉眼を見て、祖母は自分を笑わせようとしてるのだと気が付いた。


「月が出た、出た、月が~でた。」


「よい、よい。」


 祖母は哉眼の上擦った歌声に合いの手を入れると、立ち上がり哉眼の横に立ち踊り始めた。


「もっと腰を立てて踊るのさ。」


 祖母はそう言うと一輪菊を哉眼の手から取り、厳かに掲げて舞い始めた。


 線の細い祖母は、筋の一本通った柳の様に、力強く直立しながら、緩やかに大手を振った。流れる様に長い指先が蔓の様に宙で遊ぶ。


 そこには鋭く痛々しい老婆の姿はなく、艶のある高貴な女性がいた。


 「美しいなぁ、いくつになっても。」


 何故だか大黒が祖母の舞を見ながら涙を流していた。


 「ばあちゃん、綺麗だね。」


 そう哉眼が言葉をもらすと、布団に座り込んでいた悲鬼がのっそり立ち上がった。


 哉眼が身構え、悲鬼に向き合う。


 しかし悲鬼の空虚だった瞳には、涙が滝の如く溢れていた。


 哉眼は呆気に取られあんぐりくちを開ける。


 悲鬼は長い手足をくるくる回しながら、祖母の周りを跳ね、一回りすると、哉眼に向かって腕を伸ばし、両親指を上に立て、奇妙な声で笑いながら消えてった。


 すると祖母がこと切れたようにしゃがみ込み床に手を着いた。


「ばあちゃん!?」


 慌てて崩れる体を哉眼が支えた。


 如何やら祖母は眠っただけらしく、哉眼は安心して、祖母をそっと布団の中へ入れた。


 気が付くと何時の間にか、大黒も姿を消していた。


 その次の日、哉眼が並々公園へ行くと、当たり前のようにそこは人で賑わっていた。


 昨晩の事は夢だったのかもしれないと哉眼は思った。


 寝て起きてしまうとそれが当たり前だと感じ始める。


「おい!」


 思考が普通の日常へ移行しかけていた。その束の間。大黒の真っ黒なお腹が哉眼の顔面に飛び掛かる。


「すいません!すいません!」


 哉眼が叫ぶと大黒は石に着地し足を組んだ。


「見ろよ、朝がくれば昨晩狸だったことなんか、みんな忘れちまうんだ。」


 大黒は思い思いに公園で過ごす人々を見ながら言った。


「つまり、昨日の服を着た狸達は、普段人間として生活している、近所の人たちだったんだね。」


 哉眼はここが緑の多い都下とは言え、何故あんなに狸が集まったか不思議ではあった。


 ただ昨日はそんな事推測する暇も無い、目まぐるしい日だった。


「そうさな。普通の奴なんてそういない。だからお前もそんなに真面目に人間やろうとしなくて良いんだぞ。」


 大黒はまた右口端を上げ、へへへと意地悪く笑った。


(もしかして、このまま俺は狸にされるのかな?)


 哉眼がそう思った瞬間、横から人が入って来た。


「お前、狸と喋ってんの?」


 気が付かなかったが大黒と喋っている哉眼に気づき、人が側に寄って来ていた。小学生ならまだ良いが、哉眼の年頃にはかなり恥ずかしい。


 声を掛けて来た相手を見ると、相手は哉眼と同じくらいの身長で同じくらいの年齢に見えた。が、相手は筋肉質でガタイが良く、線の細い哉眼とは印象が対照的だ。顔は釣り目で金色の髪の毛がウニのようにつんけんしてる。そして耳にはピアスを空けていた。


「あ」


 哉眼は声を掛けて来た少年のピアスに見覚えがあった。


 昨日、狸のマイムマイムの輪の中に、自分を引き入れた狸が付けていたものと同じ物に見えた。


 少年は哉眼が声を上げた事に首を傾げるものの、哉眼がそれ以上何も言わなかったので自分の要件を切り出した。


「お前、暇ならフットサルのチームに入ってくんない?今奇数になっちゃってんだ。」


 如何やら彼はフットサルの人数が足りず、暇そうな哉眼に声を掛けて来たらしかった。


「良いよ、そんなに得意じゃないけど?」


「いいさ、みんなでやるって事が大事なんだ。おれ徳人、お前は?」


「おれは、哉眼」


 徳人がコートの方へ哉眼を促した。


 哉眼は一歩踏み出すも、一度後ろを振り返る。と、もう大黒の姿は無かった。


 その後、哉眼の祖母はもの凄く元気になった。それだけでなく、家の一階を改装し、喫茶店を始めた。哉眼もそれを手伝った。


 今思うと、自分は幸運だったと哉眼は思う。


 ここに来なければ、通信制高校に通いながら、喫茶店を切り盛りし、バリスタや簿記等の幅広い資格を取得する事は無かっただろう。


 








 哉眼は一刺し舞終わり、月に向ってまた一礼すると、寒空の下、ずっと自分を見守っていた徳人に尋ねた。


「二十歳過ぎたらただの人。さぁここからどうするか?」


「それって、自分が優秀な事分かってる奴の物言いだよな。」


 まだべそをかいてる徳人を見ながら、哉眼は右口端を上げ、へへへと意地悪く笑って見せた。

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