第48話  久平の選択

 米問屋の番頭として働いていた久平にとって、増子は高嶺の花のようなお嬢様。顔立ちは母親に似て凛とした美しさがあるし、いずれは大店の御寮人さんとなってもおかしくない品のようなものを感じさせる。


 戦争さえなければ増子は辰三の伝手を使って何処かの店の奥方として迎え入れられていただろう。ただ、日本が朝鮮までわざわざ戦争に出向いて行ってしまったから、戦後となっても不景気は酷くなるばかりで、米屋の存続自体が危ぶまれるようになったのだ。


「久平、私は店を畳んでブラジルに行こうかと思うのだが、お前、増子と世帯を持つつもりはあるか?」

 ある時、辰三に呼び出された久平は、主人からそんなことを言われたので、思わず生唾を飲み込んだ。


 久平は店で働く者の中でも人品が良いと言われることも多く、女からの人気もそれなりに高い。増子が戯れに久平に興味を持ったのもこの頃のことであり、二人は恋の駆け引きを楽しんでいる最中でもあったのだ。


「増子と世帯を持つ気があるのなら、二人を夫婦にしてやろう。ブラジルに一緒について行きたいと言うのなら、一緒にブラジルについて来られるように手続きをしてやろう」


 辰三は煙管でタバコを吸いながら問いかける。

「もちろん、神戸に夫婦二人で残ると言うのならそれなりの餞別はくれてやる。お前は一体どうしたい?」


 正直なことを言えば、久平はこの時、増子と夫婦になりたいとは思っていなかった。彼女が我が儘で幼稚な人だと分かっていたし、美人と戯れに遊ぶことを楽しんでいただけで、将来的にどうのとなど考えたこともない。


 だけど、目の前の主人は久平に、増子と夫婦になると言うのなら『金持ちになれる!』と言われるブラジルまで一緒に連れて行ってくれると言っているのだ。


 辰三はブラジルに行くことは決めているというし、異母弟の徳三も共に行くと言っている。何やら底知れない恐ろしさを醸し出す徳三が一緒だと言うのなら、ブラジルが遥かに遠い国だと言っても何とかなるのではないだろうか。


 金のなる木(珈琲の木)の面倒を3年みるだけで大金持ちになって、故郷に錦が飾れると言うのなら、少々性格に難がある増子を嫁にしたとしても、お釣りが返ってくるに違いない。


 美しい増子は今の自分には手に負えなくても、自分が金持ちとなれば問題ないのではないだろうか。そもそも、辰三が常に身近にいるような生活となれば、彼女も今よりは分厚い猫をかぶって過ごすに違いない。


「辰三さん・・ああ・・辰三さん・・」

「逝かないで・・辰三さん逝かないでちょうだい・・」


 ブラジルに渡って一年と数ヶ月後、マラリアに罹った辰三が日に日に弱っていき、遂には息を引き取った。このときには多くの日本人労働者が、辰三の枕元に集まった。


 日本政府や移民公社が言っていたことは全て嘘で、待ち構えていたのは想像もつかないような低賃金での労働生活。ブラジルまで来てしまった日本人たちが絶望に打ちひしがれる中、日本人たちを引っ張ってまとめ上げたのが辰三だったのだ。


 今では日本人のまとめ役と言えば徳三になるけれど、当時は表のまとめ役が辰三であるのなら、裏に回って差配を振るうのが徳三の役目。腹違いの兄弟は互いを支え合うようにしてブラジルの珈琲農場で日本人の地位を高めるために尽力をした。


 辰三が亡くなった時に、徳三が久平を呼び出して問いかけた。

「これからは兄さんが居ない家で、お前は家長としてやっていく自信があるのか?家長として女三人をまとめるつもりがお前にはあるのか?」

 死の間際に、辰三はお前に任せると久平の手を握りながら言ったのだ。

「もちろん、義父の代わりに今度は僕が家族を支えていくつもりです!」

「本当にお前にそれが出来るのか?」

 徳三は蛇のような目で久平を見つめながら言い出した。


「今だったら正江さんは妻を失った家に後妻として出すこともできる、珠子も面倒見の良い家へ嫁に出すことも出来るだろう」

「義父さんが亡くなったばかりですよ?そんなこと出来ませんよ!」

「そうか、お前にはその覚悟があるんだな」

 そう言って徳三は皮肉な笑みを浮かべたが、後から自分の選択を間違えたと久平は痛感することになったのだ。


 辰三が亡くなって以降、頭を押さえつけていた重石が無くなったようで、正江と増子の親子は迷いなく我を出すようになったのだ。一家の主人は久平となったはずなのに、二人は久平のことを立てることもせずに、時には使用人のようにも扱った。


 農場での労働も自分たちは最低限のことしかせずに、珠子と久平に任せる始末。これで家の中のことでもやればまだ良いものの、家の中のことは相変わらず珠子に任せ切って自分たちは何一つ行わない。


 ここはブラジルだというのに、まるで米問屋の女将のように、御寮人のように振る舞う二人に嫌気がさす。だからこそ、隣の百合子さんのところへ逃げだすようなことにもなったのだ。百合子さんは、

「辛かったらいつでも遊びに来ても良いのよ?」

 と言ってくれたし、百合子の夫である源蔵が亡くなった後は、

「久平さんだけが頼りなの」

 と言って、久平の胸元にしなだれかかって来たのだ。


 まさか、自分に何の相談もなく百合子さんがサンパウロ中央都市行きを決めるとも思わないし、あっさり捨てられることになるとは思いもしなかったのだ。


「だったら、増子さんは捨てちゃって、珠子ちゃんと一緒になったら良いんじゃないの?」

 そう久平の耳元に囁いたのが雪江だったのだ。

「珠子ちゃんはね、今までお姉さんの旦那様でもある久平さんのことを密かに思い続けていたのよ」

 久平だって、義妹の珠子が自分にカケラも興味を持っていないことは知っている。珠子と久平は、我儘な親子にこき使われる同志のような存在で、二人の間に仄かな愛情なんてものなんかチリほどもないのは知っている。だけど・・

「今の家は捨てて、珠子ちゃんと二人で空き家に住んだ方がよっぽど良いのじゃないかしら?」

 雪江の声は久平の耳の中で甘い誘いとなって響き続けた。


「女はね、体を開けばその相手のことを結局は憎からず思ってしまうものだもの。久平さんになら手を出されても、珠子ちゃんも悪い気なんかしないわよ」

 今の生活につくづくうんざりとしていて、ここから逃げ出したくて仕方がない。だからこそ、

「だから、ね。自分のものにしておしまいなさいよ」

 雪江の言葉に乗せられるようにして動いてしまったのだ。


 もしかしたら、奥多摩の幼馴染とかいう松蔵に珠子を奪い取られるかも知れないという焦りを感じていたのかも知れない。奴が森に潜っているというのなら、今がチャンスだと考えたのも間違いない。


 増子が深く眠っているのを確認して、こっそりと珠子が寝ている土間へと移動をした。結局珠子だって憎からず思ってくれているのだから、きっと受け入れてくれるのに違いない。


 何を考えていたのかな。

 ちょっと考えてみれば分かったことなのに、結局、激しく抵抗された末に逃げ出された。連れて帰ろうとも思ったけれど、松蔵に見つかって半殺しの目に遭った。そして、最終的に、自分だけがこの家に残ってしまったのだ。


「ねえ!久平さん!ご飯の用意をしてよ!」

「洗濯は?」

「着るものが何もないんだけど!」

「早く用意してよ!何もないじゃない!」

「うるさい!うるさい!うるさい!」


 松蔵に半殺しの目に遭った久平は、その日から寝床にこもり続けて、二人の言葉は一切無視して過ごすことにしたのだった。腹が減れば夜中に外に出て果物でも摂って食べれば良いし、最悪、魚でも釣って焼いて食べれば良いだろう。


 そうだよ、もう、珈琲農場で働からなくても良いじゃないか。契約も後数ヶ月で終わるし、契約が切れたら中央都市を目指そう。きっと百合子さんも待ってくれているはずだから、きっと・・きっと待ってくれているはずだから。

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