第32話 信子の予感
珈琲農場で働く人間は、入り口の門の柱にぶら下がっている鐘で時間を知る事が出来るようになっている。
朝一番の鐘が夏の時期は朝の4時、出勤の鐘が朝の6時、昼食の鐘が9時、これは冬の時期になると10時となる。そして午後のカフェの鐘が14時に鳴らされる。17時に夕食の鐘が鳴って休憩が入り、日暮れには監督官がブジーナと言う名前の角笛を吹くことによって帰る合図が知らされる。19時前後で今の季節は日が暮れることになるので、夏の時期は働く時間がより長い。八月、九月の冬の時期になると日照時間が短くなるため、早く帰ることが出来るようになるわけだ。
ブラジルは南半球にあるため、二月は真夏の季節ということになる。八月は冬ということになるけれど、雪が降るということはあまりない。ブラジルには標高が高い山というものはあまりないのだが、冬になれば山頂付近に雪が降ることもあって、その雪が風に飛ばされることによって街中まで飛んで来ることがあるくらい。
平日は珈琲を収穫するために重くて大きなザルをふるって珈琲豆と土やゴミとを振り分けなければならないし、かなりの重労働にもなるわけだ。土曜日も半日働けば、午後から畑に出なければならない。ブラジル人にとっては休息日となる日曜日にも、日本人は畑まで出て働かなければならない、これは所謂、同調圧力という奴になるのだろう。
「ふーっ」
信子はため息を吐き出しながら、目の前で繰り広げられる雪江と美代の悪口大会を眺めていた。
「増子さんも大変なのよ〜」
「本当に、いつでも態度が悪いわよね〜」
「自分は何もしないくせに」
「だから男に捨てられるのよ」
「ちょっ・・そんなこと言わないで!まだ捨てられてないし、増子さんだって大変なのよ」
二人の悪口なんか放っておけば良いのに、人の良い和子が二人の悪口をやめさせようとして割って入ろうとしているのだから呆れてしまう。
そうこうしているうちに、無駄話はやめて畑を手伝うようにと家族が声をかけてきた。仕方がないので家族の方へ戻ろうとしていると、背中から雪江が小さな声で囁くように、
「何も意見を言わないのね、本当に金魚の糞みたい」
と言ってきたのだった。
年上の雪江が信子のことを『金魚の糞』とあだ名していることは知っている。ごくごく稀に、
「ちょっと!金魚の糞!」
と、呼ばれることがあるからだ。美代や和子がいない時に言ってくるので、わざとだとは思うけれど、彼女に対しては特に何も言わないし思わない。相手にしたところで意味がないことを知っているからだ。
この世の中は、口を開いただけ災いが訪れるような気がしてくるから不思議だ。だからこそ、信子は自分からは話さない。周りがおしゃべりをしている内容に耳を傾けて、
「そうなんだ」
「うん、うん」
と、相槌をうつ程度でお茶を濁し続けている。
六人兄妹の末っ子として生まれた信子は、物心ついた時から黙ってついて行くことを選んでいるような子供だった。言ったところで仕方がない、六人兄妹の末っ子とはそんなものだと理解している。あんまりにも自己主張をしないものだから、
「信子は大人しい子だから」
「俺たちが面倒を見てやらないといけない子だから」
と言って、兄や姉が世話をしてくれる。
大きな戦争に日本が助太刀に行ったとか何とか話には聞いていたけれど、結局、戦争後には不景気がやってきて、その煽りを喰らった父親が失業することになったのだ。その時には移民公社の話で持ちきり状態となっていたため、
「大金を稼ぐぞー!」
と、父が言い出した時には、信子はつくづく落胆することになったのだ。
ブラジルに行ったらすぐさま大金持ちになれるというようなことを言われたけれど、胡散臭いにも程がある。本当に金持ちになれると言うのなら、日本の富裕者層が我先にと船に乗り込むのに違いない。
貧乏人でも家族であるのなら渡航費無料で行けるというのだから、怪しいにも程がある。だけど、信子が何かを言ったところで家族の誰かが聞くわけがない。そうこうするうちに、
「俺たちは別に行かなくていいや」
と、二人の兄が言い出した。
二人ともすでに仕事についているし、恋人だっている。結婚だって考えているから、いくら不景気だといっても自分達はブラジルには行かないと宣言したわけだ。
結局、残った家族六人でブラジルまで来てしまったけれど、父の思惑通りに『大金持ち』とやらにはなれそうにない。給料は安いし、日々の生活を送るのもやっとの状態で、日本に帰るための費用を捻出することなど夢のまた夢だ。
「「「「はーー〜―」」」」
こんなはずじゃなかったのに・・と思っているのは信子の家族だけではなく、日本人労働者全員の意見だろう。ただ、家族の中でも姉だけは一人だけ幸せを満喫していた。それは何故かと言うのなら、同じ船でブラジルまでやって来た上に、同じ農場に配耕となった日本人男性と恋仲となり、知らぬまに深い仲になり、なんだかんだ、親たちに文句を言われながらも無事に祝言をあげることになったからだ。
結婚をした姉は双方の家の近くにある居住区の空き家に居を構え、姉は現在、お腹も大きいため外作地までは出て来ていない。日本人家族は嫁のお腹が大きくなったとしても酷使し続ける傾向にあるのだが、無理が祟って外作地で出産。子供は死産の上に肥立ちが悪いまま嫁も亡くなる・・ということがあってから、ブラジルでは無理は禁物と誰しも思うようになっている。
何せ田舎の農場なので、近くに医者がいる訳じゃない。本当に医者にかかりたかったら街まで歩いて行かなくちゃならないと言うけれど・・
「「「「無理」」」」
というのが大方の意見だったりするわけだ。
外作地での畑仕事は日暮までやらなくちゃいけないというわけではないので、雑草を抜いたり野菜を収穫したりして帰ることになるわけだけど、現在、日本人女性たちに一番注目を浴びている神原松蔵氏が、日本人のリーダー的存在である粕谷徳三氏と何かを話している姿を信子は目撃することになったのだ。
どうやらどの辺りにどんな獣が出るのかという話をしているようで、通りかかった珠子が声をかけられて、何やら質問されていることに気が付いた。
この農場で一番の現地密着型といえば粕谷珠子嬢になるだろう。何やら盛んに話をしていると、その後ろの方で姉の増子が憎悪に燃える瞳で珠子を睨みつけている。
「こっわ!」
思わず口に出してしまった信子は、ブルブルッと身震いすると、慌てて抱え込んでいた雑草を藪の中へと放り捨てたのだった。
粕谷家には女性が三人いるけれど、偉そうにしている割には母も姉も、何も出来ないし、怠惰なだけで文句ばかりが多いということを、みんながみんな気が付いている。家事の一切を任されているのは珠子だし、母や姉から苛烈な虐めを受けているのも知っている。
誰もが助けてあげたいと思いながらも、言葉も通じないブラジルの片田舎までやって来て、自分自身の余裕が全くない。なんであんなことまで言われなくちゃいけないんだろうと思うし、助けてあげたいけど、助けられない。一言、文句でも言ったら即座に騒動となるのは目に見えているからだ。だからこそ、信子は忸怩たる思いで今まで珠子に接していたのだが・・
「・・・・」
神原松蔵氏が睨みつける増子の視線から庇うように珠子を移動させて、日本人リーダーの徳三氏の近くへと誘導している。何でも彼は珠子や増子とは同郷の幼馴染だというから、歪な親子関係には昔から気が付いているのかもしれない。
信子は、自分を呼んでいる母の方へと早足で戻りながら大きなため息を吐き出した。
何かを声に出して言うつもりはないけれど、特に性格が悪い雪江、美代、増子は、孤高の珠子のことが大嫌いなのだ。
人は殺されるし、よく分からない金の棒は発見されるし、みんな、忘れようとはしているけれど、どこかに金があるかもしれないと考えない日はないのは当たり前。みんながみんな金持ちになりたいし、故郷に錦を飾りたいと考えている。
「なんだか悪い予感がするんだよな〜」
一人呟きながら信子はもう一度、大きなため息を吐き出した。ちなみに信子の予感は良く当たるのだが、口に出して誰かに言ったことは今まで一度としてないのだった。
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日系移民の方の話というのを度々聞いたことがあるのですが、その方のおばさんというのがブラジルで妊娠されて、山に蕨取りに行っているときに産気づいて、近くにあった小屋でたった一人で出産されて夕方近くに赤ちゃんを連れて一人で下山して来たって言うんですね。マジすか、すご・・エピソード。いや、日本人女性は本当にタフだと思います。ちなみにブラジルでは(山のほうに行くと)蕨がそりゃあ沢山生えてます。醤油漬けにして食べるととっても美味しいです。
ちょっとこちらのお話、一時停止します。すぐに戻って来ますので、気長にお待ち頂ければ幸いです!!
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