第20話 神原松蔵の場合
僕は少年兵として出兵することになった時、同じ並びにある温泉宿の子供である珠子ちゃんはまだまだ小さな女の子だった。お母さんとお姉さんに毛嫌いされているような可哀想な子で、無関心なお父さんが相手にすることもない放置された子。
度々、うちに遊びに来てはご飯を食べていくことも多かった小さな女の子。それが珠子ちゃんで、あの小さな女の子はどうなったのだろうかと思い出すことも多かった。
巨大すぎるほどの大きな国であるロシアを相手取って戦争を始めた日本だけど、ラッキーなことに敵国のゴタゴタが大きくなったことが理由で、多くの同朋を失うことになった戦争は終わりを迎えることになったわけだ。
満州から移動をした僕は船に乗り込み、無事に祖国への帰還を果たした訳だけれど、戦後の不景気の煽りを受けて実家も倒産。奥多摩の片田舎から東京へと出て来たわけだけれど、帰還兵が職を探すっていうのが本当に難しい世の中だったんだ。
「松蔵くん、ブラジルって国を知っているかい?」
そう声をかけて来たのは同じ部隊に所属していた上官で、
「銃の故障を直したり、整備が出来る人を募集しているらしいんだよね」
と、言いながら、ブラジルでの労働者募集の案内を僕に教えてくれたわけだ。
元々、家が奥多摩にあるということで、猪やら鹿なんかを狩猟してお客に出していたところもあるから、銃の取り扱いはそれこそ子供の時からやっていたようなところがある。
「農場の方で害獣が出て困っているところがあるらしくって、そんな農場を回って日本人の安全を図るって言うんだけどね?」
「ブラジルの労働者って家族揃ってじゃないと行けないんじゃなかったですか?」
ブラジルへ労働者として渡伯するには家族連れが条件であり、個人で行くには渡航費が必要だという話は聞いたことがあったのだ。
「今回の場合は試験的に銃が扱える日本人を送り込むということなんで、費用は向こうが全額負担してくれるらしい」
「へーそうなんですか」
「片道切符になるかもしれないけれど、君、外国人と接するのが好きみたいだったからどうかなあと思ってさ」
今回の戦争では朝鮮半島や満州にまで多くの日本人が送り込まれることになったのだが、日本人は日本人同士で固まるのが常で、現地の人々との交流というものは最低限しかしないようなところがあったわけだ。
そんな中、僕は結構積極的に現地の人から情報を拾って歩いていたので、その辺りを上官は覚えていたようだったんだ。
「日本に居てもジリ貧ですし、ここで知らない国に渡ってみるのも面白いかも知れませんね」
「そうでしょう?君だったらそう言い出すと思ったんだ」
そんな訳で、僕は船に乗ってブラジルまで移動することになったんだ。
サントス港という港の近くにある建物に一旦移動をした後に、僕は山倉と名乗る通詞と共に、今の所一番害獣による被害が出ていると言われている農場に移動することになったわけだ。
まさかそこで、殺された遺体を発見することになるとは思いもしなかったし、まさかそこで、同郷の幼馴染である珠子ちゃんに出会うことになるとは思いもしなかったんだ。
「松蔵さん!松蔵さん!」
今日は珠子ちゃんの家が担当している珈琲の木の収穫作業を手伝った後、珠子ちゃんの家で食事をご馳走になることになったんだけど、相変わらず珠子ちゃんが、お母さんお姉さんに虐げられているようで、胸が痛む思いで居たんだ。
食事も一緒に食べられず、一人で外に置かれた丸太に座って食べているし、寝床は猫の子に与えられたような部屋の隅に置かれた粗末なもので、この娘はブラジルに来てまでこんな扱いを受けているのかと胸が掻きむしられるような思いをすることになったんだ。
どうしてくれようかと思っていた所で、隣の家で騒ぎが起こり、増子さんの旦那さんという人に促されながら隣の家まで移動することになったんだけど、僕を案内するなりその旦那さんは逃げちゃうんだもんな。
珠子ちゃんときたら、今でも本当にどうしようもない人間に囲まれているんだなと思って、胃がキリキリと痛くなってしまったよ。
そんな可哀想な珠子ちゃんは、この騒動をおさめるためにブラジル人を呼んで来たんだ。彼女はどうやらポルトガル語が話せるらしい。本当に珠子ちゃんは逞しいよ。
そんな珠子ちゃんが、再び僕に与えられた家まで案内しながら言い出したんだ。
「松蔵さん!ビッショジペって話に聞いた?」
「何?ビッショジぺ?聞いたことがない名前だけど?」
「砂蚤とも呼ばれる虫なんだけど」
ブラジルには怖い虫が沢山いるとは聞いているけれど、その砂蚤(ビッショジペ)とやらもまた、人を殺すような恐ろしい虫ということになるのだろうか・・
「あのね、ビッショジペは畑に出ると、足の裏に必ず潜り込んでくる虫なんだ。まずは松蔵さんに虫の取り方を教えあげるね」
「虫の取り方?」
僕の家は居住区からは離れた場所にあるんだけど、その家の前まで到着した珠子ちゃんは、暗がりの中に転がっていた切り株を持ってくると腰を掛けながら靴を脱ぎ出した。
「ちょっと見ていてくれる?」
珠子ちゃんはそう言ってにこりと笑うと、ポケットから小さなナイフを取り出して、自分の足の先を膝に乗せる。足の指の先、爪の間に赤黒い点がぽつぽつと見えるのが、どうやらビッショジペとなるらしい。
「ここ、ここに赤黒い点が見えるでしょう?この赤黒い点の周りにナイフの先を突き入れて一周ぐるりとやると、こうやってこう、ほじくりだすとこれ」
薄い皮膚の下から出てきた米粒大の真っ白い物体、これを珠子ちゃんは指先で摘みながらランタンの灯りに照らすようにして見せている。
「これが蚤なの。白い袋みたいになっているこれ、この虫が爪の間や指の間とかに入り込んで卵を育てるの。これなんか中級だけど上級はもっと卵が大きくなっているんだよ」
「ほほう」
「上級のでかいのはね、お腹の卵を割らないようにして引っ張りだすのが大変なの。その時の快感・・これは是非とも試してみて!ただし、卵が途中で破けると痒いし爛れるしで大変な事になるから、そこは覚悟が必要なの」
「そんな覚悟ある行動はしたいとは思わないけども」
「ナイフでくり抜いた穴は石油で消毒すれば一晩で大概は穴がふさがるの。これは毎日、絶対にやらなくちゃならない日課なの、分かった?」
「そうなんだ・・」
実は僕は、カンテラに浮かびあがる珠子ちゃんの顔が美しく見えちゃったものだから、年甲斐もなく心臓がバクバク言っていたんだよね。
だけど、そんなことを大っぴらに主張しても碌なことがないのは分かっているので、気を取り直すようにして切り株に腰掛けながら、靴を脱いで裸足を自分の腿の上に乗せたわけだ。
「ナイフ貸そうか?」
「いや、持っているからいいよ」
僕がナイフをポケットから取り出すと、
「うっふっふ、松蔵さんも、そのうちビッショジペほりに夢中になる日が来るんだろうな」
と、笑いながら珠子ちゃんが僕の方を見上げる。
「ほら!ここ!入り込んでいる!」
「うわぁ・・本当だ・・」
確かに足先に見たこともない虫が入り込んでいた、靴をきちんと履いていたはずなんだけどなぁ。
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