第7話 (最終章)解放

第7章 (最終章) 解放





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 8月の終わりに何年振りかに中学時代の親友というか悪友の笹野から電話があった。

「元気か? まだ都心に住んでるのかよ。しょっちゅう女連れ込んでんだろう」相変わらずのやんちゃ坊主丸出しの雰囲気が伝わって来て懐かしかった。あの頃の仲の良かったメンバー数人で生きて30歳を迎えられたお祝いをしょうということになって、仲間の1人が働いてる六本木のもつ鍋屋で集まることになった。深田も来たがったが、男ばかりなので遠慮した。

 

 「早瀬、お前少し顔つきが鋭くなったんじゃね。なんかやばい薬かなんかやってんじゃねーだろうな。音楽関係はやってる奴多いんだろ?」

「そんなわけないだろ。笹野こそ顔中傷だらけじゃねーか。何したんだよその顔。」

「勲章だよ。俺ら鳶職は箔をつけておかないとな」

「相変わらず喧嘩ばっかりしてんのか?」

「運動みたいなもんだよ。これでも若いの30人使ってんだよ」

「ホントかよ。すげーな。経営者じゃねーか」

「まあ、そんな感じだ」

酔わないうちから盛り上がった。不思議と会って10分もしないうちに昔に戻っていた。

 あの頃よりも仲間が近くに感じた。職業も地位も関係ない昔のポジションに戻った。

「最近、たまに前田と飲み屋で会うんだよ。あいつ上司に媚びた情けねーサラリーマンやってるよ。昔より良い奴になってたけどな。あとで連絡来るよ。合流したいって言ってた。早瀬、あいつお前に会いたがってたぞ」かなり酔いはじめていた笹野が周りに迷惑な大声で言った。

「前田か?懐かしいなぁ」と俺は言いながらも、忘れるはずもない因縁のあいつの顔を思い出していた。

 早瀬は前田に鼻血を出されて負けた。そのことを深田にも伝わったことが情けなく悔しかった。他の奴にはどう思われてもよかった。しかし深田はそんな記憶は全然なく、まして俺を好きだった。俺だけが自己嫌悪に落ちてたわけだ。懐かしさがこみ上げ前田に会いたくなった。

 2軒目は昔ディスコだったというクラブバーでダンススペースがあり、3階がビリヤードのあるプールバーだった。少し遅れて前田が疲れた顔でやって来た。

「おーみんな久しぶり。早瀬、カッコよくなったんじゃね。飲もう飲もう。お前にはよくやられたからなぁ」

「何言ってんだよ。俺がお前にやられたんだろ?」

「良く言うよ。お前に殴られて折られて差し歯になった歯もまたぐらついてんだぞ。差し歯は10年持たねーよ」

「俺じゃねーだろ。笹野じゃねーか?」

「バカ言え。お前だよ。体育館横で、お前に倒されて殴られた時だよ。お前の鼻血が出てくれたおかげで止められたけど、俺の口の中は血でやばかった」

「もう良いじゃねーか昔のことは」と笹野が笑いながら言ってカウンターにテキーラを頼んだ。

「いや、全然根に持ってねーから。会いたかったよ早瀬」そう言って乾杯した。またまた俺だけの自己嫌悪がここにもあった。全てのことが心の中で晴れて来た。人間は些細なことを気にして生きている。それがとてつもなく心に影響を与え続けている。人によってはほとんどの人生をそうやって自分を自分で縛り続けて病んでいくのかもしれないと思った。しばらくそれぞれ仲間と昔話で盛り上がっていると、ビリヤード場の方から笹野の懐かしい啖呵が聞こえて来た。俺と前田、同じフロアーで飲んでいた仲間たちも集まって来た。

 笹野が5、6人いる相手に文句を言っていた。「笹野やめとけよ」と仲間の1人が言った。

 俺は相手を見て驚いた。Rバンドのメンバーがいた。ギターのドクもいた。

「お前がフラフラぶつかってくっからだろうが」と相手のおそらくRバンドのメンバーじゃない奴が言った。

「てめーらがこんなとこで固まってんのが邪魔なんだよ。クソガキ」と笹野が凄んだ。

ドクと多分ドラムのやつは女と腕を組んでいた。俺はAの殴られ顔を見たときの怒りがこみ上げて来た。酔っていたせいで、それに拍車をかけた。

「お前ら糞バンドは目障りなんだよ。ここから消えな。間抜け野郎」と俺が言うと笹野は先ほど文句を言ったやつの腹を蹴った。ドクの隣にいた女が「あんたたち誰だか知っててやってんの?」と粋がった。その勢いで笹野に腹を蹴られた奴が向かって来た。ドクや他の奴らも向かって来た。笹野も前田もまるで水を得た魚のように暴れた。俺はなぜか冷静にドクにパンチを繰り出していた。歯が数本折れた気がした。みるみる相手たちは倒れた。女の悲鳴がして従業員が駆けつけて来た。

「糞野郎。粋がってんじゃねーぞ。行こう」

と笹野の合図で出口に向かった。2人の従業員が追いかけて来た。

「おい君達。ちょっと待って」と言う声を振り切って出口を出た。従業員の1人は「防犯カメラに写ってるから必ず捕まるぞ」と大声で言ってきた。

「あほ、ただの喧嘩だ。喧嘩両成敗だ。ガキでもわかる。気分悪いから他で飲み直す」笹野がそう言って俺たちは表通りに出た。前田の知り合いが朝までやっている居酒屋があるとのことで2台のタクシーに分乗して渋谷に出た。

 その日はかなり飲んだ。前田は結婚すると言い出し、笹野は半同棲してる女がいると言い、話が大盛り上がりになった。

「早瀬も女いるんだろう?」と前田に言われ、俺も酔った勢いで「深田香と付き合ってる」と言ってしまった。

その場にいた全員の会話が止まり注目した。

「あの超可愛かった。同じクラスの深田?」と笹野が突っ込む

「そう」

「いつから」全員が俺と笹野のやりとりに注目していた。

「3ヶ月前かな」なんとなく再会した経緯を話す羽目になった。

「じゃ次回は女連れで飲もう。いや楽しみだな」

 そんなことで結局朝方みんなと別れた。しかし笹野とはその2週間後六本木警察で会った。


    34


 「警察から電話があった。実は先月も喧嘩して事情聴取受けてたから防犯カメラですぐに面割れたんじゃないかなぁ。喧嘩両成敗だし、大したことないよ。お前らのことは喋らないから大丈夫だ」

「お前もやるなぁ。俺に相変わらず喧嘩ばっかりしてなんて言いながらお前もじゃねぇか。いつ警察に行くんだ?」と笹野が聞いた。

「明日、会社の上司に報告してから行くよ」

「会社は大丈夫なのかよ」

「大丈夫だと思うけど、一応覚悟はしておくよ」 

 笹野との電話を切ってからフライトで海外にいる深田に、帰ってきたらこの前の笹野たちとの飲み会を今度はカップルで集まることになったから一緒に行こう。みんな驚くだろうな。とメールをした。

  

 次の日会社に行くと上司の上原は来ていなかった。何時にくるのかを秘書に聞くと、いつも何時にくるか神出鬼没だからと言って首を振った。携帯電話はだいたい留守電になっているが、今もそうだった。仕方なく警察に出頭する理由をメールに書いて送った。

 警察署の入り口に着くと、笹野がニヤニヤしながら近づいて来た。

「よう兄弟、遅いぞ。早く済ませて美味いもん食いに行こうぜ」

「何しに来たんだよ。お前も捕まるぞ」

「言っただろう。こういうことも俺にはハクがつくって。手を出したのはお前と俺の2人ってことで。さあ行くぞ。」そう言って先に中へ入って行った。

 事情聴取は別々の部屋でおこなった。

「先に手を出したのは向こうですよ」と俺は冷静を装って言った。

「向こうは先に蹴ってきたと言ってるぞ。かなりの大怪我だ。それに職業柄仕事にならない。このままじゃ裁判で訴えられるかもしれないぞ。ちゃんと謝罪して反省の色を見せた方が君たちのためだと思うよ。治療費も負担すると言うことにしないと、かなりうるさい事務所だぞ。意味がわかるか?」と取調室で担当の警察官がかなり心配そうな眼差しで眉間にしわを寄せて言った。

 久しぶりに亀吉が囁いた。『強気強気』あれっ亀吉久しぶりだなぁ。大丈夫だよ。言われなくても俺は心が強くなった。亀吉と深田のおかげだ。ありがとう。

「聞いてるのか?」と担当の警察官に言われ我に返った。

「もちろん聞いてますよ。治療費も出さない。謝罪は向こうからお願いします。向こうが喧嘩を仕掛けてこなければ、こんなことにはならなかったんですよ」

「君はボクシングをやってたね?」

「やってません。」

「調べればわかるよ」

「どうぞ」

事情聴取が終わり別の広い部屋に行くと笹野がいた。相変わらずニヤニヤしていた。まるでこの状況を楽しんでいる。

「お疲れ~。さあ帰ろうぜ」

「まだ書き込んでもらう書類がある」と担当者が陰険に言った。

「勘弁してよ。もう何も書きたくないししゃべりたくねーよ。疲れたぜ。腹も減った」と笹野はごねた。

 そこに私服の刑事と一緒に、痩せこけて狡猾そうな顔をした40代半ばといった感じの男が入ってきた。

「はじめまして、五十嵐と申します。彼らが所属する事務所のものです。ご存知と思いますが彼らは一応少しは知られたバンドです。いわゆる言い方は悪いですが、彼らは我が社の売れている商品です。それが当分の間稼働できないと言うことはうちとしてもかなりの損害ということになるわけです」

笹野が俺の耳元で「こいつやくざもん?」と聞いた。俺は大きな声で「関係ねー。だからなんだよ」と笹野に言ってから

「その貴方のアホな商品が先に手を出した。そしてダサくて弱かった。そして俺たち二人相手にそっちは6人はいましたよ。こういう場合はどうするんですか?」

「そちらも6、7人いたんじゃないかな」

「手を出したのは俺たち2人だけだ」と笹野も言った。

「そうは聞いてないね」と五十嵐は目を細めて、さも云うことを聞けという顔で睨んだ。

「とにかく刑事さんにも伝えた。若い者が酔って喧嘩になる。よくあることだ。今回はその店が器物破損で通報した。店の弁償代は折半でなんとかしよう。治療費のことも話し合いたい。示談という形で済ませようじゃないか。どうだね?」奥歯に物の挟まったような言い方でその男は含み笑いを浮かべた。

「じゃすべてこの場で決めましょう。刑事さんが証人になってもらって」と笹野が言った。

「ここは裁判所じゃないし、我々は裁判官でもない。正式な証人にはなれない。示談ということならば店側とお二方の3者で話し合わないと決められないことですね。被害は店側ですから」といかにもお役人的な警察官が言った。俺は店側と奴らは繋がっていると感じた。

 その時プロレスラーのような、いかにも映画に出てくる悪役が2人、スーツ姿で1人は薄いサングラスをして入ってきた。

 さすがの笹野もやばいという顔をした。

「バンドのマネージャーと運転手です」と五十嵐が紹介した。彼ら2人は刑事たちに軽く会釈した。

「では今からその店に行って話し合いましょう。刑事さんたちもお忙しい。いつまでも子供の喧嘩のお守りは迷惑だ。よろしいですか?」と五十嵐は刑事をみて言った。

「わかりました。話し合いの結果は書類上、報告してください」

「はい。後日報告させていただきます」

笹野は心配そうな顔をして俺を見ていた。俺は久しぶりに亀吉にヘルプしていたが返事はなかった。俺と笹野が黙り込んでいるので五十嵐はなおも続けた。

「彼らも反省して机の上で良い話し合いが出来ると良いですがねぇ。暴れられたらまた怪我人が出てしまう。それではお二人さん行きましょう。失礼します」五十嵐は担当警察官に丁寧に頭を下げた。

 廊下に出て出口に向かうと前方にある受付のところに上司の上原がいた。俺は何か温かいものに包まれていく感じがした。声をかけようとすると先に

「上ちゃん、上ちゃんじゃないか。ここで何してんの?」と五十嵐が声をかけた。

「五十嵐さん、久しぶりですね。かなり儲かってるらしいじゃないですか。相変わらずアコギナ商売やってんじゃないんですか?」と上原はいつもと変わらず、誰に対しても同じもの言いで言った。

「人聞きの悪いこと言うなよ。まして警察で。上ちゃんこそ相変わらず変わってないな、ずうずうしさが」と言って五十嵐は苦笑いした。

薄いサングラスの男もご無沙汰してますと上原に挨拶をした。

「あれっ、マグロか? お前五十嵐さんのところにいるのか?」

「マグロはやめてくださいよ。ほんと相変わらずですね上原さん」

「目黒もタジタジだな。上ちゃん何か落し物か?」と言って五十嵐は上原と拳を付け合う挨拶をした。

「何とぼけたこと言ってんすか。こいつらうちの若いもんですよ。五十嵐さんとこの若い者と喧嘩したって言うじゃないですか?」一瞬五十嵐とサングラスの男が固まったのが俺にはわかった。

「えっ上ちゃんとこの若い衆だったのか?」

「あれ、知らなかったんですか? お前言わなかったのか?」と上原は俺に聴いた。

「言わなかったっす」と俺は言いながら泣きそうになっていた。

「なんだよ。知らなかったよ。困ったなぁ」と五十嵐は困惑顔で頭を掻いた。

「社長も車の中にいます。行きましょう」と上原の言葉にますます困った顔をしながら五十嵐は上原について歩き出した。

 表に出ると銀色に輝いた大型のベンツが駐車場に止まっていた。近づいていくと後ろのウインドウが静かに下がった。

「おう五十嵐、久しぶりだな。うまくやってるそうじゃないか。上原から聞いたぞ。うちの若いもんが申し訳なかったね。子供の喧嘩だ大人の出番じゃないよ。久しぶりに飯でも行かないか?近くに美味い鰻屋があるぞ」と俺も久しぶりに見る社長が言った。

「いや、藤原さんお久し振りです。どうにか細々と頑張ってます。藤原さんもお元気そうで」

「いや~年取ったよ。体が言うこときかないよ、まったく。さあ、乗ってけ」と言って反対側のドアを運転手に開けさせた。

「いや、藤原さん車はあります。お食事お誘いありがたいんですが、この件でうちもゴタゴタしてまして。そのバンド連中と話し合わなきゃならないんです」と五十嵐は尻込みした。

「だからその話もしながら飯でも食おう。迷惑かけた店のこともあるし」

「店の方は大丈夫だと思います。大したことなかったみたいで。うちの方でなんとかします。」

「そうかい? まぁとにかく行こう」

「いや、藤原さん今夜は勘弁してください。貧乏暇無しでやらなきゃならないことが詰まってますんで」

「なんだよそんなに働いて。もう飯の時間だぞ。5分だけ車の中で話そう。乗ってくれ」

 社長はそう言って上原に目で合図した。上原が五十嵐の耳元で何か囁いた。五十嵐は仕方なく車に乗った。ウインドウが閉められた。

 本当に5分ほどで五十嵐は出てきた。再びウインドウが下がり、俺が社長に呼ばれた。「俺はちょっと寄るところがあるから先に彼も連れて上原と行っててくれ」そう言うと静かに車は出て言った。

 上原が五十嵐と話していたが、「おい、早瀬こっちに来い。五十嵐さんが帰るからちゃんと挨拶しろ」と俺と笹野に声をかけた。俺たちは「色々ご迷惑をおかけしました」と頭を下げた。五十嵐とスーツ姿の2人はワンボックスの車に乗り込むとすぐに出て行った。

 上原もちょこっと寄るところがあるから先にいっててくれ、後でゆっくり話そうと言って笑った。

「偶然だけど、お前たちのおかげでスッキリ解決しそうだ。あまねーも喜ぶ。早瀬、お前はついてるやつだ」と言いながらタクシーを拾った。


     


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 六本木から神谷町へ笹野と2人で鰻屋に向かった。

 俺は安堵とともに上司たちの対応の凄さに感動していた。いざという時に部下を守ってくれる。これほどの安心感はない。ほとんど普段何をしているのかわからない社長の本当の存在感を感じた。この会社を辞めようと安易に考えていた自分の愚かさと未熟さを痛感した。それとともに自分の非力な中にも、弱者には強引で、強者に尻尾を巻く奴らと戦えた自分に喜びを感じた。

「なあ、俺お前の会社に就職する。コネで入れてくれよ」と真顔で笹野が言った。

「お前自分の会社があるじゃねーか。社長さんだろう」

「いや、理想の社長と上司に巡り会えた。頼むよ入れてくれ」そう言って俺の腕を掴み頭を下げた。

「無理だろう。だいたい俺は決められないし、それにお前も今の感情で決めるなよ」

「いや、マジに探してたんだよ、ああ言う人。お前の下で働くから。なんでもするぜ兄貴」「だから俺は何も言えないって」

「今夜推薦してくれ。頼む」

「バカ言ってんじゃねーよ。今日は反省だぞ。これから説教されに行くんだぞ」

「いや~いいね説教。あの人たちになら殴られてもいいよ」

「お前Mだったのか?」

「なんでもいいよ。アクションだ。今を変えれば過去も未来も変わるんだろ? 酔っ払って何度もお前が言ってたじゃねーかよ。まずはお前とニューヨークに行こう」

「お前めちゃくちゃだな。昔から俺はお前に振り回されてたよ。そこは全然変わんない」

「徐々に変わるんだよ」

 

 笹野が来たら面白いだろうと思う自分がいた。 ネオンのがげんで一瞬、今歩いている外苑東通りがニューヨークの42ndSTに見えた。今夜は鰻より42nd STからグランドセントラル駅に入る入り口で買ったホットドッグが食べたい気分だった。そしてまたいつか香とニューヨーク42nd STを歩きたいと思った。



    


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香との生活を始めてもうすぐ1年になろうとしていた。久しぶりにお互い休日でまだベッドの中にいた。外は雨が降っている。梅雨の雨が続いていた。香もまだ眠そうな顔を向け掠れた声でおはようと言った。その声でソックスがカチャカチャと足音をさせてベッドのそばにやってきた。昨年のクリスマスに香の友人からマルチーズの仔犬が5匹生まれたので飼ってくれないかと言われ2人で見に行くことになった。5匹中2匹はもうすでにもらわれていた。庭の広い囲いの中で3匹の中の黒目がまん丸で元気すぎて他の2匹を踏み潰して飛び跳ねて遊んでいた仔を香は気に入った。「この仔ソックスだわ」と笑いながら嬉しそうに言って抱きかかえた。それから俺たちは2人と1匹の生活になった。俺のアパートはペットOKにはなってはいないが小型犬は暗黙の了解らしい。

 そうしてさらに今年の春、デパートの爬虫類イベントで親しくなったペットショップの社長さんからプレゼントされたゼニガメだ。もちろん亀吉と名付けた。

 俺と香りが再開し付き合いはじめてからはお互いの心の中のソックスも亀吉も出てこなくなっていたころだった。

 この日常の光景を客観的に見ている俺がいる。それは素敵な香りを漂わせる花を生けた不安定な花瓶を想像させる。倒れてしまうんじゃないか。何もかもが突然枯れてしまうんじゃないか。そんな時、水槽の中にいるとぼけた顔の亀吉の存在に癒される。


「ねえ、記念に旅行に行こうよ。」そして俺の不安な心をいつも香の笑顔がかき消してくれる。

「何の記念?」  

 こみ上げる嬉しさをわざととぼける俺。

「ひどい忘れたの?」そう言いいながら俺の鼻をつまんだ。

「痛いよ何だよ」

 成田空港で再開しニューヨークで2人過ごして1年になる。本当に大転換の1年だった。忘れるはずがない。答えるかわりに香の胸に触れ首に顔を埋めた。それを笑いながら払いのけて香は起き上がった。ソックスが香のあとを追う。

「ニューヨークに行くのは難しいもんね〜。国内の近場でもいいじゃない。温泉とか、海辺のホテルとか。ソックスも連れて行けるところ」

パジャマのままカフェラテを作って持ってきてくれた。

「亀吉は?」

「亀吉は健太のポケットに入れて。」と香がふざけて言った。俺はカフェラテを飲みながら旅行先を考えていた。

「何よ、旅行乗り気じゃないの?」

「めちゃめちゃ乗り気だよ。やっぱり夏は海じゃない。伊豆、西伊豆もよいなぁ。千葉の海も景色の良い場所結構あるし、湯河原、箱根、熱海とかも良いかもよ」

「ちょっと、全部誰かと行った場所じゃないでしょうね?」香はムクれたふりをした。


俺たちはともに同じ道を歩き出している。バランスをとって1歩ずつ同じ歩幅で歩き出している。硬いアスファルト道。砂利道。雨に濡れた道。雪道。この先いったいどこに続いているんだろう。

きっとこれが進むべき方向へ向かっていると信じて。

 幸せという定義はないと思う。ただいついかなる時でも笑顔がある方がいい。2人同時に闇に負けちゃダメだ。必ずどちらかが明かりを灯そう。俺は元気なふりをしてでも灯りをともせる強さがほしいと思った。

 俺は起き上がり亀吉に餌をやりながら話しかける。

「何もかも上手く行くさ」 亀吉は俺を見上げて頷いた。

 




   完



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42nd st @Deckey

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