宿熱

そうざ

The Heat that Dwells

 瞼を開ける。

 豆球が寂しく灯った電灯が吊られている。

 隣室のテレビが遠くで嗤っている。僕への気遣いで音量を絞っているのだろう。それならば大人しく寝ている振りを続けなくては、と僕も気を遣ってしまう。

 額の濡れタオルはもう生温い。まだ微熱があるのか、安静にし過ぎて微熱があるように錯覚しているのか。自分が病人なのかどうかが怪しくなって来る。

 寝た振りはもう飽きた。

 天井板の模様にも飽きた。

 だから昼間の出来事を思い出す事くらいしかやる事がない。

 その細長い空間の片側は障子戸が延々と続いていて、柔らかい光をほんのりと呼び込んでいた。

 もう片側には無数の眼があり、どれだけ歩いても僕を威圧し続けて来るのだった。

 ――オイ、本当ニ千体アルノカ数エテミロヨ――

 ――話シ掛ケルナ、最初カラ数エ直シダ――

 そんな同級生の会話がくぐもって聞こえる。プール上がりのような耳の雑音、そして倦怠。足の裏は床から僅かに浮いているようだった。

 ――オ前、ドウシタ?――

 誰かが声を掛けて来た時、僕はその場にしゃがみ込んでいた。それだから同級生と別れ、養護教諭と一足先に宿泊先へ向かう事になった。

 タクシーの車窓を知らない古都が流れて行く。歴史などにまるで興味のない僕だが、一度切りの修学旅行なのだし、それが終われば頭を受験に切り替えなければいけないのだし、それなのに恥ずかしいやら情けないやら、僕は養護教諭の顔を真面まともに見る事すら出来なかった。

 そして、宿泊先はホテルとは名ばかりの旅館の名称がお似合いの草臥れた建物だった。

 二間続きの和室に通され、直ぐに横になるように言われた。既に布団が敷かれていた。シャワーを浴びたかったが言い出せなかった。

 額に載せられた濡れタオルは重く、布団の匂いは少し不快だった。

 今頃、皆は観光を続けている。ホテルに着いたら宴会場で夕飯を食べ、大浴場で裸になり、大部屋では枕投げをし、夜中には好きな子の名前でも告白するのだろう。

 とても寝られそうにない。

 これまでの人生に一体どんな事柄があっただろうかと考えてしまう。幼稚園、小学校、その他にどんな世界があったか。泣いた、笑った、怒った、悔しかった、恥ずかしかった――僕はいつの間にか寝てしまった。

 やがて人の声で目が覚めた。

 ――先生、痛ミ止メッテアル?――

 ――シィ、隣デ病人ガ寝テルカラ――

 そこから襖越しの会話は小声になった。

 ――誰?――

 ――A組ノ男ノ子――

 ――覗イテミテ良イ?――

 ――駄目ヨ、ソンナ事――

 ――名前ハ?――

 ――○○君――

 ――知ラナイヤ――

 ――三十三間堂デ熱ヲ出シチャッタノ――

 ――可哀想――

 一気に顔が熱くなった。僕は可哀想なのだと知った。

 そこからまた知らない内に寝てしまったらしい。次に目が覚めたのはまだ薄暗い朝方だった。隣室の鼾の所為でその後はもう一睡も出来なかった。

 ――今ハ平熱ネ――

 体温計を確認する養護教諭はもう化粧がばっちりだった。

 ――デモ油断大敵、残念ダケド今日モ観光ハ諦メテネ――

 養護教諭は若くて溌剌としていて皆に人気があったが、普段からこんなに厚化粧だっただろうか。昨日もこんなに白い顔だっただろうか。

 ホテルの駐車場に並んだ観光バスは護送車のようだった。だから学生服の列は囚人のように吸い込まれて行く。それを横目に僕はまた養護教諭とタクシーで出発した。自分だけが特別待遇のように思え、少しだけ優越感を味わった。

 連れて行かれたのは大きな老舗茶屋だった。

 ――食事クライ皆ト一緒ニ愉シミマショウ。モウ直グB組ガ到着スルカラ――

 昼食の準備が出来るまで、僕は薄暗く狭い和室で待機する事になった。

 黄ばんだ畳敷きの真ん中にちゃぶ台が一つ、壁際には古い和箪笥や戸棚が窮屈そうに置かれ、振り子時計がかちかちかちと微かに鳴っていた。

 薄っぺらい座布団に胡坐を掻いたものの落ち着かない。相変わらず身体がゆらゆらと揺れるような感覚が続いている。

 障子戸越しに衣擦れの音がしゅしゅしゅと聞こえ、その度に和箪笥の取っ手がかたかたかたと鳴った。廊下を忙しく行き交う女中さんの影法師が障子紙に映っている。時折りひそひそ話が聞こえ、含み笑いも混じった。

 ――ケッタイナ御一行様ヤデ――

 ――残リ物デモ食ワシトキヤ――

 ――ボッタクッテヤラントナ――

 ちゃぶ台の上に大き目の急須と湯呑み茶碗が置かれていた。急須は孤独感が溶ける程度に温かかった。

 急須を傾けると、湯気と共に茶色い液体が流れ出した。僕は驚いた。黄緑色の液体を予想していたからだった。明らかに緑茶とは異なる香りが鼻先を擽り、また驚いた。

 恐る恐る湯呑み茶碗に口を付け、またまた驚いた。薬を連想させる味わいだったが、悪くはなかった。体調の悪い僕の為に特別に用意されたお茶なのかも知れなかった。

 ――オ待ットサン――

 白い顔の女中に案内されたのは、黒い食卓が整然と連なる大広間だった。食卓の両側に無数の学生服が並んでいて、僕が来るのを今か今かと待っていたようだった。

 知った顔は一つもない。全員がB組の生徒で僕はA組なのだから当たり前だが、制服がブレザーではなく詰襟とセーラー服なのはどういう事だろう。それに、頭数がやけに多い。遠くの生徒はのっぺら坊に見える程の人数だ。

 いつだったか、僕はこれとよく似た光景を目の当たりにした。誰かが、本当に千体あるのか、最初から数え直しだ、と話していた気がする。

 僕が末席の座布団に正座すると、間髪を容れず誰かが戴きますの号令を掛け、飢えた面々が一斉に料理に喰らい付いた。

 各人の皿に用意されていたのは、ぶよんとした何かを串刺しにし、どろりとしたたれを掛けた一品だけだった。

 潮騒のような舌嘗めずりが波打つように大広間全体に広がり、耳障りで仕方がない。

 ――食ベナイノカ?――

 周囲の生徒が一斉に視線をよこした。千人分の視線、という事は目玉が二千個あるという事か。でも、頭の上に幾つもの顔があるのだから、何千個にもなるのだろう。

 僕が首をゆっくり縦に振ると、無数の腕が忽ち僕の皿に伸びた。何十本もの、何万本もの腕が集まった。

 僕はまた体温の高まりを感じた。

 豆球が寂しく灯る電灯が蘇る。

 瞼を閉じた。

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宿熱 そうざ @so-za

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