第31話


 タイムとは、なかなか会えない。

 そのせいか、会うたびユズには、タイムの変化が気になった。変化、といっても、特別なものではない。人間となんら変わらない。今日はなんだか疲れているな、ちょっと元気そうだな――そういった、体や心に生じる違和感だ。

 太ったり痩せたりしていないあたり、単なる疲れはあれど重大な異変はなさそうだ、と思う。

 ふわぁ、と大きなあくびをするのは、いつものこと。

 タイムが週刊誌に手を伸ばした。数字を見るに、前に読んでいたものだが、さもはじめて読むかのように齧り付いて読んでいる。

「その話、気に入ったの?」

「ん?」

「だってそれ、読んだことあるでしょ? だから」

「ああ……。新しいの手に入ってないからさ。一回スパッと忘れて、読み直してる」

「そっか。ぼくはスパッと忘れるの苦手だから、なんか羨ましいや」

 人の笑みは、人にうつる。

 タイムはふわりと微笑むと、週刊誌をユズに投げた。

 投げられたものをキャッチするのは、決して得意ではない。けれど、彼の大事なものだから、と、冷や汗をかきながらそれを受け止める。

「ハハハ。どんだけ焦ってんだよ」

「いや、だって。落としちゃダメだし、折れたり破れたりしてもダメだって思ったら、緊張しちゃって」

 タイムが顎をしゃくった。読め、ということだと、ユズは思った。

 パラパラとめくる。読んだことがあるそれを、さも読んだことがないかのように読む。記憶を消す。過去に戻ったかのようにして、読む。

「ああー!」

「ハハハ」

「やめてぇ!」

「なんだよ。ちゃんとスパッと忘れられるじゃないかよ」

 しわくちゃの顔で、タイムが笑う。

 数秒前まで創作世界に浸り、悲鳴を上げていたはずのユズも、その瞬間がなかったかのように眩しい笑顔を見せた。

「なぁ、ユズ」

「んー?」

「ユズは、一度だけ過去に戻れるとしたら、どのポイントがいい?」

「うーん。そうだなぁ」

 ブルマジは読みさしだが、いうて一度読んだことがある。優先順位は、会話が上だ。本を閉じ、タイムの問いへの返答を考えることにした。

 戻れるとしたら――。

 そういえば、そんな話をしたことがある。あれは確か、ミントに向けて言った。『タルト選びからやり直すことはできないのか』そんな言葉だったはずだ。そんなことはできないとか、その後、タイムからは「俺はヤダ」のような拒絶言葉を貰った。だから、諦めていた。いうて、人生は基本的にやり直しが効かない。ボールペンで日記帳をつけるようなものだ。書き損じた文字やら、消したい出来事の上を、グリグリと塗りつぶして誤魔化すことはできる。けれど、消すことはできない。タルト選びとてそうだ。運命が変な小道へと迷い込んでしまったから、動転していただけ。運命を直視したなら、タルト選びからやり直したいだなんて、思えない。

 戻れるとしたら――。

 今、タイムに問われているのは、〝もしも〟の話だ。そこまで本気になる必要はないのだろうか。いや、この質問に対して適当に答えるのは、なんだか違う気がする。眼前、ほのかに潤みかけた瞳を、三日月の奥に隠したタイムを見つめたら最後、真面目な思い以外を返せそうにはない。

「そうだなぁ……」

「どれだけ悩むんだよ。一択だろ? 一択」

「一択? どこ?」

「そりゃあ、『タルト選び』かな」

「タルト選びは、別にやり直そうって思ってないよ。もう」

「なんで?」

「そりゃあ、みんなに会うきっかけだったから。ここはここで心地いい。ぼく、もうすっかり慣れたんだ。この生活に。まぁ、初めはね、思ってた。『タルト選びをやり直せたら』って。でも、それも全部、ぼくの人生なんだ。だから、それはいい。このままでいい」

「じゃあ……」

「そうだなぁ。この前ね、港での仕事の時、お世話になった人にばったり会ったんだ。それで、ぼくが最近クッキーを焼いてるんだって話をしてね。『クッキー持ってないなんて気がきかねぇな』って言われちゃったからさ。ばったり会う日の前の、クッキーを焼いてるあたりに戻って、クッキーを少しちょろまかしたい。うん、それがいい」

 タイムは上を向くと、目を瞑った。

 すうっと、口角が上がっていく。

 何を考えているのか、わかったらいいのに。不思議な感覚がユズの胸に幻の痛みを与える。ただ、タイムの言葉を、じっと待った。今できることは、それだけ。

「バーカ」

「……え? なんで? なんで今、ぼく、バカって言われた?」

「バーカバーカ」

「ちょっと、ひどいよ! タイム!」

「バーカバーカバーカ!」

 口を開くたびに「バーカ」が増えていく。増えるたび、声が震えていく。

「タイム」

「バーカバーカバーカバーカ!」

「泣いてるの?」

 ズッと洟をすすり、目元をゴシゴシと乱暴にこすると、「んなわけねぇだろ、バーカ!」

 ユズが抱えていた週刊誌を強引に取り上げ、自室へとズカズカと歩いていった。

「な、なんなんだよ。どうしたんだろう。ミツバのところで、何かあったのかなぁ」

 取り残されたユズは、また、皆と自分を隔てる壁を見た。刹那存在を忘れていた透明なそれは、いつの間にか、細かい凹凸を纏っていた。

 見える。まだ、向こう側に見える人が誰であるか、分かる。人違いではないという確信を持って姿を捉えることができる。しかし、付いた傷は戻せない。時を戻さない限り、その凹凸は深くなる。

 拒絶の香りが、ふわりと心を掠めた。



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