7・不協和音

第25話


 チャービルの部屋での作業が板につくと、時間に余裕ができた。

 暇を持て余したとき、つい視線が行くのはチャービルだ。これまで、チャービルが仕事の合間、小休憩の時に話し相手になってくれることはよくあった。しかし、自らチャービルの仕事中に他愛のないことを話しかける勇気は、胡麻一粒分もない。だから自然と、見つめるだけになってしまう。仕事の話ならばするしかないからするのだけれど。何かで困ればいいか? 困りごとをどうやって作ればいいものか。いや、そんなものは必要ない。

 互いが話したいときに話せばいい。集中を削いでまで、こちらの〝誰かと話したい〟なんていう欲望を一方的に満たす必要なんてない。

 ちらり、ちらりと視線を送る。思いつき、自主的にクッキーづくりを練習してみる。焼成に入り、バターの香りがふんわりと漂い始めると、チャービルの集中の糸がぷつんと切れた。

「せっかく焼き立てなんだもん。おやつの時間にしよう」

 飛びついて、齧りつく。

「腕上げたねぇ」

「そうかな」

「サクホロだぁ。私、これすっごく好き!」

 ひとつ、またひとつ、口に放り込む。もぐもぐと咀嚼するその顔は、子どものように無邪気だ。成長の過程でどこかに落としてきた、純な表情。

 ひょんなことから極めたお菓子作りではあるが、こんな素敵な笑顔というご褒美をもらえるのなら、全ての運命に感謝したくもなる。

「ねぇ、ユズ」

「ん?」

「もう少ししたらさ、今日の仕事が終わるんだけど」

「うん」

「今日はうちでご飯を食べて行かない?」

「……え?」

「話したいことがあるんだ。……だめ?」

 何か悪いことがあるかといえば、ない。けれど、どこか、胸の奥がザワザワする。

「ミントには私から連絡しておくからさ」

 ミント、という言葉を耳にしてようやく、ザワザワする理由に気づいた。

 そうだ、自分がよそでご飯を食べたら、ミントがひとりになってしまうかもしれない。気にするなんておこがましいのかもしれないけれど、一度気になったらもう、頭の中はミントでいっぱいだ。

「おーい、ユズぅ」

「あ、えっと、そのぅ」

「わかった、わかったよ。ミントを呼ぼうね」

「え」

「そういうことでしょ? もー! あなたたち見てるだけで満腹になれそうだわぁ」

 ククク、と笑う。ひらひらと手を振り、チャービルは作業に戻った。

 

 ユズはまた、時間を手に入れてしまった。時に早く過ぎていくくせに、こういう時だけのんびり屋な時間を。

 何をしようか。本棚にある本でも、読んでみようか。

 背表紙を指でなぞりながら、考える。

 晩御飯をみんなで食べるのか。――それなら、何か作ってみようかな。

 暇をつぶせそうな本たちには目もくれず、一冊だけあったレシピ本「ズボラ男でも簡単! レンチン料理50」を引き抜くと、パラパラとめくり始めた。冷蔵庫と食品庫を開けて、中を確認する。

「このページ、なんか端っこ折れてる。ってことはきっと、チャービルが好きなやつだよね。これの材料なら揃ってるし……よしっ!」


 コンコンコココン、と扉が鳴った。

 ユズは手を止め、鍵を開けに行く。ひょこりと顔を出すと、居心地が悪そうな顔をしたミントが視界に入った。

「チャービルの仕事がいつ終わるかはわかんないけど、もうすぐできるよ」

「……ん?」

「ごはん」

「うっそ。もしかして、ユズが作ってるの?」

「あれ? ダメ?」

「ダメ……じゃない」

 いっそうに表情が曇る。

 ――こんなとき、自分だったら深掘りされたくない、かな。

 ユズは平静を装って、ミントを招き入れる。

 ミントは、隠されようが気づいてしまったその〝似たもの同士の思いやり〟を抱きしめながら、部屋の中へと吸い込まれるように入った。

「やっほー、チャービル」

「あぁ、ミント。いらっしゃい。ごめん、もう少しだけ」

「うん。ごゆっくり」

 それぞれが作業に戻る。ひとり浮いたコマとなったミントは、自然とユズのサポートについた。

 ユズの手元には、作りかけのごはん。

 開いてあるレシピ本。

 それらを見れば、聞かずともわかる、今晩のメニュー。

「これ、チャービルが選んだの?」

「ん? いや、違う。聞いてはない。けど、この家の本棚にこの本があって、ここに折り目がついてるってことは、好きってことかなって思って」

「嫌いじゃないと思うけど」

「けど?」

「好き、かなぁ」

 いまいちハッキリしないミントの言葉。ユズの心には、急激に不安が広がっていく。



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