第19話


 ユズは家事に勤しんだ。

 家事の役割を与えられない実家暮らしだったこともあってか、なにをするにしても手間取った。ミントやタイムがそれをしたなら、もっと早く終わっているのだろう。人と自分を比べては、自分の無能さを痛感し、泣きたくもなった。

 たった今掃除したはずの場所に、埃を見つけた。

 ただひたすらにこき使われるほうが、肉体的には辛かろうが、精神的には楽なのかもしれない。再び掃除をしながら、そう思う。

 幸か不幸か、手際の悪いユズを責める人はいない。

「わからないことがあったら、なんでも聞いて」

 ミントは優しくそう言ってくれるが、わからないことが三つたまったらようやくひとつを問いかけられるくらい、口は重かった。

 何日も何日も繰り返すと、勘を掴み始めた。どの順序でそれをすれば効率がいいか、それぞれの場合の適切な手段は何か。選択肢が増え、選択のスピードが上がると、作業のスピードも比例して上がる。時間は短くなり、生まれた時間で他の作業ができる。

「ここもやってくれたの? ありがとう!」

 感謝されて、自己価値を再認識する。仲間であることもまた、再認識する。

 自分はお客様でもなんでもなく、この同じ扉の中で過ごす仲間なのだという実感が、胸を温める。

「ユズ。明日さ、チャービルのとこ、一緒に行こう」

「も、もしかして、仕事もらえる?」

「うん。たぶん」

「たぶん?」

「普通はミツバを通すからさ。あたしもよくわかってないの」

「ミツバを通す?」

「うん。ユズは、ほら。特別な人だから」

 特別な人――その言葉を聞いた瞬間、ぐらりと心が揺らいだ。


 チャービルの部屋まで、再びミントに案内されながら向かう。その道には確かに覚えがあって、ミントの前を歩いても、そこへ行ける気がした。

 朽ち落ちたらその時はその時だ、と、気にせず階段をのぼる。気にしすぎずに出す足は、大して音を立てなかった。ミントの足音が、少し聞こえた。心に少しは余裕が生まれたらしい。

 コンコンコン、とノックをした時、反応がなかったことを思い出す。ユズはかつてのミントを真似して、コンコンコココンとノックした。

 シリンダーが回る音がする。扉が開くと、チャービルがひょこりと顔を出した。

「ミーン……ト、じゃない!?」

「あたし、こっち」

「あれ、ミントのノックだったから、てっきり。ヤッホー、ユズ」

「こんにちは」

「んー? 堅苦しいな。もっと友だちと話すみたいに話してってば」

「え、こ、こんちゃー」

「ははは! ウケる。かっわいー」

 なんだか、遊ばれている気がする。嫌な気は少しもしないけれど。

 部屋の中に入ると、早々にクッキーが出てきた。

 早速ひとつ口に放り込む。サクサクと軽い食感。バターの香りがふんわりとして、ほどよい甘み。何枚も食べるものではなく、数枚を大切に味わうものであると、ユズは思った。

「ユズの仕事はね、このクッキーを焼けるようになることだよ」

「ああ、わかっ……え?」

「クッキー、焼ける?」

「え、いや、焼いたことない。焼こうとしたこともない。クッキーは、買うものだと思ってた」

 家事をし始めたのはごく最近のこと。生きるために必要な身の回りの仕事をきちんと理解していなかった人間が有しているのは、学校の授業で作ったカレーや白玉の作り方くらいであるし、それらの記憶とてもう薄れて危うい。

 困惑しながらちらりとミントを見ると、口元が笑っていた。

 何かを知っている顔だ。チャービルに問うよりは気軽だからと、ミントに小声で尋ねる。

「ねぇ、ミント」

「なあに? ユズ」

「クッキーを焼けるようになれって、どういうこと? クッキー屋さんを開けってこと?」

 いよいよ目元にまで笑みが広がった。

「ちがう。チャービルの召使いになってくださいってことだよ」

「ああ、そう。……へ?」

「なあにふたりで喋ってんの? 内緒話するなら外でやってよね」

「ごめんごめん!」

 チャービルは、食べ物の中でいちばんクッキーが好きらしい。ガリガリよりはサクホロ派、などと、好みを語るが、ユズには理解し難い話の連続で、いまいち話の波に乗れない。

「ま、都度都度話すよ」

 チャービルの説明こそサクホロだ。あの港の方がずっと仕事がわかりやすい。ユズは困惑しながらも、仕事を引き受けた。


 同じ玄関の内側で、声を張れば届く距離で。

 皆はそれぞれの時間を楽しんでいた。決して苦痛というわけではないが、そろそろ声が、「お茶飲もうよ」というような内容の薄い声が欲しいとユズは思う。

 似たような思いを抱いていたのか、はたまた心を見透かされたのか。ユズが大きく肺を膨らませた時、タイムが声を発した。

「なぁ、〝きもたのし〟でもしない?」

「わ! 久しぶりに聞いた! いいね、ドーン、パーンって」

「ミント。そんな派手にできるはずないだろ」

「あ、そっか。えへへ」

「あ、あのぅ」

「なーに? ユズ」

「きもだめしって、お墓とか行くってこと? ぼく、そういうのは、亡くなった人に失礼じゃないかと思うんだよ。ほら、友だちになりましょうとかさ、お話ししましょうっていうならいいんだけどさ。怖いものとして扱ったり、驚いたり震えたり、そういうの良くないって。あ、いや、怖いわけじゃないよ? うん。ぼく、別に幽霊とかお化けとか、そういうの、へ、平気だし!」

 ミントとタイムが、吹き出した。

「ユズ、聞き間違えてる! き・も・た・の・し!」

「たのし?」

「暗い時間を楽しむ会だな。肝試しのアレンジ版だ」

 ユズは小首を傾げた。いまいちよくわからない。

 ミントとタイムの目には、ユズの顔に「ワカリマセン」とカタカナで書いてあるように見えた。この文字を消して、いつものユズに戻さなくては。



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