19歳。死ぬ前にベトナム移住した話

@trantran8910

19歳。死ぬ前にベトナム移住した話

「十九歳。死ぬ前にベトナム移住した話」六年前の九月。私は死に場所を求めてベト

ナムに辿り着いた。気温、二十七度。暑く、騒がしいその国は自殺志願者には全くふさわしくない国に思えた。


生まれつき身体に問題があった。真っ直ぐに歩くことも箸や鉛筆を正しく持つことも出来なかった。知能にも問題があった。小学校三年生から上のレベルの算数は全く理解できず中学生になってもツとシ、アとオの書き分けも出来なかった。


見た目にはそんな問題を抱えているようには見えなかった。他の人から見た私はただ物凄く不器用で頭の悪い子供だった。


そのため物心ついた時から虐められた。顔面をステンレス製の水筒で目が見えにくくなるほど殴られた。物は隠され、何を言っても無視された。

教師までもが遠足の時間私の着替えを盗み下着を男子生徒の前で見せびらかしているのを見た時には絶望した。身体的虐め、心理的虐め、性的虐め小学校低学年の時には既にそれら全ての種類の虐めを体験していた。


中学生になっても高校生になっても虐めは終わらず虐められていない時期を思い出す方が難しいくらいだった。母子家庭だったため母に心配をかけると思い虐めのことは言えなかった。耐えるしかなかった。


高校を卒業し箸も鉛筆も持てない不自由な身体、小学校の算数も分からない知能、殴られて見えにくくなった目、人から虐められる自分という問題だらけの状況を振り返った時、死ぬことを決めた。この状況を改善できる方法がもう分からなかったからだ。


早速死ぬ場所を決めることにした。死ぬなら日本以外が良かった。暖かく美しい自分の気に入った国で死にたかった。自分を物心ついた時からずっと虐め抜いた国とはもうさよならをしたかった。


そんな時ベトナムが日本人の長期留学生を募集していることを知った。スマホでベトナムのことを調べた。バイクで道が埋め尽くされ真っ赤な灯が灯っている。画面の向こうからも伝わる熱気。美しい。そう思った。なんて美しく熱い国だ。ここにしよう。そう思った。


その当時、ベトナムはまだ若者の間では有名ではなく長期留学生募集に応募したのは私だけだった。

すぐに受け入れが決まった。


そして十九歳の私はベトナムに旅立った。

ベトナムに行ったからといって何が変わる訳でもなかった。友達は出来なかったし言語も出来ない。ただ孤独だった。ひたすら受け入れ先の大学と職場と自宅を往復するだけの日々だった。


ただベトナムで生活して一つ分かったことがある。それはベトナム人は私より遥かに理不尽な人生をひたむきに生きていることだ。

大学の後輩は枯葉剤の影響で日焼けすると肌が焼け爛れるため毎日何種類もの薬を飲みながら大学に通っていた。大学の近くではまだ三歳なのに毎日宝くじを売り歩いている子供がいた。

彼らの本当の気持ちは分からない。けれど彼らは不幸には見えなかった。理不尽な人生を送りながらも大学生として、子供として笑い、時に怒り普通に生きていた。

 

彼らに会っても私の死にたい気持ちは消えなかった。けれど理不尽な人生の中でも生きられるのではないかという小さな希望が自分の中で生まれた。生きられるかもしれない。現に彼らは普通に生きている。でも辛い。彼らだって私のように知能にも身体にも問題があれば生きることを諦めていたのではないか。死にたい。生きたい。死にたい。希望が欲しい。矛盾した思いが毎日自分の中に浮かんだ。


小さな生きたいという希望を消すために何回か自殺未遂をした。バスから飛び降りたり深夜に徘徊したりした。事故のように死にたかった。

しかし当時のベトナムは想像以上に優しく安全な国だった。バスから飛び降りても周りの人がすぐに助けてくれたためかすり傷で済んだ。深夜徘徊しても襲われるどころか家まで送り届けられて安全に帰ってきてしまった。この国にいても死ねない。それどころか小さな希望を見つけてしまう始末だ。どうしたらいいのだろう。自分の中で死にたいという気持ちに確信が持てなくなっていった。


ただ一人で死にたい。生きたいと葛藤する日々に疲れた私は色々な場所に出かけた。ベトナム日本人会、ベトナムのバー、カフェ。色々な場所に行った。あまり楽しくはなかった。どこに行っても自分が住んでいるタワーマンションの話、子供が通っているインターナショナルスクールの話、浮気するのに良いスポットの話ばかりでついていけなかった。


結局、孤独だった。それでも色々な場所に出かけるのは辞めなかった。

死にたい、生きたいと葛藤するくらいなら死ねばいいのに。色々な場所に行っても結局楽しくないし孤独なのに。頭では分かっているのに死ねなかった。


ベトナムに住んで半年が経った頃、私は日本語を学びたいベトナム人とベトナム語を学びたい日本人を対象とした言語交流会に参加した。その時にアンというベトナム人に出会った。アンはベトナム人とベトナム語で話している私を見て立ち止まり私の向かいに立った。そして流暢な日本語でこう言った。

「あなたのベトナム語の発音は分からない。もっと基礎から勉強するべきだと思う。」

その当時はベトナム語が話せる日本人はまだ珍しく簡単な会話が出来るだけで凄いと言った風潮があった。そのためこんなにはっきりとベトナム語の未熟さを指摘してくるベトナム人は珍しかった。私はこの風変わりなベトナム人に興味を持ち名前や学校や日本語学習歴など色々なことを質問した。


アンは非常に賢いベトナム人だった。英語、日本語、ベトナム語の三カ国語をネイティブレベルで話せた。その上、某ヨーロッパの国に国費留学し現地の大学院の工学部を卒業していた。某ヨーロッパに留学した経験があり私の全く知らない工学の知識を持ったアンとの会話は楽しかった。


またアンに会ってみたくて私は週に一回その言語交流会に通った。

アンは賢い人だった。その上、大きな目と濃い眉、健康的な日に焼けた肌が特徴的な美しい人だった。しかし物事をハッキリと指摘する性格な上、無表情で雰囲気が怖かったためあまり友達がいなかった。私も友達があまりいなかった。余り物同士で何回かペアを組んだり勉強したりする内に私達は友達になった。


と言ってもすぐに親しい友達になれたわけではなかった。お互いに我が強い性格だったため数ヶ月に一、二回は大喧嘩をした。一回喧嘩をしたら数週間は仲直りをしなかった。数週間頭を冷やしその後、何が悪かったのかこれからどうするのかを書いた手紙を送り合いようやく仲直り出来る。そんな関係だった。


面倒臭かったけれど今まで友達が一人もいなかった私にとってこんな兄弟みたいに言いたいことを言えて喧嘩し合える人間関係は初めてだった。


アンの運転するバイクに二人乗りをしてよく遊びに出かけた。何かお祝い事や楽しいことがあった日は日系の牛丼屋さんに行って牛丼を食べた。夜に川まで出かけてお金持ちの外国人を乗せた船を眺めたり、屋台でスムージーを買って二人で飲んだり、公園のベンチに座って暗くなるまで話し込んだり、そういうことをするだけで十分楽しかった。


公園のベンチに座って話している時にアンが向かいに聳え立っているホテルを指した。「ロッテホテル」そこは外国人、富裕層のベトナム人だけが泊まれるホテルだった。街の中心に建つ綺麗で大きなそのホテルに憧れる人は多かった。

「アン達はいつかあのホテルにだって泊まれ

るよ。そんな人になれる」アンはそう言った。お金のなかった私には自分がそんなホテルに泊まれる人になるなんて想像もつかなかった。

「出来るよ」アンは自信ありげにそう言った。

そうなったら素敵だと思った。しかしそう思った瞬間に自分は死ぬためにここに来たんだという思いが心に過ぎった。

「そこまで頑張れると思えない。どちらかと言うと早く死にたい」自分が死にたいと言う気持ちを持っていることを他人に打ち明けたのはこれが初めてだった。

アンは少し黙ってから言った。

「アンはあなたがコーガンヘッスー日本語で言うと人事を尽くしたのかと聞きたい」

アンは死にたいと言う考えを止めることも怒ることも慰めることもなくそう言った。

「あなたは若いから。残念ながらアンはあなたが人事を尽くしたとは思えない。」

正確な理由は分からない。けれどその言葉はどんな慰めや励ましよりしっくりと来た。

確かに尽くしてない。私はまだ人事を尽くしたとは言えない。勉強も人間関係も何もかもやり切ったと言える物はない。死にたくなくなったとは言えないけれどその言葉を聞いて死ぬのは今じゃない。と考えられるようになった。


1年後、アンは出稼ぎで某ヨーロッパの国に旅立った。私も日本に一時帰国することを決めた。


私は日本に帰国した。ベトナムに1年間移住しただけで人生が劇的に良くなったわけではなかった。知能の問題で入社に必要な学力テストに合格出来ず何十社受けても働ける会社が見つからなかった。

せめて人間関係だけでも良くしようと色々なコミュニティに行ってもやはり虐められた。唯一出来た友達にも裏切られてネットに写真付きで根拠のない悪口を書かれそれを広められた。人生は好転しなかった。唯一の救いはアンと定期的に連絡を取れていることだった。


けれど私は人事を尽くした。出来ることを全てやった。何か一つでも出来たよと言える物が欲しかった。そうして数年自分にできることを見つけ努力した。その結果帰国してから二年後にとある会社から内定をもらうことが出来た。


会社に内定をもらった後、真っ先にアンに連絡をした。アンが何を意図してあの言葉を言ったのか分からない。けれど結果として私はアンの言葉のおかげで生きて日本に戻った。 


アンは私が内定をもらったことをとても喜んでくれた。Skypeで数十分くらい話した後で唐突にアンが言った。

「アンは日本で働く」あまりに唐突だったためマジでとしか言えなかった。

「アンは技術があるからどこでも働けるよ。ベトナムでもアメリカでももちろん日本だって」言葉を聞き終わる前に泣いていた。

この自信家の風変わりなベトナム人に、アンにこんなにも会いたい。自分の気持ちを自覚して驚いた。

「ねえ」画面の向こうでアンは得意げに言った。

「どこへだって行けるよ」

それから更に月日が経ち私は二十五歳になった。今、私は内定をもらった会社で働き続けながら国家試験の勉強をしている。アンも日本の会社で働いている。私は関西にアンは関東に住んでいる。何年月日が経ってもアンとはほぼ毎日電話で話し月に一回は新幹線に乗ってお互いに会いに行くほど仲が良い。

先月もアンに会いに行った。アンは日本の残業と給料の低さに疲れ果てていた。

「日本は住むには最高だけど働くには最悪。」そう愚痴を吐くアンに私は言った。

「アンは技術があるからどこでも働けるって言ったじゃん。」私は続けてこう言った。

「私もその技術が欲しいから国家試験の勉強してるんだ」

アンは言った。

「それ最高なんだけど」

金曜日の夜、土曜日と日曜日を使ってずっと話し合った。試験のこと、仕事のことワクチン接種、ビザ、各種証明書、たくさん決めないといけないことはあるけれどそんなのどうだっていいくらいに楽しかった。


この先、私はアンとどこかの外国に行って生きたい。それが叶うのかどうなるのかは分からない。だから国家試験をとって今まで貯金をしてきた分を計画的に使って準備して海外に行きたい。

けれど案外何とかなるような気もしている。虐められ十九歳で死ぬためにベトナム移住した女の子がこうして二十五歳になり働いて海外に行くための準備をしている。一緒に生きたいと思える人を見つけた。この事実があるからだ。

人は変われるし出会いがある。この事実があるから私は虐められた過去があっても生きていける。

終わり

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

19歳。死ぬ前にベトナム移住した話 @trantran8910

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画