価格の優等生

 なるほど、扉を開けた先にあるのは、写真を現像するための暗室を彷彿とさせる真っ暗な空間であり……。

 その部屋には、先に仕込みが終わった豆を入れたのと同じような水槽が、いくつも並んでいる。

 ただし、水槽の中に存在するのは、近頃、貴族を中心に流行っているアクアリウムではない。


 ――もやしだ。


 水槽の中で、もやしが生い茂っているのだ。

 ただし、生育具合には、各水槽で明確な違いが発生していた。

 生育が不十分な水槽では、底から二割ほどのところまでもやしが伸びるに留まっているが……。

 生育の進んでいる水槽となると、これはもう、生い茂っているという表現は適切ではない。


 水槽の中に、アリ一匹すら入り込む隙間がないほど、みしりともやしが詰まっているのである。

 もやしとして成長する過程で、互いに折り重なり合い、水槽の中を占領するに至ったのだと推測することができた。


「なんという生命力だ……」


 この光景を見れば、そうつぶやかざるを得ない。

 ひと粒ひと粒は、あれだけ小さかった豆たち……。

 それが、日も当たらない場所で、水だけを与えられることによって、かくもたくましく茎を伸ばしている。

 生命の不思議と、豆という植物に備わった底力を感じることができた。


「驚いたでしょう?

 この水槽一杯にまで育ってくれれば、丁度、収穫時です。

 こうなるまでに、おおよそ九日から十日といったところですかね」


「九日から十日!?」


 レイバの言葉に、またも驚きの声を吐き出してしまう。

 農業に関して、さほどの知見があるゲミューセではない。

 だが、それが異常なことであるのは、明らかである。

 普通に考えれば、どれだけ成長の早い作物であっても、収穫までに一ヶ月程度は有するはずだ。


 それが、三分の一近くの期間で……しかも、圧倒的に少ない労働力で収穫可能になるという。

 いや、それだけではない……。


「収穫までの期間が圧倒的に早く、しかも労働力がかからない。

 それに加え、屋内で育てられるため、天候の変化のみならず、害鳥や害虫にも強い、か……。

 お前が価格の優等生と言った理由、これで分かったぞ」


 隣のスプラに対して言うと、眼鏡少女は、興奮した様子でうなずいてみせた。


「そうなんです!

 しかも、これは、良質な水の得られる場所であれば、紡績工場のように効率的かつ、大量に生産が可能ということでもあります。

 そうすれば、価格はますます安く、安定させることが可能です」


 やはり、好きなことにはとことんまで情熱的になる性質なのだろう。

 興奮した様子で語るスプラに、懸念材料を訪ねる。


「だが、そうなると、種となる豆の確保をどうするかが問題だ。

 いかに豆からもやしを育てるのがたやすかろうと、そもそも、種がなければ話にならないのだからな。

 そちらに関しては、大々的にやる方法がないぞ。

 知っての通り、我が大勇帝国は農業に向いた土地の少ない工業立国だからな。

 せいぜい、お前の元婚約者であるプーアー伯爵家の領地が、農業に強いというくらいだ。

 が、当然、協力してはくれまい。嫌々従わせることはできるだろうが、豆作りに傾倒させて、他の野菜が不足しても本末転倒だ」


 しかも、ゲミューセとスプラは近々の不作を予感していた。

 だが、この問題に対し、スプラはすぐさま代替案を出してくる。


「それに関しては、輸入で解決することが可能であると考えています」


 暗室から作業所に戻ったスプラが、机の上に紙を広げた。

 そして、そこに万年筆でいくつかの数字を書き出していく。


「これは、ここに用意した豆を百キロ仕入れるのに必要とした金額です」


 どれと紙を覗き込み、ざっと数字に目を通す。

 商売人ではないゲミューセだが、これは……。


「……さほどの値段ではないな。

 感謝すべきは、蒸気船による海運輸送の発達か」


「しかも、これはあくまで実験用に百キロ仕入れた場合の値段です。

 長期的かつ大量に仕入れるとなれば、当然ながら、値段に融通を利かせることは可能でしょう」


「しかも、我が国は東方の諸国に対し、かなり優位な貿易協定を結んでいることだし、な。

 あるいは、植民地の活用も考えられる。

 なるほど、ここが金を必要とするところか」


 納得し、うなずく。

 これらの問題を解決するには、単純に実験の域を超えた金が必要となるだけでなく、相応の伝手などもいるだろう。

 いかに熱意を燃やせど、伯爵家のご令嬢であるといえど、十六歳の小娘が力を及ぼせるところではない。

 そこのところを、スプラは元婚約者のハベストに求めたのだろうが……。

 自分ならば、もっと上手く強力に事を運べる。

 その事実は、ゲミューセへ笑みを浮かべさせるに十分なものであった。


「よし、決断したぞ。

 やろう。

 すぐにでも商社の人間と連絡を取り、豆の仕入れに関する段取りを付ける。

 また、ここの設備を大規模化した工場に関しても、お前の父と話をして事を進めるとしよう。

 これは、王室予算を使っての国策である」


「――いよっしゃあ!」


 大声で拳を握ったのは、スプラでなくレイバだ。


「やりましたよ! お嬢様!

 ゲミューセ様! おれ、ちゃんと聞きましたからね!

 後になって、やっぱりなしは効きませんよ!」


「心配せずとも、俺に二言はない。

 スプラも、それで構わないか?」


「え……はい!

 も、もちろんです!」


 答えたスプラが浮かべたのは――笑み。


「ほう……」


 この娘は、こういった顔になることもできるのか。

 なんともいえず、素朴で――可憐だ。

 野原に咲く名もなき花のような愛らしさが、その笑みには宿っていた。


「あー……。

 そうだ! ゲミューセ様!

 この後、収穫したもやしを食べれるようにするまでの工程も見学……いや、体験していきませんか!?

 それに関しては、うちで婆ちゃんや妹たちとやってるんですが!」


 時すでに遅すぎる危機感を抱いたのだろう。

 レイバが、そう言って身を乗り出してくる。


「ふむ……それもいいか」


 ゲミューセとしては、すぐにでも帝都に戻って動き出したいところではあったが、もやしの見識を深めておくに越したことはないし、せっかく芽生えた男の友情もあった。

 少しだけ思案し、了承したのである。


「レイバ君、わたしも手伝うよ。

 いつも、お婆ちゃんたちに任せっきりだし」


「はは、おれたちは肉体労働をするために雇われていて、お嬢様の仕事は考えて指図することですから。

 そこは、あまり気にしないで下さい。

 ですが、手伝ってくれるって言うなら、大歓迎です。

 婆ちゃんたちも、きっと喜びます」


 スプラの言葉に、レイバが破顔して答えた。


 ――領民と普通の友達みたいに接する令嬢、か。


 そんな、自分の周囲には存在しなかった光景に、目を細める。

 ゲミューセからすれば、この先……帝国そのものの更なる躍進を目指すならば、庶民層にはもっと力を付けてもらいたいと思っていた。


 そのために必要なのは、貴族階級からの歩み寄りだ。

 さもなくば、いずれ地道に力を付けた平民たちにより、革命も起きかねないのだから……。

 だから、これはある種理想の光景である。


 そんな二人を見ながら、ふと気になったことを尋ねた。


「ところで、作業というのは何をするんだ?」


 ゲミューセの言葉に、レイバがにやりとした笑みを浮かべる。

 その笑みを見て感じたのは――危機感。

 自分は何か、恐ろしいことに取り込まれつつある……。

 それを、遅ればせながら知覚したのだ。


 だが、後悔したところでもう遅い。

 この第一王子ゲミューセに、二言は決してないのだから。


「……根を取り除くんでさ」


 ごくりと生唾を飲み込む自分に、レイバがそう告げた。

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