#010.And I Close To You

 肉の香りに満ちた幸福感によって開かれた眠りへの入り口から、ハイメは言い知れぬ正義感に駆られて逃げ出した。ふと隣を見ると、同じく満腹の長髪男が額だけでカウンターにもたれかかり、体を支えていた。

 人の肉、しかも最後の一切れ!...を勝手に食べておいてこんなにも堂々と寝られる彼はメビウス、僕の旅の相棒だ。いや僕が、彼の旅の相棒だろうか?


 ハイメはメビウスとの間に微かな友情が芽生えつつあることを察していたが、彼を心から信用し、尊敬しているわけではなかった。ただ、カクポンタスの件と先ほどまで目の前にあった皿に対する対価として、彼についていく『義理』があると考えていたにすぎなかった。この町から出るまでは。


 幾らか時が過ぎ、傾いた陽が酒場の窓から差し込み、メビウスは目を覚ました。

「..ふァァァァああああああ...ッああ!」思い切り伸びをして、その頂点で組んだ指を引きはがした。

 蓮の花のようだ、とハイメは思った。

 「わりィな..寝ちまった。」目をこすりながら悪びれるそぶりも見せぬまま、メビウスは立ち上がった。

「...どこへ?」

「そと。」

「まだ聞きたいことがあるんだけど」

「だろうなァ...だからこそだ」

 その態度にハイメは少々訝る気持ちを抱いたが、やがて立ち上がり、マスターに礼を告げ、メビウスの跡を追った。


 さらに陽が傾き、明かりの少ないこの町では少しずつ町全体が陰に飲まれていた。

 「さァ..いくか」微かに漏れる酒場の明かりに照らされたメビウスはフードをかぶり、腰には僕の腕ほどの長さがある刃物を携えていた。

「持っときな」そう言って彼は刃物を投げ渡した。咄嗟に掴んだが、掌に刃の冷たさを感じ、思わず投げ捨てた。

「おい!!何を....あれ?」メビウスに抗議の視線を向け、すぐに自分の手に目を戻す。切れていなかった。不思議に思い、再び刃に触ろうと地面に手を伸ばした。


「やめときな。ケガするぜ」

「でもこの剣、切れないみたいだけど?だってホラ、無傷。」

「さっきまでは、な。でも『反動』がある...オレならあと半歩後ろにいるかなァ...」

 彼はそう言って「うしろ」とだけ口を動かし、指で僕の後方を指差した。メビウスの言葉に何か不穏なものを感じ、飛び退くようにその剣から離れた。

「イイ判断だ...」そう言うと彼は懐から一枚の紙を取り出し、風に乗せてその剣へと紙を差し向けた。ひらひらと紙が舞う。剣はただ静かに横たわっている。

 「何も」紙の行方を見守りながらそう口を開いた、その瞬間だった。紙が破裂したのは。いや、正確には切り刻まれたのは、その瞬間だった。


 何が起こったのかの理解もできず、声もなくメビウスを見た。彼も何を言わず、ただいたずらが成功した少年のようにニヤついていた。

「拾いな。もう大丈夫だ。」僕の反応を一通り楽しんだ後、彼は歩き出した。

 その言葉を信じてはいたもののなかなか勇気は出ず、メビウスの背中が闇へと消えそうになるまで、剣に手を伸ばすことができなかった。


 走ってメビウスに追いつき、彼と出会ってからずっと溜まっていた質問をついに彼の耳に入れることができた。そこまで長期間ではなかったが、質問の内容を整理することはできていた。

「君は...何か特別な力を持っているのか?」まずはそう聞いた。メビウスの横顔はフードの影を超えることはなかったが、動揺しているような空気は感じなかった。

 

 「...まァな。」確認のためであり、僕はそれが聞けて十分だったが、彼はまだ続けた。

「どういう能力かは詳しくは言えねェが...ほかにも同じようなヤツらがいる。」

それから、と挟み

「オレらはこの力を贈り物ギフトって呼んでる...ギフトを持ってる奴は..誰が何のために言い出したか知んねェが、まとめて子供たちチルドレンって言うヤツもいる。」

「生まれつきなのか?」その質問の答えは返ってこなかった。


 しかし彼が続けた言葉は、ハイメがずっと温めていた質問の答えだった。


 「そんで、基本的にギフトの発動には『名前』がいる...あとおまえさんには関係ねェかもだが..魔法にも、だ。」


 僕はその言葉をうまく咀嚼できただろうか。気の抜けた相槌しか打てずに立ち尽くしていた。


 この時のハイメの胸の裡には、新たにある一つの疑問が渦巻いていた。それは今のハイメには目を背けたくなるような、ボウフラがひしめく水たまりのようなひどく悪寒のする疑問だった。


 もし、彼の言うことが本当だったとしたなら...?基本的に、と言っていたが、もしあれが基本的なものだったとしたなら...?もし、ヤツがあの時すでに、近くにいたとするなら...?もし、ヤツが、シメオンが聞いたとしたなら...?


 ハイメの腹に湧いた小さな罪悪感はどす黒い自意識へと姿を変え、地面に叩きつけ、彼の腹を蹴りつけた。あの夜、頬に感じた金属のような掌を、転がったシメオンの頭を思い出し、ハイメは吐いた。


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