第2話 失踪

「ひょんなことから、とんでもない事実を探り当ててしまったかもしれない。もう少しこちらに滞在することにします」

 その留守電が、山根美穂からかかってきた最後の電話だった。それ以降、プツリと連絡が途絶えた。館畑大輔たちはただいすけは心配になり、何度か美穂の携帯に電話をかけたが、その度に「おかけになった番号は…」という冷たいメッセージが返ってくるだけだった。何か事故でも起きたのだろうか。そもそも美穂はどこに行ったのだろう。こちらとはどこのことだ。おかしな話だが、大輔は美穂と一緒に暮らし始めてもうすぐ一年が経つというのに、美穂のことをほとんど何も知らないことに改めて気づかされた。


 美穂と初めて会ったのは、大輔がたまに仕事をもらっている週刊風聞の創刊十周年パーティの席上だった。昨今のネット情報サイトの隆盛に伴い、紙媒体である週刊風聞もご多分にもれず苦戦していたが、社会派記事に軸足を置いていた初代編集長が更迭された後、二代目編集長が誌面構成を大きくゴシップ記事寄りに軌道修正してからは、若干だが発行部数を持ち直すことに成功していた。その代わり雑誌としての品格というものは欠片も残っておらず、著名人の浮気や醜聞などのえげつないスキャンダル記事が誌面に溢れるようになった。しかしこの路線変更は、恐らく殺伐とした今の世相の要求を的確にとらえた正しい選択だったのだろう。社会の寛容や遊びといったかつて存在した余裕がますます失われていく現代、皆が日頃のストレスのはけ口として各々の正義感を存分に振りかざすことができる糾弾対象を求めているのだ。ただその結果、社会派記事を専門に書いている大輔に回ってくる仕事は以前に比べて大分減ってしまった。食いつないでいくためにはこういったパーティにも出席して、編集長はもとより自分よりはるかに年下の編集部員たちにも愛想を振りまいておくことが必要だった。

 パーティと言ってもチェーン展開している大手居酒屋の座敷を借りてのささやかな飲み会だ。細長く置かれた座卓の中央には編集長と広告会社の社員、その周りに編集部の正社員たち、そして端の末席には編集部の契約社員と大輔の様な身分保障のないフリーのライター達。総勢二十人ほどだろうか。ここにも自然と社会のヒエラルキーに沿った序列が形成されている。ニコチンと歯槽膿漏臭の混じった息をまき散らしながらの編集長のスピーチに続いて、歌舞伎町のホストのようなスーツを着た広告会社の社員が乾杯の音頭を取った。その後は特に何の趣向も用意されておらず、ただ歓談が続く。大輔は早速ビール瓶を持って席を立ち、目一杯の愛想笑いを作りながら編集長に酌をしに行く。一言二言、おどけた軽口をたたいてから自席に戻り、ふうっと大きくため息をついた。同時に首筋や肘の内側が無性に痒くなった。もう随分と前から悩まされているアトピーがまた出現したのだ。何度か医者に診てもらったこともあるが、社会の中に溢れている様々な化学物質に大輔の体が過敏に反応しているらしく、結局は現代人として生きている限り、痒みと付き合っていくしかないとのことだった。

 その時、ふと向かいの女と目が合った。色白の肌に金色に染めた髪が品よく映える若い女だ。

「お互い、弱い立場の人間は大変よね」

 その女は人懐っこい笑顔を見せながらそう言うと、大輔のグラスにビールを注いでくれた。

「まあ、仕方ないさ」

 大輔も女にビールを注ぎ返す。女のグラスに自分のグラスを軽く当てた後、生ぬるいビールを口に運んだ。苦い味だけが喉に残る。

「あなた、編集部で見たことあるわ。確か、たち、何とかさん?」

 女はその大きな瞳をまっすぐに大輔に向けてきた。

「舘畑大輔。ただのしがないフリーのライターさ」

「私は山根美穂。同じくしがない契約社員よ」

 そう言って女は自嘲気味に笑った。山根美穂という名前は聞いたことがあった。確か芸能人の浮気などのゴシップ事件を専門に追っているアグレッシブな若い契約社員がいると古い付き合いのライターが言っていたことを思い出す。

「君が山根さんか。有能な記者だという噂を聞いたことがあるよ」

 軽い社交辞令のつもりでそう言うと、美穂は意外にも頬を赤らめながら大げさに首を横に振った。

「私の書いているゴシップ記事なんて二束三文の価値もないわよ。私は食べていくために、矜持もなくただくだらないスキャンダルを追っているだけ。有能だなんて言われたら恥ずかしいわ」

 美穂は声を潜めてそう言うと、まだ琥珀色の液体が半分ほど残っている大輔のグラスにビールを注ごうとした。大輔は美穂からビール瓶を取り上げて机の上に置いた。

「山根さん、変に気を遣わなくていいよ。お互い手酌でいこうじゃないか。気を遣うならそのエネルギーを編集長たちに使った方がいい。お互い食べていくためにね」

 大輔が片目をつぶりながらそう言うと、美穂は薄くリップを塗った口元からきれいに並んだ歯を見せた。そして好奇心の強そうな瞳をまっすぐ大輔に向ける。

「私、舘畑さんの書く記事、好きよ。人々が自分のことだけで忙しい日常生活を送る中、つい素通りしてしまうような社会の不条理を丁寧に拾い上げて、それでいて読者に何かを上から目線で押しつけるわけでもなく、今まで見過ごしてきた大切なことや目を背けてきたことに読者が自然と気づくように導いてくれる、そんな温かくも強い矜持を行間に感じるの」

「おいおい、それは言い過ぎだよ。編集長からはいつも内容が地味過ぎて面白みに欠けるってお叱りを受けているんだ。実際、俺に与えられるページ数は年々減っているのだから」

 そう謙遜しながらも、大輔は美穂の賛辞に思わず頬が緩むのを感じた。大輔が大切にしていることを美穂が的確に指摘してくれたことがうれしかったのだ。フリーのライターという社会的に不安定な立場に甘んじてはいたが、大輔は少なくとも矜持を失いたくはなかった。記事を書くからにはそれが何らかの意味を持ち、誰かの価値観を刺激し、少しでも社会をよくすることに役立ってほしいと願っていた。今の弱肉強食の競争社会は本当に人々を幸せにしているのだろうか。たまたま裕福な親の元に生まれたから、育った家庭に文化的な理解があったから、そういった一部の恵まれた者たちだけが家庭教師を雇い、高い学費の高等教育を受けて、高い報酬の仕事を得て社会的成功者となっていく。一方で、塾などの学費を賄えない者、進学に対する理解のない親を持つ者、家庭内介護に追われる者などの将来には多くの場合、低報酬の仕事しか残されていない。どんな家庭環境に生まれたかは決して本人の責任ではないはずだ。徒競走で全員が手を繋いで一緒にゴールするというような極端な結果の平等を求める全体主義社会はごめんだったが、一方で今の社会は能力主義や自己責任といったスローガンばかりが喧伝され、巧妙に掲げられた機会の平等という張りぼてのルールのもと、努力と才能によって人々が振り分けられるのは仕方がないという風潮に満ちているが、実際は本人の責任とは全く異なる要因による機会の不平等が蔓延している。大輔は微力ながら自分の書く記事を通して、人々にこういった矛盾と不条理に気づいてほしかった。ただ、問題は大輔のそういった姿勢が今の編集長の目指す誌面作りとは合致していないということだった。自分に与えられるページ数がどんどん減っていくことからもそれは明白だった。

「舘畑さんの書くものは、私が書いているようなゲスな記事を浄化してくれる存在だわ。あなたはまさに週刊風聞の良心よ」

 グラスに残る気の抜けたビールを見つめながら呟く美穂の言葉は、大輔の心に深く染み込んでいった。


 美穂とは何となく意気投合し、パーティ終了後に自然と二人で近隣のバーの扉を開けることになった。じめじめとかび臭いコンクリートの階段を下りた地下、古びた木のカウンターの中に寡黙な老齢のバーテンダーがいるだけの小さな枯れた店だ。大輔は時間ができると一人でここを訪れ、水割りを傾けながら静かに小説の構想を練ることがあった。今はフリーのライターをしているが、ゆくゆくは社会問題をテーマとした小説家として独立したいと考えていたのだ。小説のストーリーの中に、機会の不平等や格差問題を取り込むことによって、自然に読者に現代社会の不条理や理不尽さに気づいてもらうことができるのではないかと考えていた。実際、既に三つの中編小説を書き上げていたが、なかなか発表の機会が得られず、それらは大輔のパソコンの中に保存されたままになっている。

 美穂はギムレットを注文した。カウンターの中の老人は大輔には何も聞かず、黙って濃いめの水割りを用意した。美穂のカクテルグラスに自分のタンブラーを軽く当てる。

「カクテル言葉って聞いたことあるかな」

 大輔は昔、カクテルについての記事を書く機会があり、様々なカクテルの持つ意味や由来を調べたことがある。

「初めて聞いたわ」

 美穂は体を大輔の方へ向けた。その口元から搾りたてのライムの爽やかな香りが漂う。

「それぞれのカクテルには花言葉のように意味が込められている。ギムレットには「遠い故郷を偲ぶ」という意味が込められているそうだ。ギムレットはチャンドラーのロンググッドバイのイメージが強いかもしれないけど、元々はイギリス海軍兵士が遠洋航海中に故郷を偲びながら船上で飲み始めたことに由来するそうだ」

 大輔がそう言うと、美穂は一瞬、その瞳に困惑の色を浮かべたかと思うと、ゆっくりと手元に視線を落とした。何かまずいことを言ったのだろうか。

「あっ、ごめん。つまらない蘊蓄だったね」

 大輔は慌てて取り繕いの言葉を発し、気まずさを誤魔化すために自分のグラスを口に持っていった。静かに流れるジャズの音色とともに、重たい沈黙が流れる。美穂はカクテルグラスを手の中で弄びながら中の液体を半分ほど飲み干すと、再び大輔を見やった。

「舘畑さんの故郷はどちら?」

 かすかに強張った声だったが、美穂の方から沈黙を破ってくれたことにほっとする。

「岩手の奥州市。藤原氏三代の都さ。舘畑姓の八十パーセント以上は岩手県出身者だそうだ。自然が豊かな所だけど人はどんどん減っている。もうずいぶんと長い間、帰っていない」

 咲き乱れるリンドウで紫に染まった夕暮れ時の畦道の光景が脳裏をよぎり、懐かしいような哀しいような感情が胸の奥で燻った。

「いずれは故郷に帰るつもりなの?」

「さあ、どうだろう。分からないな」

 故郷で一人暮らしをしている老齢の母の顔が浮かび、チクリと心が痛む。美穂はグラスを見つめたまま、かすかに頷くだけだった。


 結局その晩、美穂は自分のことはほとんど語らずに、大輔の話に耳を傾けているだけだった。それでも特に退屈な素振りを見せるわけでもなく、大輔の話に興味をもってくれているようだった。美穂の絶妙な相槌に促されるように、大輔は常態化していた鎧の下から久しぶりに素の自分が顔を覗かせているのを感じ、自分でも驚くほどだった。こんな風に誰かの前で生の自分をさらけ出して饒舌に語ることなど、六年前に真由美と離婚して以来なかったことだ。美穂の瞳がそうさせるのだろうか。美穂のその大きな瞳は、何事にも興味を示す強い好奇心に溢れていた。それは世界中のことを何でも知ってやろうというような若く貪欲な吸引力を伴っていた。特に美穂は大輔の書いている小説に関して強い興味を示してくれ、是非とも読ませてほしいと切望した。結局、翌日メールで原稿を送ってやることにした。


 数週間後、編集部の入っているビルでばったり美穂と遭遇した。

「舘畑さん、読ませてもらいました」

 美穂は悪戯っぽい笑みを浮かべながら、大輔に駆け寄ってきた。金色の髪が上気した頬の横で軽やかに揺れている。

「お世辞抜きで素敵でした。骨太のテーマをうまくストーリーに乗せているし、舘畑さんの高い筆力が全体に安定感を与えている。私、二回も読み返しちゃいました」

 当然お世辞だろうとは思ったが、大輔は素直にうれしかった。小説を書く作業というのは孤独なものだ。数か月の労力をかけて一人黙々と書くわけだが、その間、常に自分の中の疑心暗鬼と葛藤することになる。果たして自分の書いているものが、何らかの価値を持ちうるのだろうか。単なる自己満足の駄文を連ねているだけで、他人が読んだら面白くもなんともないのではないか。そういった疑念を振り払いながら、無理やりに根拠のない自信を奮い立たせて筆を進めるしんどい作業だ。たとえお世辞でも、他人からポジティブな評価を貰えることはうれしかった。書き続けるための原動力となる小さな自信になる。

「舘畑さん、全部で三作書いたって先日お聞きしましたけど、是非あと二作も読ませてください」

 美穂が輝く瞳で大輔を見上げた。


 やがて定期的に美穂と待ち合わせて食事をするようになった。美穂は若い女性にしては珍しく魚より肉料理を好んだので、大抵は洋食屋のような手頃な店で安いワインを片手に、お互いの仕事や話題の本や雑誌などに関して語り合った。美穂は自分の現状や将来に関しては生き生きと語るのだが、話題が過去や生い立ちに及ぶと途端に口をつぐんでしまう。自然と大輔も美穂の過去に関しては一切触れないようになっていった。やがてお互いを舘畑さん、山根さんではなく、大輔さん、美穂と呼び合うようになっていく。美穂は残りの二作の小説も絶賛してくれた。

「大輔さんには絶対に小説を書く才能があると思う。いつかきっと日の目を見る時が来るはず。この才能を世間が放っておくわけないわよ。その時が楽しみだわ」

 美穂は常に大輔の脆い自信を支えてくれた。美穂のまっすぐな賞賛を浴びているうちに、むくむくと書く力が湧いてくる気がした。


 季節が変わり、初めて肌を重ねた夜、美穂がポツリと呟いた。

「私、とても閉鎖的なところで育ったの。皆が同じ一つのことを信じているような、そんなところ。大輔さん、想像つかないでしょ」

 美穂が自分の過去について語ったのはそれが初めてのことだった。窓から射しこむ月の光が美穂のまつ毛を蒼く照らしている。

「それが嫌で、高校を卒業すると同時に故郷を出たの」

 大輔は返す言葉が見つからず、ただ美穂の瞳を曇らす影を見つめていた。いつも前向きな明るさをたたえているその瞳は、今は深い哀しみの色に覆われている。

「東京に来てからは、生きていくために必死だった。高卒の十八の小娘が一人で生きていくには、東京は決して優しい場所じゃなかった。でも、自分の尊厳を傷つけるようなことだけはしなかった」

 月明かりの下、青白く浮かび上がる美穂の顔の陰影が深くなる。大輔は、もっと美穂のことが知りたかった。どんな場所で少女時代を送り、どのような家庭で育ったのか。しかし、その寂しげな瞳を見ていると、とても何かを質問する気にはならなかった。そしてただ頷いてやることしかできない自分がもどかしかった。

「大輔さんと巡り合えてよかった」

 美穂は細い腕を大輔の背中に回し、強く自分のほうに引き寄せた。


 美穂と一緒に暮らし始めるようになるまで、そう時間はかからなかった。お互いのプライバシーを確保できるよう、狭いながらも二部屋あるアパートを借りることにした。美穂は相変わらずアグレッシブにゴシップ事件を追って、昼夜を問わず精力的に飛び回っていた。大輔のほうは資料探しなどで外出するとき以外は、大抵、自室に籠って記事の執筆をするのが日課だった。結婚生活で一度苦い思いをした大輔にとって、適度な距離感を持ったこの共同生活はちょうど心地よいものだった。そして、小説の執筆にも好影響をもたらした。美穂との生活が新たなインスピレーションを与えてくれるのか、前にも増して筆が進んだ。


 一度、美穂がスキャンダル取材に使っている道具を見せてくれたことがある。視線を向けた方向を怪しまれずに撮影できる隠しカメラを内蔵した眼鏡、駐車した車のバンパー下部に設置しておけば行き先が追える小型GPS発信機、相手のポケットなどに忍び込ませておく超小型ICレコーダーなどなど。これらを駆使して、マークしている人物が誰と会っているのか、車がどこのホテルやマンションに向かったのか、そこでどのような会話が交わされているのかが手に取るように分かるとのことだった。

「まるで探偵の七つ道具だな。美穂のターゲットにされた人物に同情するよ」

 半ば呆れながらそう呟く大輔に向かって、美穂がはにかんだ笑みを見せる。

「ゲスな仕事だけど、それはそれで結構楽しいのよ。私、宝探しをするみたいに隠された秘密を暴くのが好きみたい。きっと性格ね」

 確かに美穂の大きな瞳はいつもその好奇心を満たす対象物を貪欲に探しているようだった。


 気が向くと、美穂は朝まで大輔のベッドで過ごすことがあった。大輔の胸元に寄り添って小さな寝息をたてている美穂を見ていると、遠い昔に実家で飼っていた猫を思い出す。猫を撫でるような仕草で美穂の髪を撫でてやると、安心するのか鼻先を大輔の首元に寄せてくる。甘く温かい寝息が大輔の頬をくすぐる。暗い天井を見つめながら、大輔は今のこの生活がずっと続くことを祈った。


 ある晩、体を揺らされるような感覚で目が覚めた。胸元で寝ている美穂の体が不規則に痙攣しているのだった。静かに寝息をたてていたかと思うと、急に歯を食いしばって体を硬直させる。そして突然ビクンと体を痙攣させる。何か辛い夢でも見ているのだろうか、眉間には深く皺が刻まれている。そっと美穂の肩に手を回してやると、口元からかすかな寝言が漏れた。

「とうちゃん、ごめん」

 閉じている美穂の瞼から一筋、涙がこぼれた。大輔の前でいつも明るくふるまっている美穂は、この華奢な肩で一体、どんな過去を背負っているのだろうか。美穂は何も話さないし、大輔も何も聞かない。ただ、いつか自分もその重荷を分かち合いたいと願った。


 秋も深まったある朝、美穂が旅行鞄を抱えて部屋から出てきた。

「大輔さん、しばらく実家に帰ります」

 美穂の口から実家という言葉を聞いたのは、この時が初めてのことだった。

「高校を卒業して以来、ずっと帰っていなかったのだけど、父が危篤なんです。私、幼い頃に母を病気で亡くし、父だけが唯一の残された肉親なの」

 伏し目がちにそう言う美穂の表情は髪に隠れてよく見えなかったが、明らかに動揺している様が見てとれた。

「そうか、お父様の容体が回復することを祈っているよ」

 大輔の言葉に力なく頷くと、美穂は無言で出ていった。


 翌日の夜、大輔の携帯が鳴った。画面を見ると非通知の文字。何かのセールスかと思ったが、画面をタップした。ざわざわとした雑音とともに、聞き覚えのある声が漏れてくる。

「あ、大輔さん。美穂です。残念ながら昨日、父の臨終には間に合いませんでした。急遽、葬儀を今日、執り行ったところです。」

 沈んだその声からは、深い悲しみが伝わってきた。いつかの晩、美穂が発した寝言が頭に蘇る。父ちゃんという言葉が妙に生々しく美穂の濃密な親子関係を想像させた。

「そうか、何と言っていいか分からないけど、ご愁傷さまでした」

 気の利いた言葉が出てこない自分がもどかしい。

「明日、友達と会うことになったので、もうしばらくこちらに滞在します」

 美穂から郷里の友達という言葉を聞いたのも初めてのことだった。高校卒業以来、久しぶりに会うのだろうか。かつての友と会うことによって、父を失った悲しみが少しでも癒えるのなら良いことだ。

「気の済むまでゆっくりと過ごしたらいい。疲れが出ないようにね」

 電話の向こうで美穂がコクリと頷く気配がした。

 

 それから四日後、大輔が編集部の人間と打ち合わせをしている時、胸元の携帯が振動した。マナーモードにしていたので、そのまま留守電につながるはずだ。打ち合わせが終わり、携帯を取り出すと非通知の着信履歴と留守電の表示。再生ボタンをタップすると、雑音に交じって美穂の声が流れてきた。

「ひょんなことから、とんでもない事実を探り当ててしまったかもしれないの。もう少しこちらに滞在することにします。コンサートには間に合うように帰ります」

 幾分興奮気味のその声を聞き、美穂の好奇心に満ちた瞳が思い出された。父の逝去のショックから少しは立ち直ってきたのだろうか。

 コンサートとは、美穂が楽しみにしているNiziUのコンサートのことだ。美穂はNiziUの大ファンだった。大輔はそのグループの名前くらいしか聞いたことがなかったのだが、この九人組のガールズグループは若い女性に圧倒的な人気を誇っているようだった。韓国での厳しいレッスンに耐えた少女たちのレベルの高いパフォーマンスに美穂は夢中だった。特にメンバーの中のリクがお気に入りで、彼女にあやかって自分の髪も金色に染めたのだという。当然、コンサートチケットを手に入れるのは至難の業で、美穂は残念ながら一度もライブを見たことはないと言っていた。それを聞き大輔は何とか美穂の望みをかなえてあげたいと、ダメもとで雑誌業界の知人のつてを頼ったところ、偶然、十一月十三日の東京ドームコンサートのチケットを一枚、譲り受けることができたのだった。チケットを渡した時の美穂の喜びようは尋常ではなかった。頬を上気させ、ぴょんぴょんと跳ねたかとおもうと、歓喜の悲鳴を上げながら勢いよく大輔に抱きついてきた。その光景を思い出すたびに大輔の頬は緩むのだった。今日はまだ十一月八日だ。コンサートまで故郷でゆっくりすればいい。どのような理由があったのかは知らないがずっと離れていたのだから、久しぶりに会いたい人たちもいることだろう。


 その後数日、美穂からの連絡はなかったが、特に心配はしなかった。きっと今頃、旧友たちと昔話に花を咲かせているのだろう。しかし、ずっと一緒にいる生活に慣れていたせいか、美穂がいなくなると何か大きなピースが生活から欠落してしまったようで落ち着かない。執筆も今一つ手につかないことに気づいた。美穂はまるで俺のミューズだなと、一人苦笑いをした。


 しかし、何の連絡もないまま土曜日になると、さすがに心配になってきた。あんなに楽しみにしていたコンサートはいよいよ明日だ。さすがに今夜までには戻ってくるだろう。

 しかし、夜になっても美穂は帰ってこなかった。食卓の上にはコンサートチケットが置かれたままだ。家に立ち寄らずにコンサートに直接行くことはあり得ない。深夜、何度か美穂の携帯に電話をかけてみたが、その度に「おかけになった番号は…」という冷たいメッセージが返ってくるだけだった。そう言えば、美穂からかかってきた電話は非通知だった。携帯を持っていくのを忘れたのだろうか。何か事故でも起きていなければよいのだが。そもそも美穂はどこに行ったのだろう。こちらとは一体どこのことだ。


 うまく眠れないまま日曜の朝を迎えた。依然、美穂は帰ってきていない。ネットを開いてニュースを確認してみる。闇バイトによる強盗やSNS上での虐めによる女子高生の自殺など気の滅入るようなものばかりで、交通機関の事故や遅延を報じているものは見当たらなかった。再度、美穂の携帯に電話してみるが、何度試しても同じメッセージが流れるだけだ。

 結局、何も手につかないまま夕刻を迎える。既に東京ドームではコンサートが始まっている時間だ。やはりおかしい。あれだけNiziUのコンサートを楽しみにしていた美穂が連絡もなく帰ってこないなど考えられない。大輔は急に不安になってきた。何か尋常でないことが美穂の身の上に起きたのではないだろうか。

 更に時間は過ぎ、夜が更けていく。コンサートはとうに終了している時間だ。朝から何も食べていなかったことに気づいたが、何も食べる気にならなかった。明日が締め切りの原稿があることを思い出すが、とても机に向かう気にならない。美穂という存在が自分にとっていかに大きなものだったかをあらためて痛感する。

 何をどうしていいか分からないまま、ただうろうろと部屋の中を歩き回っているうちに不安は更に高まっていった。もしかすると美穂は助けを必要としているのではないだろうか。ふと、そんな考えが頭をよぎった。今すぐにでも助けに行くべきなのではないだろうか。時間が経つほど、美穂を取り巻く状況は悪化してしまうのではないか。何の根拠もなかったが、美穂の身に何か良からぬことが起こったのではないかという不安が時間と共に増大していく。やがてそれは抑えきれないほどの衝動と化す。このまま部屋で待っているわけにはいかない。手遅れになる前に行動を起こさなくては。しかし、一体どこへ行けばよいのだ。美穂は自分の故郷のことを今まで一度も語ったことがなかった。美穂の実家の場所など見当もつかない。いや、冷静になって考えてみよう。そもそも美穂はどうやって父親が危篤だということを知ったのだろうか。父親本人か周囲の人が美穂に連絡をしてきたはずだ。その場合、電話か手紙かメールか。電話かメールだった場合には美穂の携帯がここにない限り、何も手掛かりを得ることができない。ただ、手紙の可能性もあるはずだ。その場合、美穂はその手紙をどこにしまったのだろうか。

 二人で今のアパートに引っ越してきて以来、大輔は美穂の部屋に入ったことはなかった。一緒に暮らしているといっても、美穂のプライバシーを侵すことはしたくなかったからだ。ただ、今は非常事態だ。後で美穂に叱られるかもしれないが、このまま何もしないよりはましだ。そっと美穂の部屋の扉を開けてみた。かすかに淡いアロマの香りが鼻孔をくすぐる。狭い部屋にはほとんど家具はなかった。小さなベッド、小さな木の机、そして簡素な鏡台。二人で引っ越しをするときに全て美穂が量販店で買ってきたものだ。大輔との新生活を始めるにあたり、過去を思い出すような古い家具は一新したいと美穂が言っていたことを思い出す。そうやって美穂は過去を振り払い、常に前だけを見つめて生きてきたのだろう。しかし郷里の父親の危篤という連絡を受けて、再び過去に舞い戻ってしまった。そしてそこで何かが起きたのだ。大輔は片隅に置かれた机に歩み寄ると、悪いと思いながらも引き出しに手を伸ばした。三つある引き出しの上二つには仕事関連の原稿や資料が整然と納められていた。一番下の引き出しを開けると、何やらカラフルな小物がたくさん詰まっているのが目に入る。よく見ると、それはNiziUのファングッズだった。写真集、キーホルダー、ハンカチ、バッジ、アクセサリー、全てにNiziUのメンバーたちの愛らしい笑顔が溢れている。よくまあこれだけ集めたものだ。こんなに好きなのに、どうしてコンサートまでに戻ってこないのだ。

 結局、机の引き出しからは何も手掛かりを得られず、大輔はベッド脇の鏡台に視線を移した。女性の鏡台、それは男の大輔には全く馴染みのないものだったが、最もプライベート臭の強い、他人が手を触れてはいけない聖域に思えた。しかし、大切な手紙をしまうとするならばここではないだろうか。募る罪悪感を胸の内に抑えつけながら恐る恐る、鏡台の小さな引き出しを開けてみる。手前にはカラフルな化粧品と見慣れない化粧道具が収納されていた。その奥に何か箱のようなものが見える。引き出しをまるごと鏡台から引き抜いてみた。奥にあったのは古い文箱だった。途端に心臓の鼓動が速くなる。文箱に手を伸ばし、そっと箱を開けてみる。中には封書の束が収納されていた。全て美穂宛てに届いたものだった。裏の差出人名を見ると、どれも葦原恵美子という女性からのものだ。咄嗟に差出人住所に目を移す。そこには鳥取県日野郡日南町卑埜忌村ひのきむらとあった。美穂は鳥取県出身だったのだろうか。束の一番上の封書には速達の印が押されていた。消印は十一月一日、美穂が出かける二日前のものだ。恐らく、この速達が父の危篤を知らせるものだったのだろう。今まで他人に届いた手紙を無断で読んだことなど一度もなかったが、意を決して封筒から中の便せんを取り出し広げてみた。そこには青いインクの丸っこい手書き文字が並んでいた。


 美穂へ、お父さんが危篤です。数日前からこじらした肺炎がかなり悪化しています。美穂がお父さんに複雑な思いを持っていることは知っていますが、一応、お知らせしておきます。恵美子


 やはり、美穂はこの速達を受け取って郷里に向かったのだ。そして美穂の郷里は鳥取の卑埜忌村というところなのだろう。大輔は早速、ネットで鳥取県の地図を検索してみた。日南町は鳥取県の中でも西南の外れ、海からは程遠い中国山地の奥深くに位置していた。その西隣はもう島根県の奥出雲町だ。県境に船通山という山があり、その鳥取県側の山麓に卑埜忌村という小さな表記を見つけた。初めて聞く村名だ。東京の街を颯爽と飛び回る美穂の姿と山陰の奥深い村とが、どうもうまく重ならなかった。

 葦原恵美子という女性は美穂とどういう関係なのだろうか。一旦、美穂宛の手紙を読んでしまった今、自制心のたがが外れてしまったようで、大輔はつい速達の下の封筒にも手を伸ばしてしまった。消印は半年ほど前の日付だ。罪悪感に勝る好奇心に抗うことができず、中の便せんを取り出した。


 美穂へ、久しぶりに美穂から近況が聞けて、とてもうれしく思います。ずっと連絡がなかったからどうしているかと思っていました。そうですか、そんなに才能のある素敵な男性とお付き合いをしているとは、本当に良かったですね!今の美穂がとても幸せなこと、文面からよく伝わってきました。私もうれしいです。東京に出てから今まで随分と苦労をしたのだから、存分に今の幸せを堪能してくださいね。私は結婚してもう七年になりますが、まだ子供もできず啓一と二人の相変わらずの生活です。ここは時間が止まったような日々が続いていますが、歳だけはどんどん取ってしまいます。またお手紙くださいね。楽しみにしています。恵美子


 葦原恵美子の丸っこい文字を追いながら、大輔は目頭が熱くなるのを感じた。半年前の消印ということは、美穂と暮らし始めて数か月が経った頃だ。美穂がお世辞ではなく本当に大輔の才能を信じてくれていること、そして大輔との生活に幸せを感じてくれていることを葦原恵美子に報告をしたのだろう。美穂に対する愛おしい感情がこみ上げてくるとともに、その安否に対する不安が再び襲ってきた。今すぐにでも卑埜忌村に美穂を探しにいかなくては。

 葦原恵美子からの残りの手紙の消印は、どれも大輔が美穂と知り合う前のものだった。恐らく数年に一度といった頻度で二人は手紙をやり取りしていたのだろう。さすがに自分と知り合う以前の美穂宛てに届いた手紙を開ける気はしなかった。

 何の気なしに封書の束をめくっていると、一番下に筆跡の異なる文字が書かれた一通の封書を発見した。差出人名を見ると、山根巌とある。その途端、とうちゃん、という美穂の寝言が頭をよぎった。封筒は全体に黄ばんでおり、随分前に受け取ったもののようだ。消印を確認すると、十年ほど前の日付が押されている。宛先にある美穂の住所は東京都あきる野市となっている。美穂が東京に出てきてからまだ間もない頃に住んでいた場所なのだろう。肉親からの手紙は、友人からの手紙以上に開けてはいけないと思えたが、大輔は既にたがが外れてしまった自分の好奇心を抑えることができなかった。震える手で中の便せんを取り出して開く。黒いインクの力強い筆跡が目に飛び込んできた。


 美穂へ、手紙などを送ってくるのはやめなさい。お前は卑埜忌村を捨てたのだから、ここのことはもう忘れなさい。お前が出ていったあと、純平君は自暴自棄になり、俺は黒い手紙に悩まされている。二度と村に足を踏み入れることのないように。巌


 やはり美穂の父からの手紙のようだ。それにしても厳しい内容の文面だ。一体、二人の間で何があったのだ。たった一人の肉親から拒絶されながらも、美穂はその手紙を捨てることができなかったのだろう。ずっとこの手紙を大切に保管していた美穂の心の内を想うと、胸が痛んだ。大輔は丁寧に便せんを折り畳み、封筒に戻した。それにしても文中に出てくる純平とは誰だろう。そして黒い手紙とは一体何のことだ。いずれにせよ、一刻も早く美穂を探しに卑埜忌村に行かなくては。何かが起きているのだ。美穂の無事を祈らずにはいられなかった。

 大輔は卑埜忌村について調べてみようとインターネットで検索をかけてみた。しかし鳥取県の市町村の一つということ以外、ほとんどめぼしい情報は見つからなかった。今の時代、ほとんどの自治体が独自のホームページを開設しているにもかかわらず、卑埜忌村のホームページは存在していなかった。観光情報らしきものも一切見つからない。地方の自治体がお互いに競い合いながらその存在をアピールしている昨今、不思議なほど存在感の希薄な村だった。しかし、地図を見ると確かに鳥取県の奥深くに存在している。宿泊施設などがあるのかも不明だったが、大輔はとにかく卑埜忌村に向かうことにした。

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