尾呂血

@yagaiatsushi

第1話 五年前


「うむ、見事な刀剣だ。実に素晴らしい」

 月影国光は鞘から姿を現した白く輝く刀身を眺めながら、思わずうなり声をあげた。刀匠として幾多の名刀を目にしてきた国光だったが、その刀身の醸し出す異様な迫力は別格だった。鑑定や評価などという人間の矮小な価値判断を一切寄せ付けない、超越した存在感が国光の全身を稲妻のように鋭く貫く。その存在感の正体は、神聖と邪悪、崇高と凶暴の両極を包含した絶対的な凄みだった。

 その刀剣の形状は通常の日本刀とは異なり、剣の両側に刃のついた直剣だった。一般的に日本刀と呼ばれるものは反りがあり刀身の片側に刃がある刀剣で、平安時代中期に出現したとされる。反りが生まれたことにより、斬る対象物に対して刃が斜めに入り少ない力で引き切れることにより、効率的にその威力を発揮できるようになる。国光の手にしている刀剣は明らかに日本刀出現以前の時代のものだった。日本では弥生時代までの刀剣は青銅製であったが、三世紀の古墳時代の幕開けと共に玉鋼を鍛造して作る鉄製の刀剣が登場する。青銅製の刀剣とは比べ物にならないほどの丈夫な武器の出現である。この頃の刀剣の形状は両刃の直剣だ。やがて、五世紀末ごろに片刃の直刀へとその形状は変遷していき、平安時代の日本刀へとつながっていく。

 剣に魅入る国光の顔を刀身から反射した光が下からギラリと照らした。剣の長さは一メートル弱。鞘は朴の木で作られており、赤い漆塗りに豪華な螺鈿細工が施され、所々、緑碧玉が埋め込まれている。こちらもかなり手の込んだものだったが、恐らくは後世に作られたものだろう。しかし、刀身本体は明らかに古墳時代に作られたものだ。レプリカでないことは一目で分かる。良好な保存状態からも、かなり高貴な家系で代々厳重に保管されてきたことが伺える。

 月影国光は現代日本を代表する刀匠の一人である。三十代の時、史上最年少で無鑑査刀匠に選ばれている。無鑑査刀匠とは、刀匠がその技を競い合う展覧会において受賞審査をもはや必要としないという称号である。つまりそれだけ卓越した技量を持っているという別格の証だ。刀匠の中で最高位の名誉と言っても過言ではない。また、現代の刀匠は分業が進み刀鍛冶が焼き上がった刀身を砥ぐことはまれだが、国光はかつての刀工のように研ぎ士としても一流の技術を持っており、鍛造から最終的な研磨までをすべて一人でこなしてきた。還暦を過ぎた頃、焼き入れに使用するための質の良い湧水を求めて八ヶ岳山麓に鍛刀場を兼ねた庵を設け、齢七十を超えた今でも毎年、目の肥えた刀剣愛好家たちを唸らせる逸品を自ら製作しながら、同時に皇室や神社が保有する国宝級の古刀の修復研磨を請け負っている。日本の歴史を彩ってきた数々の名刀を実際に手に取って修復研磨をしてきた経験により、刀剣の目利きには揺るぎない自信があった。今、国光が手にしている刀剣は間違いなく本物、それも特上級の名刀だった。


 その依頼人から電話があったのは、まだ八ヶ岳に雪の残る三月のことだった。保有している刀剣の修復をして欲しいという依頼だ。しかし、国光は既に皇室や著名神社の宝刀の修復依頼を多数抱えており、一見客の依頼を請け負う余裕はなかった。丁重にその旨を伝えて電話を切った数日後、突然その依頼人が剣を携えて八ヶ岳の鍛刀場を訪ねてきた。いささかの不快感を顔に浮かべながら、国光は玄関先でその依頼人を追い払おうとした。するとその依頼人は、

「月影さん、一度この刀剣を実際に見てみてください。そうすれば、きっとお考えが変わるはずです」

 と、国光を正面から見据えながら自信に満ちた笑みを浮かべたのだった。失礼な依頼人だと思ったが、形だけでも刀剣を吟味するそぶりを見せれば満足して帰るかと思い、国光は渋々とその依頼人を室内に通すことにした。今までも何人かの刀剣愛好家が自分で過大評価した凡刀を国光の元に持ち込んでくることがあったが、大抵の場合は相手を傷つけない程度に刀の実際の価値を伝えてやると、落胆の表情を見せながらも納得して帰っていったものだ。恐らく今回も同様だろう。

 依頼人は無言で国光の後に続き、庵の客間に足を踏み入れた。そして持参した長尺の錦袋から丁寧にその中身を取り出すと、やや緊張気味な表情を国光に向けた。国光は視線を依頼人の顔からその手元に移した。赤漆塗りの鞘の表面に彩られた見事な装飾が国光の目を引いた。国光が鞘に納められたままの刀剣を受け取ると、一瞬、全身に霊気が走る。帯電したように、尋常ではないエネルギーが刀剣を持つ手から体中に伝わってくる。刀剣には魂が宿っていると言われることがあるが、ごくたまに歴史上の名刀を手にした時にも同様の霊気を感じたことがあった。この依頼人、あながちただの凡刀を持ち込んできたわけではないのかもしれない。唾をごくりと飲み込みながら、右手を柄にかけそっと刀身を抜いてみる。途端に眩い光を放つ両刃の直剣が姿を現した。周囲の空気がぴんと張り詰めるのが分かった。同時に圧を感じるほどの強烈な気が国光を襲う。息を呑み刀身に魅入る。呼吸をすることも忘れて、ただただ刀身の放つ妖しく眩い光に吸い込まれていく。心臓がバクバクと大きく脈打つ。国光はやがて我を取り戻し、深いため息を吐いた。

「うむ、見事な刀剣だ。実に素晴らしい」

 国光は興奮して言葉を続けた。

「三世紀から四世紀ごろに作られた直剣だ。それにしても素晴らしい保存状態だ。前に稲荷山古墳から出土した直剣を実際に手にしたことがある。刀身に彫られた金文字の銘文から西暦四七一年に作られたものと推定されているものだ。しかし、あれはかなり腐食が進んでいた。恐らくこの刀剣は更に古い時代のものだろうと思うが、奇跡的と言ってよい程の素晴らしい保存状態だ。まるで刀身が呼吸でもしているかのように生き生きとしている」

 興奮して話し続ける国光を、依頼人はただ感情の消えた瞳で見つめている。

「ただ、残念なことに若干の刃こぼれがあるようだ。そして、そこから既に腐食が始まっている。このまま放っておくと更に腐食が進んで取り返しのつかないことになる。そして刀身もかすかに曲がってしまっているようだ。恐らくこの刃こぼれと曲がりは最近生じたものだろう。錆びの進行状態から判断すると、刃こぼれが生じてから十数年といったところか。恐らく、無茶な扱い方をした者がおったのだろう。何ということだ、こんな名刀を」

 非難するような国光の視線を無視して、依頼人は言葉を発した。

「月影さん、修復と研磨をお願いできますでしょうか」

 こんな名刀を目にして、放っておくわけにはいかなかった。

「もちろんだ。このような名刀をこんな状態で放っておくわけにはいかない。私の持ちうる全ての技術を駆使して、必ずやきれいに修復してみせよう」

 依頼人はその言葉を聞くと満足げな笑みを浮かべて去っていった。


 その夜から国光は早速、その依頼人の残していった直剣の修復に取りかかることにした。今朝まで取り組んでいた、伊勢神宮に奉納するための太刀の製作はひとまず中断することにした。通常は二つ以上の刀剣を同時に作業することはなく、必ず一太刀ごとに作業を完遂してから次の太刀に取り組むのが常だったが、今回は何故だか分からないが直剣の修復を最優先すべきだという頭の中の声に従うことにした。鞘に収まった直剣をそっと作業台の上に置く。鮮やかな赤い漆塗りの上に広がる螺鈿細工が照明の下で虹色に輝いている。よく見ると螺鈿は龍の姿を描いており、両目には緑碧玉が埋め込まれている。蒔絵螺鈿と呼ばれる平安時代の技法だ。恐らく、元々存在した鞘が劣化したので平安時代に鞘だけ作り直したのだろう。そこにも確かな技術が見てとれた。この鞘だけでも国宝級の見事な逸品だ。ゆっくりと鞘から刀身を抜く。再び空気が張り詰め、異様な霊気が国光を襲う。全身の血管を帯電したような血液がドクドクと巡る。心臓の鼓動が激しくなり、こめかみの血管が膨らむのが分かった。思わず深呼吸をして自分を落ち着かせた。拡大鏡を鼻にかけ、丁寧に刀身を観察していく。不自然な力を加えたのだろう、やはり刀身が曲がっている。しかし、一体誰がこのような名刀をこんな状態にしてしまったのだろう。貴重な玉鋼を何度も鍛錬して作られる刀身は不純物が少なく、通常は粘り強く強靭になり、剣の力量のある者が使う限り刃こぼれや曲がりが生じることは滅多にない。恐らく、誰か刀剣の扱いに不慣れな者が闇雲に振り回したのだろう。しかし、このような名刀を使って一体何を切る必要があったのだ。

 刃こぼれと錆びの手当てにとりかかる前に、まずは曲がりを修復する必要があった。国光は刀身の強度を確かめながら慎重に作業を進めることにした。力を加えすぎると取り返しのつかないことになるので全神経を集中させて、刀身と会話をしながら徐々に曲がりを修正していく。骨の折れる作業だったが、まるで必要な力加減と力の角度を刀剣自らが指示を出しているかのように的確な作業が進められた。一心不乱の作業が夜通し続けられ、東の空が白み始める頃には刀身の曲がりは完璧に修復されていた。

 国光はここで一旦、休憩をして食事と仮眠をとろうと思ったが、何かがそれを許さなかった。頭の奥で、休むな、このまま続けろ、という有無を言わさぬ声が響いた。それは抗うことを許さない絶対的な声だった。時空を超えて直接、国光の脳内に響きわたる声。国光はその声に命令されるがままに作業を続けた。

 今度は刃こぼれの修復と錆びの除去だ。刃が不均一にやせ細らないように、慎重に研磨作業を進める必要がある。またもや刀剣が的確な研磨の粒度や角度を指示してくれているような気がした。全神経を集中した繊細な作業が延々と続く。陽が沈み、陽が昇った。刀剣は本来の姿を取り戻すにしたがって、嬉々とその放つ霊気の強さを増していく。一方の国光は全身の精気を奪われるかのように、急速に衰弱していった。刀剣の凄まじいエネルギーと対峙するには、国光は歳を取り過ぎていたのだ。朦朧とする頭の中で国光はある考えを巡らせていた。どうもこの刀剣はただの刀剣ではなさそうだ。今まで扱ったことのあるどんな名刀や宝刀とも違う、何か尋常ではない力を宿している。それはとても常人には制御できない絶対的な力だ。邪剣ではないが、恐ろしい剣だ。もしかするとこの剣は…ある考えが国光の頭に浮かんだ。いや、そんなことがあるはずはない。馬鹿げた妄想だ。しかし、このような剣が他に存在するだろうか。いや、そんなことはあり得ない。しかし、やはり…。国光はおもむろに作業台の脇の電話機に手を伸ばし、あるダイヤルを回した。


 最後の仕上げの研磨に取りかかった時には、既に何回目かの朝を迎えていた。いつの間にか、天井付近に霧のような白いものが立ち込めていることに気づいた。その不思議な乳白色の物体は国光の作業を監視するかのように妖しく頭上に滞留している。朝靄だろうか。しかし庵の窓は閉まっているはずだ。極限にまで達した疲労がただ幻覚を見せているだけかもしれない。

 国光はもう何も他のことは考えられなかった。とにかく、手元の刀剣を本来の姿に戻すことだけに全神経を集中していた。何かに追い立てられるように、命を削って作業に没頭した。陽が沈むころ、全ての修復作業が完了する。刀身は満足したかのように、妖しい光とほとばしる霊気を四方に発散させている。衰弱した国光はその霊気を浴びるほどに心臓の鼓動が弱まっていくのを感じた。刀身の放つ圧倒的なエネルギーにかろうじて耐えながら、最後の力を振り絞って刀身を鞘の中に納める。そのまま意識が遠のいた。


 人の気配がした。目を開けると、先日の依頼人が刀剣を錦袋にしまっているところだった。依頼人は床に倒れている国光を見下ろしながら、静かに呟いた。

「月影さん、見事な仕事です。感謝します」

 国光は猛烈な喉の渇きに気づき、かすれた声を発した。

「あんたか。悪いが水を一杯くんできてもらえんかな」

 しばらくすると、依頼人がコップに水をくんで戻ってきた。床にひざまずいて国光にコップを手渡す。国光は貪るようにコップの水を喉に流し込むと、激しくむせ返った。やがて咳がおさまると、弱々しい瞳で依頼人を見上げた。

「あ、あんた、その刀剣はどなたの持ち物なのかな」

 依頼人は幾分、憐憫の色を帯びた瞳で国光を静かに見下ろしている。床に横たわっている老人の命がもうあまり長くないことを察しているのだろう。

「これは八津神様の神剣です」

 それは国光がこの世で耳にした最期の言葉だった。

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