第二話 擦れ違い

「あら、いらっしゃい」

 その言葉とは裏腹に、彼女の顔はつんとそっぽを向いている。

「何時ものでいいんでしょ」

 彼女は手元の注文伝票に『珈琲コーヒーうずまきオリジナルブレンドブラックホット』と『クレープ・いちご』の文字を書き込むと、長い赤毛のお下げを振って、静かに皿を磨く店長の待つカウンター内へ向かおうとする。

「違う」

「じゃあ紅茶とパフェね」

 彼女は注文伝票の文字に線を引いて消すと、その下に『紅茶・ダージリン』と『パフェ・苺』の文字を書く――。

「違う」

 彼女――ルーシーと鏡花の会話は、何時もこうである。

「はあ? じゃあ何。髪型えたのを見せに来たってわけ?」

 ルーシーはカウンターの内側で腰に手を当て、鏡花を見下ろす。

 鏡花はこのごろ、髪型を色々と変えるのにっており、三日前には思い切ってショートカットにしてみたのであった。

 少し前には一つ結びにしたこともあったが、すると太宰が「じゃあ国木田君が二つ結びにすればいい」などという提案をし、純粋な国木田をおだてて全く似合わない二つ結びにさせ、数日後にやっと遊ばれていることに気付いた国木田が、太宰と銃撃戦を繰り広げるという事件があった。

 ――にもかくにも、鏡花がこうして髪型を変えるのは、そのたびに彼が「似合うよ」と云ってくれるからである。

 鏡花と敦は、いまきの無い社員寮で同居している。入社した当初は特に何も思わなかったが、鏡花は今、あの頃の彼と同じ十八歳。

 その歳で異性と同居するという状況になったにもかかわらず、彼はいつだって優しかった。

 鏡花は今になってこのことに、そして様々なことに気が付いた――。

 だが、その彼が、消えた。

 消えてしまったのだ。

「消えたの」

「はあ?」

 ルーシーは眉を互い違いにして怪訝けげんな顔をする。

 しかし店長は何かに勘付かんづいたようで、磨いていた皿を置き、愛用の色眼鏡カラーグラスの奥から鋭い視線を鏡花に送る。

「敦さんが」

「あっ、あいつが!?」

 ルーシーは一瞬、目を見開くが――。

「すっ、そんなわけ無いじゃない!」

 ルーシーが調理台に思い切り手を突いた衝撃で、皿やグラスが数個、床に落下して粉々に散る。

「どっか散歩にでも行ってるんじゃないの? それかあんた達がちゃんと探してないだけよ!」

「今、社員全員で探してる」

 鏡花は瞬きもせずに話を続ける。

「私も探してる。だから話を聞きに来た。何か気付いたことは無かったか」

「……さ、さあね。知らないわよ」

 鏡花の淡々とした調子に落ち着きを取り戻したのか、ルーシーは再び腰に手を当てて口を尖らせる。

「今朝、九時半くらいにあの麦藁帽子むぎわらぼうし君と一緒に出掛けたでしょ。それを見ただけよ。確か、いつも通り仲良く喋ってたわね。今日は、季節や天気、時間によって空気の味が違くて、一番美味おいしいのは夏の雨上がりの早朝だ――って話だったわ」

「どうしてそれを見たの。どうして覚えているの」

 武装探偵社の入る建物には他にも複数のテナントが入っているため、その従業員や客が喫茶『うずまき』の横の階段を頻繁に出入りする。また、『うずまき』の前の道には通行人が常に一人以上はいる。それなのに、敦と賢治が出ていった時間や二人の話の内容まで明確に覚えているのはおかしい。

「たっ、偶々たまたまに決まってるでしょ! 偶々! あたしはその時、外の窓を拭いてたのよ!」

 確かにそれなら、知り合いが通れば気が付いてもおかしくないし、外の窓を拭くという、何時もと比べて特殊な仕事をしていたのだから、時間や話の内容を覚えているのも頷ける――。

「彼女の話は本当だよ。私が彼女に窓拭きをお願いしたんだ」

 店長が心配顔で、しかし穏やかにルーシーの証言を補助する。

「彼女が敦君を見たのは間違い無いと思うよ。彼女、慌てて逃げ戻ってきたからね」

「はっ、はあぁ!? 逃げてませんから! 何を証拠にそんなことを! 店長の方が怪しい! ちょっとあなた、この人を尋問しなさい!」

 鏡花が店長の云うことなら間違いないと内心で頷いている間に、ルーシーは余計な補足をした店長の白髪の頭を丸盆の底でばっしばっしと殴る。

「ありがとう」

 一先ひとまず、ルーシーと店長が何時も通りの敦を見たということは分かった。

「他に何かあったら、連絡して」

「うん。早く見つかるといいね。気を付けてね」

 店長は騒がしいルーシーをものともせず、鷹揚おうように頷いて鏡花を送り出す。

『偶々なんだからーっ!』

 扉越しにルーシーの声を聞きつつ、鏡花はヨコハマの街を歩く。

 ……何か気付いたことは無かったか、って――。

 携帯電話が鳴る。

 すぐさまその宝物をそでから取り出して開き、一コール目が終わる前に通話ボタンを押す。

『どうだ。何か分かったか』

 国木田の声だ。その向こうからは、太宰の心中ソングが聞こえている。

「『うずまき』では、朝、何時も通りのあの人を見たって。それだけ」

『そうか。――お前は。お前は、何か無かったか』

 後半の言葉は、どことなく云いにくそうであった。

 喫茶『うずまき』の彼女たちよりも、武装探偵社の社員たちよりも――鏡花は誰よりも長い時間を敦と過ごしている――。

「……今朝の、お味噌汁……」

『味噌汁?』

 予想外の答えだったのか、国木田の声が珍しく半分裏返る。

「少し、からくなってしまった……」

 今日は鏡花が汁物当番であったのだが、普段なら間違えない味噌の分量を間違えた。

 それでも彼は、「美味おいしいよ」と云ってくれた――。

『その程度のことで、あの敦が機嫌を損ねる訳が無かろう』

 国木田の声は、どこか父親のようでもあった。

『お前がそれを一番よく分かっているだろうが』

 ――分かっている。

 彼の底無しの優しさを、鏡花は分かっているつもりだ。

 だが、あくまで、であるということが、このごろ気に掛かって仕方ない。

 彼は優しい。

 それは間違い無い。

 しかし、鏡花には分からない。

 単純な言葉にできないことについては、何も――。

『……どうした。喧嘩でもしたのか』

 いつの間にか、遠くから聞こえていた心中歌は止まっている。

 ――国木田が太宰を川に突き落としたのだろう。

「ううん……」

 敦が鏡花と喧嘩をすることなどないのだ。しかし、だからこそ――。

『何だ。気になることがあるなら、何でも云え』

 その言葉には、何時ものような威厳は無かった。

「……あの人、最近、あまり喋らない」

『そうなのか? 社では特に変わり無いと思っていたが……』

 国木田は電話の向こうで、ここ数日の敦の様子を思い返しているらしい。

「機嫌が悪いというより、疲れているというか……」

『ああ、それか』

 少し笑った息が国木田の携帯電話の送話口そうわぐちに当たり、鏡花の携帯電話の受話口じゅわぐちでがさ、と鳴る。

『ちょっとしごきすぎたな。悪い』

 武装探偵社調査員の異能力や身体能力の強化訓練は、これまで社員寮の外の土地で行っていたが、武装探偵社はおよそ一年前にヨコハマ郊外の広い土地を借り、敦は就業時間中やその前後に国木田や太宰と共にそこへ行って訓練をしている。

『最近、仕事も忙しいしな。訓練内容は調整するから心配するな』

 国木田の声に何時もの厳格さが戻った所から察するに、手帳に『敦:訓練内容の調整』と書き込んでいるらしい。

「……でも、あの人、楽しそうでもある。訓練から帰ってきた後……」

『着実に力が付いているからな。嬉しいんだろう。だが、疲労で仕事や私生活に支障をきたし、同居人を不安にさせるようでは元も子も無い。それでは強くなったとは云えん』

 国木田がきっぱり云うと、ぱたんと手帳を閉じる音がする。

『敦が見つかったらそれも云っておく。だから安心しろ。――他には』

 国木田は訓練の話を終わらせると、また質問をする。

「ううん。それだけ」

 安心しろと云われて安心できるものでもないが、話を聞いてもらって、国木田の話も聞いて、喉の奥に引っ掛かっていた重りは随分と軽くなっていた。

『なら、引き続き聞き込みを頼む。そろそろ花袋から連絡が行くはずだ』

 花袋は敦の消失現場とその周辺のセキュリティシステムに侵入し、敦の行方ゆくえを探しつつ、単独行動の鏡花を見守っている。

 国木田の電話が切れると彼の云う通り、直ぐに花袋から着信があった。

「もしもし」

『んあぁ、きょおおおおおおおおおかちゃんっ! ええと、あのぅうおおおぉぉぉっ!』

 電話の向こうの声は、聞き取るのが困難な程に裏返っている。

 花袋は武装探偵社の正式な社員ではないが、昔から鏡花のことをめいのように可愛がっている。しかし彼は他人、特に女性と接するのに慣れていないため、何時もこの調子なのである。

『ああああの、あっ、敦君はああぁ、ほんとに、ほ、ほんとに、忽然こつぜんと、消えてる、てるるるんじゃっ。ほ、ほら、防犯カメラに映ってたんじゃけどもお、ええと、そのっ、すっ、さ、三丁目の蕎麦屋の近くで、あっつし君と、けんーじ君が喋っておっててて、歩いててってて、で、ああんあ敦君が消えて、で、けっ、け賢治君が驚いてっ、あつーし君と、国木ん田に電話してるのじゃっ』

「分かった」

『あっ、でっ、でも、危ないからしてえええええ、ほら、現場には、くぅに木田と、だだだだだだ太宰が、行ってるからのであってえええ……!』

「分かってる」

『あの、のっ、えっと、じゃじゃじゃじゃじゃああああ、あ、敦君と賢治君が、そのっ、み、港を出る少し前、港の近くのっ、近くの? 近くの、近くのコンビニで、へっ、えへへへへへへへへへ! 変質者さわぎがあったようじゃじゃん! で、んでえ、じゃから、らああああっと、犯人は、捕まったんじゃが、いっ、一応、みみ店の人、とか、んー、も、ええと、近所の人などに、ほら、きっ、聞き込み、うん、聞き込みね、うん、してみるんじゃっ!』

「分かった」

『わ、あわわわかった? じゃ、じゃあ、く、国木田とかにも、れんれんれれれん連絡するから、ね、はい、じじじじじじじじゃあのーっ!』

「うん。ありがとう」

 鏡花が、苦手なことを懸命にやってくれた花袋に礼を言うと、受話口から何から発せられたのか分からない謎の音が響き、その音をぶち切るようにして電話が切れた。

「港近くのコンビニ」

 鏡花は確かめるように呟き、思い出の匂いがする方面へ向かって歩き始める。

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