短編小説「幸福の定義」

白鷹いず

 

 菜月(なつき)とよく話すようになったのは大学2年の夏休みからだった。同じ学科で互いに顔見知りではあったけれど、彼女は3人の女友達といつも一緒にいることが多く、なんとなく気にはしていたもののそれまで一度も話した事はなかった。

 夏休みに駅前の居酒屋でバイトを始めた時、たまたま偶然菜月もその居酒屋でバイトをしていた。バイト先で同じ学校の知り合いは俺たち二人だけだったから自然とよく話すようになった。

 二人のシフトが重なった日はバイトが終わってから深夜に二人で呑みにいくようになった。そのうちシンパシーが通い合ったとでもいうのか、菜月が俺の部屋に初めてやって来たその夜から、俺たちは恋人同士として付き合うようになった。二人とも一人暮らしだったから、菜月はほとんど自分の部屋には帰らずこっちに居着く様になった。そのうち着替えや身の回りの生活用品も置くようになり、いつの間にか半同棲状態になっていた。

 菜月と出会ったおかげで俺の学校生活はバラ色。バラ色ってどんな色なのか皆目見当もつかないが、とにかく幸福感に満ち足りた日々を送っていた。夏休みが終わっても、出勤日数を減らして俺も菜月も居酒屋のバイトを続けていた。シフトの関係で、出勤日が同じ日もあれば違う日もある。もちろん二人のことは店には内緒にしておいた。






 付き合い始めて3ヶ月が過ぎて12月に入ったある日、いつものように学校から二人で一緒に帰って来た。今日のバイトは俺が出番で菜月は休み。俺は準備を終えて出掛けようとした。


「それじゃぁバイト行って来るね」


 玄関で靴を履きながら振返り、菜月にバイバイと手を振ろうとしたのだが、菜月はそれに答えずキッチンの前で俯いて立っていた。深刻そうな顔をして床を見つめ何か考え事でもしているようだ。


「ん? 菜月、どうしたの?」


 俺が声をかけると、菜月はハッと驚いた表情で俺を見た。


「あ……うん? なんでもないよ……いってらっしゃーい」


 俺が不思議に思っているのを察したのか? 微妙に引きつった笑顔で無理矢理に笑った。なんとなく? いつもと雰囲気が違う。 


「どうしたの? なんだか元気ないじゃん?」

「え? そんな事ないよ……あ、ケンちゃん(俺の名前はケンジ)今日ね、夜にちょっとご飯食べに行ってくるね」

「そう。遅くなるの?」

「う〜ん……そんなにならないと思うよ」

「そっか」

「ケンちゃんバイトなのに、私だけ遊びに行ってごめんね」


 菜月は交友関係が広いし、例の3人の女友達とも一緒によく遊んでるようで、1人で出掛けることは今までもよくあったのに、なんで今日に限って『ごめんね』なんて? そんな事を言われたのは初めてだ。だけど気にすることもないだろうと、その時はそう思った。


 バイトを終えて夜中の11時過ぎに帰宅すると菜月はまだ帰っていなかった。電話もメールも来てなかったけど、そのうち帰ってくるだろうし、こっちから連絡するまでもないだろう。

 俺はシャワーを浴びて缶ビールを開けた。冷蔵庫から適当にツマミを出して一杯やりながらぼんやりテレビを眺めていた。するとスマホが鳴った。菜月からのメールだった。


『ケンちゃんごめん、今日は家に帰るね。明日の朝、学校へ行く前にそっちへ行くから』


 俺はこれといった根拠もなかったのだけど少し心配になってすぐに返信した。


『そうなの? 何かあった?』


 それから5分ぐらい経っても返事が来ない。

 なんだか胸騒ぎがして不安になる。

 すると返事が来た。


『明日話す。おやすみなさーい♪』


 明日話す? 

 何を話すんだ?

 すごく気になるじゃないか!

 訊いてみようか……だけど明日話すって言ってるし……。


『了解、おやすみー』


 とだけ返信した。


 さて、布団にもぐったはいいけど目が冴えて眠れないぞ。いつもならすぐ横に、時には俺の腕枕の中に菜月がいて眠っているのに、理由も言わずに急に自分の部屋に帰るなんて。いきなりだったせいなのか? 独り寝の寂しさがよけいに辛く感じる。不安な気持ちが寂しさに拍車をかける。

(まさかこのまま帰ってこないなんて事に……)

 ばかな事を考えるのはよそう! 俺って、いや、人間は多分みんな寂しがりやで不安に弱いもんだろう? 特に想定外の事が起きた時には慌ててしまうもんだろう? 悪く考えるのはやめにしよう。

 なかなか寝付けなくて布団の中でモゾモゾしていたが、バイトの疲れもあったし俺はいつの間にか眠っていた。



 ●



 ガチャ!

 部屋の鍵を開ける音がして目が覚めた。カーテン越しに日が差し込んで部屋の中が明るい。朝になったらしい。ドアが開いて誰かが入って来る気配。きっと菜月だ! 俺は飛び上がるように起きて玄関の方を見た。


「あ、ケンちゃん、おはよう……」


 壁に手をつき片足で立ってブーツを脱いでいる菜月が玄関にいた。


「おはよー!」


 よかった! 帰ってきた……しかし、喜んだのは一瞬だけだった。菜月の背後に背の高い男が立っていた。見た事のある顔のような気がしたけど、咄嗟の事で誰だったか思い出せない。


「誰だよ?」


 予想もしなかった突然の訪問者にわけがわからず、一気にイラついた俺の質問には語気に怒りがこもっていたのだろう。菜月はギクッと震えて俺に真顔を向けた。俺は菜月を睨みつけた。菜月はまるで悪戯がみつかったバツの悪い子供のように殊勝な面持ちで目を伏せた。


「誰だよそいつ……え? まさか……今まで一緒だったのかよ!」


 俺は声を張り上げていた。

 昨日感じていた不安な気持ちが急激に蘇る。

 心配が的中してしまったと思うと、どうにも怒りが込み上げてきて押さえが利かない。

 男もまた神妙な面持ちで、ともすれば俺を哀れむ様な、そんな悲しげな表情で俺を見ている。

 菜月が男を振返った。


「ソウちゃん、やっぱり外に居て。ケンちゃんと二人で話がしたいの」

「……だ、だけど……悪いのは俺だ。俺も一緒に謝るよ」


 謝るだと?

 菜月と一緒に謝らなければならないような何かをしでかしたのか?!


「とにかくお願い、今は二人で話をさせて……ねっ」


 すると男は引き攣った面持ちで俺に向かって軽く会釈をしてから外に出ていった。


 俺は布団の上にあぐらをかいて座っていた。

 菜月が近くに来て座った。

 俺は興奮のあまり肩で息をしていた。

 訊きたい事が山ほどあるはずなのに言葉が出てこない。

 こんなに取り乱していては息が詰まって満足に喋れない。

 俯いたまま菜月も黙っている。

 重苦しい時間だけが過ぎていく。

 なんて言って切り出せばいいんだ?


「あの、ケンちゃん……」


 菜月は俺と目を合わせず俯いたまま話し出した。


「彼、演劇部で知り合った経済学科の人……」


 俺は菜月を睨みつけたまま黙って聞いていた。


「……その……どこから話せばいいのか……あのね」


 菜月が顔を上げた。


「先々週だけど、彼の弟がバイクの事故で亡くなったの……それでね、彼……相当ショックを受けていて学校もずっと休んでいたのよ。演劇部の2年生は彼と私だけだったから、学科が違うけど仲がよかったのね。だから……私、心配になって彼に連絡をしたの。そして気分転換にって外に連れ出して、彼の話し相手になっていたのよ」


 思い出した。

 2週間ぐらい前、確かに菜月は「友達の弟が亡くなった」と言っていた。


「……それでね、昨日の夜も彼に会っていたの」


 別に男友達に会っていたぐらいなら、それがツーショットだったとしても俺はここまで慌てない。問題なのはそれを俺に言ってなかった事。いや、それよりも気になるのは、菜月のこの異常に重々しい深刻な顔。ただの友達をわざわざ朝っぱらから連れて来るなんて、そこまでする理由もわからない。


「なんで? どうして俺にそのこと言わなかったの? 今までも何度も会っていたのかよ?」

「……うん……だって、いくら友達でも男の子と二人っきりで会うのって……だから言い出せなかったのよ」

「俺に黙って、俺に内緒であいつとしょっちゅう会っていたのか? いくら友達だからって……」


 俺は嫉妬している。

 当然だ!

 だけどなんだか情けない気分になってきた。

 同時に菜月に対する怒りが憎しみに変わりそうで吐き気がしてきた。


「ごめんね……だけど、彼、大学辞めるなんて言うから……そんな事したって意味ないでしょ? 可哀想で危なっかしくて……見てられなかったのよぉ~」


 菜月の目に涙が溢れた。

 手の平で口を覆い声を出さずに静かに泣いていた。

 菜月の泣き顔を見ているうちに少し可哀想にも思えてくる。

 一方的に昂っていた怒りの感情が少し萎えてきた。


 ところが……わずかに冷静になって頭が廻ったせいか?

 最悪の状況が脳裏に浮かんでしまった。

 怒りが一気に納まって同時に深い悲しみに胸が引き裂かれるような気分になった。


「菜月……まさか……本当に? ……昨日ヤツを部屋に泊めたのか?」


 菜月の嗚咽が止まった。

 真っ赤に腫らした目で俺を見る。


「……ごめんなさい」


 めまいがした。


「彼、酔い過ぎてお店で泣きじゃくるから、私の部屋へ連れてきて休ませようとしたの……」

「それで?」


 菜月の口からこのあと出てくる言葉を聞くのが怖い。

 しかし聞かない訳にはいかない。


「彼に……やめてって言ってもきいてくれなくて……」


 怒りからなのか悲しみからなのか?

 頭に血が上り、いや、血の気が引いたのか? どっちでもいい! 意識が飛びそうになった。


「私……彼の悲しみを受け入れてあげないとって……そう思った……だって! そうしないともう、ソウちゃん壊れちゃいそうだったのよ」


 菜月がまた泣き出した。


「………菜月お前、あいつと……?」


 菜月が顔を上げた。しかしすぐに目を逸らした。


「……うぅぅ、ケンちゃん、ごめんね……ごめんなさい……」


 心臓が高鳴る、息が苦しい、体が震えて声を出せない。

 菜月は泣き続けた。


「……菜月」


 菜月がわずかに顔を上げた。

 怒鳴りつけたい激情を必死に抑えて、俺は震える体を押し沈める様にして声を絞り出した。


「お前の、それ……同情だろ! そんなんで、そんな事したって……そんなのだめだろ!」


 自分でも何を言っているのかよく理解出来ていない。

 菜月が大きく深呼吸をした。


「私、ケンちゃんが好き……だけど、ソウちゃんも見捨てられないよ」


 はっきりした口調でそう言い切った。


「だけど昨日、ソウちゃんと一緒に居て……わからなくなったの」

「何が!?」

「……自分の気持ち」

「だから、それはただの同情だろ! 見捨てられないって? お前何様のつもりだよ?」

「ううん、同情じゃないよ。だから……『好き』って思う気持ちがわからなくなったのよ」

「……どういう意味?」

「ケンちゃんは……普通に学生生活……送れるでしょ……でも、ソウちゃんは……」


 菜月が言葉を詰まらせて俯いた。

 しかし何か覚悟を決めた様に顔をあげ俺を見据える……、


「でもソウちゃんは! 私がいないとダメになっちゃう!」


 懇願する様な目つきで訴えかけるように声を荒げた。

 菜月の悲痛な叫び、その迫力に、逆に少し興ざめしてくる。

 俺は静かに諭す様に話し出した。


「……だから何?……だって、身内を事故で亡くしたのは気の毒だと思うよ。菜月が同情するのもわかる。だけどそういう悲しみを背負った人、世の中にたくさんいるだろう。なんでアイツだけ、お前がいないとダメになっちゃうんだよぉ!」


 抑える事が出来ず、結局最後はヒステリックに声を張り上げていた。

 怒鳴り声が聞こえたのか? 玄関のドアが開いて男が入って来た。

 おそらく俺は、生まれてから今日まで誰にも見せた事が無い醜くゆがんだしかめっ面でヤツを見たに違いない。


「すいません」


 男は、菜月の横に寄り添うように座って土下座した。


「すいませんじゃねーよ!」


 そう怒鳴りつけるだけで精一杯。

 他に何をどう言えばいいのか。


「お願いケンちゃん! 怒らないでぇ! 全部私が悪いの……わぁーん」

「そんな事ないよ! 菜月は悪くない! 悪いのは俺の方だ」


 男をかばうように抱きついて菜月は声を上げて泣きわめいた。

 男も菜月の肩に手を回して抱きしめる。

 ……なんなんだ? こいつらいったなんなんだよー!


 昨日まで、菜月は俺だけの菜月だった。

 一緒に住むようになって半年も満たないが、俺たちは互いに心を通わせ合った恋人同士のはずだった。

 その菜月がいきなり他人になってしまった。

 信じられない。

 俺たちは心の底から愛し合っていたんじゃなかったのか?

 なのに、こんなに簡単に人の心ってひっくり返るものなのか?


「ごめん、菜月……」

「ソウちゃん……」


 なんと!

 こいつら 俺の目の前でキスしやがった!

 まさか菜月のこんな姿を見る日が来るなんて、地獄だ!

 生き地獄だよこんなの!

 怒りが込み上げて、くやしくて情けなくて、だけど猛烈に悲しくて、ダメになりそうなのは俺の方だぁぁぁ!



 ●



 ガチャ!

 部屋の鍵を開ける音がして目が覚めた。カーテン越しに日が差し込んで部屋の中が明るい。朝になったらしい。

 ……え? 俺は夢を見ていたのか? マジか? 今のは夢だったのか?

 ドアが開いて菜月が入って来る気配。俺は今にも泣き出しそうな激情をなんとか抑え、冷静さを装った。


「あ、ケンちゃん、おはよう……」


 壁に手をつき片足で立ってブーツを脱いでいる菜月が玄関にいた。俺はまだ寝ぼけているのか? 体中が震え、泣き出したい衝動を抑えているのが辛い。思わず菜月の背後を見た。ドアは閉まっていて誰もいなかった。


「昨日、ごめんねぇ~実家からお姉ちゃんが急に出て来てさぁ、ご飯食べるだけかと思ったらいきなり泊めろって言うんだもん」


 お姉ちゃん?


「まださぁ、ケンちゃんの事、家族の誰にも言ってなかったのね。この際だからお姉ちゃんには言っておこうかどうかって迷ったのよね……あれ? ケンちゃん? ……どうしたの?」


 体中が力んで震えている俺を見て菜月が不思議そうな顔をして近づいて来た。


「ケンちゃん? どうしたの?」


 菜月は真顔で心配そうに、俺に寄り添って座ると顔をのぞき込んだ。だめだ、もう我慢出来ない。


「菜月ぃぃぃ~」


 俺は多分、生まれてから今日まで誰にも見せた事が無いクシャクシャのみっともない泣き顔を晒していたに違いない。菜月に抱きついて声をだして泣いていた。


「え? ケンちゃん? どしたの? どこか痛いの? ね~どしたのよ~」

「お、俺、うぅ、菜月が、お前が好きなんだ」

「えー? どうしたの……私も……ケンちゃん大好きよ」


 なんだか嬉しそうな声で菜月が驚いている?


「あは? ケンちゃん夢でもみたの? まだ寝ぼけてるんじゃない?」


 笑われたっていい! 菜月がこうしてここに居てくれれば、それだけでいい!


「怖い夢だったのね? も~ケンちゃん子供みたい、ヨシヨシ泣かないの~」


 くっそ~! こんな醜態を見せるなんて恥ずかし過ぎだ。だけど心底ほっとしたんだ。涙が止まらない。


「私がいなくて寂しかった? ケンちゃん、ごめんね」


 いきなり気分が落ち着いてきた。大泣きするとスッキリするって言うのは本当みたいだ。とりあえず泣くのをやめた。


「あははは、ケンちゃんって寝ぼけ癖があるの? こんなの初めてだね。ほらぁ涙拭いて~」


 菜月がティッシュで顔を拭いてくれた。俺はティッシュを取り上げて菜月の手を払った。


「いいよ、自分で拭くから!」

「ふふふ、ねぇ、朝ご飯食べよう。今パン焼くからね」

「……うん」

「あとはウインナー炒めて、それと目玉焼きでいいでしょ?」

「うん」

「待ってね、すぐ作るから。ご飯食べながら夢の話教えてね」

「……」


 寝ぼけただけだとわかって安心したのか? 菜月はそそくさと立ちあがりキッチンへ行って朝食を作り始めた。


 夢を見て泣くなんて、記憶にある限り小学校の低学年の頃以来だと思う。

 本当に、思い出しただけでもゾッとする。菜月が他の男を好きになるなんて考えた事もなかった。そして、もしそうなった時に、自分がこんなに悲しくなって泣き出すなんて思ってもみなかった。


「ん? どうしたの? 何見てるのよ~」

「え? いや、別に……」


 キッチンに立つ菜月の後ろ姿を俺は無意識にじっと眺めていたようだ。



                        「幸福の定義」END

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