紅をさす

阿賀沢 周子

第1話

 宮丘公園のトンネルをくぐると右手に住宅街が広がる。そこから山側へ登って行き、住宅脇の細い道を何度か折れて、突き当りに自然の木立に囲まれた蕎麦屋『閑庵』がある。

 主人の花井敬一は玄関前の石畳に水を撒いていた。11時、蕎麦は打ち終わり、昼を食べにくる何組かの常連のいつもの献立も準備してあった。妻のゆきは庭で摘んだ花を、各卓に活けているところだ。暖簾越しにエプロンと寸胴ぎみの脚が見えている。

「敬一さん、澤山さんがいらっしゃったわ」

 中から声がした。灌木が並ぶ前庭から通りは見えない。ゆきは東向きの窓から澤山の姿を見つけたようだ。毎日のように『ざる』を食べに来る70くらいの男性客だ。

 挨拶を交わして客を先に庵内に入る。澤山はいつもの玄関横の席に着いた。卓には瑞々しい紫色のエンレイ草が活けてある。

「いらっしゃいませ。いつものでよろしいですか」

「いいや。今日は『たぬき』にする。うちのかみさんが毎日冷たいのはダメだっていうんだ。年寄りの冷や水とかいってね」

「お腹の調子でも」

「そんなことはない。定年になってこの方毎日のように『ざる』だったのに『いうことを聞かないと介護してあげない』なんてね、のたまうもんだからさ」

 聴くと澤山の12歳下の妻は、ヨガとやらにはまって10年来健康そのものだが、72になる自分のほうはガタがきはじめているので逆らえない、と言って笑う。

 敬一は厨房で窯の火を大きくして湯が沸くのを待つ間、揚げ玉と鳴門巻きを用意する。

 趣味の蕎麦打ちが高じて、45歳で脱サラをした敬一は、自分の蕎麦屋を持つために円山で評判の手打ち蕎麦屋に修行に入った。3年目に入ったころ修行先の主人が急逝した。主人の腕と名前で持っていた店は、規模がやや大きめで、立地が高級住宅街だというのもあり、弟子の中に跡を継ぐ者がいなくて、たちまち立ち行かなくなった。

 よくしてもらった恩や成り行きばかりではないが、忌明けに主人の女房だった11歳年上のゆきとそのまま所帯を持ち、ここに新たな店を構えた。澤山とは逆の年齢差だ。

「あがったよ」

 ゆきが、用意した盆に『たぬきそば』を乗せて卓へ運ぶと、澤山は両の眉を揚げて苦笑いしてみせた。

 修行の場で初めて会ったとき、ゆきは50半ばで、体つきは今と変わらずぷっくりしており、いつも暖かな笑顔をたたえていた。穏やかな性格と、よく気の付くところが好きで歳の差を意識することもなく8年が経った。

 ゆきは店に出るときいつも赤い口紅をつける。敬一は『閑庵』を開店した当初、化粧が濃すぎるし似合わない、と何度も注意した。薄化粧にはなったが口紅は赤いままだ。白髪染めはしないのに、唇は真っ赤に塗る。

「『たぬき』もうまいが、せっかくのそばのかおりがなぁ。もう少し暑くなったら、嫁に『ざる』の許可をお願いするか」

 澤山はそう言って帰っていった。

 間もなく近くの建築事務所の所員が何人か来た。2時過ぎまで客足は途絶えることがなく、打ったそばはほとんどなくなった。

 3時にいったん店を閉め、二人は賄い飯を作って食べる。夕時の仕込み前のこの時間が一番落ち着いてくつろげた。

「あちこちで介護という言葉を聞くようになったわね」

 茶を入れ替えながら溜息をつく。敬一はゆきを見上げて、口紅がはげかかっているのに気付いた。

「ゆき、やっぱり口紅は薄いほうがいいよ」

 話が口紅のことになってゆきは戸惑ったのか、空いた手で唇を隠し、茶碗を敬一の前に置いて窓の外を見やった。庵の玄関のある北側は道を挟んで少し下った谷で、坂から生えている天然のブナやナラの深緑は、窓を蓋い目を癒してくれる。

「いまさら言うのも恥ずかしいけど、理由はね、敬一さんです」

 何を言い出すかと敬一はまじまじとゆきの横顔を見る。

「最初の夜、形がきれいだ、って私の唇を優しく撫でてくれた。そんなこと言ってもらったことがなかったの・・・」

 頬を赤くしてそれっきり何も言わずに片づけを始めた。

 敬一は覚えていなかったが、確かにそのころから丁寧に口紅を塗るようになった。若い時の結婚ではなかったし、『閑庵』の開店準備で忙しく新婚らしい生活もないまま、いつしか元からの夫婦のような暮らしになっていた。互いにそれで充分満足していると思っていた。赤い唇には自分への思いが秘められていたのか。

 ゆきは、化粧ポーチを持って洗面所へ入った。

 紅をつけて出てくるだろうか。できたらいつもと同じように紅をさして戻ってきて欲しいと、今の敬一は思っていた。


 


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