ネガティブダーク、小悪魔コンフィチュール

葉月氷菓

ネガティブダーク、小悪魔コンフィチュール



 帰りのホームルームが終わり教室が俄かに騒がしくなる中、私はチョコを一枚口に放り込む。

 一枚、と現したのは、それが三センチメートル四方のごく薄い板状のチョコレートだったからだ。板チョコ一枚を丸ごと口に押し込んだ訳ではない。私はそんな口裂け女みたいな口をしていない。コンビニでも売ってる、箱入りで個包装のたくさん入ったやつだ。バリエーションもいろいろあって、お気に入りはオレンジピール入り。

 チョコレートは実に個性豊かだ。ミルク、ホワイト、ルビー。ドリンク、チップ、シロップ。フルーツやナッツを包んでいたり、逆にビスケット生地に包まれたり、挟まれたり。駄菓子から、ひと月分のお小遣いが一度に吹き飛ぶような高級品まで様々。

 その多様性は人間と一緒だろうか。なんて、感傷的なことを考えてしまうのは、今年もバレンタインデーが近づいてきた所為だ。大抵のクラスメイトらが色めき立って、意識し合って、なんだか気後れする。それに、どうせ叶わぬ恋を抱く者にとって恋愛イベントなんて心がささくれ立つだけで嬉しいことなんてない。それに、バレンタインデーの翌週からは二年生最後の期末テストが始まる。気を緩めてもいられない。

 鬱々とした思考を景気づける為に、オレンジのチョコをもう一枚取り出し包装紙を剥いていると、私の机に誰かが近づいてくる気配を感じた。


「あ、小山さん! いっこちょーだい?」


 明るく可愛らしい声で呼ばれ、顔を上げるとクラスメイトの鎧塚さんがあーん、と小さな口を雛鳥みたいに開けて待っていた。有無を言わさぬおねだりに、「どうぞ」と言って私は剥き身のチョコを差し出す。鎧塚さんはそれを私の指から唇で食むように攫っていった。

 ──その刹那、唇が僅かに指先に触れ、柔らかく瑞々しい感触が伝わる。悪事を働いてしまったような後ろめたさで、私は手を引っ込めて隠すように膝上に置いた。

 おいしい。これ好き。と彼女は軽く首を傾げて笑う。無邪気であどけない仕草が嫌味に感じない程、彼女は完成された可愛さを持っていた。


 彼女をチョコレートに喩えると──きっとホワイトチョコレート。まっさらで純粋でけがれを知らない、そんな女の子。華やかなルビーも似合うけれど、眩しいほどの純白の方がしっくりくる。私がそんな妄想に耽っていると、鎧塚さんは「本題」に入った。


「ね、小山さん。ほんっとゴメンなんだけど、また数学教えてくれる……?」


 彼女は顔の前で拝むように両の掌を合わせて、その後ろから私を伺い見るように、潤んだ瞳をちらりと覗かせる。そんなあざとい仕草でお願いされて断れる人間はこの世に存在するのだろうか。


「全然、いいよ。約束だったもんね」


 鎧塚さんはクラスで、いや学年でもトップクラスに可愛くて男女問わず人気のアイドルみたいな存在だ。友達が多くて教師受けもよく、成績だって良い。

 卑屈なことを言えば、暗くて地味な私とは本来は接点の生まれようがない高嶺の花だけど、幸い(と言うのは鎧塚さんに悪いが)数学の成績だけがやや振るわない彼女の補習に付き合ったことが切っ掛けで、こうして試験前にだけ話す程度の仲になった。

 〝テスト期間限定のトモダチ〟。自虐が過ぎるかもしれないけど、私と彼女の関係性を表す言葉としては、その辺りが妥当だろう。私の勉強の成績が比較的良いのは鎧塚さんをはじめ、他のみんなが謳歌している青春を切り売りして得た時間を勉強に充てているからに過ぎない。器用に両立してる子だって居るというのに。友達も居ない上に要領も悪い私だけれど、それでも今は良かったと思う。不器用に黙々と勉学に励む姿が、鎧塚さんから見て『勉強だけは頼りになりそう』な風に見えたのだろうから。

 理由はどうあれ、鎧塚さんと放課後二人きりの時間を過ごせることが、ただ嬉しい。


 すこし話しただけで。

 すこし触れ合っただけで。


 私は彼女に対して、無謀にも特別な感情を抱いてしまった。青春耐性を培ってこなかった自分の単純すぎる精神構造に嫌気がさす程に、私の心は彼女という存在に惹かれていた。



   ◆



「ね。お礼がしたいんだけど」


 放課後の勉強中、鎧塚さんが形のいい爪で私の手の甲につんと触れたので、思わず私の肩がびくりと跳ねる。彼女の提案に「いいよ、そんなの」と生産性の欠片もない謙虚さを発揮しかける私の性格を見抜いたみたいに、彼女は私の言葉を待たずに続けた。


「明日、一緒にチョコ買いに行きたいな……バレンタインの。ってか逆に付き合わせるみたいで悪いんだけど。ふたりでさ。どうかな?」


「えっ……ふたりで?」


 明日は土曜日で、つまり学校は休みだ。休日に二人きりで逢うなんて、まるで特別な関係になったみたいだ。……舞い上がり過ぎか。仲がいいというのは、放課後も休日も境無く一緒に過ごすような間柄を指すものだろう。〝一回だけの特別〟を大事に、丁重にと考えるのは、それ以外が希薄である証左だ。飛び上がる程に嬉しい誘いを受けて尚、ネガティブな思考が墨を落とす。成功体験のない私が陥った悪癖だ。


 私をチョコレートにたとえると──カカオ百パーセントに程近いダークチョコレートだろうか。苦くて渋くて愛想も色気も無く真っ黒で地味でネガティブで。みんなが好きで求めているのは、きっと華やかで甘いチョコなのだ。彼女とは違う。


「あれ? おーい、小山さーん?」


 可憐な声で、自虐的な妄想に浸っていた思考が現実に引き戻される。彼女は私の顔を覗き込んで心配げな顔をしている。眼前十五センチメートルの距離にまで迫った美少女顔に心拍数が上がる。


「ご、ごめん! ぼーっとしてた」


「わたしこそ、ごめんね。急に馴れ馴れしすぎたよね?」


 鎧塚さんは眉を曇らせ、声のトーンを落とす。彼女が気落ちすると世界の明度が下がったようにすら感じて、私は焦って返答する。


「ううん、そんなことないよ。嬉しい。私でよければ」


 約束を交わすと、鎧塚さんに笑顔が戻る。世界がぱっと明るくなる。やっぱり、眩しい純白だ。

 その日の夜はテスト勉強も手につかなかった。教室での鎧塚さんとの会話を何度も反芻し、明日の会話を何度もシミュレートし、悶々としてるうちに眠りに就いた。




 土曜日の朝。駅で待ち合わせし、コンコースを巡る。歩きながら、隣の鎧塚さんの私服をちらと盗み見る。

 ふわふわとした大きめの白のダウンジャケットに、大胆なミニ丈のスカート。ゆるく巻いた髪は、コロンがほの甘く香る。普段の彼女は校則という鎖に縛られ、あれでいてまだ魅力を十全に発揮していなかったのだと思い知る。私も精一杯のおしゃれをしたつもりだったけど、並び歩くのが申し訳ない気持ちになった。鎧塚さんは褒めてくれたけれど、自分のレベルの低さなんて分かってる。

 目当ての場所は駅隣接のデパートだったけど、鎧塚さんがコンコース内のリンツ・ブティックにふらりと入っていったので慌てて後を追う。彼女は慣れたように店頭配布のチョコレートを受け取り、口に放り込んで私に笑いかける。その姿は自然体で、垢抜けていて、都会に舞い降りた天使のよう。さながらお菓子の国みたいに色とりどりに煌めくショーケースもインテリアも、まるでその全てが彼女の為に用意されたものみたいに見えた。



   ◆



 鎧塚さんがリンツのボックスを買い上げた後、デパートの催事場──本命のチョコレートフェス会場へと向かう。エスカレータを登りきったところで、眼前に現れた人だかりと熱気に圧倒される。


「す、すごい人だね」


「知ってたけどー、やっぱ混むよねえ」


 今日はバレンタインデー直近の土曜日。テーマパーク並みの混雑も納得がいく。けどそれ以上に、華やかなショーウィンドウや、チョコレート色に統一されたスタッフ衣装にサイネージ、そして何より特別なお祭り感が私の気分を高揚させてくれた。

 甘い蜜に誘われる昆虫みたいにふらり歩き出す私だったが、突然強い力にぐいと引き戻され、何事かと驚き振り返った。


「小山さん、ぶつかるよっ」


 鎧塚さんが私の肩を抱き寄せる刹那、眼前を人が横切る。寸前で助けられたが、あわや衝突するところだった。


「ごめん、鎧塚さん。ありがとう」


 小柄な彼女だけど意外にも力が強くて、掴まれた肩にまだ甘い感触が残っている。どぎまぎとする私を見て、鎧塚さんはくすくす笑った。


「意外ー。はしゃいじゃって。小山さん、子どもっぽいとこもあるんだね。じゃあ、はぐれないようにお姉さんが手を繋いであげよう」


「えっ? あ……」


 鎧塚さんの小さくて温かい左手が、私の右手を握る。指を絡めて、たとえ人波に揉まれても簡単には解けないように。出来過ぎたシチュエーションに、頭の中は真っ白になり、体温が上がって手汗が彼女に不快に思われないか、なんてことばかり考えてしまって、碌に話題も出せなかった。

 すっかりのぼせあがった私は、場の空気に流されるように幾つかチョコレートを購入した。隣の鎧塚さんも目当てのチョコを購入できたようで、ほくほくとした笑顔を浮かべている。既に今月のお小遣いが赤字に迫る勢いだったが、構わなかった。今日は一生の思い出の日になるだろうから。



   ◆



 チョコフェス巡りを終えてデパートから出るとにわかに冷たい風に晒されて、季節が冬だったことを思い出した。イベントフロアはそれくらいの熱気だった。


「買えたー! 小山さん、ほんとありがとうね」


 私の存在が彼女の買い物になにか貢献できたとも思えないのだが、お礼を言われるのは素直に嬉しかった。


「ううん。私も、今日は楽しかった」


 言いながら、私は買ったばかりのアソートボックスが入った紙袋を彼女に手渡す。


「これ。鎧塚さんに」


「わたしに……? 嬉しい!」


 彼女は目を丸くして、けれど笑顔でそれを受け取ってくれた。宝物みたいに胸の前でぎゅうと抱きしめる仕草が子どもっぽくて可愛い。


「本命、だったりして?」


 上目遣いに鎧塚さんがいたずらっぽく聞く。


「ち、違うから。安心して」


 そうだよ! という心の叫びを押し殺して、私は言葉の上で否定する。私の気持ちは本物だけど、恐れ多くて口に出すことなんて出来ない。「ざんねーん」と言って鎧塚さんはおどけた。

 チョコを渡す場面は昨夜から何度もシミュレートしていたし、私にしてはうまくいったと思う。そしてこの後は別れを告げて、「ありがとう」「楽しかったね」「また学校でね」「テスト頑張ろうね」。会話はそう続いて終わるはずだ。


「それじゃ……」


「ね。小山さん。よかったらなんだけど、今から家に来ない?」


「え……?」


 何かの聞き間違いかと思い、私はしばらく呆けた顔をしていたと思う。


「だってこんな良いチョコレート、年一くらいでしか出会えないよ? 一緒に食べようよ。あと、テスト範囲でまだちょっと教えてほしいとこがあって……」


 シミュレートと現実のあまりの乖離に、用意していた台詞とのリップシンクは噛み合わなくなり、しどろもどろになる。彼女はどんな意図で誘ってくれたのだろう。裏なんてなくて言葉通りの意味だろうか。それとも──。

 膨張して破裂しそうな期待感をどうにか抑え、か細い声で肯定の意を示した。そもそも、鎧塚さんの可愛い仕草を伴った〝お願い〟を断れるはずがないのだ。



   ◆



 彼女の部屋はもっとガーリーな雰囲気を想像していたが、意外にもシックで大人っぽく整えられていた。他所の家特有のいい匂いがしてソワソワする。彼女の両親は夜まで帰ってこないらしい。鎧塚さんはローテーブルに今日の戦利品を並べ、それらを一つずつ指して言う。


「友チョコ用でしょー。これは小山さんに貰ったやつね! これは家族用……とか言って味見させてもらうけど。こっちは期末テストを頑張ったわたしへの褒美用でー」


 プラリネ。ビスキュイ。オランジェット。

 彼女は嬉しそうに、宝石のようなチョコが閉じ込められた小箱を並べていく。その内のひと箱を彼女がさりげなく除けるのを、目ざとく見つけてしまう。


「それは?」


 よせばいいのに、つい尋ねてしまう。


「これはー、えっと。まあ特別なやつ?」


 珍しく歯切れ悪く彼女は答えた。流石の私でも、察しが付く。

 もしかして、私に──。


「ま、いいじゃん。小山さんのチョコ、一緒に食べよ! わたしが買ったのもあげる」


 彼女が差し出してくれたのは、ついさっき友チョコに分類されたうちのひとつだった。


 チョコレートは本当に個性豊かだ。

 義理チョコ、友チョコ、本命チョコ。


 ほら。修飾語をのせて、人を有頂天にしたり失意の底に叩き落としたりもできる。傷つくなんて図々しい。トモダチって言ってもらえたんだから。

 それから、味のしないチョコレートを食べつつ、一緒にテスト範囲の復習をして過ごした。



   ◆



 テスト勉強に区切りが付いたところで手洗いを借り、顔を洗って鏡を見る。ひきつった笑みを浮かべてしまっていたかもしれない。頬をマッサージするように捏ね繰り回す。

 部屋に戻ると、鎧塚さんはテーブルから離れベッドで横になっていた。小さな寝息が聞こえる。人混みの中を歩き回り、テスト勉強もして疲れが出たのだろう。

 走馬灯みたいに、幸せだった今日を振り返る。下調べしたお店の情報も、シミュレートした会話もあまり功を奏することはなかったけれど、すごく楽しかった。混雑の中で手を繋いで、互いの体が密着して、ドキドキした。家にも呼んでもらえて、密接な時間を過ごした。二年生最後の期末試験が終わって進級して、クラス替えで彼女と離れ離れになれば、それで関係はおしまい。きっと鎧塚さんは違う子に勉強を教わるのだろう。それでいいの。だって私と彼女はテスト期間限定のトモダチだから。


 強い衝動が私を突き動かす。


 ──いい思い出ができた。それでいいじゃない。だからお願い。それを壊すような愚かなことはやめて!


 歩み寄る足は止まらない。私は眠る鎧塚さんに覆いかぶさるようにベッドに四つん這いになる。


 ふたりの重みで沈むベッドの軋みが。

 高鳴り続ける心臓の音が。

 殺しきれない呼吸が。


 うるさくて、私を制止する理性の叫びが聞こえなくなって、本能のまま彼女の唇に私のそれを寄せた。ギリギリ、互いの唇の皮が触れる程度。一秒にも満たない一瞬。だとしても確かに、私は純白の彼女を汚す罪を犯した。心臓は変わらず高鳴り、呼吸は獣のように荒く。後悔に苛まれ、血の気が引く。私は今日という日を振り返るたびに彼女の笑顔より先に、醜い己の行為を思い出すだろう。

 もう二度と彼女と関わるのは止めよう。せめてもの罰を己に科し、いち早く立ち去る為に荷物をまとめる。


「小山さん」


 背後から呼び止められ、心臓が止まりそうになる。声の主は一人しか居ない。鎧塚さんはベッドから起き上がり、膝を抱えて座っていた。スカートの裾から白い内腿が際どく覗く。


「鎧塚さん。起きてたの……?」


「うん」


 彼女は眉尻を下げ、少し俯いたまま短く答えた。私の愚行は全てバレていた。

 ベッドに座る鎧塚さんの前に跪いて、彼女の可愛らしい口から天使のような声で罪人を責め立てる言葉が吐き出されるのを待つ。


 ──一瞬、彼女の口角が上がり、弓の鳥打ちのように歪むのを私は見た。聞こえてきたのは、くすくすと小悪魔のような笑い声。


「意外と大胆なんだ。やっと本音を見せてくれて嬉しい」


 それは、はじめから私の気持ちを見抜いていたようなニュアンスを含んでいるように聞こえた。


「寝たふりなんてして、ごめんね? でも、素直に本命だって言ってくれなかった小山さんも悪いんだよ」


 茫然自失として鈍り切った脳に彼女の言葉は難しすぎた。


「どういうこと……?」


「小山さん、わたしのこと好き?」


「え、と。それは……」


 核心をつく問いに戸惑って何も答えられないでいると、鎧塚さんは少し不機嫌そうな顔で露骨に溜め息を漏らす。


「言ってくれないんだ。わたしたち、秋の中テの頃から絡みあったよね? その時から気になってたんだ。わたしを見るときの、やらしー視線。なれるかなと思ってたのに、小山さんラインすら聞いてこなくて、ちょっと悔しかったんだ」


 落胆に不満。彼女の表情がくるくると変化する。思えば、ポジティブな表情以外を見るのは初めてかもしれない。


「違うの。それは私が鎧塚さんに近付くなんて烏滸がましいと思って──」


 何もかも見抜かれていた恥ずかしさに、慌てて口から出た反論にもならない言い訳を遮って、鎧塚さんは畳みかける。


「今日だって。小山さんずっと上の空で、わたしのこと全然見てくれてなかったでしょ。脈なしかなって思って、結構ショックだったよ」


 指摘されて自覚する。そういえば私はずっと脳内シミュレーションの中で作り上げた鎧塚さんとデートをしていた気がする。すぐ隣に居る彼女を蔑ろにして。けれどそれは、そうでもしないとまともに顔を見られないから。話せないからであって──。

 嫉妬深い眼差しが私を刺す。私の卑屈な性格からくる態度が彼女のプライドを刺激しているなんて思いもしなかった。


「 わたし、勘違いして舞い上がっちゃってたのかなって。けど、よかった。急に家まで連れ込んだのは、やりすぎて引かれるかと思ったけど」


 鎧塚さんがベッドから降り、私と同じ目線の高さになる。そして彼女は除けてあった「」に手を掛けて、封を開ける。それは、収まった状態そのものが調度品のような気品を漂わせるチョコレートのアソートボックスだ。

 彼女はその中から、純白の四角いチョコレートを選んでつまみ上げた。


「さっきは意地悪しちゃってごめんね? 本命こっちのは十四日に渡そうと思ってたんだよ? でも、性格悪いとこも含めて、わたしのこと知ってほしかったから」


 彼女はホワイトチョコを口に放り込み、戸惑いっぱなしの私を床に押し倒した。柔らかいカーペットが私を受け止める。


「鎧塚、さん……?」


 天井を背景に視界を占める、天使の微笑み。けれど一瞬の後にそれは獲物を捕らえる寸前の猫のような表情へと変わった。両肩を抑えられ、股下には膝を差し込まれ、身動きが取れない。彼女の顔がゆっくりと近付き、その唇が私を捕らえた。さっきのまがい物みたいなキスじゃない。柔らかで温かな感触が確かに伝わる。逆らうことなくその温度を受け入れ、力を緩めた私の隙を突くように、彼女の舌先が私の上下の唇を割って押し開ける。


「んっ……⁉」


 唇よりも、もっと温度の高いものが、私の中に入ってくる。それは熱くて、そして。


 ──甘い。


 ふわりと香るカカオバターの濃厚な甘味が、思考を塗り潰す。ふたりの体温で、それはみるみるうちに溶けゆき、やがてそれはフルーティーで芳醇な風味へと変化する。ホワイトチョコレートに包まれていたコンフィチュールが溶け出したのだ。天使の羽のような純白のチョコの、包み隠された淫靡な本性が露わになるように。

 体温、水音、そしてチョコレート。五感の全てを支配され、忘我の中で互いを貪る。無意識のうちに彼女の着るプルオーバーの裾を強く掴んでいた。

 何十秒くらい経っただろうか。彼女の唇が私から離れ、名残惜しさを感じながらも、ひとつの疑問を口にした。


「私で、いいの? 私なんかのどこが……」


 当然湧きあがる疑問。地味で取り柄の無い私が、鎧塚さんに選ばれる理由が本気で分からなかった。


「賢くて勉強も根気よく教えてくれるし、優しいし、何か考えてるときの表情とか、すぐ顔が赤くなるとことか、俯いた時のまつ毛とか、綺麗な黒髪とか……全部ひっくるめて、すっごくカワイイとこ?」


「かわ……えっ?」


 羅列される言葉。決して自分に向けられることなんて無いと思っていた形容詞に頬が更に上気するのを感じる。


「ほんとカワイイ。小山さんってチョコレートに喩えると、ハイカカオのダークチョコって感じ」


 私の中二病じみた妄想が露呈したのかと思い一瞬たじろぐ。私の下腹部に馬乗りになったまま、鎧塚さんは続けた。


「女の子はみんなチョコレートなんだよ。カカオ百パーセントの苦くて真っ黒な心に、ウケそうな価値観を混ぜこんで、口当たりのいい言葉を吐いて、服とメイクでキラキラに着飾って。けど小山さんは違う。純粋で混じりっ気がなくて、クールで。わたしの色で染めたくなっちゃうけど、ピュアなままで居て欲しい気もする。それが、小山さんの魅力」


 誇大広告にも程があると思ったが、こんなに近付くまで鎧塚さんの本性に気付かなかった私だから、自分のことだって何も分かっていなかったのかもしれない。だとしたら、私の魅力を引き出してくれたのは他でもない彼女だ。


「わたしのことも、もっと知ってよ。唇でちょっと触れる程度じゃ、本当の味は分からないでしょ? じっくり舐めて溶かして、わたしの全部を知って。それで小山さんのことも、もっと教えて?」


 息を呑む。私は無意識に彼女の腰に手を添えていた。覚悟を決めて、気持ちを言葉にする。


「私も、知りたい。鎧塚さんのこと」


「じゃあこれからは、ちゃんと気持ちを声に出して言えるよね? わたしのこと好き?」


 部屋には私たち二人しか居ないのに、彼女は秘めごとを囁くように声をひそめて私に問う。世界中の誰にも打ち明けまいと厳重に鍵をかけていた気持ちが、あっさりと蕩かされる。


「好き、です」


「わたしも好き。チョコ、もう一個食べる?」


「食べたいです」


 私は鎧塚さんのことが好きな癖に、今日まで彼女のことを何一つ知らなかった。可愛らしく傾げる首の角度も、教室でオレンジのチョコをあげた時に唇が私の指先に触れたことさえ、きっと彼女の策略だったのだろう。チョコレートのように計算し尽された可愛さと、その中に隠された心。全て味わった私は、昨日までよりもずっと、彼女のことが好きになっていた。ただ、ひとつ心配ごとがある。きっと今期末のテストは、二人とも少々成績を落とすだろうということ。


 鎧塚さんは目を細めて、チョコレートをまた一つ口に含んだ。彼女の唇が再び私にゆっくりと迫ってくる。私は彼女の下で目を瞑って、その時を待った。

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