「不吉な兆し」— episode 1 —

 冬立明トウリーミンは井戸の水を汲みに、中庭へと出た。

 ただならぬ気配を感じ、空を見上げる。

 灰色の雲に覆われ、異様な風の動き——。

 拝殿の方から大きな物音がした。

 今は老師オキが瞑想している部屋。

「老師、……失礼いたします」

 何事かと思い、ふすまを開けた。

 老師が倒れた肘掛けにもたれかかり、呼吸を荒げている。立明はすぐさまかけ寄った。

「どうされました!?」

 額に汗を滲ませ、肩で呼吸を整えている。

小美シャオメイ!、小美!」

 すぐに若い女がやってきた。

「水を」

 美莉メイリーは二人をみるや否や、慌てて炊事場へと向かった。


 —— 今のは……いったいなんじゃ…?


 オキは器に入った水をゆっくりと飲みほした。

「どうなされたのですか?お身体の具合でも……」

 美莉がその器を受けとりながら、心配そうに訊ねた。

「大丈夫じゃ。心配させてすまなんだ」

 二人の手をかりて起き上がり、座椅子にもたれかかった。

「胸騒ぎがしての。瞑想にふけっておった」

 風でがたつく襖の音が部屋に響いている。

「風の流れが、異様な動きをしております」

 オキは頷くと、ゆっくりと深い息を吐いた。

「今しがた、底知れぬ闇の兆しを感じとった」

「この領域でしょうか?」

 オキはかぶりを振った。

「わからぬ。対話を試みようとしたのじゃが、逆に気を跳ね返されてしもうた。そして消えた」

 己の老いを嘆くように、また一つ溜め息をついた。

「書簡をしたためる。ナカシロに伝えよ。事が起きてからでは手遅れになるやもしれぬとな」

「支度を整えてまいります」

 立明は立ち上がりすぐ様、部屋を出ていった。

 美莉がすずりと筆が置かれた机を、老師の側まで引き寄せた。紙と墨の準備をはじめる。

「すまんの……」

 そう言うと身体を起こし、オキは筆をとった。

「本当に大丈夫なのですか?」

 オキはゆっくりと頷いた。

「もう大丈夫じゃ。立明の支度を手伝ってやってくれ」

 心配そうな面持ちのまま、美莉は部屋をあとにした。筆を持ち上げた手が、微かに震えている。

     • •

 外はすでにとばりがおりていた。

 先程の妙な風もおさまっている。オキと立明は門の外へと出た。

「すぐに戻ってまいります。ご無理をなされませぬよう……」

「わかっておる。帰りは慌てずともよい。道中くれぐれも気をつけての」

 立明は黙って頷き、石の階段を駆け下りていく。すぐにその姿は雲の下へと見えなくなった。

 眼下に広がる雲海。薄紫の月光に照らされ、ゆっくりと流れていく。

 —— なにも、起こらねばよいが……。

 オキは背中をまるめ、覚束ぬ足取りで屋敷の中へと戻っていった。

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