45 偉大な兄
屋上の踊り場で佇んでいると扉が開いた。
春夏冬だった。目端に涙を溜めながら、痛そうに右手を労っている。どうやらしっかりビンタを一発入れてきたようだ。
「おう、どうだった?」
「スッキリしたわ」
「それはよかったな」
教室でずっと見てきたメソメソした姿はそこにはない。晴れ晴れとした表情を春夏冬は浮かべていた。でも唇は震えており、次第に堪えるように固く結ばれていく。
強がる必要はもない。
これ以上の我慢はできないというように、春夏冬は飛び込むように近づいてきた。
「なにしようとしてんだ」
胸元に寄ってきた春夏冬の顔を掴んで、俺は引き離した。
手を離すと春夏冬は、恨みがましそうな涙目で睨めつけてくる。
「こういうときくらい、泣きつかせてくれてもいいじゃないの!」
「そういう慰めは、リンリンにしてもらえ」
「あんたは本当に優しくないわね」
「俺はこれから、弟の介抱をしなきゃならないんだ。とっとと行け」
蝿を追い払うようにシッシと手を振った。
しばらく喉を唸らせた春夏冬だったが、なにを言っても無駄と悟り、その内階段を降りていった。
そんな背中を見届けてから、俺は屋上に出た。
大の字で寝転んでいるイツキを上から覗き込んだ。
「モテる男は辛いな」
「兄さんが余計なことを吹き込むから、痛いを思いをしたよ」
他人事のように囃し立ててくる兄に、イツキは恨みがましそうに目を細めた。
その様があまりにもおかしくて、笑いが込み上がってきた。
「喜べイツキ。いつも俺には敵わないと言ってるおまえが、ついに勝てるものが出来たぞ」
「……なにさ?」
「虜にした女の数だ。これだけは俺も敵わんぞ」
「そんな勝ち方しても嬉しくないよ」
「それを春夏冬と御縁の前で言えたら大したもんだ」
「うっ……」
バツの悪そうにイツキは顔を歪めた。
「それに俺が知ってるだけで、おまえのことを好きな女は後四人もいるぞ」
「嘘でしょ……?」
「嘘じゃない。自分が色男なことを、ちょっとは自覚しておけ」
「そんな実感、ないんだけどな」
イツキは悩ましげな顔をする。残りの四人に当たりをつけようとしているのかもしれない。しかし鈍感すぎるセンサーには、ノエルはもちろん、男装麗人に女探偵、チャイナ娘も引っかからないようだ。
当たりをつけるのを諦めたイツキは、深い息をついてから言った。
「兄さん、ありがとう」
「なにがだ?」
「天梨と華香のこと。ふたりの気持ちを知らないまま、彼女たちが不幸になったら、僕は後悔したと思うから。だから兄さんは、ふたりが前に進めるように色々としてくれたんだよね」
「人の好意には鈍いくせに、そういうことは敏いんだな」
「そうやって、僕がなにも知らないまま残した問題を、今日までずっと手をかけてくれてたんだ」
「なに、ただの片手間だ」
「その片手間で男子たちから目の敵にされたんだろ?」
「木端から目の敵にされたところで大したことない。どうせ来年には、ここに俺はいないからな」
「いないって……折角なんだし、そのまま卒業したらいいのに。それとも学校は楽しくない?」
「意外と楽しいぞ。だけど一年も通えば十分だ」
「でも兄さんだったら、すぐに彼女のひとりやふたりできるだろうからさ。こっちで彼女ができたら気が変わるかもよ?」
「俺に吊りあう女がいたら、そうするのもいいかもな」
「まったく、兄さんは何様だよ」
「おまえのお兄様だ」
「ははっ、そうだった。僕が絶対に越えられない、偉大な兄さんだ」
一本取られたようにイツキは大笑いをした。
絶対に越えられない、偉大な兄。
とっくに越えていることにも気づかず、肥大化した幻想を未だ信じている。
父さんたちが離婚してから、俺たちがたどった道は逆だった。
俺は辛いだけの日々を送った先に、カノンに出会った。カノンに付いていけば間違いないと信じて、学校というコミュニティからも外れ、内に籠もるようにふたりだけの世界で生きてきた。
一方、ついて行く背中を失ったイツキは、自分で道を切り開くように自立していった。イツキのことだからきっと、なにかある度に、兄さんならこんな風に背中を押してくる。なにか迷う度に、兄さんだったらこうして手を引いてくる。そうやって前に進み続けてきたに違いない。肥大化していく幻想に合わせて、イツキは集団生活の中で成長していったのだ。
なにかあれば兄さんが、なんてイツキはよく言うが、離れ離れになってから頼ってきたのなんて、白雪の件が初めてだ。
そんな俺が、いざ学校に通い始めたばかりの頃は、不安ばかりの日々を送ってきた。
離れてからイツキが積み上げてきたものを目の当たりにして、本当に俺はやっていけるのだろうかと。あのイツキが敵わないと吹聴してきた兄が、大した奴じゃないと思われないかと。
勉強なんて問題ない。
求められる運動能力も知れている。
問題なのは、集団生活でどう周りに認められるかだ。
カノン以外と人間関係を築いてこなかった俺には、どう振る舞えばイツキの兄としての面目を保てるのか。イツキの人間関係を引き継いだとはいえ、いつそれを台無しにしてしまうのか不安で仕方なかった。
それこそ最初の内は、カノンに縋るような有り様だった。夜は必ず電話して、その一日にあったことを洗いざらい話した。そんなカノンから、上手くやれているようだね、みたいな言葉をかけられるのがなによりの安寧だったのだ。
一週間もすれば、イツキの兄としての面目を保つのに、誰も彼もから認められる必要がないと勝手がわかった。大事なのは誰に認められるか。クラスでは二股と小林とさえ上手くやれていれば、よっぽどの事故はないと悟ったのだ。
一ヶ月もすれば、当初抱いていた不安はなくなった。
二ヶ月もすれば、余裕でやっていけると環境だと思った。
学校という集団生活を送る自分に、自信を持てるようになっていた。
自信の生まれた先に、行動が生まれる。
行動が生まれた先に、結果が生まれる。
行動をカノンに任せきりにしていた俺は、そんな当たり前のことを、今更学校で学んだのだ。
イツキが信じているような偉大な兄なんてものはこの世にいない。
でもそれを演じている内に、少しは中身が生まれたのだ。
イツキの偉大な兄でありたい。そんな強がりが、俺をここまで
イツキの肥大化した妄想は、重く肩にのしかかっているままだけれども、俺はこれからも泣き言を言わずにこの強がりを貫き通そう。それが今より、俺を成長させる道だとわかったから。
ありもしない俺の背中を追いかけている、弟の背中に少しでも近づけるように。
「あーあ、なんかお腹が空いてきた」
頬の痛みはもういいのか。晴れ晴れしたようにイツキは背伸びをした。
「今日はノエル、なにを作ってくれるのかな」
なにもかもが終わったような顔をして、そんな呑気なことを言っている。
どうやらイツキは、一番大事なことをすっかり忘れているようだ。
「なに一件落着みたいな顔をしてやがる」
「え?」
「この後に控えている本命を、忘れてるんじゃないよな?」
「本命?」
一体なんのことかと、イツキは首を捻った。
「あ……」
数秒した後、イツキの顔が一気に青ざめていく。なにがこの後待っているのか思い出したようだ。
「白雪ちゃんが家でお待ちかねだぞ」
「兄さん、その……」
引きつったその顔は、助けを求めるようだった。きっと間に入って、とりなして貰いたいとでも思っているのだろう。
「まあ、今回の件はどうあれ発案は俺だからな。その責任から逃げたりはしないぞ」
「じゃあ、助けて――」
「だから責任を持って、おまえが逃げないよう連れ帰るって、白雪ちゃんに約束して来たんだ」
「兄さん……!」
最後の最後に裏切られたような顔で、イツキは嘆くように叫んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます