泉 けしん

1章しか本文かけなかったので1話目で全部載せました

 継釈一二五年

 貧しい村から家族三人で出てきた。故郷よりも豊かな土地を目指してもう何日も歩き、野宿する日々が続いていた。道の両端に生えている木々が道を覆うように枝を伸ばしている薄暗い街道を歩いていた。

「私は狐を探してくるから」

 なけなしのお金で買った弓と矢を持って父が木々の奥深くへと入って言った。

 雨が止んだ後で、地面はぬかるんでいた。

「あなたは木の実でも探していなさい」

「うん」

 母が言って、父の後を追うようにして木々の中へ消えた。

 木々はたっぷりと雫を抱えていた。木犀の香りがする。紫蘭生が木の実を取ろうと木々手を伸ばすと着物が濡れた。ぷつんと木の実をちぎると雫がはねて、さらに顔や手を濡らした。

 紫蘭生は木の実を集めるのを止めて、道なりに歩き出した。頭上の枝から垂れてくる滴が目や顔に落ちてきて気持ち悪かったのだ。

 道を抜けて明るい所に出たものの、まだ道は続いていた。道の両端に生えている木々が若々しく伸びきっていなかった。緩やかな下り坂になっている。遠くを見ると、小さな村が見えた。紫蘭生は元来た道を戻って、両親を探した。両親を呼んで、あそこで休もうと提案するつもりだったのだ。

「お母さん! お父さん! 村があったよ。休もう。何か食べようよ。お腹が空いたよ」

 木々の中に入り込み、声を上げるも返事はない。街道に戻れなくなるくらい奥深くに入ったのだろうか。振り返るとまだ木々の間から街道は見える。今以上に進んで、奥深くの森に入るのはためらわれた。

 両親の方が道に迷っているかも知れないと、一度黙って耳を澄ませると、森の奥深くから赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。声の方に行ってみようか迷っていると、後ろから声がかけられた。

「そこで何をしているんだい」

 振り返ると、街道に若い男が立っているのが、木々の隙間から見えた。手荷物もないことから、先ほど見えた村の人間と思われる。紫蘭生は街道に出た。髪が濡れて大分湿っている。

「親がね、中に入っていったんだけど、見つからなくてね」

「何か言っていたかい?」

「狐を探すって」

 男は無言になった。

「ああ、そうだ。さっき、赤ちゃんの泣き声が聞こえたんだ」

「とにかく、私の家に来なさい。私が、両親も赤ちゃんも探しに行ってあげるから。私は家塾をやっている仁賀(じんか)といってね、君くらいの年齢の子がたくさん勉強しに来ているんだよ」

 仁賀が紫蘭生の手を取って村の方へと歩き出した。

「手、濡れるよ」

「気にしないさ。ほら、これで顔を拭くといい」

 空いている方の手に手巾を握らせてきた。

 結局、仁賀の家で待機していたものの、両親も赤ちゃんも見つからなかったと言って仁賀が帰ってきたときは既にそうだろうと思い始めた頃だった。

 待っている間に、子どもたちから聞いたのだ。あの道が子泣き街道と呼ばれていることを。

 紫蘭生は家塾の子どもたちの一員になった。


継釈一三〇年

 素振りに飽きた紫蘭生は、竹刀を下ろして稽古部屋を出た。同じように稽古をしていた子どもたちが非難するような視線を向けてきたが、誰も口には出さない。仁賀の部屋の戸を開けた。仁賀は出かけているようだ。丁寧にたたまれた蒲団が手前に置いてあり、奥に机と腰掛けが並んでいる。その後ろの壁には宝刀が飾られていた。武芸を管理する栗海会から授かったものだ。仁賀からは触らないように言いつけられている。

「それは飾りじゃないでしょ。なんで使わないの。せっかくの宝刀が泣くわよ」

 と言っても黙って首を振るだけで取り合ってもらえなかったことを思い出す。稽古がつまらないと感じるたびに同じ事を仁賀に言っている。今も言おうとしていたのだが、いないなら仕方が無い。やることがなくなった紫蘭生は家を出た。

 田舎の村には珍しいことなど何もない。何も起こらない。商人も滅多に来ない。生活に必要な者は村の人間が買い付けに行くからだ。村人もそこからしか買わない。田畑を耕し、糸を紡いで服を作り、主人にこき使われる。大抵の人間はそんな生活を繰り返している。そこに漏れている紫蘭生でさえ、毎日同じ稽古の繰り返し。座学の内容は変わるがそれも退屈だった。そんな中で、唯一代わり映えするのが店が建ち並ぶ通りにある掲示板だった。紫蘭生は暇さえあればそれを眺めていて、村の外に思いをはせるのが好きだった。

 こんな田舎でも掲示板には大抵複数枚の紙が貼られている。一度見たものから視線をずらして、新しいものを見つけた。人相状だ。屍街道に現れたらしい。村人が一人襲われたようだ。報酬は五十柱。屍街道を通る者は、金はおろか、命すら残らないと言われている。しかし、もう一つの道、子泣き街道よりも近道ができるので、度々通る人間が現れるのだ。

 当然仁賀からは屍街道に近付くことは禁止されている。素直に言いつけを守っていたたため、紫蘭生は今まで行ったことがなかった。

 もう一つの紙には鵺の会の門下生の募集要項が書かれていた。試験を合格した者または推薦状があるものに入門の資格があるようだ。

 紫蘭生が使っている流派は凌遅流と聞いたことがあるが、正式には認められてはいない。登録する機会があったのに、しなかったのだ。このことでも仁賀と言い合ったことがある。ますます気分が落ち込んだ。家に帰る気にもなれずに通りを当てもなく歩く。何やら珍しく、料理屋に村人が固まっているのが見えた。入り口から人があふれている。気になって、人の塊をすり抜けて中に入ると、注目の的が目に入った。刀を差していて、土で着物や手が汚れていない。何よりその自由な雰囲気。一目で旅人だとわかった。

「なんで、こんなに人が集まっているの?」

 旅人は矢継ぎ早にされる質問に笑顔で答えていた。騒音に紛れていて聞こえない。そばにいた人間に事情を尋ねた。旅人がこの村に来るのは珍しいが、大人が仕事を帆降りだしてまで騒ぐことではない。

「盗賊を仕留めたんだよ。噂になっていただろ。もう何件もやられたんだ。俺の店にもいつ来るかと気が気じゃなかった」

「そんなことがあったんだ」

 仁賀の家はそこらの民家とは離れたところにあるため、紫蘭生はその噂を知らなかった。そこらの民家に入るより、仁賀の邸宅のように、誰がどう見ても人を雇わないと生活が成り立たないような屋敷に盗みに入った方が実入りが多いと思うのだが怖じ気づいたのだろうか。

「役人なんぞ、呼んでもすぐに来やしねえ。こういうときは旅人頼りだな」

 誰かの言葉に旅人は気分良さそうに笑みを深めた。紫蘭生が旅人の目の前に出る。

「ねえ、そんなに腕に自信があるのなら、私と手合わせしてよ」

「へえ。竹刀で?」

 旅人が紫蘭生が帯に指していた竹刀に目を落とした。村人が一斉に笑い出す。

「家が道場なの。竹刀、貸すわよ。それか、誰か刀を持っていてくれたらいいのだけれど」

 こんな田舎の村に鍛冶屋はないことはわかりきっていたが、物は試しだ。聴衆を見渡しながら言った。すると旅人は視線をさまよわせた。面倒に思われたようだ。

「困ったな」

「おら、ガキはあっち行ってろ」

 全く困っていない口ぶりなのは誰が見ても分かるのに、旅人のご機嫌を取ることにしたのか、村人から野次が飛び料理屋から追い出されてしまった。

 絶対に旅人よりも実力があるのに、誰もそのことに気づいていない。竹刀がいけないのだ。刀をぶら下げていれば本気にしたはず。そう思った紫蘭生は家に走った。

 仁賀はまだ帰っていなかった。竹刀を無造作に放り、宝刀を手に取る。鞘から少し刀身を出しただけで身震いがした。これが、ずっと、紫蘭生が持ちたかったものだ。竹刀では得られない感触だ。すぐさま腰紐に通してぶら下げた。周りの人間が認めないなら、盗人よりも大物を仕留めてやる。

 今まで屍街道に行ったことがなかったのは、禁止されていたというのもあるが一番の理由は行く意味がないからだ。必要な物は仁賀か使用人が買ってくる。紫蘭生の生活は家にいるだけで成り立っていた。

 入ってみれば何てことは無い。確かに木は生い茂って薄暗いが影ができるのは当然のことだ。怖さはない。子泣き街道より歩きにくさは感じられるがそれだけだ。ふと、気配に気づき咄嗟に刀を抜いた。刀がぶつかり合う。飛び退くいて姿を確認する。

「本当にいるのね・・・・・・」

 まさに人相状の男だった。人相状では肩から上しか描かれていなかった。想像していたより、体格は良く、身なりも良い。男は不意打ちを払われたことに驚いていたようだ。

「構えが汚いわ。ふざけているの?」

 男が構え直した時にはすでに紫蘭生は相手の懐に入っていた。そのまま流れるように胸を一突きした。男の動きが一瞬止まり、紫蘭生が腹を蹴ると、そのまま刀は抜けて、仰向けに倒れた。

 死んだ男をまじまじと見詰める。あっけない。間違えて殺していないかと顔を確かめたが、確かに人相状の男だ。これで間違いなら人相状を描いた人間が悪い。紫蘭生は刀を鞘に収めた。

 胸に空いた穴から血が流れて着物を染めていった。鮮やかな黄緑色の着物が染まっていく。ふと倒れた拍子に落ちたであろう袋が目に留まった。手に取ると、ずっしりと重さと硬さが感じられた。どうして、賞金首になるまで、犯罪をするのか。それは生計を立てられるからだ。見た目にも現れていたが、それ以上に稼ぎは良かったようだ。

 金が入っているであろう布袋をそのまま地面に捨てた。屈んで男の片足を両腕で抱えるようにして持つ。力を入れて引いてみたがさすがに村まで運べそうにはなかった。しかし、人を呼んでいる間にたまたま役人が通りかかりでもしたら困る。報酬を渋って誰が仕留めたかなど調べることもなく帰ってしまう。

 人相状の男を紫蘭生が仕留めたという証拠が必要だ。それならやはり首だろう。紫蘭生は刀を抜いて、男の首に刃先を当てた。そのまま染み渡らせるように刃を沈めていく。地面に当たった感触がしたところで刀を抜いた。髪の毛を掴んで体重を乗せて引っ張ってやると胴体からちぎれた。

 こんな切れ味のいい刀、やっぱり使わないなんてもったいない。



 首を壺を持つように両手で抱えて村に帰ると、ふと紫蘭生に視線をやった村人がすぐに、悲鳴を上げて去って行った。一人、また一人。旅人が盗賊を仕留めた時も初めはこんな反応だったのだろうか。不思議に思って首を頭上に掲げて見せようと思ったが、既に誰も居ない。家に帰ると仁賀も帰っていたようだ。村中が騒ぎになっているからか、ちょうど表にいた。仁賀は両腕にある生首を見ても特に何も言わず、ゆっくりとこちらに歩いてきて、紫蘭生の背中をやんわりと押した

「入りなさい」

 仁賀は自分の部屋には入らずに、客室に入った。背中に添えられていた手がそのまま腹にまわり、仁賀の膝の上に座らせられた。何か言おうと思った矢先に、次々と村人が飛び込んで来ては、生首を見て踵を返す始末。何がしたいのだろうか。

「みんなわざわざ見に来るなんて、疑り深いのね。それにしても、なんでみんなはどうやって仕留めたの? とか、どこで見つけたの? とか聞かないのかな」

「怖がっているんだ。それどころじゃないだろう」

「なんで。旅人の時はみんなそんな感じのことを聞いていたのに」

「それは実際に見ていない人が噂を聞きつけて興味本位で聞いているだけだろう」

「生首がいけないのね。確かに旅人が盗人を仕留めた所を直接見たっていう人はいなかった気がするわ」

「そう思うなら離しなさい」

 仁賀が紫蘭生の手を取ったがすぐに振り払った。

「嫌よ。役人が来るまでは離さないわ。どうせ、これがなきゃ誰も信じないんだから」

 するとまた部屋に入ってきた者がいた。学童の一人だった。分別もつかないような幼児がおぼつかない足取りで近寄ろうとする。

「部屋にいなさい!」

 仁賀が怒鳴るとそれ以上近付いてくることはなく、半べそをかきながら部屋から出て行った。

「良いじゃない。別に。あれくらいの年なら死体くらい見たことあるはずよ」

 仁賀は何も言わなかった。紫蘭生はふうとため息をつく。機嫌が悪くなると黙るのを止めて欲しい。

 次に入ってきたのは役人だった。三人ほど束になって向かい側に立って見下ろしてきた。

「賞金首を捕らえたのは、そちらのお嬢さんだとうかがったのですが」

「その通りよ。この生首が見えないの」

 掲げて見せると、真ん中にいた役人が生首を受け取った。右隣にいた役人が真ん中の役人に小声で言う。

「死体を拾ってきただけではないでしょうか」

「まだ足りないっていうの。ならこれを見なさいよ」

 紫蘭生が刀を抜くとは思わなかったのか、役人が腰の刀に手を伸ばした。しかし、誰も抜くことはなかった。紫蘭生が抜いた刀をまじまじと見ている。血が付いた刀だ。

「この辺りに刀はこれしか存在しない。後は旅人が持っているのもあるけど、村人に囲まれていた。それにこの刀はそこらにあるような刀じゃないわ。宝刀よ。そんなものを使おうとする人間なんて限られている」

「あなたは何をしていたんですか」

 役人が仁賀に尋ねた。

「子どもたちを相手に読み聞かせをしておりました」

「え、家にいたの? 気づかなかった」

「・・・・・・お嬢さんが家にいないことには」

「申し訳ございません。気づきませんでした」

「なんで謝るのよ。賞金首を仕留めたのに」

「まあ、いいでしょう。お嬢さん。報酬です」

 役人が紫蘭生の手に包みを握らせた。どうやら信じることにしたらしい。ようようと立ち去る役人の背中を見送った後で、包みを開いた。

「これ、私のお金だわ。何に使おうかな?」

 そういえば、欲しいものなんて考えたこともなかった。

「そういえば、五十柱って一ヶ月分の使用人の給金と同じよね」

「大切に取っておきなさい」

 仁賀がやっと膝の上から解放してくれた。取り上げられないうちに宝刀を鞘にしまう。

「仁賀。この宝刀を使ったことないでしょう。使ったことがあるなら、飾るなんてことしないもの。そうだ。梅!」

 すぐに下女がやってきた。

「誰かあの旅人を連れてきてよ。買い出しに行くあなたなら知ってるでしょ。あいつ、手合わせしたいって言ったら小馬鹿にしたように笑ったのよ。決着を着けるべきだわ」

 梅は体を震わせてうつむいた。この家には都合が悪くなると黙り込む人間しかいないのか。

「給金を下げるわよ」

「下げません。落ち着きなさい。紫蘭生。梅、ここはいいですから」

 梅が下がった。

「良いわよ。自分で探すから」

「もう村を出ましたよ」

「信じない」

 ずっと家にいた仁賀が何を言っているのか。家を飛び出した紫蘭生だったが、結局旅人は既に村を出た後だった。村人から聞いた話によると、何やら慌てていたらしく、宿に荷物が残されたままだったらしい。 

「あんたから逃げたんだろうな」

 村人からその言葉を聞いたとき、胸の中に渦巻いていたものが消えていくのを感じた。

  



   


   継釈一三二年

 紐で束ねられて、木にくくりつけられている藁を紫蘭生は刀で切り落とした。庭に設置した藁を次々と切っていく。藁がもったいないので、成人男性の頭から太腿までの長さの藁を、最後の最後、首から頭ほどの長さになるまで切っていく。切断された藁の残骸が庭に散らばった。頃合いを見計らっていたかのように女中がやってきた。一言も言わずに藁を一箇所に集めていく。紫蘭生は腕で汗を拭った。刀をしまいそのまま履き物を脱いで縁側から家に入った。

 稽古場として使っている広い部屋から子どもたちが稽古をしている声が聞こえてくる。そっと障子を開けてのぞいてみた。子どもたちが一斉に竹刀を振り、基本の型に戻して、また振る。ばれないうちにそっと障子を閉めて自室の机に用意しておいた教材を持って、座学用の部屋に入る。大勢の子どもたちが机を並べて勉強をしていた。一瞬空気が固まった。いつものことだ。。子どもたちの緊張のせいで動きがぎこちない。紫蘭生は一番後ろの空いている机の前に座った。仁賀が部屋に入ってきた。紫蘭生を警戒していた空気が弱まり、空気が一斉に仁賀に集中した。仁賀はあいさつもそこそこに授業を始めた。写経の時間だ。与えられた紙に有名な作品を黙々と写す。写しながら、作品の解説を耳で聞く。筆と紙がすれる音と仁賀の声が耳の中に入ってくる。今写している作品は紫蘭生の好きな『日女香』だった。とうの昔に全巻を読み終え、何周も読んだ作品だ。解説を聞くとまた読み返したくなる。一通り作品の解説が終わると仁賀部屋を出た。稽古場を見に行くのだろう。紫蘭生より年下の子も年上の子もいるが、仁賀が出て行っても空気は変わることなく、机に向かい合って手を動かしていた。



「仁賀?」

 仁賀の声は低くて、眠れないときはよく本を朗読してもらっていた。今日もなんだか寝付けなくて、好きな古典の一つ『飛天』を読んでもらおうと閉じたふすま越しに声をかけた。いつもならすぐに返事がくるのに、しんとして反応がない。夜の屋敷は静かだ。子どもたちが家に帰るから。下男と女中も帰った者もいるし、住み込みの者でさえもう寝ている時間だ。朝は早いが夜には仕事をそんなに言いつけていないからだ。

「入るよ」

 ふすまを開けると、筆を持ったまま机に突っ伏している仁賀が目に飛び込んできた。

「仁賀!」

 駆け寄って揺さぶるが反応がない。振動で仁賀が持っていた筆が落ちた。

「誰か、起きて!」

 紫蘭生の声はよく通る。何度か同じ言葉を大声で繰り返した。刀の柄でごついてやろうかと思った矢先、バタバタとした足音が聞こえてきた。開けっぱなしのふすまから女中や下男が何事かとなだれ込んでくる。

「声をかけたら、反応がなくて。中に入ったらこうなってたの」

 一番後ろにいた女中が駆けだした。医者を呼びに行ったのだろう。

「とりあえず寝かせよう」

 下男が数人仁賀の周りに集まる。追いやられた紫蘭生がその周辺にいる女中を押しのけて場所を確保する。脇の下を抱えられた仁賀が、手の空いていた女中により敷かれた蒲団に横たえられる。

 医者が来るまで、みんな一言も離さなかった。みんなもう仁賀が死んでいることに気づいていたから。仁賀は穏やかな顔をしていた。服にも血はついていない。ただ胸元がしわになっていた。ふと周りと同じようにぼーっと医者を待っているだけの自分が嫌になり、机の近くに移動した。何かを書いていたようだったが、きちんと書き終えて事切れたらしい。包みの表には紫蘭生と書かれていた。もう一つ、須々万(すすま)と表に書かれた包みを見つけた。その前に自分宛の手紙を読む。

「私が死んだら、須々万という人を訪ねなさい。西の都穂応にある鵺の会の長です。宝刀を授かった縁で知り合った仲です。紹介状を書きました。あなたの面倒も見てくれるでしょう」

 手紙の最後の文を読み終え、固まったままでいたが医者が来た音ではっとし、再び仁賀の近くに座った。着物をはだけさせ、医者がいろんな部位を触診していたが、やがて口を開いた。

「心臓発作ですな」

「なんで急に」

「急に起こることもありますよ」

 そうだとしても絶対原因があるはずだ。

「病気、ではないんでしょ?」

 仁賀が頑なに武術をしたがらない理由としてすぐに浮かんだが、医者が首を振ってその推測を打ち消した。

「体に異常は見当たりませんね。急に亡くなることもありますから」

 紫蘭生は妙に胸がざわつく感じがした。振り返ってみると、仁賀はおかしかった。不調を隠しているようには見えなかったが健康にも見えなかった。病にはかかっていなくても健康ではなかったはずだ。

 仁賀の過去を聞いたことがあるが、あまり自分のことを話したがらなかった。話すことといえば年下の師匠に関することばかりだ。昔自分が働いていた宿から救い出してくれた話や、宝刀を授かったときの話がそうだ。

「その前は?」

 と尋ねると仁賀は途端に口をつぐんだ。それで良い家の生まれではないことは察せられた。

 それが原因なのか、年下の師匠が原因なのか、はたまた紫蘭生が原因なのか。

 紫蘭生が原因なら身勝手すぎる話だ。勝手に子どもを拾って置いて勝手に疲弊したことになるのだから。

 広い屋敷を買った後も、まだ余裕があったから、世のため人のためになることがしたい、と言っていたことを覚えている。それを聞いた当時の紫蘭生は感謝するより呆れていた。今でもその気持ちは変わらない。

 子育ては紫蘭生で手一杯だとしても、勉強や武芸の基礎は教えられると、村の子どもたちを呼んで指導し始めた時はどこまで善行を積めば気が済むのかと思ったほどだ。

 医者が帰り、女中や下男をまとめている一番年上の女中が、指示を出した。葬儀をしないこと。速やかに埋葬するという内容の話が聞こえてきた。ぼそぼそと墓場について大人たちの会話が始まる。やがて話がまとまったのか下男たちが仁賀を抱えて外に出た。あんなに目が冴えていたのに、急に眠くなってきた。追いかけたかったが、足が動かなかった。足よりも頭が重かった。ぐるぐると手紙の文字と、机に突っ伏していた仁賀と、昔の仁賀の顔が頭の中をぐちゃぐちゃにかき回して、何も考えられなかった。最後の方まで残っていた下男と女中がちらちらと紫蘭生を気にするそぶりを見せたが、紫蘭生が犬を追いやるように手を振ると、彼らも屋敷を出て行った。

 たたまれていた掛け蒲団を引きずり、先ほどまで仁賀が横たえられていた蒲団に突っ伏した。まどろみの中で、仁賀は物静かだったなとぼんやりと思った。仁賀の笑い声を聞いたことがあっただろうか。


 目が覚めると、朝になっていた。習慣は変わらない。いつものように身支度を済ませていると、部屋に朝食が運ばれた。

「墓参りに行きたい。どこに埋めたの」

 食事を運んできた女中に声をかけると、女はぼそぼそと村の外れの集合墓地の場所を口にした。屍街道の先にあるらしい。もそもそとご飯を食べながら、傍らの宝刀を確認する。

「そういえば、生徒が来ないね」

「朝の内に手分けして、挨拶回りを済ませましたから」

 女は部屋から出る間際にそう言って、ぴしゃりとふすまを閉めた。頭は昨日よりはすっきりしていた。食欲はないが、全部食べ切れたということはおなかは空いていたのだろう。刀を背中に背負って、紹介状を無くさないようにしまった。

 屍街道を歩く。わざわざ、この通りの先に墓を作るとは、村人はどうしても紫蘭生に死んで欲しいのだろう。絶対に墓参りに行くことをわかって、作ったはずだ。墓場を作る人間は、この街道を通る時は怖くなかったのだろうか。それ以上に殺意が強かったのだろう。か。


 紫蘭生の目から涙が流れた。筋のように一本道でしたたり落ちていく。そういえば、仁賀の涙も見たことがないと、袖で涙を拭いながら思った。



 村に帰ると、村の入り口に大人たちが仁王立ちになっているのが見えた。嫌な予感がする。これは賞金首が発しているものと同じだ。殺気だ。賞金首のものより悪質だ。賞金首は紫蘭生の強さを知らないから、気が隙だらけで殺気も散漫だったが、ここの村人は全員知っている。紫蘭生が賞金首を殺せるほどの腕を持つことを。舐めてかかっていない。殺気が本物だ。人数も相まってたちが悪い。気に当てられて、その気ではない人も熱に浮かされて武器を構えている者もいる。といっても、刀の類いなんて、鍛冶屋か道場でもない限り持っているはずもない代物なので、深い底の鍋や箒、斧や鍬、犂だ。まずいな、と思いながらも、紫蘭生の足は村の方へ進むのを止めなかった。

 石が飛んできて紫蘭生は避けきれず両腕でかばった。一人が投げて勇気づけられたのか次々と石が飛んでくる。紫蘭生は刀を抜いた。村人がどよめいたときには遅かった。一瞬で距離を詰めて、村人の腕を切っていった。殺気が消え、恐怖の色に染まった。すぐに死ぬわけでもないのに、断末魔があちこちで広がっている。毎日日課にしている藁切りと同じように。目の前に詰めかけている人間たちの腕を一本、また一本顔色を変えずに切っていく。人を切ったのは久しぶりだったが、刀の調子も紫蘭生の調子も良かった。頭は何も考えられなくなったが、体の調子はとても良かった。

 逃げた者は追わなかった。腕を無くして転がっている人間の着物で刀を拭うと、殺されるかと思ったのか、ひいひい喚いて、足だけで這って逃げようとしていた。うまく拭えなかったので、足で尻を踏んづけて動かないようにして、ゆっくりと刀をぬぐった。顔を拭うとべったりと袖に血がついた。刀をしまい、家に向かう。田舎の朝は早いのに、今日は静かだ。いつもは威勢の良い商売魂を見せた者の声が聞こえるのに、今ではうめき声しか聞こえない。屋台に人はいなく、家々の扉も窓も固く閉ざされている。

 屋敷に帰って手早く着替えた。湯浴みをしたいがいつ紫蘭生の首を狙ってくるかわかったもじゃない。水桶に汲んだ水で手早く顔と手だけを洗った。少し綺麗にすると他が気になり、水で湿らせた手ぬぐいで手早く体を拭いた。結局刀も拭き直した。

 解錠して箱の中から持てるだけのお金を持った。紹介状を包んだ布を新しいものに取り替えた。

「私、あんたらと違って仁賀の一人娘だよ……親の金をもらったっていいでしょう……」

 開け放たれた稽古場を見る。共用で生徒が使っている胸当てや膝当てが壁にぶら下がっていた。竹刀も並んでいる。少しの間、ぼんやりとそれらを眺めていたが、紫蘭生は頭を振ると屋敷を後にした。


 墓場に続く道を通り過ぎ、森の中に入って、黙々と歩いた。太陽が紫蘭生の真上に位置する頃、紫蘭生のおなかが鳴った。金は持ってきたが食べ物を持って来るのを忘れた。後悔しても遅いが、空腹を実感すると目に見えて分かるくらいに足取りが重く、遅くなった。隣町までは買い物と気晴らしのために何度も行ったことがあるから、そろそろ着くのはわかっている。分かっているからこそ、歩みは遅くなったものの止まることをしなかった。

 ふと人の声がして、自分ののろまな足元を見ながら歩くのを止め、前を見ると二人の男がもみ合っているのが見えた。一人が抵抗したが、武器はもっていなかった。一人が刀を抜き、男の胸を突いた。ずるりと刀が抜けると男は地面に倒れた。刀をしまった男は倒れた男を物色し始めた。良くあることだ。実際見たのは初めてだったが、瓦版でよく見た。賊はにやついた顔で男から盗った物を自分の革袋に入れていたが、ふと顔を上げた。足音で誰か来たと気づいたのだろう。紫蘭生と目が合った。

「なんだてめえ」

 刀でふれあえる距離まで近づいていたというのに気がつかなかったことに驚いたのだろう。怖がらせないように視界に入る前に足音を聞かせてやったのだが、少し距離が近すぎたようだ。

「横を通らせてくださいな」

 そう言いながら男の横をすれ違ったのに。男はすでに刀を抜いていた。紫蘭生は小さくため息をつき、刀を抜いた。

 男の首が吹っ飛び横の茂みに入って見えなくなる。首から上を失った体はそのままその場に崩れ落ちた。刀の血を振り飛ばして、首のない死体で拭き取りしまう。今度は返り血を浴びなかった。浴びないように切ったのだ。狙い通り切れて良かった。

 歩き出そうとしたとき、後ろで物音がした。体がざわつき、紫蘭生は振り返ると同時に刀を上段に構えた。

「待て待て。俺は被害者だ。やめろ。何もするつもりはない」

 先ほど胸を突かれて死んだはずの男が立っていた。服には刀が通ったであろう穴が空いている。が破れたそこから見える皮膚には傷一つついていなかった。

「どういう……こと」

「お嬢さ、良い刀持っているね。試しに頭を吹っ飛ばしてみるかい?」

「いいの?」

 一振りで頭を落としたら、その転がった頭が

「すごい刀だ」

 と言った。

「俺は不死身なんだ。刀も良いし、腕もいいね」

 頭から体が生えてくる。頭を失った残りの体は倒れたままだ。

「あっちは生えてこないのね。分裂して増殖はしないのね」

「しない」

 服も倒れた体が着ていたものと同じ者を着ている。

「服まで再生している」

「うらやましいだろ。でも新しい物は作れないんだ」

「そう」

 足早に通り過ぎようとすると、

「ちょっと、待って。頼みがあるんだ。見ての通り、俺は腕はからっきしでね。だから、君と一緒に行きたいんだ」

「止めてください」

「嫌だっていってもついて行くよ。何度殺してもね」

 紫蘭生は頭を抑えて、長いため息をついた。片手をこめかみに当てる。

「腕がないなら家にいろよ」

「まあまあ、気にしないで。俺は気ままに旅をしている利杯(りはい)だ。深い意味なんてない。今までもいろんな一行について行って別れて、また別の人について行って、別れてっていう感じだった」

「仕方、ないのかな。あなたが諦めてくれることを願うわ」

「よろしく。で、名前は」

 靴を履いて戻ってきた利杯が右手を差し出す。差し出された手を握り返す。かいた汗が引かずにべちゃべちゃのままだが、仕方ない。もう十分落ち着いた。

「紫蘭生。穂応を目指しているの」


 利杯が持っていた栗をもらった。

「あれ? 呉茎ってこんな遠かったっけ? 仁賀に抱っこされていたせいかなあ」

「もうすぐ着くと思うけど、紫蘭生はどこの出身なの」

「教えない」

 拒絶の色をにじませてきっぱりと応えた。すぐそこの村です。のぞいてきたらどうですか。村人の大人の何人かの腕がないんですよ。医者もさばききれないで、もう多分数人は死んでいると思いますよ。って言ったら着いてこなくなるのだろうか。それならかまわないのだが、反射的に拒絶してしまった手前、やっぱり教えてあげるとは言いづらくなかった。人殺しはその通りだし、仁賀以外からの人間からはそういう目で見られていたから慣れているから平気なのだが。

 しかし、だ。目の前で人を殺しても、そして利杯自身を傷つけても着いてくるということは多分、そんなことを言っても逃げなさそうだから、余計なことは言うのは止めよう。

「栗まだある?」

「あるよ」

 あからさまに話を変えて、栗をもらう。利杯もそれ以上聞いてこなかった。

「あ、また襲われている人がいる」

「私の身長じゃ、まだ見えない」

 上り坂になっている、ごろごろした固い地面を踏みしめる。そうこう言いながら歩いているうちに紫蘭生にも見えてきた。髪の毛の長い女が地面に倒されていた。森に採集に来たのだろうか。大きな籠が横向きで転がり、周りには、まだ遠くてはっきりとは見えないが果物や木の実や食べられる草らしきものが散らばっていた。

「助けないの?」

「なんで助けるの?」

 利杯からの返事はなかった。いつの間にか横を歩いていた利杯が紫蘭生の真後ろにいる。坂が終わった。女から金目の物をくすねたらしき賊が女の方を向きながら、こちらに向かって走ってくる。

 やっと前を向いたかと思ったら、髪のない男は前にいる二人に気づいて、数歩後ろに下がった。すり切れた服からのぞく手足は細く、皮と骨だけだった。賊の視線が下がり、紫蘭生と目が合うと、転びそうになりながら、紫蘭生から目を離さずに転がっている女の元まで下がった。

 二人は悠々と歩き続ける。男が目をそらしてくれないのと、怯えきっている男の顔が面白くて、紫蘭生もじっと見返してあげながらすれ違った。ふと視線を落として見たが、女は気を失っているだけで生きてはいるようだった。

 下り坂になり、ふり向き、転びそうになると利杯に腕を取られながらも、男が見えるうちはじっと見つめたまま歩いた。

 下り坂が深くなって、ようやく男が見えなくなると紫蘭生は利杯の手を離して前を向いた。

「ご機嫌だね……」

 利杯は少し引いているようだ。

「私、子どもだから普段舐められてばかりなんだよね。だから、たまに私が刀を振るえることを知らないのに私の力に気づく人に会えると、嬉しくなるの。そういう人は、むやみに襲ってこないから、私も刀を抜かなくて済むし」

 


 呉茎に着いた時には日が暮れかかっていた。

「早く宿を探そう」

「人が集まっているわね」

 何の店かとうかがってみたが、どうやら親戚の集まりらしかった。家の外で会話するなど何事だろうか。数人の大人が難しい顔をして、泣いている少年を囲んで慰めている。

「どうかしたんですか」

 利杯が無駄に首を突っ込んだ。

「この子の親が強盗に殺されたんだよ。その死体を見ちゃってもう、かわいそうに。家には金目のものなんてないのにねえ」

 中年の女が答えた。

「この家はこの子の家なんですか」

「そうだけど、この子が一人で住めるわけないじゃないか。誰が引き取るか話をしているんだよ」

「結局何も盗られてないと」

 紫蘭生は真顔で問うた。所詮他人事だ。興味本位になるのは仕方が無い。それに珍しい話しでもない。話題がない田舎では、こんなしょうもない話でも、刺激欲しさに関心を持つようになるだけだ。

「ええ、血がついていた鍬が落ちていたんだけど、相手が死んで驚いて逃げたみたいだわ」

「この子は誰が引き取るんですか?」

 利杯が聞いて、その途端に皆が黙った。

「ほら、よそ者が首を突っ込みすぎだよ。あっちへ行きな」

 骨の浮き出た犬を追い払うような仕草をされてもなお、利杯は食い下がった。

「この子、腕が立つんですよ。少年の仇を取ってあげましょうか」

「は? いいわよ。そんなの。お礼も出せないし」

 親戚連中も、紫蘭生も利杯を睨み付け出したのでとうとう構うのは止めたようだ。諦めて宿探しに戻った。

「勝手なこと言わないでよ」

「あれ、あっちでも何か騒いでる」

「もう、いい加減にしなさいよ」

 広場に人が集まっている。吸い寄せられるように利杯が近寄った。こちらの方が数が多く罵声や怒声が飛び交い騒がしかった。

「おらあ」

 勢いをつけるような声がした後、鈍い音が鳴り、周りの人間から歓声が上がった。人の渦の中に入って戻ってきた利杯が首を横に振った。

「どうやら、あの盗人が捕まったらしい。村の人で、不審がられてすぐ近所の人に取り押さえられたそうだよ」

 黙って利杯を押しのけて、人の渦に潜り込んだ。布をくるんだ石を振り上げようとする村人の前に刀を抜いて立ちはだかった。途中まで振り上げられた布にくるまれた石は、子どもが飛びだしてきたことで慌てて軌道をそらしたのか、そのまま地面にぶつかった。勢いに耐えきれず村人が布を手放す。一瞬で村人が黙り、視線が紫蘭生に集中した。紫蘭生がちらりと振り返ると、男が縄で縛られて転がされていた。全身で弱々しく息を吸っている。歯が四方八方に飛び散っており、体がついていなければ顔とすら認識できないほど腫れ上がってはいるが、まだ生きているようだ。遅れた利杯が人々の間から紫蘭生の前に出てきた。

「お礼はないって・・・・・・」

「そうじゃない。私はね、こういうときいに刀を振るう人間なの」

 男の傍らに立つ。切っ先を真下に向ける。一瞬強盗が微笑んだような気がした。そのまま胸を突きさした。振動で男の体が僅かに動いた後、そのまま息を引き取った。



 数日かけてたどり着いた穂応は都だけあって、何から何まで立派だった。建物もひしめき合って、人が往来するだけでも苦労しそうな人混みだ。

 それらに負けないほど高さのある建物が鵺の会の城である。穂応の入り口からでもよく見えた。瓦屋根は一面の黄色で塗装されていた。軒下は青緑色で、窓や柱は赤色だ。穂応の建物はみんな派手だが、群を抜いて豪華で派手な外観だった。

「摩天楼ね」

 興味をそそられる市場を名残惜しそうに振り返りながらも楼閣を目指した。

「みんな綺麗」

 細やかな刺繍が施された色鮮やかな着物と、大きな髪飾りに白粉をつけた女たちとすれ違って、紫蘭生がつぶやいた。

「紫蘭生ちゃんも服を買えばいいじゃないか」

「そうだね」

 きらびやかな衣装を見ていると、つい着てみたくなってしまう。仁賀はそういうところは気の利かない男で、中々新しい服を買ってはくれなかった。

「別行動でいいわよね」

「いいけど、撒こうったって無駄だから」

「そんなことしないって」

 大通りで別れた紫蘭生はすいすいと人混みをすり抜けていった。城が近付くにつれて徐々に人通りが少なくなり、やがて歩いている者は紫蘭生一人きりになった。城の周りは城壁で囲まれていた。城を囲んでいる城壁は素材そのままの色で灰色だった。城へと続く橋とその下を流れる川があった。橋を渡り始めると、先にある門番が警戒したのがわかった。

「紹介状があります。中に入れてください」

 紫蘭生より一つか二つほど年上の門番二人は一斉に紫蘭生に木刀を向ける。二人は同じ薄い灰色の胴衣を身につけていた。

「招待状があるって……」

 なんでそんな威嚇されているのか不思議に思いながら布包みから紹介状を取り出した。

「まずその刀を寄こせ」

「中に入ったらね」

 ぴしゃりと紫蘭生が言うと、目の前の二人がさらに怒ったのが分かった。しつけが行き届いているのか我慢しているのが見て取れる。開門の指示が出され、城門が開かれる。鵺の彫刻が施された城門が開かれ、紫蘭生が門をくぐった。門番の一人が後ろからくっついてきた。背中に背負うための紐ごと肩からはずし、後ろの門番に刀を押しつけた。城の中から新たな門下生が出てくる。紫蘭生は手紙を掲げて庭の真ん中を歩いた。

 刀を持つ門番が城の前の門下生に何かささやいたおかげで、城の中へはすんなり入れた。「おい、騒がしいぞ」

 奥から、大柄な中年の男がやってきた。すぐに分かる。この人が鵺の会の長だ。紫蘭生はずいと男前に立ち、手紙を見せた。

「玄菜という村から参りました。仁賀の弟子です」

 男が素直に手紙を受け取ってしばらく目を落としていた。そのうちにまたぞろぞろと門下生が集まってきた。

「事情はわかった。が、刀を持ったまま他の武門に入ってくるな。道場破りだと思われたら、切られても文句言えねえぞ」

「木刀で? 面白いこと言いますね」

 門下生の持っている木刀にチラリと目をやって鼻で笑うと門下生が一瞬ざわめいた。

 長はため息をついて、紫蘭生をアゴでしゃくった。ぞろぞろと門下生がついてくる。長い階段を上って、広い部屋に通された。広い部屋にどんどん門下生が入ってくる。紫蘭生は広い部屋の真ん中にぽつんと突っ立っていた。長は少し離れたところで用意された腰掛けに座った。一人の門下生が紫蘭生に木刀を差し出した。紫蘭生は指を滑らせ、細工がしていないか確かめる。

「みんな。稽古の通りだ。始めるぞ」

「規則は?」

 道場で行っていたぬるい手合わせは、お遊び以外の何ものでもなかった。打って良いのは手首だけ。その手合わせも紫蘭生が宝刀を持つようになってから誰も紫蘭生の相手をしたがらなくなった。そしてその手合わせでは凌遅流の技を使うことは禁じられていた。真刀ではないのが残念だが、藁が相手よりはましなはずだ。

「相手を気絶させた方の勝ちだ。おい、下っ端から順に続け」

 紫蘭生が木刀を構える。辺りを見回して、ようやく門下生に押し出されてのろのろと近づいてきた人が見えた。一瞬で間合いを詰めて、鳩尾に深々と突き刺してやった。ばたりと門下生が倒れる。

「おら、次。さっさとしろ。もたもたやっていたら終わらないぞ」

 長の声に続き、どんどん門下生が飛びかかってきた。きちんと順番は守るようで、前の人が倒されるのを待ってから飛びかかってくる。仁賀の道場もこれくらいの活気があれば楽しかったのに。武芸者を育てる気はないと言って取り合ってくれなかった。

「武芸者って何?」

「己の道のために刀を振るう者」

 仁賀が答えた。

「だったら私は武芸者だよ。仁賀がそうじゃなくてもね」

 お得意の黙りがくると思ったが、仁賀はぽつりと答えた。

「だからこうして凌遅流を教えている。お前にだけな」

 ふと昔のことを思いだしながら打ち合っているうちに、どんどん周りに気絶した門下生が転がるので、転ばないように広い所に移動する。

「ぽ、歩句鳴(ぽくな)さん」

 気づいたら壁の周りに張り付いていた門下生は一人もいなくなっていた。最後の一人が紫蘭生の前に立つ。誰かが彼の名前らしきものを読んだ。

 一瞬だった。息を整える必要もないまま、紫蘭生は歩句鳴のこめかみを打ち付け床にたたきつけた。広場は静まりかえった。少し乱れた紫蘭生の息づかいと少し早くなった鼓動を感じるのみだ。

「木刀は軽いですね。久しぶりに持った。何年ぶりだろう」

 屋敷に竹刀はあったが、木刀はあまりなかったことをぼんやりと思い出す。長の方を向いた瞬間、気づいたときには脇腹に鈍痛が走っていた。

 目を開けると、人間を十人ほど土台にしても届かない天井が見えた。体を起こす。腰掛けの方を向くと長が座っていた。周りの門下生はまだ気絶しているようだ。

「あなたが、須々万さまですよね」

「ああ」

「私をここに、おいていただけますか」

 紫蘭生は立ち上がり、須々万に近づいた。油断していたのもある。確かに見かけの巨体に似合わず速い。しかし、あと数回打ち合えば勝てるだろう。紫蘭生は確信していた。須々万が顔を歪めた。多分、須々万もわかっているのだろう。須々万は頭をぼりぼりとかいた。紫蘭生は微笑みを作って、しおらしく待った。

「しばらくは置いてやるが、入門は認めない」

「しばらく、とはいつまでですか」

「栗海会が主催するあらゆる武門の流派が集まって、力を競う大会があるのは知っているか」

「はい。羅陀羅(らだら)ですよね」

「それが終わるまでだ」

 須々万が怠慢な動作で立ち上がって、ついてこいと紫蘭生を促した。紫蘭生は慌てて辺りを見回し、門番に持たせたものの、とうに気絶させられて転がっていた宝刀を拾い上げて須々万を追いかけた。ひんやりとした廊下を歩く。風が強い。廊下には部屋側の方の壁しかなく、もう片方には手すりがついているだけだった。景観重視なのだろう。手すりは低く見晴らしがよかった。穂応が一望できた。赤い屋根が連なる豪華な建物が大通りを飾っている。粒のように小さい人間たちがちまちま移動するのを眺めた。

「あ、手紙には、なんと書いてありましたか」

「お前のことを大切にしろとだけだ。お前をここに置いておかないのは俺が勝手に決めたことだ。うちとは毛色が違うからな」

「あ、思い出しました。鵺の会の入門の条件。私の村にも紙が回ってきたことがあります。そんなの、条件にありましたっけ。試験を突破するか紹介状がいるとだけだったような」

 今思い出したが、栗海会に登録してある武門のうち、一番入門条件が厳しいとされているのが、ここの鵺の会だ。その上、門下生が最大だ。多いが故に組織的で、上下が厳しい。強いからと一気に格上になるということはまずない。一度は落とされるのが常だと言われている。試験で入ろうが紹介状で入ろうが一番下の身分から始まるそうだ。ちなみに脱退者は多い。というのも、鵺の会に入った者には試験なしで入れるという武門が他に多数存在するからだ。それだけ鵺の会の試験は厳しいことで有名だった。鵺の会に入門した経験があれば、他の武門で最下層から始まるなんてことはまずない。

「俺が鵺の会の長だ。適宜微調整くらいするさ」

「自分の手の内に収まる子どもしかかわいくないと思っているんでしょう。器の小さい男ですね。仁賀とは大違い」

「お前のところの田舎の道場とは違うんだ。ここでの規律を守れそうにないと判断したから認めないだけだ」

「ふふっ。わかっていますよ。それくらい」

 少しからかっただけなのに。我慢できなくて声に出して笑ってしまった。須々万が振り返り、睨み付けられて、あわてて話題を変える。

「たしか、仁賀とは宝刀を授かった縁で知り合ったと聞きました」

「その通りだ」

 栗海会が作る宝刀はこの世に数本しかない。そのうちの一本は紫蘭生の背に、もう一本はここ鵺の会が所有している。この宝刀は、この国、茲監(これみ)に平和をもたらせた者に与えられると言われている。

「仁賀の師匠のことも知っていますか」

「秋霖(しゅうりん)ことか」

「そうです。初めて名前を聞きました」

 仁賀はいつも、師匠としか言わなかった。秋霖の話しかしないわりには、感情を押し殺した表情で淡々と語るのだ。

「楽しかったこととかないの?」

 そう聞くと、仁賀は黙った。お決まりの反応だ。

「俺もあまり知らないんだ。初めて会ったときは仁賀の付き人と思ったくらいだ。仁賀との文通で師匠だって知ったよ」

「どうして、私をあなたのところへ寄こしたのでしょうか。普通は自分の師匠に弟子とか子どもを預けるものではないでしょうか。秋霖は子どもが嫌い、とか?」

「そこまでは知らねえよ。心配するな。秋霖が今何やっているかは知らねえが、面倒見の良い武門への紹介状を書いてやるから」

 雑に頭を撫でられた。そして部屋の一室に通された。

「ありがとうございます。個室だ」

「門下生と一緒にしたら、絶対問題起こすだろうからな」

 須々万は笑い、後は好きにしろと言い残して元来た廊下を歩いて行った。

 


 紫蘭生の膳を運んできたのは、門下生だった。盥に汲んでもらった水で身支度を整えていると、蒲団がたたまれ、小さな机に膳が置かれた。

「自分たちで、ご飯を運んでいるんだね」

 門下生だけあって、食事は平民が食べるものより豪華だった。肉の入った粥だは、汁気が少なく、米がふんだんに使われている。汁物は別に魚の精巣を使った吸い物があった。胡麻をふりかけて焼き上げた餅もある。

「当然でしょう。作っているのも、僕たちですよ。家事は全部下っ端の仕事です。これも修行ですから」

 そう言い捨てられぴしゃりとふすまを閉められた。こんな広い屋敷のこんな遠く離れた部屋をあてがわれて、寝る間際に誰に飯を頼んだら良いのかと考えながら眠りについたのだが、杞憂だった。汁物をすすり、中の具を食べる。修行って。雑用を体よく押しつけられているだけではないか。仁賀と違って道楽でやっているわけではないから、会費もせしめているのだろう。個人の貯金だけでこんな楼閣を建てられるわけがない。会費をせしめた上で、家事をさせるとは。やはり大手の武門はやることが違う。

 腹も膨れたところで部屋を出た。盗まれないように背中に宝刀を背負って。他の荷物は置いてきた。昨日木刀を振り回しているとき思ったのが、案外金貨が重くて体が持って行かれそうになったことだ。盗まれたら賞金首でも殺して稼げば良い。着物に数枚しのばせておけば十分だ。

 昨日の広間に向かうと稽古はすでに始まっていた。須々万の短い指示が飛ぶ。広間に入り、須々万に近づいた。

「あの、須々万さま。おはようございます。さっそくですが、私と手合わせ願えませんか」

 須々万がこちらに目をやった。どんな返事がくるかと思ったが横やりが入った。

「お前、よそ者のくせに図々しいぞ」

 長い髪を後ろの高いところで結わえている男が語気を強めて間に入ってきた。歩句鳴だ。「お前こそ引っ込んでろ。お前は私に一撃で沈んだのを忘れたのか」

 細身で背の高い、多分五歳ほど年上の青年に吠えると、歩句鳴は腰にぶら下げていた棒に手をかけた。

「止めろ!」

 須々万の声で二人は口をつぐみ、睨み合った。先に動いたのは歩句鳴だった。それを読んでいたのか、須々万が歩句鳴の腕を片手で押さえた。動けない歩句鳴の肩甲骨を柄でぶん殴ろうとしたところ、紫蘭生も須々万に手首を捕まれた。

「あら? 昨日より速いですね。須々万さま……」

「貴様あ」

 余計に歩句鳴が吠えて、近くで訓練していた門下生が怯えて手を止める始末だ。須々万が一声かけると、門下生は何事もなかったかのように修行を再開する。

「本当に、手合わせしていただけませんか。あと一回でいいんです」

「見学してろ」

「はい」

 一蹴されて、諦めることにした。離れて壁にもたれて座り込む。捕まれた手首を見るが全然痛くない上に跡はついていない。確かに現段階の実力は須々万の方が確実に勝っている。が、せめて一回でも打ち合えれば勝てるのに。とも思ってしまう。

 紫蘭生は立ち上がって、門下生と同じ動きをした。木刀は持っていないから、刀を鞘に収めたまま同じ動きをする。紫蘭生の近くで修行していた門下生はチラチラと紫蘭生に視線をやり、集中できなくなっていた。模倣をしたいのにこれではそれもできない。視線を遠くにやり、紫蘭生を視界に入れていない門下生の動きを真似ることにした。

「見学の意味が分からないのか!」

 遠く離れたところから須々万の怒鳴り声が届いた。紫蘭生は真似るのを止めて大声で返した。

「せめて、須々万さまの型を拝みたいのです」

 門下生の大半が動きを止めてこちらを見た。

「うるさい! 門下生の気が散るから、こっちに来い」

「はい」

 須々万の近くに来ると、須々万は紫蘭生を一瞥した。

「一回だけだからな」

「はい」

 須々万が木刀を構えた。縦に振り下ろす。空気が切れる。再び上段に構える。空気が再びつながる。切り口が綺麗だから、何度でも切られたがっているように感じる。須々万が刀を振り下ろす。空気が切れる。

「終わりだ」

「ありがとうございます」

「絶対。門下生の前でやるなよ。やるなら他の誰もいない部屋でやれ」

「はい!」

 早く自分で試して見たかった。こんなに基礎の型を自分でやりたいと思ったのは久しぶりのことだった。門下生の筋は遅い。空気が木刀を包み、そのまま木刀の届かない所に押し出されているだけ。明らかに違う。自分のために用意された部屋の戸を開け放ち宝刀を構えた。いつもの調子で刀を振る。空気が切れる。紫蘭生が構え直す。紫蘭生の流派だと空気が再生することを嫌がる。綺麗に断面を切ってやっても、切られたくないと再生を嫌がるのだ。中途半端にくっついた空気をバラバラに切り刻む。仁賀から習った型は一振りで終わらないのだ。だから、鵺の会の真似をして一振りで終わると、空気が半端なことになる。鵺の型は一振りで完結するが、凌遅流は次の一振りが想定されている振り方になっているのだ。刀を構え直す。頭の中で須々万の動きを思い浮かべて、降る。空気が切れる。構え直す。空気が喜んで元通りにくっついた。紫蘭生はほう、と息を吐いて口角を上げた。いろんな型の良いところだけを吸収したい。楽しい。また一つ武芸者らしくなった気がする。


 昼食が運ばれるまでずっと刀を振っていた。木刀とは違って宝刀さすがに重くて腕を痛めそうだ。昼食後は大人しくしてようと決めた。仁賀の家で訓練していたときは、庭に設置できる藁の数には限度があるから、紫蘭生の限界を越えることはなかったが、基礎の繰り返しには終わりがない。仁賀の家では塾を開いていたので、仁賀が座学の時間と刀術の時間で分けていたから気づかなかった。自分で自分の体の限界を知らないと、体を壊すかもしれない。

 凌遅流。登録されていない紫蘭生が使っている流派の名前だ。名乗れないことが悔しい。

 空になった食器を置き、門下生が集う広間に向かった。紫蘭生が入ってきたことに気づいた須々万と目が合ったが、紫蘭生がにっこりと微笑むと何事もなかったかのように指導を続けた。壁にもたれて座りこみ歩句鳴を探した。すぐに見つかった。彼は背が高いし、年も他の門下生と比べて上で、それでいて髪が長いから。規則ではないのだろうが、他の門下生は男女共に髪が短い。髪が短めの紫蘭生でさえ長いと分類されるほどに。坊主も多かった。

 意識して見てみると、確かに歩句鳴は他の門下生と比べて動きが良かった。大分速度も練度も劣るが空気程度は綺麗に切れている。しかし、練習量が圧倒的に少ない。他の門下生に逐一話しかけられていて、その都度手を止めて助言をしている。午後の稽古で歩句鳴のまともな素振りを見た回数は、多分両手で事足りる。

「紫蘭生! 歩句鳴に鵺の基礎の型を教えてやれ」

「え? はい……」

 反射的に返事をして立ち上がったものの、どうも歩句鳴という青年が紫蘭生の事が気に入らないらしい。紫蘭生を視界に入れた途端睨んでくる。新鮮な目つきだなとぼんやりと思いながら、鞘に収めたままの刀を構えた。腕はまだ重くてだるいが、歩句鳴に教えてやる程度だ。速さが必要とされていなければ十分使える。

 刀を上段に構えた。空気が切られたがっている。歩句鳴の他の門下生も、修行の手を止めて紫蘭生の型を見ようしている多数の視線を感じた。刀を振り下ろす。空気が切れる。多数の視線の動揺が伝わる。紫蘭生は構え直す。

「よし。型はもう良い。紫蘭生。もう一度歩句鳴とやれ」

「はい」

「いい加減に木刀を使え。おい」

 門下生に声をかけ木刀を持ってこさせると、須々万は紫蘭生に木刀を押しつけた。紫蘭生は宝刀を背中に背負い、木刀を構える。目の前に立ち尽くす歩句鳴は動揺したまでぼんやりと突っ立っていた。

「始め!」

 須々万の声でようやく歩句鳴が構えた。その前に一撃、入れられたが紫蘭生は入れなかった。歩句鳴の上段からの振り降ろしを左側にいなして、好きの出来た脇を軽く突いてやる。体勢を崩しそうになった歩句鳴の表情が変わる。歩句鳴が踏ん張り転ぶことはなかった。刀を握り直し、斜め下から振り上げてくる。これもいなして、紫蘭生は上段から振り下ろした。歩句鳴が木刀で受ける寸前で木刀を止め、少し木刀を上げてから左払いにした。歩句鳴はまた避けきれずに木刀で受けようとするが間に合わない。紫蘭生はあえて寸止めをして、すぐに木刀を引いた。下段からの振り上げにも対応できず歩句鳴はとうとう転んだ。門下生がどよめいた。紫蘭生はその場を動かずに歩句鳴が立つのを待ってみたが、歩句鳴の息はもう上がっていて、立てないようだった。木刀を握っているだけで精一杯なのだろう。常に無表情だったはずの歩句鳴の顔は今は真っ赤に染まり、切れ長の目には生理的な涙がにじんでいた。不思議なことに、紫蘭生を見上げる目に敵意は感じられない。気のせいか、尊敬の色まで見えた。

 勘違い、だろうか。演技、だろうか。そんなに器用そうには見えない。ともかくこれ以上続けられないようだ。紫蘭生は一歩踏み出して左下払いで歩句鳴の脇腹を打った。なんとか起こしていた上半身が床に崩れ落ちる。

「やめ!」

「須々万さま。どうですか。私にもう一度、須々万さまと打ち合う機会をください」

 合図があるとすぐに紫蘭生は須々万にすり寄った。あからさまに鵺の型で戦ってやったのだ。そのために一撃で仕留めたいのを何度も我慢して、見せるための動き、をしてやったのだ。

「だめだ。どうせ俺は負ける」

 それは謙遜なのか本心なのか紫蘭生は判断がつかなかった。もちろん回数を重ねれば紫蘭生は確実に勝てると思っている。試合なのだ。勝ち負けはどうでも良かった。とにかく手練れと打ち合いたかった。

「勝敗をつけなくても構いません」

「勝てると思っている側の人間の発言だな」

 紫蘭生はどう応えたらいいかわからなくて黙っていた。大人しく教えを乞えばいいのか、それとも開き直れば良いのか。須々万は喉の奥で笑って紫蘭生の頭を撫でた。

「勝ち逃げさせろ。鵺の会の長が負けたとなれば、名が廃る。そうなれば、他の武門も黙っていない。お前もそういう面倒は背負いたくないだろう」

「内密でやればいいじゃない」

「そういう問題じゃない」

 ここまで断られると紫蘭生も興味が薄れてきた。

「私が、せめてそうですね。歩句鳴くらいなら、ここにずっといられたのでしょうか」

「そうだな。俺にはお前を育て上げる自信がない」

「そうですか」

 はっきりと言ってくれただけ、満足だ。歩句鳴が目を覚ましたようだ。須々万が目の前にいるのにも関わらず、歩句鳴は紫蘭生を見つけると勢いよく立ち上がって前に来た。

「改めて、貴女の名前をうかがいたい」

「あ……紫蘭生」

「私は歩句鳴と申します。これまでの非礼をお詫びしたい」

「何で急に心変わりしたの?」

 須々万の口角が上がったのを紫蘭生は見逃さなかった。口元を押さえて平静を装ったが

もう遅い。歩句鳴がこうなることを想していたのではないか。

「私は武芸が好きなのです。だから、貴女のあなたの初めのやり方を見たとき、規則違反だと思いました。それで負けたのが認められなかったのです。ですがあなたは先ほど規則に則って私に勝った。鵺の会の門下生で、もうあなたに文句を言う人間はいないでしょう」

 木刀を握っていない方と手を両手で包み込むようにして握られた。こんなになつかれるなら、嫌われたままで良かったかもしれない。


 羅陀羅の日まで滞在して良いと言われた紫蘭生は、その通りの日まで厄介になることになった。門下生ではない紫蘭生は退屈なので町を見て回ることにした。そのことを歩句鳴に告げると、

「私が案内して差し上げます」

 と言い、許可をしていないのについてきた。この面倒さは前にも経験したことがある。ごく最近のことだ。そうだ。利杯だった。彼は今何をしているのだろうか。行き交う女たちは鳳仙花で爪を赤く染め、高々と結った髷には珠がふんだんにちりばめられている釵を挿している。

 このまま黙って歩きたかったが、隣を歩く歩句鳴がこちらに視線を投げかけてくるので、仕方なく話題を振った。

「そういえば、一撃で仕留めるのは規則違反なの」

「いいえ。そんなことありませんが……。暗黙の了解というやつです。でも、それで負けても負けを認めない者も多いですね」

「はあ、羅陀羅でもそういうものなの?」

 食い逃げだ! とどこから声が聞こえてきて、声のした方へ視線をやると、ちょうど無銭飲食犯がこちらへ走ってきた。歩句鳴がどうするか反応を見たくてそのまま突っ立っていたら、体を引き寄せられ、そのまま逃がしてしまった。

「もちろん。そうでないと観客から石を投げられますよ」

 歩句鳴が何事もなく会話を続ける。

「なんで、捕まえなかったの?」

 言ってから、利杯みたいだと気づく。一般人の気持ちが少しわかったような気がした。

「鵺の会では犯罪者と関わってはいけないことになっているのですよ。直接絡まれれば別ですが」

「なんで」

「そういう決まりなんですよ」

「ああ、理由はないんだ」

「ありますよ。正義感を振りかざして悪党に挑んで体を壊すのは武芸者として良くないとか、助けられた町人たちがつけあがって無理難題をふっかけてくるとか。そうなると、己を磨くことがおろそかになりますからね」

「じゃあ、犯罪者を無視し続けながら、励んでいる稽古は順調なの? もうすぐ羅陀羅よね」

 何気なく聞いたが歩句鳴が顔を曇らせたので、触れてはいけないことだと気づいた。

「あー。あまり大会成績は良くないの? 大きい流派だから賞も毎年取っているのかと」

「鵺の会は、平均的に能力が高い者が多いのは事実です。試験が厳しいのもありますから、極端に弱い者はいないのですが……」

「極端に強い人はいないんだ」

「その通りです。金銀銅は毎年別の武門に取られています。その代わり、予選通過者は鵺の会の者が最多です。そうそう。優勝すると勝利刀がもらえるんですよ。宝刀ほど優れていませんが、どこの鍛冶屋に行っても手に入れられはしないほどの上物です」

「同じ武門同士でも戦うのね」

「ええ」

 お金は持ってきていたが歩句鳴が意外とよく話すので店をまともに見ることもできず、人通りの少ない場所に移った。

「こんなところまで、見なくて良いのですが」

「いいの。人酔いしちゃったし」

 明らかに違法住居と思われる、吹けば飛びそうな寄せ集めの素材で作られた家々が並ぶ通りに出た。大通りとは打って変わって、すり切れた服や地味な色合いの服を着ている者が多い。擦れ違う人々が、灰色の鵺の会の胴衣を身につけた歩句鳴を見て、視線を下げて紫蘭生を睨み付けた。

「故郷でも、こんな感じで睨まれたわ」

「武芸者はどこも肩身が狭いですよね。場所を移りましょう」

 観光客ではなく、地元の人間が多い通りに抜けた。ここでは押し売りをする商人はおらず、客もゆっくりとなじみの店員と談笑しながら品物を選んでいる。知っている顔がいると思ったら利杯だった。利杯もこちらに気づき、つかつかと足音を踏みならしながら歩いてきた。

「紫蘭生! 生きていたのか。門まで行ったのにそんなやつは来ていないって追い返されたから、どうなっているのかと思ったよ」

「紫蘭生さん。彼は?」

「なんか、つきまとわれているの」

「何? 貴様。紫蘭生さんから離れろ」

 歩句鳴が利杯の胸ぐらを掴んだ。利杯は多分成人しているだけあって身長もわずかながらに高かった。

「おい、何こいつ? 鵺の会の人間みたいだが……」

 抵抗することなく胸ぐらを捕まれたまま利杯が問うた。

「私は、羅陀羅の日までここに滞在することになったから。あなたは好きにして」

「紫蘭生がそうなら、俺もそうするよ。だから金ちょうだい」

「自分で稼げ」

「なんだよ。冗談に決まっているだろう。紫蘭生ちゃんはたまに急に怒るよな……」

「貴様。紫蘭生さんにたかっているのか」

「歩句鳴もいいから。ほら、面倒くさいからもう楼閣に戻ろう」

 体の大きい二人に割って入って、歩句鳴の背中を押して歩き出した。振り返り、あっち行けと犬を追いやるように手を動かすと、利杯はふてくされた顔をしながら、去って行った。


 穂応での生活にも慣れたある日、紫蘭生につきまとっていた歩句鳴は歩句鳴を慕う門下生に連れて行かれたことで、ようやく一人になることができた。紫蘭生は須々万の部屋を訪ねた。

「おう、紫蘭生か。どうした」

 机を前に事務仕事をしているであろう須々万が顔も上げずに尋ねた。

「お願いがあるのです。須々万さま。鵺の会が授かった宝刀に触らせてほしいのです」

 須々万が顔を上げた。

「何を切るつもりだ? ごっこ遊びで満足するわけじゃないだろう。すでに本物を持っているんだから」

「まあ、まあ、ご安心を」

 にこにこと愛想よく笑うと、須々万がため息をついた。

「わかった。ただし、お前の宝刀を置いていけ。何か問題を起こしたら没収する」

「はい! ありがとうございます」

 須々万が奥の部屋に引っ込み、宝刀を持って紫蘭生の前に立った。紫蘭生は自分の持っていた宝刀にくくりついけていた紐を外して、互いの宝刀を交換した。鵺の会の宝刀に紐をつける。

「あ、柄の柄がなんか違う」

「それだけだろ。違うのは」

 柄の部分に翼を広げて飛んでいる鳥が彫られていた。紫蘭生が持っていた宝刀には何も彫られていない。

「歩句鳴とは手合わせしないのですか」

「月に一度はしている」

「それじゃ、成長も止まりますよ。いつぐらいから、あのままなんですか?」

「お前を前にして言うのは苦しいが、うちに必要なのは飛び出た才能じゃないんだ。観客が許容できる程度の優れた才能があればもうそれ以上はいらなくて、最低限必要なのは、観客に見苦しいと思われないほどの技術だ」


 穂応を出てすぐそこの道から逸れた藪の中に利杯を呼びつけた。灯籠草が至る所に生えている。成長が遅くて小さな白い花のもあれば、立派に橙色になったものもある。

 紫蘭生が刀を抜くと、利杯は察したようにため息をついた。

「やけに大人しいね。もっと騒ぐかと思ったのに」

 出来れば離れて欲しいから、嫌がって消えてくれればいいのに。切られると分かっていても利杯はしおらしく立ちすくんでいた。

「これを見てくれ」

 着物から取り出した紙に注意を取られながら、刀を振り下ろす。左足が吹っ飛び、利杯は倒れた。が紙は差し出したままだ。多分、何度紫蘭生と出会う前に何度も襲われたことがあるのだろう。痛覚はあるようで、痛みにうめきながらも紙を離さない。

 腕を切り取った。紙を掴んだままの腕が地面に転がる。切断された腕から紙を抜き取った。見慣れたものだ。人相状だ。遠目でもわかった。

「これが何」

「紫蘭生ちゃん……何で機嫌悪いの」

「あんたがこんなものを見せるからでしょ」

 もう片方の腕を切る。試しに首も切り落とした。

「やっぱり、切れ味は同じくらいね」

 違いは色と細工の有無のみか。柄は金色で派手だ。こんなものを見せられたらすぐに金目の物だと勘違いされて盗まれそうだ。紫蘭生の宝刀の柄は黒くて正直柄だけ見れば、鍛冶屋に並んでいてもそこらの安物と見分けがつかない。使ったらすぐに分かるが、基本的に店で試し切りは認められていない。粗悪品が多いところでは特に。

「紫蘭生。この賞金首が穂応にいるらしいよ。お金はいらないかもしれないけれど、治安維持のためにさ」

 首から上が生えてきた利杯が、何事もなかったかのように話を続けた。

「金が欲しくない人間がそんなことをしたらだめでしょ。こういうのは普通の仕事に就けない人がそれでも生きていくために仕方なくやることなんだからさ。うまく殺せて金が入れば今までの生活も変えられるかもって夢見ている人も多いと思うし」

「あ、そう。ちなみにさ。この前会った、長髪の男の子にもこれ見せてくれない?」

「生首をもう一つ増やしたいの」

「なんのために腕を磨いているんだよ……。穂応は、治安が悪い。鵺の会が悪党を野放しにしているせいで」

「武芸者は自分を磨いているのよ。治安維持は役人の仕事でしょ」

 人相状を投げ捨てて、紫蘭生は穂応へ戻った。


 鵺の会の宝刀を須々万に返した。須々万は一度鞘から抜いたが何も言わなかった。拭き取っても分かるのだろう。何を切ったのか。

「せめて秋霖の居場所がわかればな。孫弟子も優秀なんだし、栗海会に登録できるだけの価値は十分にあるんだが」

「今は登録はできないの?」

「その型を作ったのは秋霖だからな。秋霖も死んでいるとなれば可能だが」

「ふうん」

 思った以上に落胆した声が出た。武芸の話になると仁賀と紫蘭生はよく対立した。仁賀が死んだからといって紫蘭生の考えは変わらない。仁賀が違うとしても紫蘭生は武芸者だ。

 広間によると歩句鳴が駆け寄ってきた。

「紫蘭生さん。ようやく見つけた。はいこれ」

 渡されたのは木刀だった。

「差し上げます。その木刀で私に稽古をつけてください」

 紫蘭生が歩句鳴の顔を見上げた。

「勝ちたく、なった?」

 聞くことが無粋と思われるほど、覚悟を決めた表情をしていた。歩句鳴がうなずく。

「私、他の武門の癖とか分からないから、助言できないよ」

「でも、紫蘭生さんなら勝てますよね」

「え、分からないよ」

 実践なら自信があるが、試合となると話は違った。

「大会までもう日数はありません。基礎体力を上げるには間に合わないでしょう」

「観客のことを気にせずに戦ってみたらどうかな。見てくれとか気にしないで。一応規則では許されているし、暗黙の了解を無視したら金賞剥奪! とはならないでしょ」

「分かりました。それでいってみます」

「本当に、いいの? 須々万さまに許可を取った方がいいかも。須々万さまは金賞を望んでいないと思うから」

「取りません。金賞が欲しいのは私です。大丈夫。須々万さまと付き合いが長いのは私の方ですから。その程度で破門はされません」

「わかった。木刀を構える準備をして」

 紫蘭生は歩句鳴に合わせて木刀を右側の腰に当てた。美麗が刀に手をやる。

「試合形式で背中から抜く人はいないんだよね」

「ええ、まあ多分禁止されていないので、背中からでもいいと思いますが」

「まあ初期位置はどうでもいいかな。ここから片手で刀を抜くの。片足を出して踏み込むと速さも出るし重さも気にならない。これで一撃で仕留める」

 紫蘭生は一度空を切った。歩句鳴も真似して後に続く。

「ああ、なかなかいいんじゃない。歩句鳴は身長が高いから、手足も長いし。相手からでは手を出せない距離でも歩句鳴になら届く。そして片手なら両手で構えるより速い。私にできる助言はこれくらいかな」

「こんな技、初めて習いました」

「まあ、普通両手で持つものだからね……。小さい子も多いし、同じ木刀を使っているなら片手じゃ持てない子もいるだろうし」

「紫蘭生さんは軽々と持っていますよね」

「普段から刀を振り回しているからね。木刀くらい軽い軽い」

 二人で微かに笑いあっていると、紫蘭生が夕食に呼ばれた。


 今日は羅陀羅の日だった。会場にはすでに多くの観客が詰めかけていた。あらかじめ須々万から言われていたが、紫蘭生は部外者なので関係者席には入れない。

「見たいなら一般客と同じ席からにしろ」

 そう言っていたのを起きてすぐに思い出した。朝食は用意してあったが、屋敷の中はすでに人は一人もいなかった。出遅れて会場付近までやってきたが、どうやら空いている席はなさそうだ。司会者が張り上げる声で予選が始まったことがわかる。騒音で全て聞き取ることができず、鵺の会の門下生が出ている試合なのかどうかはわからなかった。

「紫蘭生。だめだ。あっちの方も空いていない」

 手分けして席を探していた利杯が息を切らしながら報告した。

「そう。まあ、予選を見逃すのは問題ないんだけれど。滅多にないことだし、見たいんだよね」

「毎年やっているにせよ、わざわざこんなもの見に来ないよな」

 そういう意味ではないのだが、あえて否定はしなかった。

「私、探してくるね。利杯は休んでいて」

 利杯と別れた。試合が始まってしまったので席を探すにしても観客の前を通るなど、視界を遮るような動きは取れない。立ち見も可能だが、すでに前列は人で埋まっている。後ろの方だと大人が邪魔で視界が遮られて見られない。人に押し流されているうちに人のいない観客席の裏側に来てしまった。歓声が遠くから聞こえる。人酔いしてしまって、もう結果だけ後から聞けば良いとさえ思ってしまった。

 ふと前を見るとどこかで見たような四角い顔の女がいた。すぐに人相状の人物だとわかった。女は紫蘭生に気づいたようだ。そして、紫蘭生が戦える人間であることにも。

「抜かない方が良いわよ。お嬢ちゃん。私が狙っているのは鳳凰の会の連中なの。大人に

言いつけさえしなければ、見逃しても良いわ」

「出場者を殺すの? なんで?」

「仕事よ」

 ゆったりとした服を着ていてもわかるたくましい体つきだ。悠々とした動きで武器をちらりと見せる。太刀だった。紫蘭生が微かに笑った。

「その、何? 鳳凰の会の人たちは強いのかな?」

「金賞連続受賞何度目だったかしら。覚えていないわ」

「来年に持ち越すか、大会の後で殺すつもりはない? 私は公平で公正な試合結果が知りたいの。あなたに殺されて参加者がいなくなったせいで繰り上がり優勝されるのは嫌なの」

 多分、歩句鳴本人はもっと嫌だろう。

「嫌なら、どうするの。その刀で私を殺すの?」

「そのつもり」

 紫蘭生は刀を抜いた。次いで女も太刀を抜いた。この距離では紫蘭生の攻撃は届かない。紫蘭生は迷わず距離を詰めた。女の一太刀目を寸前で避けて深々の胃を突き刺した。ずるずると女の体が刃の根元まで滑り降りてくる前に振り落とした。手から離れた太刀が鈍い音を立てて地面に落ちた。

「その太刀おしゃれだなあ。でも、私には多分向かないんだよねえ」

 刀を適当にぬぐってしまうと転がった太刀を拾って構えて見せた。

「紫蘭生! あれ。それ賞金首じゃあ」

「利杯。良いところに来た。今すぐ新しい着物を買ってきて欲しいの。血を避けることを忘れていた。この格好じゃ表に出られない」

 金貨を渡すと利杯はきびすを返して走って行った。太刀は重かった。スピードが出ないから威力も振るわず一撃で人を殺すことはできなさそうだ。

「とりあえずこれを羽織って。で、後からこれに着替えて」

 戻ってきた利杯に渡された羽織を適当に身につけ新しい着物を受け取った。返り血のついた中の服が見えていないことを確認しながら観客席に向かう。

「金賞は、鵺の会の歩句鳴」

 司会者の声により、一斉に観客が立ち上がった。そのせいで表彰台は人の背中に隠れて全く見えなかった。

「肩車、する?」

「ううん。結果がわかったから。もういいよ。都を出よう」

「次はどこに行くの?」

「当てはないかな。ふらふらする。放浪の旅よ」

 須々万からの紹介状を催促しておけば良かった。しかし、後悔はなかった。会場から出て、人気のない通りを歩く。門をくぐって穂応を出た。

「とても気分がいいわ。自分のことじゃないのに不思議ね」



 穂応から東に位置する珠植(しゅしょく)は、玄菜よりずいぶんと栄えている町だった。

「役場に行ってきたけど、人相状はなかったよ」

「そう。地主の家にでも用心棒として雇ってもらおうかな」

 鵺の会に置いてきたまま出てしまったので紫蘭生の所持金は金貨数枚だった。

「俺は普通に仕事を探すよ」

「まあ、まだ余裕があるし、もっと仕事が多そうな都会に行ってもいいけどね」

 当てのない旅が始まったものの、不安はなかった。日頃の勉学のおかげで茲監の地理は把握していた。ここから北に行けば町があったはずだ。

 利杯があいまいにうなずき、仕事を探すために別行動を取った。紫蘭生はそのまま大きな家を探して一軒見つけることが出来た。広い庭には立派な柳の木が生えていた。門番はいない。鍵のかかっていない門をくぐり、扉を叩いた。すぐに中から使用人とおぼしき人物があらわれる。

「何かご用ですか」

「用心棒はいりませんか。見てください。この刀。栗海会が贈呈するこの国に数本しかない刀のうちの一つなのですよ」

 武芸に通じていない人間に言っても無意味かと思ったが、何もないよりはましだと思い、言ってみた。使用人は顔色を変えずに口を開く。

「あいにく、うちは間に合っていますので……」

「その人を、呼んできてもらえませんか。私の方が強いということをお見せしますよ」

 そういうと、使用人は少し考えるそぶりをみせた。今雇っている用心棒は心許ないのだろうか。

「いいでしょう。醒酪(せいらく)という名の男を雇いました。今は見回りに出ています。あなた自身で話をつけられたら、あなたを雇うことにします」

「ありがとうございます。それで、醒酪はどのような見た目をしているのですか」

「これと言って特徴はありませんね。身なりも普通の町人と変わりませんし。刀を所持しているので、わかると思いますよ」

 もう一度丁寧に頭を下げてお礼を言い、扉が閉まるのを待って、広い庭から出た。そういえば玄菜とは違い、村の割にはみんな身ぎれいな格好をしている。近くに穂応があるおかげだろうか。丁寧に織られているのがわかる。

 市場に出て、一軒一軒店主に醒酪という名の男のことを尋ねる。名前を言うとみんな首をひねったが、刀を持っている男を捜していると言うと、人々は思い思いに指を指したので、他に手がかりがない紫蘭生はその方向に行くしかなかった。

「お茶を一杯お願いします」

 歩き疲れて、屋台の女に声をかけた。すぐに椀に注がれた茶が出てくる。

「すみません。私も茶を」

 声の方を見ると、一つ席を空けて男が座っていた。身長は利杯と同じくらいか。刀を腰にぶら下げている。

「あの、すみません。醒酪さんですか」

 紫蘭生が声をかけると男はこちらを向いた。茶を渡されると笑顔で受け取り、再びこちらに視線を向けた。

「そうだよ」

「申し訳ありませんが、あなたの仕事を私が担うことになりました。あなたの雇い主には許可をもらっています」

 醒酪は何も言わず、紫蘭生の背中の刀に視線を移した。紫蘭生は茶を一口飲む。醒酪は、危ない人間だった。紫蘭生以上に人を殺している匂いがした。見た目でいうと本当にどこにでもいそうな人間だ。少し良い仕事をしていそうな感じさえする。

「わかった。いいよ」

「ありがとう。お金がないから、それ以外で……そうね。何かあったら、あなたを守ってあげるわ」

 そういうと醒酪は苦笑した。

「紫蘭生!」

 無意識に命が消えるような行いをしようとしている小さい子を咎めるような響きで名前を呼ばれ、ふり向くと利杯が血相を変えて走ってきた。

「ちょっとこっちに来て」

「え、なんで」

 腕を掴まれて引っ張られたので、抗議しようと口を開きかけたが、紫蘭生の腕を掴む利杯の手で震えていたので、様子を見ることにした。

 角を曲がり民家が連なる通りまできてようやく腕を放してもらえた。

「あいつを、殺してくれないか」

「え、嫌だよ」

 立った今守る約束をしたばかりだ。まっとうな人間ではないことは十分に分かるが、それは紫蘭生には関係ないことだった。多分紫蘭生の力量を正確に読み取ったからだろうが、嫌な顔を一つもしないで仕事を譲ってくれた恩もある。

「俺が、紫蘭生につきまとった理由を教えてあげるよ」

「うん? 急ね。何?」

「あいつは、殺人犯だ。いろんな人間を無差別に殺しまくっている。故郷の村にいた人たちも全員殺された」

「で、復讐を考えたと」

 茶々を入れたつもりはなくあくまで言葉をつないであげたつもりだったが、余計だったようだ。利杯が睨みつけてきた。

「俺は武芸がからっきしだめでね。だから、俺の代わりにあいつを殺してくれる人間をずっと探してきた」

「なるほどねえ。通りでおかしいと思ったのよ。やたら私に殺しを勧めるからね。故郷では賞金首を殺しても、恐れられるだけだったのに、故郷を出てすぐに出会ったあんたが人殺しを推奨するからどっちが望ましいのか判断がつかなかった」

 利杯は黙っている。はっきり言わないとわからないようだ。

「お別れね。私は醒酪を殺すつもりはない。今すぐ消えて」

 利杯は突っ立ったままだったので、紫蘭生は利杯を押しのけてその場から離れた。

 


 紫蘭生の雇い主の名は長慶といい、町では名前を知らぬ人はいないという。紫蘭生が用心棒を始めてから数日が過ぎた。すぐにいなくなるかと思ったが醒酪はまだこの村にいるようだった。守る手間が増えるから早く移って欲しいのだが、この町が気に入ったのだろうか。

 使用人に紫蘭生が仕事をすることになったと伝えると、部屋まで用意してくれて、紫蘭生は地主の家の空き部屋で寝起きをしている。朝も用意してもらった朝食を取りながら、昨日巡回して思ったことを使用人に伝えていた。

「精が出ますね」

 紫蘭生もこの村が気に入っていた。都会ほど人が多くなくて疲れないし、田舎のよう他人に興味があるわけではない。いっそこのままここに住み着こうとさえ考えて、冗談交じりに使用人に言うと、平然とした顔で、

「結構ですね」

 と言われた。下手に歓迎しないところも心地良い。

「あ、でもそのためには紫蘭生さん。昨日来客がありましてね。用心棒になりたいという方がお見えになったのですよ。その方も紫蘭生さんの言うように自分の方が強いとおっしゃって……実際に、強盗を捕まえたらしいのです」

「そうなの? いやそれは運もあるし……。私もその場にいれば捕まえましたよ……」

「それだけではないんです。餅屋の店主がお礼を渡したのに断ったんですって。私の所に来たときも、用心棒は引き受けるがお金は一切いらないって」

「えーっと、つまり私は解雇?」

「それはまだわかりませんよ。紫蘭生さんのときと同じようにそちらで話をつけてきてくださいってお願いしましたから。強盗って言っても飢えに苦しんで思わずやったっていう感じで前科者ではありませんでしたから。本当に紫蘭生さんの方が強いなら、お給金を払ったまま、あなたを雇いますよ」

「私! 見回りに行ってきます」

 こうしてはいられない。居心地の良い居場所が奪われそうだ。いってらっしゃいませという言葉を背中で受け止めながら、紫蘭生は屋敷を飛び出した。


 市場に出てすぐ、その新しく来た用心棒志願の見た目について尋ね忘れていたことに気づいた。戻ろうかと考えたが、相手も紫蘭生を探しているのなら、そのまま外にいたほうが良いと思い直し、ちまちまと歩いていた。

「おっと」

 角を曲がると、利杯が知らない男を話しているのが見えた。壁に隠れながら僅かに顔を出して様子をうかがう。わずかに相手の男の方が背は低いが顔立ちからして年上のようだ。歯を見せて笑っている。無意識に握りしめていた手は汗で湿っていた。利杯が男と別れ、こちらに向かってくる。動機が止まらない。心臓が苦しくて胸を押さえていると角を曲がった利杯が紫蘭生に気づいて驚いた顔をした。紫蘭生も今歩いてきたという体で驚いたふりをする。利杯が不適な笑みを浮かべた。

「お前はもう用済みだよ。紫蘭生ちゃん。俺はもう別の人に、あいつを殺してもらうことにしたから」

「そうなるのね……」 

 一瞬立ちくらみがしたが、持ち直し、紫蘭生は駆けだした。前会ったときの屋台に行くと醒酪はのんびりと茶を飲んでいるところだった。

「醒酪さん!」

 名前を叫ぶと醒酪は驚いたように顔を上げた。

「あれ? 君は……そういえば名前を聞いていなかったな」

「紫蘭生よ。でもそんなことより、今すぐこの村から出て。危ない奴が来ているわ。あなたを殺そうとしている人がいる」

「……君でも勝てない?」

「勝てません。でも、時間稼ぎはするから。あなたがこの村から出て足取りを追えなくするくらいまでは……なんとかね」

 始めの一言以外は、ぼそぼそと頼りない物になってしまった。醒酪はわずかに微笑んで紫蘭生の頭に手を載せた。

「わかった。じゃあ、よろしくね」

 小銭を机の上に置き、足早に醒酪は去って行った。ぼんやりとその背中を見送る。動悸が少しは落ち着いたようだ。小走りで醒酪を追いかける。ふとそのとき僅かに殺気を感じて方向転換をした。民家の裏手に入る。狭い道だ。ちょうど良い。大人がすれ違えるほどの道だ。前かから先ほど利杯と話していた男が現れた。すぐに刀を抜いたが、そのときにはすでに男は目の前に居た。一撃を受け止めながら後ろに飛びすさった。両腕がしびれて思わず刀を落としてしまいそうになった。腕が無意識に下がっていることに気づき慌てて構える。目の前の男はにこにこと笑っている。遊ばれている。すぐに分かった。もう動悸はない。紫蘭生は下段から刀を振り上げた。刀がぶつかり合う。男の細目が僅かに開いて黒目が見えた。力負けして体勢を崩しかけているので、再び飛び退く。もう、十分時間は稼いだ。戦う必要はない。しかし、命乞いする気は全くなかった。相手が喜ぶだけ喜んで殺してきそうだ。そんな人間だ。醒酪ほどではないが、この男も相当な数を殺している。

 紫蘭生は刀を鞘にしまった。隙が出来たというのに男は様子をうかがっているだけだ。紫蘭生は木刀を構えた。男はとうとう吹き出した。

「どうして、木刀にしたの? ねえ」

「死んでも良いから、あんたを一発ぶん殴りたくて」

 男の顔が一瞬真顔になり、すぐに口角が上がった。紫蘭生が踏み込む、左手を離して上段からこめかみを狙った。寸前のところで受け止められる。木刀に刀が食い込んだ。男が一瞬放心する。紫蘭生は木刀を離して男の膝へ回し蹴りを食らわせ、体勢が崩れたところを狙って左頬をぶん殴った。鈍い音がなる。僅かな達成感を抱いていると、脳天を柄でぶん殴られた。

 男は後ろへ下がり、紫蘭生はその場に倒れる。視界がゆがんでいる。立てはするがすぐに転びそうだ。あがくのをやめて腕を地面に下ろした。ろくな死に方はしないだろうと思って生きてきた。こんな死に方なら十分だ。男が近づいてくる音がする。影が重なった。背中にある紫蘭生の刀が抜かれる。そんな粋な殺し方をされるのだろうか。

「あ、やっぱり」

 頭上で声をしたかとおもうと襟首を捕まれて上半身を起こされた。男もかがんでいる。

「この刀、どこで手に入れたの」

「仁賀。育て親からよ」

 これほどの腕の持ち主なのだ。この刀が栗海会から賜ったものだとわかるだろう。手を伸ばしたが空を切った。

「仁賀? そいつは僕の弟子だよ。なんか、僕と同じ型を使ってくるなあって思ったら。君は孫弟子だったのか」

「もしかして……秋霖、さん?」

「正解。仁賀は何しているの。説教しなきゃ。こんな躾のなっていない弟子にしやがってってね」

 秋霖は笑顔のまま紫蘭生の頬を殴った。紫蘭生はそのまま地面に突っ伏す。口の中が鉄の味で染まる。腕を張って僅かに起き上がり、笑顔のままの秋霖を睨み付けてぶっと血を吹きかけた。あ、歯らしきものも飛んでいったなと思ったのもつかの間で、再び殴られて地面を舐めることになった。


継釈一一九年

 秋霖が刀を鞘に収めると同時に、首が落ちた。これで五つ目だ。秋霖が振り返って尋ねてきた。

「これで終わり?」

「そうですね」

 人相状に目落として人相と罪状を確認する。五枚とも確認してうなずいてみせた。

「そっか。じゃあ、役人に報告しなきゃね」

 町人が呼んだのか、ちょうどいいところに役人が家になだれ込んできた。役人たちが転がった死体を見て、それから人相状を持った仁賀と笑顔のままの秋霖を見て事態を把握した用だった。

「協力感謝する」

 包みを開いて人相状に記されている通りの硬貨が入っているか確認してうなずくと、役人は用事が終わったと見なして死体を相手にし始めた。秋霖は早々に家から出ていた。仁賀も後を追う。

 家の外から様子をうかがってきた町人たちは、秋霖が笑顔で片腕を上げると、歓声が上がった。老人夫婦を殺して家に住み着いた悪党がいて困っていると宿で相談を持ちかけられたのだった。飯を食っても、何を買っても金を払わない。抗議すればすぐに刀をちらつかせる。そんな連中に町人たちは萎縮していた。在駐している役人では歯が立たないと、都に応援を要請したものの、送られてきたのは人相状のみだった。そんな時、やってきたのが仁賀と秋霖だったのだ。小さな町や村では対処できない厄介事はよそから来た人間に処理してもらうことが通例となっている。町人で何とかしようとしたらどうしても角が立つ。よそ者にはその心配がない。その上他人が死のうが町の人間には関係のないことだからだ。

 旅人の方も、失敗しても町から出て行けばいいだけで、腕に自信があるなら断る理由がなかった。上手く話を転がせば、町人からは前金をもらえることだってある。無事に成功すれば残りももらえる。さらに人相状の人間であれば役人から報酬がもらえる。

 秋霖の側にいるだけで、仁賀が宿で奉公をしていた頃とは比べものにならないほど自由で裕福な暮らしを味わっていた。

「次はもっと、大きな町にでも行きたいよねえ」

「人相状の数は多いでしょうね」

 地主に招待されてそこで泊まることになった。仁賀が客室で待機していると、外で地主と話していた秋霖に呼ばれた。外に出ると姿が見当たらない。

「こっちだよ」

 声のする方に向かうと、そこは家畜小屋にだった。中には豚と牛が一頭ずつ飼われていた。地主が秋霖に笑いを浮かべ、やってきた仁賀にも、形容しがたい薄ら笑い浮かべながら、いそいそと仁賀と擦れ違った。秋霖は相変わらず笑顔だった。

 事が済み、秋霖と連れだって家に入った。気怠い足腰を引きずりながらようやく二階の客室に入った。秋霖はついてこなかったらしい。すぐに、横になりたかったが、秋霖の許可も得ずにそんなことはできない。しばらくすると、地主と秋霖と料理を運んできた下男下女がやってきて、遅めの昼食が始まった。並べられたのは、豚料理だった。豚の肩を割いたもの、豚の足、豚の肉の団子が入っている汁。豚肉の饅頭。

 地主や下男下女が下がって二人きりになると、秋霖はおもむろに豚肉の饅頭を口に入れた。ためらうことなく、大口を開けて。一口では食べきれなかったようだが、そのせいで断面が見えた。やっぱり豚肉が入っている饅頭だった。

「僕がこの目で確認してきたから。調理されるところをな。この豚は、確かにお前を食った豚だよ。今度はお前が食うんだよ」

 震える手を悟られないようにごまかしながら、仁賀は匙を取り、豚肉の団子が入った汁を一匙口に入れた。

「お前のために、あの豚に大金をはたいてあの地主から買い取ったんだぞ。市場に行けば、同じような豚を十分に買えるくらいの金を渡してな。だから、残さず食えよ。」

 そう言って笑った秋霖は、食べかけの豚肉の饅頭を一口で食べた。遠慮も何もなく、豚の足にかぶりつき、再び笑いかけてくる。

「食わねえつもりなら、無理矢理にでも食わせるけど」

「いただきます」

 質問することは許されない。吐き気を抑えながら、仁賀は汁に入った肉の団子を食べた。

「僕の金だから、まずくても食えよ」

 戸が開き、何事かと思って見ると、地主と見知らぬ人間が廊下から顔を覗かせた。

「すみません。お客様。噂を聞きつけた旅人が一緒に食事をしたいって」

「いいですよ。こんなに料理が余っていますから」

 秋霖は嫌な顔一つせずに旅人を招き入れた。旅人が部屋に入ってきて、地主がそのまま戸を閉めた。

「おい、あんたら賞金首を殺したんだってな。もう噂になってるぞ」

「そうなんだ」

 旅人が持っていた酒の瓶を揺らした。秋霖は機嫌良さそうに杯を持ち、酒をついでもらった。

「兄さんたちは次はどこに行くんだい? 俺は穂応に行くんだ」

「へえ。僕たちは穂応には行かないかな。仁賀、手、止まっているぞ」

「すみません」

 客人が来ても、容赦はなかった。肉の団子は食べかけのまま汁に浮いている。それをまた一口かじった。

「どうして? あそこには鵺の会もあるだろ? 武芸者なら行って損はないと思うがな。それとも、もうどこかの流派の人間なのかい?」

「僕はそういうの興味なくてね。どこの流派の人間でもないし、自分の型を登録する気もないよ」

「ええ? そりゃまた珍しい。でも、こちらはお弟子さんなんじゃあ・・・・・・?」

「追い払っても縋り付いてくるから、そのままにしてるだけだよ。教えたことなんてない。そういえば、お前はよく僕が刀を振るのを見てているよな。あれで学んだ気にでもなってんのか?」

「稽古をつけてくださらないので・・・・・・見学するしか」

「お前に才能はねえよ。一度でも人間に刀を向けたことがあんのか」

「・・・・・・」

「まあまあ、兄さん。お弟子さんをあんまり虐めないで。最近噂になっているんだが、村潰しという通り名を聞いたことはあるかい?」

「たまに出てくるよね。村の人間を全員殺したとかそういう類いの人間でしょ。別に珍しくもない。村潰しなんてそこら中にいると思うよ」

 この目の前の人間がそうだと言っても、旅人は信用しないだろう。秋霖はあえてそうしないだけで、いつでも何人でも誰でも殺そうと思えば殺せる。目立つのは嫌いだが賞賛を浴びるのは好きだという面倒な人間だ。金はもらえればいいが、もらえなくとも名声を得られるとなればやるだろう。

「そ、そうかい。兄さんが村潰しを退治してくれれば、俺としちゃあ安心して旅をできるんだがなあ」

「穂応には現れないと思うけどね。村潰しなんて言うくらいだから人気が少ない所しか狙わないんじゃないかな。道中も平気だと思う」

 自信のない人間ほど人気の無い場所で襲うと、名言のように言っていたこともあるが、秋霖はやむを得ず犯罪に手を染めてしまった人間を見たことがないのだろうか。

 その夜、旅人も秋霖も寝静まった後、仁賀は一人外に出て、食べたものを全部吐き出した。


   継釈一三二年

 複数の足音が脳内をかき乱す。目を開けると見知らぬ天井が見えた。そばには小さい子どもがいて、紫蘭生が目を開けたことに気づくと、

「お母さん、起きたよー」

 と母を呼びに行った。別の子どもがやってきて、心配するように紫蘭生の顔を撫でるのだが鬱陶しくて不快なだけだった。年下の子相手に怒ってはいけないとやんわりと子どもの腕をどかして、起き上がった。

「あら、だめよ。まだ寝ていないと」

 子どもたちの母らしき人が現れて、せっかく起き上がったのに肩を押されて再び蒲団に沈む。水で濡らした布を顔に押し当てられた。

「腫れがひどいわね。お医者様を呼んだからね」

 じんわりと熱を持った顔を冷やされて気持ち良かったものの、やんわりと手で押し戻して起き上がった。落ち着かない。

 女は、側にいた子どもに布を渡すと、紫蘭生の視界から消えた。視界にいる中で一番年下の男の子が、姉に渡された布を触りたがるが、姉はだめよと厳しく注意して、母がやっていたように、紫蘭生の顔に当てようとする。

「いや、もういいよ」

 紫蘭生は女の子の手を自分が考える最上級の優しさをにじませて払いのた。

「私がね、お姉ちゃんを見つけたんだよ」

 人なつこく、図々しくも紫蘭生の胴体に乗り上げた。女の子が言った。その隙に弟に布を奪われる。

「そう。ありがとうね」

「こら! 怪我人の上に乗るんじゃないよ」

 女がやってきて、娘の腕を取った。後ろには医者らしき人がいて、親子を気にせず紫蘭生の側に座った。

「失礼するよ」

 しわくちゃの手が伸びてきて、思わず避けそうになったのを我慢して顔を触らせた。医者が持ち込んだ軟膏を塗られ、綿布で頬を覆われた。

「薬を出しましょう。寝る前につけ直してください。おや、この指は折れていますね」

「あ、やっぱり?」

 素手で力任せに殴ったのだ。折れて当然だ。一番痛い殴り方をしたのだ。普通なら手甲でも装具してやるようなことだ。医者に右手をとらわれ、痛みに顔をゆがめる。腫れ上がった中指を見て、女が短く悲鳴を上げた。寝かせたときには気づかなかったのだろうか。

 包帯と棒で固定されて太くなった白い中指を見る。

「自警団に言って、見回りを強化してもおうと思うんだけど」

 医者が帰った後で女が声をかけた。

「いえいえ、お構いなく、もう平気です」

「家はどこなの?」

「あー……。私は旅人で。もうこの村から出ます」

 多分、長慶の家に用心棒志願したのは秋霖だろう。そうなのだとしたらこの村にはいられない。指摘されないことをいいことに、本来紫蘭生自身が払うべきであろう治療費をうやむやにしたまま家を出た。

「いらっしゃい」

「一番切れる刀をちょうだい」

 露店で無造作に並べられている鍛冶屋に寄り、店主に声をかけた。特に一般人の刀の所持は禁止されていない。店主は特に気にすることもなく一本の刀を差しだした。鞘を抜いて刀身を眺める。傷はついていないが、それは丈夫だからなのか使っていないからなのかはわからない。

「これにします。あの……そうですね。刀を持っている男の人って、まだこの村にいます? 目が細くて、笑っているような顔で……あ、最近強盗を捕まえた人です」

「ああ、いるよ。長慶の所の用心棒のことだろ」

「そうですか。ありがとう」

 お金を払い、刀を受け取った。紐は無事でそのまま体に巻き付いたままだったのでさっそく刀をくくりつけて背中に背負う。村の出口にさしかかったところで、嫌な顔が見えた。そして、それが笑顔で近づいてくる。

「よ。かわいい顔になったね」

 秋霖が紫蘭生の前に立った。腰には紫蘭生の刀を差している。

「何か用?」

「話の途中だっただろ。なのにあんたが寝ちゃうから。こうして待っていてあげたんだろう。仁賀はどうしているんだよ」

「死んだよ」

 秋霖が笑うのを止めて真顔になった。

「嘘をつくなよ」

 紫蘭生は黙って秋霖の横を通った。秋霖が紫蘭生の腕を掴んだ。

「なんで死んだ?」

「心臓発作だよ。あんたのせいなんじゃないの。出会ったときから疲れている顔をしていた」

 こんな奴をよく師匠にするなんて。

「墓参りがしたい。案内しろ」

「玄菜っていう小さな村よ。穂応に行って、呉茎に行けば、あとは道なりに行くだけだから」

 骨の折れた音がした。捕まれた手が離れる。肘から下が動かない。紫蘭生は秋霖を睨み付けた。

「案内しろって言っただろ。そうだ。駄犬をしつけるのに良い物を買ったんだよ」

 見せびらかされたのは真っ黒の首輪だった。紫蘭生は走り出したがすぐに捕まった。

「誰か。助けて。助けてー」

 羽交い締めにされながら叫ぶと、町人がぽつぽつと集まってきた。勇気のある一人の女がこちらに近づいてきた。

「ちょっと、子どもに何しているのよ」

「黙れ」

 背中からの重圧がなくなったかと思い、振り返ると女が倒れていた。女の体を中心に地面に血溜まりができはじめた。様子をうかがっていた町人たちが悲鳴を上げて散っていく。紫蘭生は片腕だけで抱え上げられた。

「待ちなさい。その子を解放しなさい」

 誰かが自警団を呼んでくれたようだ。

「助けてー」

 隙を作ってあげようと暴れると無造作に落とされ、折れていない方の腕を捕まれた。察したときにはすでに遅く、鈍い音共に骨が折れた。生理的な涙があふれる。大人しくなった紫蘭生を秋霖が再び左腕で抱えた。右手で宝刀を自警団に向ける。

「今すぐ出て行きます。見逃してくれれば、あなた方の命は取りません」

 一歩、一歩秋霖は後ろに下がりながら秋霖は出口へと向かう。それに合わせて自警団たちも刀を抜いて、一歩一歩近づいてくるが、踏み込んでくる気配はない。やがて、自警団の中でも若い男が秋霖に向かって走って行ったが、あっけなく殺された。秋霖は歩みを止め、無造作とも思える動きで刀を振るった。軸にぶれがない。片腕に人間を一人抱えているのにもかかわらず。殺された自警団の一人を目の当たりにして、とうとう残りの村人たちは秋霖の暴挙を止めるのを止めたようだった。秋霖は村人に背を向けて歩き出した。

 


   継釈一二四年

「方々の悪党共を成敗したことを称え、宝刀を賜る」

 数数の武門の長からの視線が集まる中、仁賀は宝刀を授かった。

「ありがとうございます」

「貴殿の使っている武芸の型は何というのかな」

「凌遅流です」

 秋霖が村潰しを殺していくうちに有名になった。目立ちすぎて、善行しか許されない空気が嫌になった秋霖は、何人目かの村潰しを殺した後、仁賀の手柄にするようになっていた。側にくっついているだけで手柄をもらえることが嬉しかったのか、仁賀は特に何も言わなかった。有名になり、演舞を披露して欲しいと言われることも何度もあった。そのたびに、秋霖は仁賀に任せていた。仁賀に手柄を与えたおかげと、秋霖の方が若かったこともあり、いつの間にか周囲の人間からは秋霖の方が仁賀の付き人のように思われることが多くなった。人々に賞賛されすぎて視線が鬱陶しかった秋霖は、気にかけられなくなってありがたかった。仁賀と出会って五年が経つが、実際仁賀が人を切ったことはなかった。

「これは、治安維持に努めた礼だ」

 金貨が入っているであろう布袋を仁賀が受け取った。こうして秋霖が隣に立っていても、武門の長たちが見ているのは仁賀だけだ。流派を創設した人間の目に、仁賀がどう映っているかは気になるところだ。

「仁賀どの。できれば、手合わせを願いたいのだが」

 鵺の会の長と言う男が前に出た。

「申し訳ありませんが、私はそういったものはしないもので・・・・・・」

 奉公時代の癖が抜けないのか、誰が相手でも下手に出るのが仁賀だ。手柄を与えた後も偉そうな素振りは一切見せなかった。それがより一層威厳のようなものに見えるらしく、誰も仁賀の実力を疑わなかった。演舞をするのが仁賀だったことも大きい。実践とは全く違うのだが、素人にはあの派手な動きが立派な武芸に見えるらしい。とはいえ、見世物に仕立て直したとはいえ、その型は秋霖が作った型そのものだった。

「そちらの方は?」

「僕も遠慮します」

 誘ってきたのが相手側であるし、武芸者なら覚悟しているはずだ。殺しても罪に問われない。しかし、仁賀が断った手前断るしかなかった。どこにでもいる刀を振り回すだけの賞金首とは違ってまともな武芸者を殺してみたかったのだが。惜しいことをした。

 栗海会を後にする。門を通って、橋を渡ってようやく民家が見えてきたところで秋霖が口を開いた。

「すぐに音を上げると思っていた。いつの間にか消えるだろうってね。だから、村潰しを終えた後にもまだ隣にいたら、報酬は全て仁賀にあげるつもりだったんだ」

 四六時中村潰しを追っていたわけではなく、会えば殺すと決めていただけなのでずいぶんと長くかかってしまった。その間に賞金首は何人も殺した。別の誰かが村潰しの一人を仕留めたこともあったのかもしれない。しかし、のんびりと悪党殺しをしていく中で、栗海会の目に留まったのは秋霖と仁賀だった。この世に数本しかない刀を賜ったのだ。仁賀はいつも同じ表情をする。罵倒しても、脅しても、意外に肝が据わっていて動じない。次第にその対応が心地良くなったのは事実だ。しかし、宝刀をもらっても嬉しそうにしていないのは面白くない。

「あのさ、この宝刀の価値、わかっている?」

「わかっていますよ。あなたの物でしょう? あなたがもらえばよかったんだ」

「そう思っていたなら、なぜ栗海会で、武芸者の長たちの前でそれを言わなかったんだ」

「私は根性なしですから。いつもあなたが言っているでしょう。猫も殺せねえくせに、武芸者の真似事をするなって」

「いつの話だよ。ずっと一人旅だったけど、多分一緒に旅ができるのは仁賀だけだ。取り消すよ。良い根性してる」

 宿屋でこき使われていた仁賀に会ったのはもう遠い昔のことのようだ。その宿に泊まっていた賞金首を殺したら、仁賀がつきまとってきた。他の町人と同じようにすぐに飽きるだろうと思ったが、町を離れてもなお着いてきた。つきまといは止まなかったが、思えば武芸を教えてくれとねだらなくなったのは、早かったと思う。

「それはありがとうございます。ですが、私はこれで旅を終えようと思います」

 人通りのある中で二人は足を止めた。先ほどまで聞こえてきた町の喧騒がピタリと聞こえなくなった。心臓が突かれたように痛い。

「そ、そう。仁賀。お前実家に帰るのか。いくら奉公に出された五男坊といえども、宝刀と金さえあれば、盛大に迎えられるだろうが・・・・・」

「そうですね。では、お達者で」

 仁賀が話を切り上げたのはこれが初めてだった。今までそんな態度を許しはしなかった。元々行儀の良い人間だったし、反抗しないように躾けていたはずなのに。

 背中を向けて歩き出した仁賀に、秋霖は思わず叫んでいた。

「そうだ! 稽古! つけてほしかったんだろ。つけてやるよ」

 歩いていた何人かの人間が、何事かと目線をやってきた。仁賀が立ち止まって、ゆっくりと振り返ってきた。

「もうお金もいただきましたし、結構です。武芸なんて私には必要ありません。もともと才能もありませんし、あなたがそう言ったんでしょう。私は、このお金を切り崩して細々と暮らします。では」

 再び歩き出した仁賀を秋霖は止めることができなかった。


   継釈一三二年

 紫蘭生は目を覚ました。人間を何人重ねたらあの天井に届くのだろうと思いながら、ここが鵺の会であることに気づく。薬が効いているのだろう。痺れていて感覚がない両腕に苦闘しながら上半身を起こした。秋霖はこちらに目を向けるでもなく読書をしている。

 ここまでどうやって来たのか、紫蘭生はあまり覚えていなかった。頭が痛くなったかと思うと全身が熱くなったのを覚えている。頭も両腕も痛いので、何度も目を覚ましながら、秋霖に背負われながら移動していることを実感した。何やら鵺の会で、というよりも須々万や歩句鳴と一悶着合ったようだがそれも覚えていない。議論の結果、紫蘭生の治療が決まったのだろう。いつの間にか首輪は取れていた。

「入りますよ」

 おぼろげな記憶の断片をつなぎ合わせて、今に至るまでの経緯をたどっていると、ふすまを開けてお膳を持った歩句鳴が現れた。紫蘭生が起きていることに気づくと、無造作に膳を秋霖の方へ押しやり紫蘭生の体を支えるように抱き留めた。

「目を覚ましたのですね」

「ああ、うん。おはよう」

「具合はどうですか。何か、食べられますか。一応紫蘭生さんの食事も持ってきたのですよ」

 歩句鳴がそう言って粥を見せてきた。

「私は何日寝ていたの?」

「丸三日ですね」

 歩句鳴が粥をすくった匙を口元へ持ってきたのでありがたくいただく。お椀がぶつかる音がした。秋霖も食事を始めたのだろう。歩句鳴に抱きかかえられているせいで、秋霖の方が見えないが、歩句鳴がわざとそうしている節があるので無理矢理振り返ることはせずに、大人しく粥を平らげることに集中した。

「あ、そうだ。羅陀羅、優勝したんだよね。おめでとう」

「ありがとうございます。どうして、何も言わずに言ってしまったのですか。心配していましたよ」

「まあ、いろいろあってね」

 観客席近くで起こった殺傷事件のことは知らないらしい。殺されたのが賞金首だとわかれば役人も広めずに早々に始末するだろうが、すぐ近くで起こった事件に気づくこともなく、己を磨くことだけを考えられる環境が、紫蘭生にはうらやましく感じられた。

「紫蘭生」

 空気が冷えた。紫蘭生が座学の部屋に入ると一斉に生徒が硬直するあの感覚だ。紫蘭生を抱く腕に力が込められたが、むずかるようにして、歩句鳴に腕を解くようにうながした。

「歩句鳴。稽古行きなよ」

「紫蘭生さん。私は……」

「歩句鳴が私のせいで死ぬのは嫌なんだよ。ね。私は殺されないってわかっているから」

 そう言うと歩句鳴は不服そうな顔をしながらも部屋から出て行った。

「なんで、殺しを引き受けて、そのまま逃がしたの? 私にかまっていなければ殺せたはず」

 再び蒲団に入った紫蘭生は、秋霖の方を向くことなく仰向けの状態のまま醒酪を逃した理由について尋ねた。

「君が宝刀なんて持っているからでしょ。しかも孫弟子だっていうし。それを知ったらどんな頼まれごとだってどうだってよくなる」

「仁賀は会わせたくなかったみたいよ。須々万に預けようとするくらいに。ずっと不思議に思っていたけれど、納得した」

「・・・・・・僕は流浪人だから、居場所がわからなかっただけだろ」

「ずいぶん執着するのね」

「仁賀の形見だからな」

 秋霖が痺れた腕を引っ張って隣に座らせた。

「そのわりには乱暴だ・・・・・・歯も折られた」

「威厳を見せないと。君にとって僕は大師匠だし」

「私は仁賀のこと、慕っていたよ。私より弱かったけどね。そういうのは人となりでしょ」

「怖くて躾できなかっただけだろ。昔から、何もしてないくせに優しいとか良い人って言われるんだよ。あいつは」

 紫蘭生は何も返すことができなかった。仁賀の人となりについては、同意見だった。

「仁賀は豚肉を食べるか?」

「何急に。農民が肉なんて食べられるわけないじゃない。粥よ。粥」

「僕と一緒の時は食わせていた」

「だから何よ? 英雄様の豪華な食事の自慢? それとも肉を食わなかったせいで死んだとでも言うんじゃないでしょうね? それが本当なら、この国のほとんどの人間が死んでいるわよ」

 紫蘭生が言うと、秋霖はそれきり何も言わなかった。



「あ、そこ墓場」

 森を抜けて、道から逸れた方向を指すと、その方向へ秋霖は歩き出した。折られ方が綺麗だったのと、元々紫蘭生が健康体だったこともあって両腕の包帯はすぐに取れた。顔も傷跡が残ることもなく治った。中指だけは骨がばらばらになっていたそうでまだ完治はして折らず、固定したままだ。刀を握れるまで鵺の会にいたかったが、それはできなかった。秋霖は物の見事に鵺の会の人間から嫌われていた。紫蘭生のことで毎日何回も揉め合っているのを知り、板挟みからの心労の方が体に悪いと思い、早々に屋敷を出たのだ。痛み止めの薬を十分にもらったので、日常生活を送る分には不自由はなかった。新しく買った刀を取り上げられ、新しい木刀をお守り代わりにもらった。

 紫蘭生が言う前に、秋霖が仁賀の墓場を見つけた。秋霖が黙って手を合わせるので、紫蘭生も習って手を合わせた。

(仁賀。聞いていた話と全然違うよ。仁賀が話していたほど、立派じゃないよ。この人。)

「さあ、村に行こう。仁賀の家があるんだよな」

 秋霖が言った。

「もう村まで一人で行けるでしょう?」

「いや、家があるなんて嘘をついているかもしれないから。見るまで信用しない」

 負傷中の紫蘭生には従うことしかできなかった。足取りが重くなる。村の入り口付近にいた大人が紫蘭生に気づき、叫び声を上げて奥へと入っていく。

「あんた、何かしたの」

「まあ、ね。離れていた方が良いよ。私は集団私刑に遭うだろうから」

 想像通り、先ほどの大人が村人をかき集めて戻ってきた。あれから警備を厚くしたのだろうか。手には刀を持っている人間までいた。両腕のない人間は見当たらない。全員死んだのだろう。こうなるなら、全員切っておけば良かった。石を投げられて、紫蘭生の右目に当たった。紫蘭生に抵抗の意思がないことに気がついたのか、一人の男が紫蘭生を殴った。紫蘭生はそのまま地面に倒れる。治りかけの腕が痺れるように痛い。勢いに乗った村人が一斉に紫蘭生に押しかけてくる。早くとどめを刺して欲しいのに人が集まっているからか、刀の振り方をしらないのか、降ってくるのは蹴りや罵倒だけで、なかなか死ねそうにない。人が多いので狙える人などいるはずもなく、喧騒の中心でもみくちゃにされながら、ああ足が絡まって誰か転んだなどと、時々来る鈍い痛みに耐えながら思った。目をつぶるつもりはない。死ぬ間際の景色が楽しみだ。蹴りが腕に当たり、鋭い痛みが走る。

 ふと見慣れた姿が目に留まり、振り下ろされた刀を持つ手首を蹴り上げてしまった。そのまま勢いづいて立ち上がる。紫蘭生は相手が落とした刀を拾うと、相手は片手を押さえながら睨み付けてきた。利杯だった。

「今のは良くないよ利杯。あんたに殺される理由はないからね」

 邪魔が入ったことで、村人に殺されてあげる気も失せた。右目の視界が滲んでいる。腕は痛いが、痛み止めが切れたおかげで感覚がある。刀を握る手に力を込める。

 腰が引けている利杯が紫蘭生より奥に視線をやって、つばを飛ばしながら叫んだ。

「金ははずむ。まずはコイツを殺してくれ。次はあんたが逃がしたあいつだ」

 刀を抜いた秋霖が視界に入ってきた。しかし腕はだらりと下がっている。視界の端で捉えながらも、紫蘭生は微塵も動かずに切っ先を利杯に向けていた。。

「いいの? 殺しちゃうよ?」

「仁賀は弱かったけど、太刀筋は美しかった。やるなら綺麗に殺して。今はあなたに刀を向ける気にはなれない」

 秋霖が動いた。利杯が抵抗する間もなく、利杯の首が弾けとんだ。そのまま利杯の胴体を蹴り飛ばし秋霖は紫蘭生と向かい合った。

「趣味悪いよ。せめて、血を拭いてから・・・・・・」

「切らないよ。紫蘭生。もう行こう」

 秋霖は転がった胴体で血を拭いてから刀を鞘に収めた。

「仁賀の家に行きたいんじゃなかったの」

「この村は居心地良くなさそうだから。仁賀が住んでいたくらいだから、期待していたのにな」

「馬鹿ね。何もしなければ、仁賀の家で穏やかに暮らせたのに」

 既に距離を取っていた村人たちの視線を浴びながら出口へと歩いた。

「おい、待て・・・・・・!」

 振り返ると、首が復活した利杯が追いかけてきた。

「うわっ」

 と言った秋霖が素早く刀を抜いて利杯の両足を切断した。紫蘭生が転がった利杯を見て、秋霖に目を移した時には刀は鞘に収まっていた。

「なんだコイツ」

「不死身なんだって」

「ふーん。紫蘭生、腕」

 一瞬迷ったが言うことを聞くことにした。紫蘭生は刀で利杯の両腕を切断する。その間に秋霖は利杯に首輪をつけていた。首輪を鎖で繋ぎ、鎖を地面に埋め込まれている柱に鎖を何重にも巻き付けている。紫蘭生はそのまま刀を捨てた。

 視線を浴びながら、再び二人は出口を目指す。

「いいの?」

「木刀でいいよ。次の町で新しいの買って」

 二人は村を出た。最後まで村人の見送りつきだ。離れていれば良いものを。後ろで利杯が何かわめいている。

「追いかけてくるかな?」

「大丈夫よ。助ける人なんかいないわ。そういう奴らよ。ここの人間は。それに、利杯には自分の首を切り落とす根性もない」

 墓へと続く道と子泣き街道が見える。

「どこに行きたい? 大きいところなら一通り案内できるけど」

「仁賀みたいに、ゆっくりのんびりと暮らしたいわ」

「じゃあ、探そう。それで、仁賀みたいに家を買おう。金ならある」

 二人は子泣き街道に進んだ。 


   継釈一三三年

 秋霖が住処として選んだのは、豊永(ゆうえい)という村だった。二人と住み込み幾人かが住むには十分な広さのある屋敷があり、家主はなく、とうに空き家だった。秋霖はすぐにこの屋敷を買った。

 玄菜からどれくらい離れているのか、もう覚えていないほどずいぶん遠くまできたものだった。こうして、幾日も歩いて、たまには人力車に乗り、豊永までたどり着いた。たどり着くまでにも住み心地の良さそうな村や町はあったが、どれも秋霖が住まいに難色を示し、去ることとなった。家主が死に相続人もおらず空き家となっていたところを、二人が運良く通りがかり、秋霖がこの屋敷の購入を決めたのだった。秋霖が持っていた宝刀のおかげか、手続きも滞ることなく進んだ。

 求人募集をすると、あっという間に人が集まってきた。秋霖が若い男だからだろう。本性を知らずに住み込みで働かせてほしいとねだる女たちを見て、紫蘭生は不憫に思った。

 秋霖は屋敷の一室に宝刀をしまって、普通の農民のように暮らした。屋敷の前の畑を耕して野菜作りに励んでいる。屋敷を買うほどのお金があるのに、土を触ることをいとわない、とこれはまた村の人たちからの評判を上げたのだった。

 紫蘭生はというと、やることがなかった。

 初めのうちは秋霖に頼んで手合わせを頼んだ。条件は、毎日一本勝負のみで得物は木刀ということだった。そして、毎日負けた。床に毎日頭を打ち付けていると、次第に紫蘭生も、体が成長しきっていないから勝てないのだということに気づいた。

 秋霖に、

「手合わせはもういい」

 と断ると、秋霖もあっさりと、

「あ、そう」

 と、それだけだった。

  藁がない。秋霖が金を持っていても紫蘭生はお金を持っていなかった。

 畑や秋霖が毎日畑を耕して、たまに村人のもめ事の仲裁などに駆り出されて、紫蘭生は困ることなく生活できている。炊事洗濯は下男下女がやる。願っていた日々のはずのなのに、心に穴が空いたように風が通り抜けて、心を凍らせていった。

 豊永には人相状が届かなかった。村人全員に知らせる案内板に毎日通いつめたが、一枚も見たことがなかった。

 作物は豊富に取れるし、井戸の水も十分にある。町も近いから村にないものでもすぐに買いにいけるし売りに来る者もいる。危ない人間はいない。満たされているはずだ。幸せだと思うはずだ。普通なら。なのにどうして、紫蘭生は不満に思っているのだろう。

 理由がわからない不満を抱えながら、家にしても仕方がないので近くの町に出てみることにした。

 女中の周明(しゅうめい)に言付けて家を出る。周明は賢い女だった。名前の響きが似ているから採用と、外面の良い笑顔を貼り付けて言った雇い主の秋霖よりもはるかに。秋霖と紫蘭生との間に会話が全くなくても、そのことについていちいち口出しはしないし、二人の関係性を尋ねることもしない。良く出来た女だった。


 豊永の近く町、続成(ぞくなり)に着くと、武人と商人の町と言われているだけあって、人の往来が激しかった。

 豊永には塾がない。子どもたちは親の仕事の手伝いや下の子の面倒を見たり、家事をしたりしている。紫蘭生の同姓同年代の子どもは、奉公に出ているらしく、豊永では見かけなかった。いたとしても、家の手伝いをしているかで見かけたことがないのだろう。

 男も女も平民は小さい頃から手に技術を身につけて、小金持ちに雇われることを夢見ている。大抵は実家の畑を手伝うことになるが、それでも食べていけないときは長を頼って頭を下げてなんでもやるか、一発逆転を狙って、着の身着のまま都に向かうかだ。後者の場合、大抵や野盗に殺されるか野盗になるかだ。そして、後者のを選んだんが紫蘭生の両親だった。結果、紫蘭生は貧しさのない暮らしをしている。両親のことは知らない。仁賀の家に連れてから幾日かは仁賀が両親を探したが見つからなかったのだ。

 布売りの生地を遠くから眺め、往来している紅を差し眉墨を引いている奥様方を見ていると、自分が何者でもなくかつみすぼらしいただの孤児だと突きつけられた。。

 とうに砕けた骨も治り身長も少し伸びた紫蘭生は今の着物が気に入らなかった。奉公にでも出ていたら奥様からお下がりをもらっている年頃だ。いつまでも子どものような服を着ていることに気づき、急に恥ずかしくなった。

 ふと、急に人寄せが声を張り上げて人を集めていることに気がついた。

「寄ってらっしゃい。見てらっしゃい。ここらじゃお目にかけない人相状の男がいるよー」

 罪人など何人も見てきた紫蘭生だったが、久しぶりに血の気の多い人間の顔でも拝もうと、他の野次馬に混ざって人寄せの声の近くへ寄った。

 そこには、鎖手足を縛られた人相状の男がいた。その男とどこか威厳のある男とその娘らしき女との周りを取り囲むように野次馬が円を作る。

「こいつを仕留められたら、平民でもウチがよく献金している巨来館への入学を許可する。親が仕留めても子に通わせてもいい。どうだ。やるやつはいるか?」

「はい!」

 紫蘭生はまっすぐ手を上げて前に出た。

 男の隣にいた少女が片方の眉をあげてにやりとわらった。

「その鎖は外すわよ」

「もちろん。結構です。でも」

「なんだ。言ってみろ」

「刀をお貸し下さい」

 今紫蘭生が持っているのは木刀だけだった。野次馬たちが笑い出す。

「ダメだ。貸すとそのまま、これをやらずに逃げるかもしれないからな」

「それもそうね」

「どうだ? 止めるか?」

「いいえ。木刀で受けて立つわ」

 野次馬たちが静まりかえる。

「心配するな。お前が失敗しても、また私たちが仕留めるだけさ」

 威厳のある男は言い、人相状の男の鎖を外しだした。男は今にも暴れ出しそうな勢いで手足をばたつかせている。

「散れ! こやつが他に狙いをつけないとは限らないぞ」

 というとあっと言う間に野次馬たちは散った。最後の鎖がほどけた瞬間、男が突っ込んできた。紫蘭生はその場で構えて、全体重を木刀の先に乗せて、もう少しで男の手が紫蘭生に触れる一瞬のところで紫蘭生が踏み込み、男の喉を突いた。男は仰向けに倒れた。圧死していた。

「これで、私も塾に通えるんですよね」

「ええ、そうよ。私は軒玉(けんぎょく)想姫(そうき)。こちらは父の軒玉(けんぎょく) 雲繊(うんせん)よ。私も塾に通っているから、明日が楽しみだわ」

「代々武人の子が通う塾だ。刀がないなら話にならん。想姫。一緒に行って刀を見繕ってやれ」

「はい」

 鍛冶屋に連れて行かれて、一番安物の刀を買い与えられた。ありがたいが、舐められている。こいつの首を吹き飛ばしたら、あの父親は怒るだろうか。怒ったら自分より強いだろうか。そんなことをついつい考えてしまう紫蘭生だった。

「ありがとうございます」

 刀を手渡され、腰紐に通す。背中に背負うやり方はやめた。子どもっぽいからだ。

「刀を買ってもらった上に申し訳ありませんが、近くの村までご足労願えませんか」

「学友なのよ。かしこまらなくたっていいわ。そこにあなたの家があるの?」

「はい! 代々武人のお嬢さまが来て下されば、すぐに許可も下りるでしょう」

「あんなに腕が立つこと、両親は知らないの?」

 想姫は目を丸くした。何の苦労もしていないお嬢さまに見えるが、武人の娘ということは手練れなのであろうか。とてもそうとは思えなかった。

「まあ、とにかく、行きましょう」

 日が暮れる頃に豊永に着くことができた。屋敷に想姫を連れて行くと、秋霖を知っている人間ならわかる不機嫌な笑顔をした秋霖に出迎えられた。

「お話はわかりました。明日から通わせます」

 客間に通して、秋霖は笑顔を貼り付けたまま想姫に向かって言った。

「ありがとうございます。明日が楽しみですわ。ところで、あなたは、えっとそういえば、あなたの名前を聞くのを忘れていたわ」

「紫蘭生よ」

「秋霖です」

「そう。二人はどんな関係なの?」

 二人は目も合わせずに答えなかった。


 楽しみにしていた巨来館での学びは初めからつまずいた。墨も筆も紙も持っていないのだ。買う金もなかったし、秋霖に言ってそろえる時間はなかった。想姫が全て貸してくれた。さすがに、素人が開いた仁賀の塾とは違い、読んでいる書物の種類も何もかもが違った。読めない字も多いし、何について学んでいるのかさえさっぱりだった。書物も想姫が貸してくれた。想姫が隣の席で良かった。

 座学が終わると実技に入った。刀がないと始まらないと言っていたくせに、刀は使わず、木刀の素振りと、模擬試合が行われた。これも紫蘭生は楽々勝ってしまった。武人は武門よりも格下なようだ。少なくとも実技の腕は。社会的地位はもちろん武人の方が上なのだが。

 放課後想姫に尋ねた。

「そういえば、あの人相状の男ってあなたの父上が捕まえたの?」

「そうよ」

「人相状って、ここにはあるの?」

「そんなの、たくさんあるわよ。見に行く?」

 想姫に連れられたのは、案内板ではなく、想姫の家だった。鵺の会ほどではないにしろ、何段と重なる屋敷だった。門に施された花や弦の彫刻には、着色までされていた。花には薄桃色や青、弦には緑色が使われていた。

「ここらの武人では一番の名門なのよ。知らなかったでしょ?」

「まあ」

「だから、人相状の人物を捕まえろってよく役人から送りつけられるのよね」

 屋敷の入り口の近くの小さな部屋に入ると、人相状が床に並べられ、壁に貼られてあった。さすがに天井にはなかった。

「適当に森に入って、殺して、それが人相状の人物か探した方が早いかな」

「よく出るところがあるの。狩り場と呼ばれる森があるんだけど。何度も人が往来するうちに草が踏み固められて道もできちゃってね。周りは草木がいっぱいで、食べ物には困らないし、近くには川もあるらしいの。でも人気は少ないの。元々は罪人が狩り場と呼んでいたんだけれど、今じゃ、私たちが狩る側だからね。そのまま使わせてもらって狩り場と呼んでいるわ」

「想姫は狩ったことあるの?」

「私は父上に止められているの。あなたが行くのは止めないけど。殺したら持ってきてね。私も人相状の人物か確認してあげるから」

 想姫は手を振った。紫蘭生は見送られながら、狩り場に向かった。墨や筆、書物や紙を買うお金がほしかった。あと刀も買い換えたかった。

 狩り場は湿った独特な空気を孕んでいた。丁香の鼻の匂いと森の匂いの他に、似つかわしくないよく嗅いだことのある匂いが混ざっている。それが湿り気を帯びて森全体を暗く重くしていた。草木も太陽に向かってまっすぐ頭を向けるのではなく、ここの空気の重さに耐えられないのか、どこのなく腰が曲がって頭が垂れているような気さえした。

 人気を感じ取り、刀を抜く。草を踏み固めて作られた道を外れて、草木をどかしながら、人気のする方へと近づいて行く。

 かかった。一気に複数の気配が現れる。一人目に柄で当て身を腹に一発、二人目に腹を突き刺し、最後に振り返って木刀を抜き、目を突いた。二人目に刺さった刀を抜いて、起き上がってきた一人目の首をはねる。三人仕留めた。

 刀を顔に近づける。やはり安物だ。もう刃こぼれしていている。それでも首は持って返らないといけない。三人も仕留めたのだ。刀を買い換える金は余るだろう。三人の首を刈り取って、大きな布で包み、背中に背負って、続成を目指した。

 屋敷に首を三つ背負って帰ってきた紫蘭生に、想姫はにっこり笑って出迎えてくれた。奥に消えたので、人相状が置かれている部屋で待っていると、想姫は父親の雲繊を連れてきた。

「ねえ、すごいでしょう。紫蘭生ってば、こんなに仕留めてきたのよ。ねえ、私にもやらせてよ」

「まず、顔を照らし合わせるのを手伝ってくれない?」

「わかった」

 結果、役人に引き渡すと合計銅貨三枚と六〇柱を手に入れることができた。勉強に必要な物は全て買うことができたし、刀も無事買い換えられた。

 勉強道具を包んで背中で持ちながら、豊永に帰り、屋敷に行くと周明が出迎えた。日もすっかり沈んで暗くなっているというのに秋霖は帰っていないようだった。下人が用意した食事を食べる。

 刀を買い換えるより砥石を買った方が安く済んだと気づいたが後の祭りだ。買ったばかりの書物と、辞書を見比べて、知らない言葉を次々に引いていって、新しい言葉を覚えていく。

 そうして夜は更けていった。

 


 翌日、巨来館へ行こうとした紫蘭生を秋霖が呼び止めた。珍しい。いつもはもう畑にいるころなのに。

「お前、その荷物どうした?」

「想姫からもらった」

 咄嗟に嘘をついて屋敷を出た。

 塾に着くと既に想姫がいた。

「ねえ、帰りに私の家に寄ってよ」

「また狩り?」

「違う違う。楽しみにしていて」

 塾が終わり、想姫の屋敷に行くと、この前とは違って二階へ通された。少し進んで引き戸を引くと、複数人の低い声が聞こえてきた。この声を知っている。鵺の会でも聞いたことのある声だ。張りのある声。

 部屋に入り見てみるとやはり、練習稽古のかけ声そのものだった。

「私の流派は花涙流なの。どう?」

「どうって?」

「やってみない?」

「私は凌遅流だから」

 うっかり菜のっつぃまったが、居心地の悪さはなく、かえって晴れ晴れとした気持ちになった。

「それって、登録されているの?」

「されてないけど、関係無い。私はこの流派で生きていくの」

 仁賀の紹介状を託されて学んだ鵺の会の時とは違うのだ。

「まだ若いんだ。他の流派を学ぶのもいいだろう。登録していないならなおさら。知らないうちから拒絶するのよくない」

 話を聞いていたのか、稽古をつけていた雲繊がこちらに近付きながら言ってきた。凌遅流は名前とは乖離した技が多い。一撃で仕留める技が多いのに凌遅とは何事か。秋霖ではなく、仁賀が名付けたせいでこうなっている。師匠である秋霖を見ていた弟子の仁賀にすれば、凌遅に見えたということなのか。

 豊永に戻ってもやることもないので、承知した。

「わかりました。参加させて頂きます」

 木刀を携えて、門下生の一派に加わった。再び雲繊が門下生の前に立ち、指示を飛ばす。紫蘭生は見よう見まねで型をこなした。ずいぶんと個性的な型だった。刀を縦に包み込むように持ち、切っ先を相手に向ける。扇のような持ち方だ。初動が遅れそうな刀の持ち方だ。そして、足を良く動かす。一歩足を引いて、縦になっている刀を横に持ち替え、そして踏み込んで刺す。これが一連の動きだ。

 夕飯に遅れる少し手前まで稽古に参加した後、雲繊に一礼して帰ろうとしたところで、雲繊と話していた想姫が近寄ってきた。

「ねえ、あなた、花涙流の指導者に回らない? お給金も少しは出せるわ。あなた、お金必要でしょ? その服。丈が合っていないと思うの」

 答えるのに窮した。確かにお金は欲しかったが、鵺の会の二の舞になるのが嫌だった。嫉妬されるのはいいが、嫉妬してきた人物がうるさいからといって斬り殺してはダメなところが気に入らないのだ。しごきと称して殺してやれもするのだが、雲繊や想姫には気づかれるだろう。それに歩句鳴のように、慕われても面倒くさい。

「少し、考えてみるね」

 そう言って早々と屋敷を後にした。


   継釈一三三年

 豊永での暮らしも1年が経った。紫蘭生が人を切らずに、1年が経ったということになる。案内板に人相状が貼られないのは、秋霖が事前に村長に頼んで、もし人相状が役人から届いたら自分に手渡すように言っていたからである。ただ畑を耕して、村人の雑用を手伝うだけでは、いずれ金が底を尽きる。だから、たびたび回ってくる人相状の人物を仕留めて金に換えていた。村長も村長で、村にはそんな芸当ができる者は一人もおらず、役人に渡されるたびに困っていたというので、どちらにしても願ったり叶ったりだったのだ。

 紫蘭生の動きは周明がこと細かに伝えてきた。わざと学びにならない打ち合いをして、ついに木刀をも手放させることに成功した。そうして暇になった紫蘭生といえば、特になにをするでもなく村をうろついたり、他の下人に話しかけたりして過ごしているという。そういう紫蘭生の下男下女からの評判は良い。何も出来ないし、しようとしないからだ。炊事洗濯もできないし、針も刺繍もできない。仕事を奪うおそれのない人物ということで、下男下女からは紫蘭生は安全な人という認識だった。

 それでいい。仁賀が紫蘭生したかったことは、そういうものだと秋霖は思っていた。仁賀は流されやすいが真面目だ。他の子に稽古をつけているのに初めに拾った紫蘭生にだけ稽古をつけないのでは筋が通らないと思ったのだろう。そうして刀を持たせたのが間違いだったのだ。

 豊永の村では、

「あんたも秋霖さんに拾われればいいのに」

 と紫蘭生を揶揄する言葉まである。本人に届いているかどうかは不明だが、家の手伝いもしない、奉公に出て働きもしない平民の子どもが、気に入らないのだろう。仁賀と違って、子守をするのはごめんだ。紫蘭生は仁賀の形見だから、側においているだけだった。

 だから、塾に通い出すと聞いたときには、足を折ろうかと思ったほどだった。すぐに冷静になり、あの紫蘭生が塾で上手くやっていけるはずがないと思って、わざわざ続成に赴き、塾の場所を聞き出してのぞきに行った。するとどうだ。生まれや育ちが違う、同年代の子どもたちと案外上手くやっているではないか。少女たちは舞いをし、紫蘭生は笑って眺めている。そして、ある一人の少女に腕を引っ張られて立たされる。どうやら舞いを強要されているようだ。紫蘭生は笑いながら、先ほどの舞いを完全にやってのけた。 

 周りの少女たちはこの凄さに気づいていないのか、平民の子どもでも舞いができると思い込んでいるのか、特段驚く様子もなく、一緒に舞っている。こうして、休憩時間らしきものが終わると、子どもたちはぞろぞろと塾の中へ入っていった。

 今日は役人が人相状を持って来る日だが、村長も、村を空ける予定だという。人相状を勝手に案内板に貼られたくないなら、直接役人に言ってくれと言われたので、続成の役所まで行くことにした。

 そこで見た三つの生首。太刀筋に見覚えがあった。


   継釈一三三年

 お腹を空かせて帰ってきた紫蘭生を出迎えたのは周明ではなく秋霖だった。稽古で疲れているのに、どうしたことか。何も言わないので素通りすると腕を掴まれそうになったのですんでのところで避けた。

 さっと秋霖に目を走らせる。丸腰だ。一方紫蘭生は木刀も刀も持っている。刀を抜こうとしたその時、

「あの、お食事の用意ができました」

 周明の声で、先に秋霖が行ってしまった。

「私の部屋に食事を運んでくれる?」

「申し訳ありません。今日は部屋にある火を使ってしまいまして」

 ということは二人一緒に食事を取らねば食いっぱぐれることになるということか。仕方なく、火のある部屋へと向かった。普段火をおこす所は二箇所あり、元々この屋敷の主のような家族と食事するときやその他客人を呼ぶとき用に部屋に火をおこせるように掘ってくぼみになっているところがあるのだ。

「なんで今日はそっちの火を使ったの?」

「申し訳ありません。秋霖様がそうおっしゃったので」

 部屋に入り、火を囲む。下男下女が器にそれぞれ熱々の粥を注ぐ。この部屋にも宝刀はない。この鍋ごとぶっかければ武器になるか。いや鍋は熱くて触れやしないか。などと考えながら粥を食べる。

「お前、人相状の者を切ったな」

「だから何だよ。わざわざそんなことを言うためだけにこんなところに鍋を作らせたのか?」

「勝手に殺すな。お前の年齢でそれができると、人里じゃ生きていけねえんだよ」

「何で?」

 また年齢。見た目。玄菜でもそうだった。初めて人相状の男を殺したのに、みんな疑った。

「恐怖の対象になるからだ。気づいていないみたいだが、お前は異常だよ」

「物を知らなすぎるね。私程度が異常ってどんな生活をしているんだか」

「毎日同じ暮らしをしているんだ。水を汲んだり、畑を耕したり。子どもを生んで奉公に出したり、畑を継がしたり。代々同じ暮らしをするんだ。お前みたいなやつを怖がるのも当然だ」

「怖がるかな。どうかな。お前の勝手な想像だろ。想姫のように絶賛するかもよ」

「人里から追われるようになったらおしまいだぞ」

「終わらないよ。私の道は。あんたは人恋しそうな感じするものね。あんたは死ぬかもね。でも、一緒にしないで」

「金だろう。欲しいものがあれば言えよ」

「自分で揃える。それで村を追われるなら別にそれでいいよ」

「なんで、言えっつってんのに、言わねえんだよ!」

 秋霖が椀を投げた。下男下女がすくみ上がり、悲鳴を上げる。

「それで怖がると思ってんの? 落ちぶれたものね。得物はどうしたんだよ。本気ならかかってこいよ。あんたがやる気なくても私は抜くよ」

 椀を置き、座ったまま刀を抜く。

「欲しいもの言ってやるよ。宝刀が欲しい。使わないなら私に寄こせよ。仁賀が私に残したものだ」

「僕より弱いのに?」

「ほら、言ったってやらないくせに。こんな茶番がやりたかったのかよ。ふざけんな」

 紫蘭生が刀を抜き、秋霖に振りかぶる。秋霖は避け、部屋から出る。そのまま紫蘭生も追いかけた。そのまま宝刀のある部屋にでも行くと思いきや、秋霖はなんと外に出るではないか。そうなれば足の速さでは叶わない。

「なんなの、あいつ」

「秋霖さまは、筆とか紙が必要なら言ってほしかったんだと思います」

 斜め後ろから周明がそう言った。

「仁賀は言わなくても用意したわよ。はなっからやる気がないんでしょ。宝刀みたいに。私があいつに追いすがっておねだりする様がみたいだけだろ」

 その夜、秋霖は帰ってこなかった。


 今日も巨来館に通い、想姫の屋敷で花涙流の稽古を習った帰りのこと。まだ指導者になるという話は保留にしていた。だが、秋霖が本気で怒ればまた骨を折られかねない。本気にならないうちに、早々に人相状の人物を殺すのは止めて、指導者として給金をもらった方がいいような気がしてきた。明日になったら、そう言おうか。

 ふと、道の目の前に兎がいた。捕まえられるだろうか。そんな気はなかったが、追って木々をかきわけ、飛び出すと、ちょうど矢をつがえている人がいた。紫蘭生が飛び出したせいで、兎は逃げ、その人は手を止めた。

「私が入らなければ、仕留められたわ」

「気にすることはないよ」

 男は弓をしまった。刀も腰にぶら下げていた。なで肩で腕も細く、強そうには見えないが、紫蘭生には感じ取れた。彼は武芸者だということを。

「兎を捕まえたことがなくて。でも、食事ならごちそうできるわ。村へどうぞ」

「ちょうど村へ行くところだったんだ」

「何しに?」

「僕は旅の薬師でね。病気で困っている人を助けてまわっているんだ」

 そう言って背中に背負っている包みを揺すって強調した。

 豊永に案内して、屋敷に招待すると、ちょうど秋霖が出迎えた。いつの間にか帰宅していたらしい。朝、豊永を出る時にはまだ帰っていなかった。いつ戻ったのだろうか。ずっと失踪していれば良かったのに。

「お客様よ。食事をごちそうする約束をしたの」

 他人には愛想の良い秋霖が珍しく、迷惑そうな顔をした。

「どの身分で客なんて呼んでいるんだよ」

「すみません」

 男が謝った。

「いいのよ。私が好きなもの全てこの人は全部嫌いなの。外食しましょうよ。少し歩くけど、続成に行けばおいしいものがあるわ」

 そう言って再び連れたって家を出た。遠慮するかと思ったけれど、少し面白がるような感じで振り返りながら秋霖を見て、それから前を向いて、旅人はそのままついてきた。多分年齢は秋霖と同じくらいだと思うけれど。何かあるのだろうか。弓を持っていたから、一瞬だけ父の面影を探してしまったが、すぐに全くの別人だと認識できた。全然似ていない。

「お金は? 怒られない?」

「私、自分で稼いでいるのよ。続成のところの武人の屋敷で刀を指導してね」

 まだ指導者になると言っていないのに、言ってしまった。もう明日やると言おう。

 人相状の人物を切った報酬がまだ残っている。ご馳走くらいできる。

 続成の料理屋に入った薬師は、麺を頼んだ。紫蘭生も同じ物を頼む。今日は屋敷では飯は出ないだろうから。

「渦督(かとく)というんだ。名乗り遅れたね」

「紫蘭生よ」

 麺が来て、食べ始める。

「宿を取りたいんだけれど、良いところがあるかい?」

「ウチに来れば良いよ。部屋は余っているし、あのうるさいのは放っておいて大丈夫だから。刀とか振り回してきても脅しだから屈しないで。あいつもう人なんて切れないんだから」

 紫蘭生は切られるかもしれないけど、と内心思う。

「あの人とどういう関係なんだい?」

「放っておいてくれる? 複雑なの。あなたの話が聞きたいわ。折れた骨が早くくっつくような薬ってある?」

「少なくとも僕は持っていないかな」

 飯を食べて屋敷に戻ると、もう秋霖が待ち構えていることはなかった。

「しめた! 今のうちに空き部屋に行くのよ。こっち!」

「お帰りなさいませ。紫蘭生さま。そちらの方は?」

 周明が出迎え、尋ねる。

「薬師よ。渦督さん」

 渦督を空き部屋に通す。

「少し、話しませんか?」

「もう眠いわ」

 紫蘭生がやんわりと断ると、

「あなた武芸者でしょう?」

 渦督が切り込んできた。

「わかるの?」

 紫蘭生が部屋に入る。渦督は笑みを浮かべてうなずいた。

「もちろん。あなたも僕のことわかったでしょう?」

「そうだけど、私はほら、見た目がこうだから、あんまりわかってもらえたことなくて」

 紫蘭生が饒舌に語ろうとしたとき、引き戸が開き、秋霖が入ってきた。渦督はにこやかに微笑んだままだ。

「お前より弱いだろ。それでもいいのか」

 立ち聞きしていたのだろうか。趣味の悪い。

「いいよ。強さなんて。武芸者なんて、田舎だと珍しいから。都には本当にごろごろいたけど。鵺の会が懐かしいわ」

「あの、一番厳しいところにいたんですか」

「ええ、入っていないんだけれど、まあいたにはいたかな」

「僕は登録したばかりで。鞭閃流を広めているんですよ」

「ええ。登録してあるんですか」

 思わず敬語になってしまった。

「ぜひ、見ていただきたい」

「こちらこそ! 私の流派は登録していないけど」

 二人で庭に出て刀を抜き、流派の型を見せあった。秋霖もついてきて、黙って見ているだけだったが無視した。渦督も気にしていないようだ。父とも仁賀とも違うが、武芸のことを知っているし、愉しい人だ。


「本当に指導者になってくれるの? ありがとう」

 巨来館に来てすぐに、想姫に了承の有無を伝えると、飛び上がるように喜んで抱きついてきた。

「本当にいいの? やっかまれない?」

「いいの。いいの。気にしないで。門下生が多くて一人一人見ていられなくて、不満が多いの。だから見てもらった方が喜ばれるよ」

 実際、勉学が終わった後に想姫の屋敷の二階を訪れて、挨拶すると、あっさりと受け入れられたものだった。

「よろしくお願いします」

 と総出で頭を下げられるのは悪くない気持ちだった。

「型と違っている動きをしている人がいたら、注意して直してあげてね。私は前で指示するから」

 そう言われて、門下生の間を縫うようにして歩きながら、型と違う動きをしている門下生によそ者の紫蘭生が正しい花涙流の型を教えた。時間が経つと雲繊も現れた。一礼だけして仕事に戻った。

「羅陀羅には出るの?」

 仕事終わり、見送りがてらについてきた想姫に尋ねた。

「出たことないわよ。出るわけ無いじゃないの。あんなならず者の集まりの大会に。私たちは武人よ? 門下生たちもみんなね。ただ血の気の多い野蛮人が刀を振り回しているのとは違うの」

「どう違うの?」

「そりゃ、帝の命のためにこの刀を振るうまでよ。武人の人間はみんなそう」

「平民の味方ではなさそうね」

「そりゃそうよ。帝は国そのもの。私たち武人は国のために技術を磨いているのよ。明日からも、お願いできる?」

「今日の分もらえる?」

「そうだったわね」

 布袋に入れられた給金を受け取る。重さからして、銀1枚だろうか。

「で、明日も来てくれる?」

「もちろん」

 与えられた仕事をこなすのみだ。武芸者ではなかったことは残念だが、仕事になると話は別だ。紫蘭生はあっさりと了承した。


   継釈一三三年

「心がすーっと軽くなりますよ。お飲みになりませんか」

 渦督が数種類の薬草をすりつぶして濾して粉にし、それを混ぜ合わせ、お湯を注いだ椀を秋霖に向ける。この厚かましい客人は、朝から畑を耕し終わる今までのんびりとくつろいでいた。

「信用できませんか? 私は毎日飲んでいますよ」

 というと、渦督が椀をぐいを傾けて粉を溶かしたお湯を飲む。そして空になった椀にもう一度同じように数種類の草を潰して濾した粉を混ぜ合わせお湯を注ぎ、秋霖に向ける。渦督が飲んだと言うことは害がないのだろう。匂いは薬草の香りだ。秋霖が知っている毒の匂いはしなかった。半分やけで飲み干す。

「落ち着くでしょう? 私も毎日飲んでいるから、こうして落ち着いているんですよ」

 確かに胸が軽くなったような感じがする。周明が朝、畑を出る前にこっそりと言ってきた言葉を思い出す。

「紫蘭生さまは、その、あの、もしかしたら、秋霖さまが塾で必要な物を知らないということをご存じないのではないでしょうか」

 続いてこう言っていた。

「仁賀は用意してくれたと」

 つくづく上手くいかない。子守など柄ではないのだ。だが仁賀がいない今、仁賀とのつながりはあの餓鬼しかない。宝刀はもともと秋霖の手柄を仁賀に押しつけたものなので、なんの思い入れもない。

「あのお嬢さんとはどういうご関係なんですか」

 渦督が秋霖が今考えていることを見透かしたかのような質問を投げてきた。

「別に。ただの玩具だ。壊したい。ボロボロにしてやりたい。玩具だ。でも、一度そうして、壊したものがある。壊した物はもう戻ってこない。替えもない。だから壊したくても壊さない」

 試したくなるのだ。こんな自分の側にいる人間がどういう人間でどれほどの底を見せてくれるのか。そうやって、試したあげく、仁賀は秋霖の元を去った。

「そうですか。もう一杯いかがですか? 壊したいという衝動が薄れるでしょう」

 腕を伸ばされ、空になった椀を預け、渦督がまた薬を煎じたものを作るのを、ただただ眺めていた。


   

継釈一三三年

 布売りからで紺色の生地を買って、裁縫師にその生地を使った着物を頼んで屋敷に戻ると、まだ渦督がいるようだった。履き物でわかった。出迎えは周明だった。

「お帰りなさいませ」

 続いて渦督も出迎えにきた。

「お帰り。一緒に食事にしよう」

 と自分の家のように言った。またあの火のある部屋での食事かと思うと憂鬱だったが、部屋には秋霖の姿がなかったのでほっとした。

「主は寝ているよ」

「早いわね」

「薬を飲ませたからね」

「そうなの? 永眠?」

「起きるよ」

 下男下女が器に粥を盛るのを眺める。

「なんで眠らせたの?」

「疲れているみたいだから」

「薬で眠らせなくても、疲れたら眠るでしょ」

「そうじゃない人もいるんですよ」

 渦督は笑って答えた。薬師が言うのならそうなのだろう。

「主に興味ないみたいですね」

「うん。ない」

「どうして、ここに住んでいるんですか?」

「それを望んだ人がいるから」

 秋霖でなくてもよかった。仁賀は秋霖の名前を出さなかった。むしろ秋霖で無い人の方が良かったのかも知れない。本当は須々万の所にいてほしかったはずだ。しかし須々万は断った。紫蘭生に選ぶ力はない。

「その眠る薬ってあと何日分作れるの?」

「そんなに眠らせたいですか」

「うん。まあ、必要なときにはね。お金は持っているよ」

「そんなの必要ない」

 秋霖が入ってきた。渦督もこれには驚いた様子だった。

「初めて飲む方は慣れずに眠ってしまうんですけど、もしかして飲んだことありましたか?」

「さあな」

 秋霖が座ると、下男下女が器に粥を入れる。

「僕は塾に通ったことがないんだ」

 唐突に秋霖が語り出した。

「だから、必要な物がわからなかった。でも、言えば買い与えた」

「そう。もう必要無いけど。あ、人相状狩りはもうやっていないから勘違いして癇癪起こさないでよ」

「どこからの金だ」

「武人の屋敷で指導をしているんですよね」

 渦督が言った。

「そう、そうなの。だからちゃんとした労働で、ちゃんとしたお給金なの。家賃と食事代と下働きのお給金も私からも出さないとね」

「取っておけよ。仁賀の金だって取ったことないんだ。弟子から取るかよ」

「あら、そう? 金しかないもんね。あんたって」

 秋霖のまぶたが動き、僅かに反応した。

「お師匠様だったんですね」

「確かに。仁賀は私が初めて人相状の人物を殺したときの報酬も取ろうとしなかった。師匠ってそういうものなのね」

「主さまは紫蘭生さんのお師匠様じゃないんですか?」

「仁賀の師匠だよ」

「そうですか」

 渦督は特に仁賀が誰なのかは問わなかった。

「仕事って、武人のやつらしかいないんだろ。虐められてないか」

 秋霖が話を戻す。

「仁賀の真似? みんな優しいよ。平民よりずっと優しい。石とか投げてこないし」

「そうか」

「石を投げられるんですか」

「武芸者なら通る道じゃない? 渦督さんはそんなことない?」

「ありませんけど」

「まあ薬師っていう立派な仕事もしているからね。普通の武芸者は人を切ること以外何もやってないし」

「主さまもあるんですか? 石を投げられたこと」

「ない」

 秋霖は即答した。

「この人は武芸者じゃないから。ただ刀を振り回しているだけのならず者」

「おや違いましたか。僕も勘が鈍りましたね」

 鍋の中の粥がすっかり殻になるまで三人はぽつぽつと話した。こうして秋霖と会話をするのは、この屋敷に来てから初めてかも知れない。


 塾が終わった後に裁縫師の所に寄った。新しく仕立てた紺色の着物は少し背が伸びた紫蘭生にぴったりだった。真新しい衣服に包まれて仕事に向かった。二階に上がると、想姫と雲繊が待っていたとばかりに話しかけてきた。

「娘にそろそろ、狩りを体験させてやりたいんだが、狩り場まで着いていってくれねえか」

「申し訳ありません。狩りはもう、師匠に止められてしまってできないんです」

「もったいない。そんな腕がありながら、狩りをしないと? して、師匠はどちらにおられる?」

「豊永にいますよ」

「それなら今すぐ、説得しに行きます」

 ということで三人で豊永に向かった。

 屋敷に戻ると、秋霖は渦督と一緒にいた。渦督は昼間に帰ってきた紫蘭生を見て、わずかに驚いた様子だった。秋霖はこちらを見たものの、目の焦点が合っていなかった。下男下女の様子もおかしい。

「何か、あった?」

 周明に尋ねると、

「渦督さんが勧めた薬をどんどん飲んじゃったんです。前にも飲んだことがあるから、大丈夫だって言って聞かなくて」

「あの慣れないと眠くなるってやつ?」

「そうです。それです」

「家督さん。記憶の混濁はありますか? あるなら、話を進めたいんですけど」

「ええ、ああ、はい。薬を飲む前後のことは、これだけ飲めば覚えていないでしょう」

「では、雲繊さん。お願いします」

「花涙流の雲繊と申します。あなた様の弟子のお力をお借りしたくて参りました。どうか、娘のために人相状の狩りの護衛にあなた様の弟子をお貸しくださいませ」

 秋霖は何も答えない。目は相変わらずうつろだ。

「よし、まあいいでしょう。許可したっていうことで。みんなもそう言ってね」

 下男下女に向かって言うと、戸惑うようなそぶりをしながらもうなずいた。

「家督さんも合わせてね」

「わかりました」

 家督はにこやかに答えた。

「そうそう。こいつで遊ぶのは楽しいかも知れないけど、やり過ぎるとあなた死ぬよ」

「肝に銘じておきます」

 渦督はすまし顔で答えた。忠告は届かなかったようだ。

 雲繊は屋敷に帰り、二人は狩り場に向かった。

「本当にあれでいいの?」

「覚えていないならいいでしょう。みんなが証人になってくれればそれで問題ないし。それに、狩りをすると人里から追い出されるって言うの。でも武人のお偉いさんも、やっていることなんだから、そんなことないよね」

「あなたのお師匠様そんなこと言ったの? 追い出されるなんて。世直しをしているのにひどいわ」

 草木をかき分けながら進んでいく。気配を感じて人差し指を口に当て会話を止める。

「できる?」

 小声で尋ねると、急に想姫が震えだした。

「ねえ、どこにいるの? 教えてよ」

「ちょっと、声が大きいって」

 静かにさせようとしたところで、木々に動きがあった。咄嗟に刀を抜く。一撃を受け流す。木々の間から野盗が三人現れた。想姫の刀を抜いてやって、手で握らせる。

「抜かなきゃ、終わらないわよ」

 そっと手を離す。すると、するりと手から刀がこぼれ落ちた。想姫は拾うそぶりもなく、そのまま一目散に駆けだした。

「あっ!」

 追いかけようとするも二人に阻まれる。一人は想姫を追いかけたようだ。

「邪魔だ」

 賞金よりも後を追う方が先だ。腰を低くして、二人同時にすねを切りつけた。やはり安物。一刀両断とはいかなかったものの、二人は足を押さえてうずくまっている。紫蘭生は自分の刀をしまい、想姫の刀を拾って走った。

 結局もう一人に会うことなく続成に戻ってきてしまった。入り口近くでしゃがんで泣いている想姫を見つけ、刀を渡す。

「怪我はない?」

 想姫はうなずきながら刀を受け取った。野盗は町までは追いかけてこなかったのだろう。命拾いした。

 屋敷に行き、事の成り行きを雲繊に伝える。

「わかった。これは今日の給金だ」

 布袋を渡され、早々に想姫を脇に抱えながら、屋敷の奥に行ってしまった。

 秋霖の屋敷に戻ると出迎えがなかった。人気がない。下男下女たちの部屋に下男下女たちが縮こまっているのを発見した。

「どうかしたの?」

 震え上がって、声が出せないようだ。屋敷を歩き回って、ようやくその理由がわかった。客室、渦督が使っていた部屋を覗くと床が血塗られていた。死体はない。秋霖の気配がない。死体を隠しにいったのだろう。下男下女の様子を見る限り、夕食の支度も出来ないようなので外食に出た。

 料理屋で麺を食べて帰ると、秋霖が帰ってきていた。廊下でばったりと会う。ちょうど帰ってきたところなのか、宝刀を手にしている。

「やるなら外でやればいいのに。床張り替えるの大変よ? 下男下女に見つかったんでしょ? どうするの? 口封じするの?」

「いや」

 秋霖は淡々と否定した。

「仕事辞められて、バラされたら、村を追われるかもよ? それが怖くて農民の真似事をしていたんでしょう?」

「気が動転しているだけだ。落ち着きを取り戻したら、僕に害がないことくらいわかるだろう」

「正気の人間ならあんたを有害だと判断するわよ」

 秋霖がこちらを見た。

「なんで嬉しそうなんだ?」

「嬉しそうになんてしてないわ。下男下女は仕事しないから、自腹で大しておいしくない麺を食べることになったし」

「でも、笑っている」

「そう? あんたが一番正気じゃなかったけど、元に戻ったみたいだし言っておくわ。また人相状の人物を切ったよ。でも、雲繊に頼まれたからよ。気になるなら確かめて。それに、嘘ついたでしょう? 想姫に聞いたわ。人相状の人物を切ることは世直しで名誉なことだって。村を追われるなんてことないそうよ」

 秋霖も人を切った直後だからだろうか、特に怒ったそぶりはなかった。

「そりゃ、あいつらが武人だからだろ。ならず者とは違う。ならず者がならず者を切ったところで評価されねえよ」

「あんたは、評価されたから宝剣を賜ったんじゃない」

「たまたまだ。滅多にない。もう昔とは違うんだ。大分世の中も落ち着いて、刀なんて必要無くなる時代が来るだろう? そうなったら、お前の道はどうなるんだ?」

「私が生きている間には来ないと思う」

「もっと早くに来ていたら、仁賀は死なずに済んだ」

 秋霖は時々暗くなる。紫蘭生を通してもう存在しない仁賀を探しているようで気味が悪い。

「あの人どの時代でも早死にするでしょ」

 善人には耐えられないような世の中だから。

「僕も飯食ってくる」

 秋霖は宝刀を投げ出して、紫蘭生の横を通ると、屋敷から出て行った。



 今日も仕事で屋敷に寄ると、雲繊と想姫が門下生に稽古をつけていた。紫蘭生に気が付くと二人が近付いてくる。

「今日は門下生の指導はいい」

 廊下に出て声を潜ませた雲繊が言った。想姫は顔をうつむかせている。

「三階に行って、想姫に稽古をつけてほしんだ。花涙流で」

 また無理難題を押しつけられた。

「想姫はそれでいいの?」

「父上がそう言うのなら」

「後を継ぐにはまだ想姫には技術も精神力も足りない。人相状の人物を切れば変わると思ったがそれも無理ときた。もともと、あの鎖に繋がれた人相状の男は想姫に切らせるために生きたまま捕獲したものなんだよ。だが、あれだけ身動きのできない人間すら殺せなかった。命の危険が迫ればと思い、安全に配慮して貴女を連れて行かせたがそれも失敗した。もう貴女しかいないんだ」

「養子を取れば良いのに」

「もちろん、想姫には早々婿を取らせて後継ぎを生ませるさ。だが、時間がかかるだろう。私も年老いたし、私の子を産ませるのは中々骨が折れる」

「まだまだお若いですよ」

 真顔で言う紫蘭生に一瞬声を詰まらせた雲繊が仕切り直す。

「とにかく、花涙流の稽古を想姫につけてくれ。頼んだよ」

 そう言い残して雲繊は門下生の指導に戻っていった。

「三階に行きましょう」

 蚊の鳴くような声で想姫は言い、三階に上った。

 広い部屋に二人。贅沢だ。

「とりあえず、型をやってみせてよ」

 紫蘭生が促すと、想姫はうなずき、一連の型を見せた。特に問題はない。

「特段悪いところがあるようには見えないけど、こんな門下生の見えないところでやらせるってことは、私との打ち合いを望んでいるのかな?」

 想姫は答えなかった。紫蘭生が木刀を抜く。

「じゃ、刀をはじいたら勝ちってことで」

 言うやいなや、紫蘭生が想姫の刀をはじく。木刀でだ。吹き飛んだ刀はそのまま床に綺麗に縦に突き刺さった。

「さあ、木刀を抜いて」

 想姫が木刀を抜く。構えは型通りだが、先ほどより腰が引けている。完全に怯えきっている。

「わかった。じゃあ、私は丸腰でいいわ。打ってきなよ」

 そういうと想姫がやっと顔を上げて構え直した。いい顔だ。ここまでこけにされてようやく火が着いたようだった。想姫が身構える。突いてきたところを払う流派だから、こちらが仕掛けないとずっとにらみ合いのままだ。基本の構えが刀を縦にする形なので、構え丸腰で弾くのは難しい。だが、ずっとにらみ合っているわけにはいかない。紫蘭生が飛び込む。想姫が一歩足を引いて木刀を横にする。勢いを落とさず突かれる前に腕に噛みついた。木刀が落ち、想姫が倒れ、紫蘭生も一緒に倒れた。

「あまり実践に向いていない流派なんじゃない? これで帝を守れるの?」

 紫蘭生が起き上がる。想姫は半身を起こして、顔を歪めて紫蘭生に噛まれた腕をさすって、睨めつけてきた。

「父上は花涙流で赤緊軍の長を倒したわ」

「あ、そう。赤緊軍って何」

「歴史で習ったでしょう」

「私が来てから? の箇所? 今は創世について習ってなかった?」

「・・・・・・あんたがいなかった頃だったかも」

 ようやく想姫が立ち上がる。

「拾えよ。木刀」

 うっかり素が出てしまったが、気づいたのか気づかれなかったのか無言で木刀を拾う想姫。

「私、武人の子じゃなかったらよかったのに。あんたが武人の子ならよかったのにね。楽しそうに刀を振るうし。私、向いていないのに。武人に生まれたら刀を握るのは絶対」

「子を産んだらそうじゃなくなるんでしょ? ならあと少しじゃない」

 想姫が怒りにまかせて木刀を突いてくる。あっさりよけて、手刀で手首を打って木刀を落とした。

「今の花涙流じゃないわ。ただ突いただけ。棒を拾った素人でもできる。怒りで型を忘れるようなら、本当に向いてないのね」

 紫蘭生は一瞬で木刀を抜き、一歩引いてから、踏み込んで突く。先端が想姫の顔面で止まった。

「やるなら、こうじゃないと」

 想姫が木刀を拾う。

「あんたが武人出身だったら、帝の覚えも良くて、側室も夢じゃなかったかもね」

「あいにく、私の道に帝のため国のためだなんて御大層なお題目は存在しない。平民で十分だわ」

 紫蘭生が一歩踏み込んで、想姫の鼻に頭突きを入れる。木刀で守る隙も与えなかった。想姫が仰向けに倒れ、木刀も転がる。想姫の鼻から血が流れた。


   継釈継釈一三三年

「私、あなたと同じ匂いがすると思うんですが、違いますか」

 まだ居座り続けている渦督が、薬を作りながら唐突に言った。椀はすでに五つ転がっている。できあがるまで待てなくて下男下女に器をありったけ用意させた。そうして今秋霖が持っている椀もそろそろ空になる。頭の中が晴れて、胸の重みも取れる。しかし、飲み過ぎると会話を理解するのに時間がかかるようだ。

「何のことだ」

「支配のために、男を食ったことがあるでしょう?」

 椀を置いた。できあがった新たな薬を渦督が差し出してくる。

「食われたことがあるから、その方法で、支配したんですよね?」

 渦督の言うことは間違っているし、正しくもあった。しかし、訂正する気はなかった。どんなに罵倒してもどんな言いつけも無表情で守ってすり寄ってくる。どこにでもいる、農家の息子。兄弟が多く男でも奉公に出されたこと。どこにでも転がっている大多数の農民の話。仁賀もそのうちの一つに過ぎない。なのに、そんな普通の境遇で育った仁賀が、秋霖のお供をしたいと申し出た。奉公先が劣悪だったといえば、それもそうだが、仁賀には他の大多数にはない、野望のようなものがあったのではないかと一緒に旅していくうちに思えてきた。何を聞いても大多数の農民出身の男が答えるようなつまらないことしか言わないから、本音が聞きたかったから。無表情とは違う顔が見たかったから。いや、そうではない。

「僕より、不幸な人間を見たかったんだ」

 長いこと旅をしてきたが、秋霖は自分より不幸だと思える人間に出会ったことがなかった。妬ましさだけで殺せるほどに常に他人に対する殺意が沸いていた。そうして仁賀と出会って、旅を続けて、ある時ふと思ったのだ。離れないこいつを、自分より不幸な目に遭わせたらいいと。そうしたら自分より不幸な人間が見られると。

「僕は食われた経験はありませんが、そういう、何て言うんでしょうかね。傷を持った相手を食うのが好きで、よがってくるのも悪くはないんですが、嫌がる方が僕の心が満たされるというか」

 今では後悔している。野盗時代に秋霖が大人たちに食われたとき以上の屈辱を仁賀に与えたのだから。

 声も感情も押し殺した顔がたまらなかった。世間では英雄だのともてはやされて調子に乗っていた。しかし、どんなにもてはやされても気が晴れなかった。周りに合わせて英雄のように振る舞うのもどこか寒々しかった。ただの付き人でも同じくらいにおいしい思いをしている仁賀が顔色を変えないのが面白くなかった。しかし、どんなに理由をつけても意味がない。仁賀は死んだ。

 豚に食われている仁賀をせせら笑いながら見ていたときは、仁賀を屈服させたという支配欲で満たされていた。その上、家畜並、家畜同等、すなわち秋霖以下の人間が目の前にいることによって胸の中に溜まっていた他人に対する劣等感、妬みの裏返し、悪意も敵意も殺意も薄らいだように思えた。それは認める。その上で、後悔している。しかし、後悔しても遅い。全てが遅かった。

「初めはお嬢さんでもいいと思いましたが、斬り殺されそうでやめました。上手い具合に組み敷けても案外楽しんじゃうような性格にも見えますし。あの子明るいですよね。言葉は粗雑だし愛想笑いの一つもしないのに、暗いところがない。ほかの農民とは違う。一生土をいじって終わるだけの人生なんてこれっぽっちも思っていない。地獄を見たことがない」

 最低最悪以外の何物でもなかったと、仁賀が秋霖の元を去ってから気づいた。そうして、思いだした。秋霖が自分を食った野盗に何をしたのかを。怒りにまかせて全員殺した。そこから秋霖の孤独は始まった。どこの生まれとも知らない。物心がついた時には既に野盗にこき使われ、処理させられ、人畜無害な村に潜入させられ油断させたところで野盗が襲いに回る。そんな集団の中の一番の下っ端だった幼少期。仁賀が去ってからそんな幼い日のことをよく思い出すようになった。一人になってから、英雄ごっこはきっぱりと止めた。空しくなった。結局何も手に入らなかった。なるべく目立たないように暮らした。懺悔の旅とも言うべきか、いつか仁賀に謝れる日が来ると思っていた。しかし、そんな日は一生訪れない。

「そんな子を犯しても面白くないので、あなたに鞍替えしました」

 秋霖は未だ薬を飲ませようとする渦督の腕を払い、飛びついた。組み敷いて、目の中に指を入れる。簡単に両目から目玉がこぼれ出てきた。

「丸腰だと何も出来ないと思ったか。薬で脳を騙せば俺を食えると思ったか」

 渦督はうめき声を上げている。適当に伸ばされている腕を掴み、もう一方の手で指を一本一本折ってやる。渦督が絶叫するので、渦督の荷物の中にあった薬草を適当に口に押し込んだ。

「あいにく、お前の下らない性的指向の話で、目が覚めた」

 指を全部折った後で、渦督の上からどいた。自室から宝刀を持ってまた部屋に戻る。

「仁賀、お前はすごい奴だよ。凌遅流とか言ったな。良い名だな。俺の憎しみを理解している良い名だ」

 えぐり取った目玉を一つ、もう一つ。折った指第二関節、そう根元から切り取りながら、一つ二つ三つ四つ五つ六つ七つ八つ九つ十、と刀に串刺しにしていく。男はまだ息をしていた。そう目玉や指がなくなったところで死にはしない。意識もあることから、本当に紫蘭生の言う武芸者というのは本当なんだろう。武芸者や道だの紫蘭生は秋霖には理解出来ない概念に取り付かれるようにして生きているが、紫蘭生も言ったとおり、秋霖は武芸者ではない。

 憎い相手を殺すために刀を振るった。ただそれだけだ。それが終われば、感謝されるために刀を振るった。それも終わった。今はもう刀で何をする気もなかった。渦督、お前さえ現れなければ。

 刀身は十分に余っている。串刺しにした目玉や指を柄の方に寄せて、鼻を削ぎ、髪を削ぎ、刀の柄で歯を砕く。目も鼻も歯もなくした。指もない。もう渦督が何を言ってもだれも耳を傾けないだろう。。何も出来やしない。ついでにふくらはぎを刺しておく。下男下女を呼びつけて、大きい布地を持ってこさせ息も絶え絶えの渦督を包んだ。豊永の人間に見られないように気をつけながら、森に入って、道からそれた木々をかき分けてかき分けて、人目のつかなそうなところに転がした。出血多量で死亡するだろう。その前に鴉に食われるか。撒き餌のように、刀身に串刺しにした目玉や指を一つずつ抜き取って、適当に森の奥に放り投げる。あえて止めを刺さない。凌遅流とはよく言ったものだ。仁賀は秋霖が言葉にしたことがない気持ちを汲み取って、流派の名にまでしてくれたのに。秋霖は何もしてやらなかったどころか、最低の仕打ちをしてきた。後悔してもしきれない。もう遅いのだ。

 


 それから幾日が経った日のこと。薬師の相手に手間取ったことで、紫蘭生の動向を観察するのを忘れていたことを思いだした。武人の人間に気に入られて仕事をしていることは聞いた。虐められていないとも言っていた。本当なのだろうか? 秋霖の経験からして、

「坊や、何かひどいことされてない?」

 と聞かれて

「されています」

 なんて答えるわけがない。そう答えたら助けようとしてくれた善人が賊に殺されるだけだ。されていないと答えたら、悲しそうに目を伏せて立ち去っていくだけだ。

 やはり信用できるのは己の目のみ。確かめに行かなければならない。秋霖は続成に向かった。秋霖はどこの生まれともわからない。気づいたら野盗の一派の育ち。仁賀は兄弟の多い農民の生まれで育ち。紫蘭生の生まれは知らないが、仁賀に大事に育てられた世間知らずの平民。普通の平民がやることを全く知らない。炊事洗濯などの家事は仁賀の屋敷でも人を雇っていたようで、秋霖が人を雇うといったときも特別な反応を見せなかった。下男下女からは紫蘭生は好かれている。自分たちの仕事を脅かさない人間だからだ。何でも自分でやろうとする人間が雇い主だったら、下男下女はやりにくいだろう。紫蘭生は平民だから、下男下女の気持ちはわかるらしく、仕事で粗相をしても貴族や成金のように偉そうに説教をしない。仕事の善し悪しについて何も言わない。給金を出す。たまに自分でやってみる、なんてままごとを言い出す雇い主が一番下男下女に取って厄介なのだ。仕事場を荒らされるし、教えるのに仕事が増えるが給金は増えない。下男下女たちは怒鳴られながら暴力を振るわれながら下男下女の中の序列で仕事は目で見て盗んで覚える物だとたたき込まれている。おままごと気分で生きるための仕事場を荒らされたら気分を害するのは当然だ。しかし雇い主の言いつけなら断れない。しぶしぶ教えるしかない。雇い主の手際が良ければ下男下女たちは解雇されてしまう。

 その点紫蘭生は全くそんな気配がない。下男下女がやるなら、そういうもの。とばかりに思っている。世間知らずが役に立つときもあるようだ。そのおかげで下男下女たちは、紫蘭生のことをかわいいお嬢さんだと思っている。仕事に文句をつけないし、仕事場を荒らすようなこともしない。刀ばかり振っていても下男下女にはただの物好きな遊びにしか映っていないのだろう。

 本人は多分気づいていないだろうが、紫蘭生が塾に通い始めてからは、村人からの反感をさらに買った。

「書物なんて持ち歩いて。やっぱり秋霖さんに拾われた子は良く出来た子に育つのね」

 なんて言われる始末だ。見当違いもいいところだ。秋霖が紫蘭生くらいの年齢の頃は、字も読めたかどうかもあやしい。仁賀の教えの賜物だ。

「あの子、刀や木刀をぶら下げるのが趣味のようね」

 紫蘭生に聞かれたら、殺されかねない発言をしている者もいる。秋霖に取っては、本性がばれていないことが確認できて、よしといいたいところだ。豊永に住めて本当によかった。

 続成について、雲繊の屋敷を訪ねると、雲繊の奥様らしき人が取り次いでくれた。すぐに雲繊がやってきて、

「どうぞ。どうぞ。お上がりください。今は娘に稽古をつけている途中なんですよ。三階へどうぞ」

 三階に上がると広間に想姫と紫蘭生がいた。

「あ! 紫蘭生のお師匠様」

 床に仰向けに転がっていた想姫がぱっと顔を輝かせる。英雄時代は大抵こんな感じだった。人のよさそうな薄ら笑いを覚えてから特に。紫蘭生はあからさまに邪魔が入ったというような顔をしている。

「ぜひ、お師匠様から稽古をつけていただきたいわ」

 想姫が言った。


   継釈一三三年

 

 想姫に稽古をつけるように言われてから、どれだけ日数が過ぎたことか。毎日もらう布袋の数でも数えれば正確にわかるだろうが、数えても無意味なので結局数えなかった。お金は貯まる一方だ。盗まれないように中身をひとまとめにして肌身離さずもっている。音がなるが、紫蘭生は、取られない自信、取られても取り返す自信があったので気にしていない。今日も想姫に稽古をつけていた。何度も床に転がされて汗が弾ける勢いで空気中に舞った。紫蘭生から一本も取れたことはない。想姫が木刀ではなく刀で、紫蘭生が素手でも、想姫が負ける。この場合寸止めができれば想姫の勝ちとしているが、今日まで有効打を一度も打てずにいる。雲繊は娘の目が変わったなどと言って喜んでいたので、仕事は評価されているといっていいだろう。その程度で喜ばれるようでは、紫蘭生の指導に期待されていなかったからなのか、想姫の能力自体に見切りをつけているからなのかは定かではないが。

 とそのとき引き戸が開いた。紫蘭生が想姫にちょうど肘を胸の凹みに入れた所だった。想姫が仰向けに転がる。刀を放さなくなったのは成長といっていいだろう。と確認してから、引き戸の方を見ると、予想していた雲繊とは違い、来たのは秋霖だった。

「あ! 紫蘭生のお師匠様」

 床に仰向けに転がっていた想姫が起き上がり、秋霖にすり寄る。

「ぜひ、お師匠様から稽古をつけていただきたいわ」

 紫蘭生の方を馬鹿にしたような目つきで見ながら想姫が言った。

「誰にも教えたことがないので、私には力不足です」

 秋霖はやんわりと断った。

「でも、紫蘭生のお師匠様なんでしょう?」

「この子目が良いんですよ。勝手に覚えてしまう。教えたことは何一つない」

 仁賀にも言えることだ。ただ見せるだけだった。何も教わっていない。でも、確かに仁賀は紫蘭生にとって師匠だ。今の言葉から推測するに、仁賀も秋霖から何も教わらずに見て覚えたのだろう。

「難しい流派やなんだっていうのは、このさいいいんです。刀を吹き飛ばされないようにするにはどうしたらいいですか?」

「貸してみて」

 秋霖が想姫の刀を持った。宝刀は持ってきてないらしい。何しにきたのだろう。紫蘭生が刀を抜く。

「刀を落とせば良いんだよね」

「はい」

 秋霖が突っ込んできた。後ろへ飛び退きながら、突きをいなす。床に足が着いたところで紫蘭生が刀を降る。もうこれでは凌遅流だ。日の浅い花涙流では秋霖に対抗できない。だが、本気の刀の落としを見せることができるだろう。

 紫蘭生の刀を簡単にいなして、突っ込んでくる。刀の具合が手に染みる。刀を手放し、肘を食らう前に自分から仰向けに倒れ足で秋霖の腹を持ち上げぐるりと回転させる。秋霖が受け身を取って転がった。紫蘭生は立ち上がる。

「すごい! さすがお師匠様ですね。紫蘭生から刀を離しましたわ」

 当てこすりのようにわかりきったことを言う。

「師匠だからね」

 秋霖が起き上がり、外面用の笑顔で答える。

「仁賀とやったら、どうなったかな。やってみたかったな。あの頃は斬り合いにしか興味なかったから、こんな傷付けない稽古法があるなら仁賀もやってくれたかもしれないのに」

「あいつは私塾の講師がお似合いだ。大したことねえよ」

 秋霖がばっさりと言い捨てた。

「私、お師匠様に稽古をつけていただけたら、もっと強くなれると思うんです。給金ははずみます。どうか、私にも教えて下さい」

「さっきもいったけど、教えるのは不得手なんだ。じゃ僕はおいとまさせて頂きます」

 秋霖はそう言い残して帰ってった。しばらくの沈黙の後、想姫が口を開く。

「じゃあ、紫蘭生。お願いできる?」

 じゃあ? 二番目? 本当は秋霖がいいのに、しぶしぶ紫蘭生に教えてもらうってこと? 我慢ならない。仕方なく不満を持たれながら、ねだられるような技術ではない。紫蘭生の道はそう告げている。

「帰るわ」

 紫蘭生はそう言い捨てて屋敷を出た。紫蘭生の刀は砕け散って屋敷内にバラバラになって残されていた。

 


   継釈一三四年

 土砂降りの大雨の中、鳳凰の会の門を叩く紫蘭生の姿があった。来る者は拒まず去る者追わずの精神の武門だ。鳳凰の彫刻が施された門が開く。すぐに中に通された。

「衣食住を確保する代わりに命の保証はない。出ていきたければ出ていけば良い」

 大勢の門下生の視線を集めながら、長の方へ近寄る。髪の毛から雨の雫がしたたり落ちた。

「結構です」

「よし、ならまずは髪を剃れ」

 小刀を渡される。周りを見回すと男女そろってみんな坊主だった。鵺の会でもそうだったが、坊主が流行っているのだろうか。

「どうした? 髪が惜しいなら今すぐ出ていけ」

 長が言い終わるか終わらないうちに小刀を手に取り、紫蘭生は髪の毛を綺麗に剃った。

「名前は?」

「紫蘭生」

「俺は零角だ。鳳凰の会の長だ。戸を閉めろ。窓を閉めろ。湯を沸かせ。ここは寒いからな」

 都市といっても西の都穂応とは違ってここ北の都、岩耐(がんたい)はみんなが貧しかった。身分の高い者はまずこの土地で暮らさない。野盗たちも棒きれのような今にも餓死しそうな貧民たちからは取れる物がないと知って犯罪者も少ない。奪い合いをするような気力も貧民たちにはない。町を出る脚力も気力もない。全てが疲れ果てて尽きてしまっている土地だった。黒、灰色の組み合わせがこの地域、岩耐の人々の主たる色調だった。ここに来る途中に見かけた飢えと垢で肌が黒い人々。力尽きた黒い亡骸に群がる鴉。数匹ならよくても群がると困るのか、時々誰かが燃やしているらしく、、服の欠片や、灰がいたるところに散らばっていた。今日が雨で良かった。灰が舞うことなく吸わずに鳳凰の会までたどり着けたのだから。

 鳳凰の会の屋敷はそんなところとはわずかにマシ、といったところだろう。雨風しのげる丈夫な屋敷がある。食べ物も出る。すりつぶした芋や糠の粥しか出てこないが。衣服もある。門下生はみんな黒色の衣装を身に纏う。

 水もある。火をおこす薪もある。雨に降られた紫蘭生は久しぶりにお湯に浸かった。

 翌日から稽古が始まった。鳳凰の会は当然鳳凰流を学ぶ体裁をとっているが、みんな我流だった。目標は羅陀羅で金銀銅を獲ることのみ。そのために作られた団体だといっていい。

「どんな手を使ってでも勝て」

 それが零角の口癖だった。稽古方法も自分で考え自分で決める。それはともかく、新人いびりはどこの組織でも存在するものだ。早速紫蘭生は門下生数人に絡まれた。

「お前どこから来たんだ」

「お前が来ると、飯が減るんだよ」

 鳳凰の会の良いところは、命の保証がされていないことだ。訓練用の熱した鉄釘を持ち、門下生の首に刺した。手が熱い。だが、熱した釘に手を打ちつける鍛錬法があるらしい。

「死体が出たらこっちだよ」

 日常茶飯事とでもいうように、遠くから門下生の一人が手を振って合図を送ってくる。蹴り転がしながら、合図を送った人のもとに死体を届けると、門下生はばさりを死体の服を剥ぎ取って、全裸にし、裏口から死体を蹴り飛ばした。

「少し行った所に崖があるから、そこまで死体を落としてきてくるのが殺した人間の規則なんだ。この辺にあったら、ハエや怪鳥がたかってくるからねえ」

「わかった」

 坊主頭で風が冷たい。死体を蹴り転がしながらそう思う。剃った髪は売るのだという。そして羅陀羅での金銀銅賞を鳳凰の会が懐に入れている。そうして運営を維持しているのだ。死体を崖から落として稽古場へ戻った。常に気を張っていなければ殺される。最高の稽古場だ。熱した砂に指を突き刺しながら考える。隣で同じ稽古をしている門下生が話しかけてきた。

「金賞を取れなかったときは、ここの門下生の半分が死んだわ。上の連中に飯を獲られて餓死ね」

 ふと周りとみると、真面目に鍛錬に励んでいる者の方が少ない。邪魔にならない壁際で寝そべっているものが半数以上いる。

「頭をそれば、雨風しのげるっていうんだから、そりゃ孤児のたまり場になるよね」

「大人がいないね」

「大人は働けるからね。子どもと違って。わざわざ大人になってから、ここに入りにくる人なんていないよ」

「外で餓死しかけている大人がここに入ってこないのはなぜかな?」

「死ぬからでしょ? 穀潰しが一番嫌われる。餓死寸前のやつなんて初日で誰かが殺すわよ」

 度々刺すように砂に指を埋めては取り出して生めては取り出しを繰り返す紫蘭生とは違って、隣の門下生はずっと熱した砂に手を入れっぱなしだった。


ある日零角が個室から出てきて、

「羅陀羅に出たい奴、名前を書いておけ。ただし、穂応まで歩けるやつ自信のあるやつだけだ。道中どんな死に方をしても責任は負わない」

 人が寝転んでも余るほどの紙と墨と筆を置いたかと思うと、また個室に籠もってしまった。次々に紙に群がる門下生たち。紫蘭生は石柱に腕を叩きつける鍛錬を行っていた。既に腕には包帯が巻かれている。ここには薬もない。熱してあるからといって油断は禁物だ。菌が入り込んで病気になったらおしまいだ。ここには医者もいない。

 私物は取り上げられていないので、紫蘭生自身は道中で買った薬や包帯を持っている。それを肌身離さず持っている。お金もそうだ。寝ているところを盗もうものなら、容赦はしない。誰を起こそうとも構わない。真っ暗闇で見えない中で気配だけで急所を押さえる。時には指で、時には木刀で。何人崖から突き落としたか覚えていない。刀も道中買ったが使う機会は中々現れなかった。紫蘭生が狙っているのはただ一つ、羅陀羅の勝利刀だ。宝刀を手にすることが現実的に叶わない今、次に優れているという勝利刀を手にすることが今の紫蘭生の目標だった。

 徐々に人がはけて名前を書けそうな人数まで減ったあたりで紙に近付いた。いくら紙が大きくても筆が一本じゃ中々人はさばけない。しかし、紫蘭生は自分の筆を持っている。塾に通っていたときに使っていた筆ではない。あのまま想姫の屋敷を飛び出して豊永には戻らなかったのだ。これは新しく買った筆だ。

 ちょっちょっと墨を借りて自分の筆で名前を書けばおしまいだ。また狙われないうちに素早く筆をしまう。

 人の形を摸した木に腕や手刀を当てる鍛錬を積んでいると、隣で同じ鍛錬をしている門下生が話しかけてきた。鳳凰の会は鍛錬の道具だけは充実している。釘、砂、石柱、木人。薪。湯。湯桶。門下生の衣服などなど。

「君も出るんだね。羅陀羅」

「あんなに出る人が多いこと以上に名前を書けることの方が驚きよ」

「毎年だからね。初めて出たい人は、零角に言えば名前の書き方くらいは教えてくれるよ。名前がなければ零角がつけるし。ようは出たい奴は出しておけっていう考えだからね。名前とか文字が書けないからとか下らない理由で、出場人数を減らしたくないんでしょう」

 岩耐の良いところと言えば水が豊富なところだ。近くに滝の流れるところがある。そこに網を張れば一気に魚が捕れるというわけだ。鳳凰の会には火があるから、他の岩耐に住む住民とは違って魚を食べることができる。

 羅陀羅の金銀銅を総なめして買うものといえば薪と油くらいなものらしい。それも羅陀羅に出た門下生が運んで帰るというのだから、零角サマサマである。何事も初めて作った者が偉いということだ。あとは何もしなくても勝手に続いていく。零角もまだ死ぬ年齢ではないだろうし、死んだら死んだで別にどの流派でもないただの武芸者団体なのだから、死後解体しても零角にとっては多分どうでも良いことなのだろう。いかに楽して私腹を肥やす方法ばかり考えている。それで救われている命もあるのだから、さすが宝刀の持ち主だけはあるのか。鵺の会の須々万も持っていた宝刀だ。当然鳳凰の会の零角も持っているだろう。見たことはないが。

「ねえ、零角って宝刀持っている?」

 試しに隣にいる門下生に尋ねてみると、

「そりゃ、当然じゃない。鳳凰の会の長だもの。持っているに決まっているでしょう」

「見たことある?」

「もちろん。羅陀羅の場所開催場所、穂応に行くときは、零角はこれ見よがしに見せびらかしに持っていくわよ」

 平和のもたらし方にはいろんな形があるようだ。


 数年ぶりの穂応は、腹立たしいほどにまぶしくきらびやかで豪華だった。羅陀羅の出場名簿に書かれたあの大きな紙に書かれた名前の内ほとんどが消えた。零角が餓鬼たちのために宿など利用するはずもなく、穂応に着くまでの間、野宿だった。団体行動する必要はなく、羅陀羅に間に合えば良いだけなので紫蘭生は途中、零角が率いる餓鬼の列から出て、宿に泊まったり、包帯を買い足したりして、移動はほぼ休むことなく走りっぱなしで追いついた。

 零角が率いる餓鬼たちは、そこで迷子になったり、連れ去られたり、殺されたり、とにかく見知らぬ所で見知らぬ間に消えたらしい。原因は全て推測だ。紫蘭生はそこにいなかったのだから。

 穂応についたからにはなんとしてでも金銀銅を総なめしてもらわねばならないという、明確な意思をもった零角なため、一桁までになった餓鬼たちはようやく穂応の豪華な宿に泊まれることになった。料理屋の食事も豪華だった。蒸し餅や湯餅、鶏を贅沢に使った肉料理と、梨や桃などの新鮮な果物が机の隅から隅まで並べられた。他の門下生が滅多に食べられないと、肉料理に手を着けている。桃が縁起が良いと言われている。紫蘭生は肉料理には見向きもせずに、運気付けに桃をよく食べた。

 翌日、大部屋で寝ていた餓鬼たちを起こしたのは零角の怒号だったが、餓鬼たちはすでに起きていた。ここまで生き延びた餓鬼たちなのだ。既に勝負は始まっている。寝坊などあり得ない。

 羅陀羅は盛り上がっていた。既に観客で埋め尽くされている。前後左右どこを見回しても観客だらけだ。参加者は最前列で、観客席とは別に待機場所がある。不正が起こらないように各部門の待機場所は離されていた。

 すぐに1試合目が始まった。鳳凰の会の門下生の一人が、試合場に入る。

「始め!」

 かけ声と同時に鳳凰の会の門下生が木刀で相手の目を突き刺した。観客から罵声を叫声と興奮したような大声が聞こえてくる。そういえば、以前歩句鳴が一撃で仕留めるのは暗黙の了解でよろしくないと言っていたっけ。

「勝者! 鳳凰の会!」

 とはいえ、暗黙の了解は規則ではない。勝ちは勝ちだ。零角もにっこりと笑って拍手をしている。得物は木刀と決められているが、対戦相手は生きているようだったが、どうやら相手を殺してもいいらしい。倒れた相手はすぐに運営の栗海会の職員に片付けられた。

「次!」

 紫蘭生の番だ。相手は知らない武門の門下生だった。今年も歩句鳴は出るのだろうか?

「始め!」

 相手が突いてきた木刀を体全体で受け流し、流れを利用して木刀を掴み投げを試みたものの、上手く決まらず、相手の肩関節が折れる音がした。またも怒号が大きくなる。

「勝者! 鳳凰の会!」

 鳳凰の会は順調に勝ち進んだ。

「次!」

 紫蘭生が試合場に出る。対戦相手は歩句鳴だった。

「紫蘭生さん?」

「始め!」

 紫蘭生が木刀で突く。歩句鳴は退いて避けた。身長が高い分後ろに避けられやすい。だが、大きい分当てやすくもある。歩句鳴が木刀を振りかぶる。歩句鳴の腕の長さだったら当たる距離だ。わざと斜め前に倒れて体重を乗せた足で木刀を握る歩句鳴の腕を蹴り上げる。また歩句鳴は下がった。紫蘭生はすぐに元の体勢に戻る。さすが歩句鳴。木刀は離していない。だが、もう使い物にならないだろう。少なくともこの試合の間は。紫蘭生は一気に間合いを詰め、木刀の柄で歩句鳴の顎を打った。

 歩句鳴が倒れる。

「金賞は、鳳凰の会の紫蘭生」

 先ほどまでの罵声が打って変わって歓声に変わる。相変わらず半分くらいは罵声のままだったが。鳳凰の会はお呼びでないらしい。仕方が無い。穂応には鵺の会があるのだから。

「勝利者賞として勝利刀が授けられます」

 紫蘭生はやっと、お下がりでも形見でも安物でもない自分の力で刀を手にすることができた。すぐに腰に下げる。既に試合だけを見に来ていた観客はいなくなっていた。殺し合い打ち合いが見たくてきている野次馬だからだ。

「紫蘭生」

 宿に帰ろうとすると歩句鳴に呼び止められた。

「しゃべれるのね。顎を粉砕していないかとヒヤヒヤしたわ」

「ええ、手加減してくれたおかげです」

「怪我がねえようで良かったぜ。お? お前、紫蘭生か?」

 須々万もやってきて会話に加わる。

「試合で名前呼ばれていましたけど」

「いや、はは、そうだったな。背が伸びたか」

「そんなことより、歩句鳴に用があるんじゃないの?」

「いや、もうなくなった。怪我してねえか見に来ただけだ。美男が台無しになるところだったからな。お前のせいで。縁談がなくなるところだったぜ」

 須々万がそう言い残して去っていった。

「歩句鳴には縁談が来るのね」

「須々万が断っている。でも今の様子だとそのうち嫁をあてがわれるかも知れませんね」

「親は? ていうか本人は?」

 試合会場を出て町を歩く。人の往来が激しく、人寄せの声に張りがある。往来する人も派手好きだ。暖色の衣服にかんざし。白粉に紅。そんな女がごろごろいる。肉付きも良い健康そうな女だ。

「私は別に、急いではいないので・・・。両親は刀でのし上がることを望んでいます」

「へえ。両親も刀をやるの?」

「ええ。鵺の会には入れなかったようですけど。別の会には入っていましたよ。だから実は私は招待状で入門したんです。実力で入ったわけじゃないんですよ」

 鵺の会の大きな屋敷が見えてきた。手前に橋。初めてここを通ったときのことを思い出す。門番に足止めをされた。懐かしい。

「へえ。歩句鳴は武芸者じゃないの」

「道に限界を感じています。多分将来はありふれた農夫になっていることでしょう」

「そうなんだ。過去に羅陀羅で1位取ったのに。限界って?」

「正直野良の方が強いということはわかっていますから。道はそんな整備されたものではないでしょう」

「そんな道もありだと思うけれどね。舗装された道が好みなら」

「私も旅に出るかもしれません」

「農夫は?」

「そのあとです。武門が狭いことを、知りましたから」

「そっか。まあ、歩句鳴なら、道に進むのも止めるのもどっちでも、良い人生になると思う」

「そうですか? そういっていただけて嬉しいです」

「お礼を言うのはこっちだよ。私が何かなんて穂応に来なければわからなかった。仁賀との会話を思い出すことさえなかったと思う。一生、武芸者や道を知ることなく、私が何を求めていて、何が不満なのかわからずに力を持て余して、村で死んでいたと思うから」

 橋の目の前まで来た。あの時とは違う門番がいる。日差しがまぶしかった。歩句鳴が橋を渡りきるまでずっと眺めていた。


   継釈一三五年

 あの日、武人の屋敷で紫蘭生が本当に虐められていないか確認しにいってから二年が経った。想姫が秋霖の屋敷まできて泣きついてきたのを今でも覚えている。

「私がいけないの」

 と泣きじゃくる想姫をなだめることなく、秋霖の心はいかにこの娘を殺さないように自制することと紫蘭生も仁賀のように去って行ってしまったという二つのことで占められていた。

「あの、これ・・・・・・」

 泣き止んだ想姫がどこにでもあるような安刀を差し出してきた。

「紫蘭生が置いていったものなの。確かに砕け散るのを見たんだけど、錯覚だったみたい。思えば紫蘭生から刀を放したんだし、刀の落とし合いをしていたんだから、刀が壊れるわけがないのにね」

 想姫が訳の分からないことを言うのを聞きながら、秋霖は安刀を受け取った。こんなどこにでも売っているような刀を渡されたところで、紫蘭生の何が詰まっているわけでもなかった。

 その後父親である雲繊が駆けつけ、また泣き出しそうになる想姫の肩を抱きながら騒々しく去って行ったことを思い出す。

そしてまた秋霖は一人残された。静かだ。広い屋敷に一人。紫蘭生がいてもうるさいわけでもなく、会話があったわけでもないが、周明に紫蘭生の観察を頼んでいたし、それを聞くのが秋霖の日課だった。それがなくなったから、こんなにも静かに感じるのだろうか。

 しかし、秋霖にどうすることもできなかった。仁賀が去ったときのように。あの時と同じく追いかける術がなかった。仁賀がどこにいくかもわからなかった。紫蘭生が何処に行くのかもわからない。二の舞だ。同じ失敗を繰り返している。

 後悔しても同じ過ちを繰り返す。

 心とは裏腹に、表向きには、秋霖は平穏な農民暮らしをしていた。渦督の血で汚れた床を自分で張り替えたことくらいしか真新しいことは覚えていなかった。それくらい、他の農民と遜色ない、毎日同じ暮らしをしていた。畑を耕して、人相状の人物を切ってお金に換えて、下男下女を雇い続け、家のことは任せている。

 変わったことと言えば、一つあった。紫蘭生がいなくなったことで、縁談の話が舞い込むようになった。秋霖の過去など知る人などいないはずだが、年上の家事も畑仕事もできて肉付きの良い健康で丈夫な女ばかり紹介された。牛のような女もいれば、名家から没落したのか気の強そうな女、真っ先に理想の母親を連想させるような、普段はにこやかにしているが芯は強そうな女までよりどりみどりだった。

 秋霖も毎日同じ暮らしには飽きていた。望んでいたはずなのに、最も望んでいるものが欠けているからだ。だから縁談が来たら屋敷まで呼んで話しくらいは聞いた。暇つぶしにはなった。

 没落した名家の女と話したときは退屈だった。裁縫も刺繍も下男下女たちはできるから、なんの自慢にもなりはしない。

 母親を連想させるような女とは、意外と気が合わなかった。思っていたのと違ったと言った方が正しい。裏を返せば何も出来ないが我が儘を通す女だということだ。理想は幻想。現実はそう甘くない。独身を貫いているわけではないので、機会があればと思い会ってははみたものの、どの人もしっくりこなかった。

「だって、秋霖さま。十二から十五ほどの女の子と暮らすことになったらどうする、なんてお聞きになるんですもの。縁談でそんな話しをされるなんて思ってもみなかったでしょうね」

 周明は笑いながら言った。

「仁賀は紫蘭生に、帰れる場所を残したかったんだろう。だったら僕が結婚してもそれは守らないと」

 その子はいずれ嫁いでいなくなるの? などと聞いてきた女は片っ端から帰した。紫蘭生の道だなんだという話は理解できないが、紫蘭生のいう道には多分伴侶はいなさそうだ。秋霖がそう思いたいだけなのかも知れないが。

 縁談の返事を書いたり、会ったり、しばらく縁談の話が来なくなった。そうして久しぶりに来た手紙の封を切ると栗海会からだった。

 宝刀を授けた仁賀の弟子の紫蘭生が、罪のない村人を虐殺したとして、手配された旨が書かれてあった。仁賀が死んだので秋霖をなんとかして探し出して手紙を送った旨が長々と書かれてあったがそれはどうでもいい。最後まで読んで、要約するとこうだ。

 紫蘭生が人相状の人物として手配されている。栗海会の見解からすると、師匠の仁賀が死んだ今、責任を取って紫蘭生を見つけ出して、殺すのは秋霖だということだった。


 栗海会へ返事を書いて、虐殺された村、白湿(はくしつ)の生き残りの話を聞きに、白湿の近くの村、繁志気(しげしげ)まで向かった。

 宝刀を持った秋霖が到着すると、あの化け物を育てたのはお前か、という村人の視線が刺さった。役所に赴くと、役人が生き残りだと名乗り出た晃才(こうざい)という男を紹介した。

「この人だけが上手く逃げおおせたようです」

「白湿の村人は全員で何人ですか?」

「数えたことはありませんが、小さな村ですからね。家が二桁あるかどうか」

「いくら紫蘭生でもそんなに殺せないだろう。生き残りが一人っていうのは不自然だ」

「おかしくありませんよ。旦那。なんせ深夜でしたからね。寝静まったところをグサッグサッとやったんでしょうねえ。私は不眠症ですから、起きてしまいましてね。それで、ばれないように逃げてきたんです」

 晃才と名乗る男を見て悟った。晃才が犯人だと。もし晃才のいうことが本当なら、紫蘭生は晃才を逃すはずがない。

「動機はなんだと思いますか?」

「金に困っていたんでしょうかね? 野盗は大抵そうですから」

「盗まれた物は?」

「晃才さんの言う通り、金品が盗まれています。急いでいたためか全ての家から盗んだというわけではなさそうです」

 役人が答えた。それなら紫蘭生が犯人はあり得ない。金を稼ぐならまず人相状の人物を切るだろう。小さな村の農民を全員殺して金品を奪ったところで、人相状の人物を殺す報酬にも満たないのだからわざわざ金にならない人間を苦労して殺して、さらに、何十箇所もある金品をも探って盗み出すなんてこと、紫蘭生がやるはずがない。

「で、人相状は?」

「これです」

 見せられた人相状の人物は紫蘭生そのものだった。

 


   継釈一三五年

 勝利刀を手にしてからすぐに、紫蘭生は鳳凰の会を抜けた。零角は

「毎年のことだ」

 と言って気にも留めなかった。鳳凰の会でない北の土地で生きていくのは厳しい。紫蘭生は南へ南へと当てもなく進んだ。

 放浪してから一年、髪の毛もようやく昔と同じ長さまで伸びた。

 たびたび人相状の人物をしとめて近くの役所まで首を運んで小銭を稼いで暮らした。お金が貯まるとたまには宿にも泊まった。多くの村々の人々は親切で家の側の廃材置き場で眠るなら良いと言ってくれたり、馬小屋で寝るならいいと言ってくれたりと野宿でも比較的快適な場所で眠ることができた。

 森の中を歩き通しでやっとのことで村を見つけたのが日も暮れた頃だった。村長に許可を取って空き家で眠らせてもらえることになった。

 深夜を過ぎてのことだった。村の異様な空気に気づいて紫蘭生は目を覚ました。何度も嗅いだことがあるからわかる。血の匂いだ。刀を構えながら部屋を出ると、人影が見えた。男の持つ刀の切っ先が血で濡れている。

「見逃してくれたら、何もしない」

「行けよ」

 強盗目的だろうか。男は出て行った。

 紫蘭生はそのまま空き家で眠った。

 翌朝、身支度をして外を出ると、村はしんとしていた。料理屋に入ると、人が死んでいた。まさかと思って民家を訪ねると返事がない。錠前が壊されていた。中に入ると、人が死んでいた。

「あいつです」

 声のした方を見ると、昨日見かけた男が紫蘭生を指さして言った。

「あいつが、俺の村の人々を殺したんだ」

 役人が追いかけてくる。紫蘭生は訳の分からないまま逃げた。村から出て、森に入る。道なき道を行く。追っ手がせまってくる。さらに奥深くへと入っていく。斜面が続く。ぬかるみに足を滑らせて、そのまま斜面から滑り落ちた。


 目を開けると、そこは森ではなく、灰色の世界が広がっていた。前後左右もわからない、ただただ灰色の世界が続いている。

「落ちてきたのね。人間が」

 灰色の世界から人の形をしたものが、顔だけ現れた。

「あなたは何? ここはどこ?」

「私たちは樹供(じゅきょう)という種族。ここ、回環(かいかん)の住民」

「元の世界に戻りたいんだけど」

「よろしい。ここはそなたのくる場所ではない」

 また新たな顔が現れた。利杯だった。

「利杯?」

「私は利杯ではない。私たちは好きに顔を作り替えることができる」

 利杯の顔をした利杯ではない者が答える。体まで灰色の世界から浮き出てきた。出会ったときと同じ着物を着ている。

「利杯といったか。あの者はここの住民」

「そんなはずない。故郷の村が殺されたとか言っていたわ」

「人間の世界に入った途端、樹供であることも回環の住民であることも忘れ、周りもあたかも家族のように受け入れる。そういう風にできている」

「利杯はここから出たがったってこと?」

「ここは変わらない世界。たまに不純物が生まれることもある」

「それが利杯?」

「不純物は外に出さなければならない」

「だから、利杯を外に出したのね」

「だが、私たちは人間ではない。知っているだろう。私たちは変わらない。生も死もない。私たちか顔を作り替えられるのと同じように、外の世界に合わせてあたかも成長したかのように見せかけることも出来る。しかし、それは偽りの姿」

「利杯が人間じゃないのはわかったから、ここから出してほしいんだけど」

「あの者の経験は私たちの経験。樹供と出会い、さらに似たような経験をしたことで、回環に引っ張られたのだろう」

「似たような経験? あ、利杯の村の人が全員殺されたってところが? 今の私の状況と似ているということ? 利杯も私も犯人を見ていて、他に生き残りはいない・・・確かに似ているといえば似ているかも」

「こうして接点が生まれたことにより、お前はここに落ちてきた」

「それはわかったから、出してくれる?」

「よろしい」


 人の気配がして、刀を抜くと、そこには数人の男たちがいた。みんな体つきがよく、腕や足をむき出しにした動きやすい格好をしている。男たちの刀を見て気づく。

「勝利刀・・・・・・」

 そうつぶやくと、男たちがわっと沸いた。敵意はないらしい。

「あんたが転がり落ちてきて、起こそうとして近よろうとしたんだ。そうしたら、すぐに起きやがるんだ。それでもって刀まで抜くときている。相当な極悪人が来たもんだ」

 言葉とは裏腹にどこか面白おかしそうに言って男は笑った。灰色の世界でのことは、一瞬の夢だったのか、時間は経っていないらしい。紫蘭生は刀をしまって尋ねた。

「ここはどこ?」

「隠れ森の里だよ」

「森の里っておかしくない?」

「学のないやつが名付けたんだ。賢そうなあんたがおかしいっていうなら、そうなのかもな」

「さあ、そんなことはいいから、案内してやるよ」

 隠れ森の里というだけあって、森の中に集落が形成されていた。不格好な家々がまばらに建っている。

「新参者です」

「ここの長だよ。挨拶しな」

 脇にいた男に言われて、

「紫蘭生です。お世話になります」

 と頭を下げた。

「ただ今帰りました。速報ですよ。村を壊滅させた大悪人の人相状を手に入れてきました」

 老人がどこからともなく現れ、長に人相状を渡す。チラリと見えたがそれはまさしく紫蘭生だった。

「私はここ隠れ森の里の長、可可苦苦(かかくく)だ。ここにいるのはみんな大罪人さ。好きなだけ過ごすが良い。なんでも揃っている。川はあるし、火もおこせる。家だってある。ちょうど、つい最近人が死んで空き家になったところがある。あんたはそこを使えば良い」

「ありがたいのですが、私は冤罪なんです」

 というと、周りの人間がどっと笑った。

「ここに来た人間はみんな初めはそう言うよ」

「じゃ、みんな冤罪?」

 そう尋ねると再び笑いが起きた。

「ありがたく居候させていただきますけど、外の様子が知りたい」

「それならこいつにきくといい」

 先ほど紫蘭生の人相状を持ってきた老人が手を挙げた。

「こいつはもう人相状も出回らない古参の人間でな。世間の人間に忘れ去られた悪党だよ」

「亡正(ぼうせい)と申します。外の情報が知りたければ、顔を忘れられた私が行ってきますので、何なりと申しつけ下さい」

「冤罪を晴らせた人はいないの?」

「さあな。出ていった人間のことをいちいち調べたいやつなんてここにはいないよ」

「じゃあ、晴らそうとして出ていった人間はいるんですね」

「止めないけど、場所が割れないように、途中まで亡正に連れて行ってもらう」

「なあに、ここで暮らせばいいさ。兎もいるし、猪だっているし、魚もいる。草もある。果物もある。困りはしないだろう。今すぐに出なくたって、忘れられたころに、そうだな、次の大悪人が世を怖がらせるまで息を潜めていれば、人相状も出回らなくなるだろう」

「とりあえず、私が犯人だって言っている男がいるの。そいつの名前と、拠点が知りたい。既に移動しているかもしれないけれど。方角だけでもいいから。できれば、そいつの顔を、覚えて、描けない? 私は無理なんだけど」

「無理だろ。絵師の仕事を罪人にさせようとするのは」

「そうですよね」

「名前と拠点、ないなら移動の方角でいいんですね」

「よろしくお願いします」

 頭を下げると、亡正はゆらりと木々の中に消えていった。


 それから幾日が過ぎた。お客様扱いがなくなり、徐々に当たりが強くなってきていた。何もしない紫蘭生に飯を食べさせるのを気にくわない連中がいるらしい。

「魚は捕れるよ。網があればね。網はないの?」

 岩耐でやったことがある。それならお手の物だ。

「亡正の他にも何人か忘れさられた罪人はいますが、金がねえ」

「お金ならあるよ。買ってきてくれる?」

「じゃ、今回はそれでいいとしましょう」

 と言い、紫蘭生が金を渡すと男は木々の中へ消えていった。

「裁縫も炊事もできないなんて、どうやって生きてきたんだ」

「人を雇って生きてきたよ」

 そう言うと周りの連中はどっと笑った。こうやって周りの連中を笑わせているだけ、働いているようなものだと紫蘭生は思っている。なにせ、毎日のように話を聞きたがってくるのだ。

「とんだお嬢さまが落ちてきたもんだ」

「お嬢さまのくせに人殺しときてる」

「それは冤罪だって」

 罪人たちの暇つぶしとなっている紫蘭生だが、そんなのんきに昔話をしている場合ではない。だが、今の紫蘭生にはどうすることもできない。亡正は未だに帰ってこない。

「亡正が殺されたらどうするの?」

「外に出られる者は他にもいますからね。まあ、待っても帰ってこなければ次の罪人を行かせましょう」

「お嬢さん。勝利刀と言ったな。どこの武門だい?」

「鳳凰の会よ」

「やっぱり!」

 勝利刀を持った男たちが喜び出す。

「俺たちも鳳凰の会の人間だったんだ。優勝して出ていったけどな」

「なんでそんな人がこんなところに? あなたも冤罪?」

「お嬢さん。過去のことを聞くのはここではよしてくれないか」

 一気に声色が変わったものの、紫蘭生がその程度を気にする玉ではない。

「私には毎日聞いているじゃない」

「新参者には良いっていう規則なんだよ」

「何それ」

「ここにいるうちに、ここが穏やかすぎて、過去のことはもう忘れたくなっていくんだよ」

 しみじみというこの男は本物の罪人なのだろうか。この人たちが罪人であろうが善人であろうが知ったことではない。だが閉鎖的な場所だ。居心地をよくするために紫蘭生も気前よく話してやっていた。


 お使いに行かせた男が帰ってこないまま翌日。家に籠もっていたい紫蘭生だったが、新参者らしく真新しさで住まわせてもいいと思って貰えるように今日も無意味に隠れ森の里を練り歩く。

「これは何?」

 一人の男が持っていた本について尋ねると、

「それが、私にもわからないんですよ。野盗の下っ端でしてね。こう大きい包みを持っている人間からかっぱらってきたものなんですが、全部本でね。私も野盗もみんな字が読めないっていうのにね。こんなものを持ってかえったら、殺される! って思いましてね。野盗を抜けてうろついているうちにここにたどり着いたんですよ」

「じゃあ人相状が出回ったわけじゃないんだね」

「出回っているかも知れませんが、なにせ店ではなく人、それにもう昔のことですし、殺しではなく窃盗ですし、もう出ても大丈夫だと思っています。私も時々お使いに行くんですけどね。何せ学がないから何かわからなくて、あまり使い物にならなくて。お嬢さん、こんなやつもいるんで、お気になさらず、くつろいでください」

「い、いや、そんなへりくだらなくても・・・」

 若い男だが、どうも紫蘭生より幼く感じる。

「あ、これ『陰男指』よ」

 紫蘭生が読んでいた『日女香』と同じ作者の詩だ。

「知っているんですか?」

「作者をね。これの他にも作品があって、そっちを読んだことがあるの」

「お貸ししましょうか」

「え、いいの?」

「どうせ、私が持っていても使い物になりませんから」

「じゃあ、借りるわね」

 紫蘭生は『陰男指』を受け取った。紫蘭生は、隠れ森の里の連中の御機嫌取りで自身のことや身の回りの話をしてまわっていたので、連中が思うより忙しかったのだが、時間を作って読もう。亡正が帰ってくるのをやきもきして待っているより、そっちのほうがずっといい。


 網を頼んだ使いの者が帰ってきて、二人で川に行き、網を張った。

「取れるまでに、時間がかかるな」

 まだ文句を言っている。

「まだ食べ物はあるでしょう。誰かが兎を捌いていたよ」

「それをお前は食うんだろ」

「あんたもね」

「俺は外に出る使いの仕事をしている。あんたは何をしているっていうんだ」

「みんなを明るく元気にさせているわ」

 紫蘭生が笑ってそう答えると、

「は?」

 男は虚を突かれたような声を出した。

「外に出られない人も多いから、外の話が楽しいんでしょうね。いろんなことを聞いてくるの。それから本の読みあいをしたわ」

 『陰男指』を読んだ後、面白さを伝えるために帳に読んできかせていたら、わらわらと人が集まってきたのだ。『陰男指』は偉い人の言葉を弟子が詩に直した本だ。一遍一遍が短いし、つながっていないので、途中からやってきても、新しい詩に入れば会話に加われる。この詩はその通り、この詩は自分の意見とは違うなどと、隠れ森の里の住人同士でも対話できるし詩とも対話できる優れた本だ。

「お前文字が読めるのか」

「そう。仕事しているわよ。読めない人の代わりに読んでいるんだから。まだ不満?」

「ああ、不満だね。結局生きるのに役に立っていないんだよ。食い物、それを手に入れるための手段、加工する技術。それ以外は無意味だ」

「本当にそう思っているの? あんたがいない間に、みんなが楽しくやっているから、ひがんでいるようにしか聞こえないわ」

「なんだと!」

 男が詰め寄ってきたとき、遠くから声がした。

「お嬢さん。ただ今帰りました」

 網を置いて集落に戻ると亡正が帰ってきていた。

「それで、わかったの?」

「ええ、お嬢さんが犯人だと言ったのは晃才という男です。白湿の唯一の生き残りと言っていました」

「村の人間には見えなかったけど。ま、村人全員が死んだ今じゃ確かめることはできないか」

「ついでにお嬢さんの情報も手に入れました」

「私に聞けば良いのに」

「まあまあ、お嬢さんは羅陀羅の優勝者なんですってね」

「勝利刀を見ればわかるでしょう。ここには同じ物を持っている人、何人もいるんだし」

「はい、私もそれ自体は知っていました。ここからが面白い話なんです。お嬢さん、あなた宝刀持ちの弟子なんですってね」

 亡正が言うと、集まってきた男たちがどよめく。

「まあ、そうね」

 栗海会は羅陀羅の主催も宝刀の授与もしている。武芸を管理するのが仕事の栗海会なら、知っていて当然だろう。

「有名になりたての時に罪なんか犯すもんじゃねえよ」

 勝利刀を持った男が言う。

「だから、冤罪なんだって。それに勝利刀をもらったのは去年よ?」

「去年なんて昨日と同じさ。そんな有名人が人斬りとはいけねえなあ」

「あなたも、勝利刀をもらってすぐに罪を犯したの?」

「いやあ、へへへ。まあいいじゃねえか。亡正の話を聞こうぜ」

「そこで、栗海会が話し合いましてね。そんな強い人斬りを切れるのは師匠しかいないという話になりましてね。あなたのお師匠様の付き人だか師匠だかに孫弟子さんを討ち取る命が下ったんですよ」

「付き人? 師匠? 秋霖のこと?」

 須々万が文仁賀との文通で仁賀の師匠が秋霖だと知ったと言っていたことを思い出す。

「たしかそんな名前でした」

 亡正が言う。

 仁賀が死んでいるので、そうなれば次に選ばれるのは必然と秋霖になる。しかし、紫蘭生には、秋霖が素直に栗海会の言うことを聞くとも思えなかった。

「秋霖はその、私のことを探しているの?」

「栗海会が手紙を出したらすぐに応援に来たそうですよ」

「私のこと殺す気満々ね」

 そんな正義感のある男ではなかったはずだが。大義名分などなくとも人を殺せる男だ。紫蘭生を殺せる機会も何度もあったはずだ。今になって殺したくなったのだろうか? どうして栗海会の指示に従っているのかはわからないが、秋霖が動いているとなれば、紫蘭生が出ていかないわけにはいかない。

「私、ここを出るわ。相手が役人じゃなくて秋霖なら、思いっきりやれる」

「返り討ちにしちゃだめですよ。冤罪なんでしょ。あんた。それを追いかけてきた師匠殺したらダメでしょう」

 亡正が諭すように言った。

「いや、言葉の綾で・・・・・・。もちろん殺さないわ」

 そうだ。冤罪を晴らすためには秋霖とやり合う必要はあるが殺してはいけないのだ。もちろん、はなっから殺す気はなかったのだが。

「行っちまうのかい? 嬢ちゃん」

「別に行っても冤罪が晴れるわけじゃない。どうしてみんな、今生の別れみたいになっているの?」

 急にしんみりしだした集落の男たちを見て紫蘭生はなんだか笑えてきた。仁賀が死んだあと、玄菜の村人は紫蘭生を追い立てたし、帰ってきた紫蘭生を集団私刑にかけたりした。鵺の会では紹介状を持っても入れなかったり、秋霖に仕事を奪われた結果、珠植を出る事になったり、いない方が良かったことの方が多かったのに、ここではなぜか名残惜しまれている。

「その晃才の居場所ですがね、白湿の近くにある繁志気という大きな村に滞在していますよ。情報を吐いた後すぐに出ていこうとしたらしいんですが、お嬢さんに顔を見られているから危ないとかで、役人と栗海会が説得して留まらせているようです」

「そりゃ、あいつが犯人だもんね。早く離れたいに決まっている」

「お嬢さん。居場所がわかっても晃才を殺すような真似は止めて下さいよ。たとえ本当の犯人だったとしてもです」

 亡正が言い含める。

「ええ、なんか、私そんな血の気が多いと思われているのね。そこまで馬鹿じゃないんだけど」

「いえいえ、そんなことはありますが、老人の小言として胸にしまっておいてください」

「ありがとう。帰ってきてすぐでなんだけど、出発しましょう」


 布で目隠しをされながら、手を引かれて亡正と歩いて行く。

「ここらで大丈夫でしょう。お師匠様に会えることを願っています」

 そう言って亡正は木々の中に溶け込んでいった。森から出て、踏み固められた道に出る。すぐそこに気配を感じる。さすが亡正だ。すぐそばまで連れてきてくれたのだ。

 気配を感じてから少し待っていると視界に秋霖が映った。役人を連れていると思ったが一人のようだ。秋霖も紫蘭生が見えているはずなのに、急に走り出すことなく一歩一歩近付いてくる。

 一定の距離を保ったところで秋霖が足を止めた。

「あんたは私を殺したら勝ちで、私はあんたを殺すと負けになる。いいね、英雄様は栗海会に守られて。あんたの方がよっぽど悪党なのに。なかったことになっている」

「否定しないのか」

「あんたに向かって否定したところでどうなるの?」

 秋霖が宝刀を抜いて飛びかかってきた。紫蘭生も勝利刀を抜いて刀を受け流す。

「じゃあ、なんで出てきた」

「私の道でうろつかれて邪魔なのよ」

 今度は紫蘭生から仕掛けた。横薙ぎを秋霖は退いて躱す。秋霖にずっと捜索されては外へ出られる日は秋霖が死ぬ日まで訪れない。秋霖が紫蘭生を忘れる日などないからだ。世間が忘れようが秋霖は絶対に紫蘭生を忘れない。そんな長い年月を、隠れ森の里で待つのはごめんだ。

「道、道って一体道ってなんなんだよ」

 秋霖が胸を突いてくるのをギリギリまで待って躱して脳天に刀を振り下ろす。さすがに巻き戻りが早い。宝刀で受け止められた。

「言い換えるとすれば、生き方かな」

「お前の生き方っていうのは、人を殺すことなのかよ」

 今度は秋霖が脳を狙ってきた。勝利刀で受け止める。体重差がある分不利なのはわかっていた。避けられた。でも受け止めたかった。勝利刀を信じていたから。宝刀も良いけれど勝利刀も悪くないのだと。

 ずるずると、両足が砂をえぐって退いていく。受け止めた宝刀を力の方向に払い、紫蘭生は横に足を動かして秋霖から正中線をずらした。

「悪人しか殺してない」

 秋霖の脇腹を突くと、僅かに手応えがあった。衣服が裂け僅かに血もついている。切っ先を眺めていた僅かな隙で、秋霖が宝刀を斜めに振り下ろしてきた。横に飛んだが左肩を少し切られた。また互いに正面を向き合う。

「ずっと聞きたかったんだ。仁賀に大切に育てられていたんだろ。なんで、人なんか殺しているんだよ。普通に暮らせよ。仁賀に拾われて、何不自由なく暮らせるなんて、農民が聞いたら全員が全員、お前を羨む。刀や力なんかどうだっていい。仕事もしないで飯も食えるし家だって何もしなくてもいつも清潔だ。おまけに勉強までさせてもらえる。何が不満だったんだよ」

 秋霖が打つのを止めた。

「私ね、初めて人相状の人物を殺したとき、誰も信じてくれなかったの。それに耐えられなかった。それを跳ね返せないようでは道がないと思ったの。すべての理不尽に怒り、なぎ倒す力がほしかった。私の道が定まったきっかけはそれ」

「仁賀はそんなこと望んでねえだろうが」

「私の道だもの。仁賀は関係ないでしょう」

 紫蘭生が顎を突く。かすった。間合いを見誤ったようだ。背がこのまま伸びないのではと心配した時期もあったが杞憂だった。岩耐での極貧生活でもものともせずに、紫蘭生の背はどんどん伸びていった。そして元々の筋力、脚力。紫蘭生に間合いを詰められたら逃れられるものはほとんどいないだろう。

 秋霖はまだ打ってこない。

「あんたは勘違いしているよ。仁賀は私のこと嫌いだったと思う」

 紫蘭生は構わず打ち続ける。秋霖は受けるか捌くのみだ。だがそれは遊んでいるからではないことはわかっていた。秋霖の殺意がどんどん薄くなっていることに気づいていた。秋霖の目が泳いでいる。

「あんたに似ていたから。でも仁賀は真面目だから一度拾った子どもを、もう一度捨てるなんてことはできずに仕方なく育てた。私が化け物にならないように怯えながら、腫れ物を扱うように丁寧に扱った。仁賀は私を通してあんたを見て、あんたは私を通して仁賀を見ている」

「全然似てねえよ」

 やけくそで放った秋霖の一撃を躱して、柄で鎖骨を打つ。

「本当にね。仁賀の目は節穴。私を拾って育てるくらいに。でも、それはあんたにも言える。私は仁賀とは違う」

 秋霖は鎖骨を押さえながら言った。勝負の場面で痛がるそぶりを見せた時点で負けだ、秋霖。紫蘭生には余裕が生まれていた。骨も歯も折られたのに、何度も床に伏せられたのに。全然仕返したいと思わない。とうの昔に秋霖に勝ちたいという未練は消え去っていた。今手にしているこの血を浴びて生き生きと輝いている勝利刀のおかげだ。勝利刀を手にした時点で、とっくに刀を捨て去った男への興味は消失していた。

「性格の話をしているんじゃない。大金ぶら下げても尻尾を振らないし、痛めつけても服従しないし・・・・・・そして僕のもとを去る」

「誰だってあんたの側にはいたくないと思うよ」

 脳天を狙うと、さすがに良い反応をして避ける。秋霖が睨み付けてきた。

「嫁でももらえば? いつまで仁賀にしがみついているの? 私は先に行く。まだ道は続いているから」

 片手で刀を持ち振り下ろすと、秋霖の肩が少し切れた。また間合いを見誤った。まだ秋霖は昔の紫蘭生を見ている。

「側にいたくないって言った直後に嫁の話か」

「栗海会が認める英雄様なんでしょう。縁談くらい来ているんじゃない?」

「正体を知れば逃げ出すさ」

 自嘲気味に秋霖が笑う。顔面を突いたら鼻先が触れた。秋霖の鼻の頭から血が流れている。

「そうしたら、私や仁賀じゃなくて嫁を追いかければ良いよ」

 紫蘭生は笑った。秋霖はまだ刀を紫蘭生に向けようとしない。

「愛は盲目って言うし。あんたの正体を気づかないふりをしたまま愛してくれる人が見つかるって」

「餓鬼に愛を説かれるとはね」

 紫蘭生が踏み込み、眼球を狙う。秋霖は避けたものの、僅かにずれた目の横に当たった。血が噴き出す。

「もう餓鬼じゃない。人相状の人物を殺しても誰も疑いはしない年齢になった。そして、仁賀は死んだ。仁賀はどこにもいない。私のどこを見ても仁賀は存在しない。いろんな共通項を並べ立てたところで、なんの意味もない」

 秋霖が刀を振るってきた。怒りに触れたのだろうか、避けられなかった。脇腹に当たった。すぐに衣服に血が染みこんだ。止めどなく溢れてくる。少し深い。だが表情には出さない。紫蘭生は変わらず秋霖を見詰めている。呼吸も乱さない。

「こうして殺し合って、どちらかが死んでも、両方死んでも仁賀は悲しまない」

「当然だろ」

 秋霖がさらに脇腹を狙ってきたが、今度は避けることができた。空を切った刀を持つ手に思い切り柄をぶつける。

「金がなければ僕の言うことなんざ聞かなかっただろうな。末っ子で苦労して奉公先でも苦労したから仕方なく僕の付き人をやっていただけ」

 秋霖が距離を取って言う。

「嫌われていたからね。拾った子どもが化け物だなんて普通思わないものね」

 仁賀が紫蘭生に秋霖を見いだして丁寧に扱ったところで無意味だ。紫蘭生は紫蘭生だ。秋霖とは違う。

「僕がお前なら良かったのに」

「たらればの話、好きじゃないのよね」

 紫蘭生が距離を詰め、太ももを切りつける。浅くはないはずだ。血濡れた刀がきらきらと日光を浴びてさらに輝きを増している。

「僕がお前なら、僕はこうはならなかった」

 再び足を狙う。ふくらはぎを切りつけると、秋霖は仰向けに転がった。

「殺せよ」

 秋霖は悲痛の叫び声を上げた。

「嫌よ。今殺したら、私が罪人になるじゃない」

 紫蘭生はばっさりと言い切った。気持ちが溢れて自暴自棄になるのは秋霖の勝手だが、それを紫蘭生の手に委ねられては困る。

「死にたかったら一人で死になさい」

「仁賀になら殺されても良い。最悪、お前でもいい」

「立てよ」

 肩を突き刺したが、秋霖は避けなかった。刀を抜く。

「仁賀が私に秋霖を見出した時点で、あんたと仁賀も似ているってことよ。私に仁賀を見出したあんたと同じで。どう? 気持ちは晴れた?」

 共通項など探し出そうとすれば、どの人間を選んでも何かしら見つかるものだ。

 秋霖が闇雲に宝刀を振り回した。距離を取ると、緩やかな動きで片膝をついて刀を構えだした。秋霖は泣いていた。

「あいつと一緒にするな。僕とは違う。兎を殺せないような憶病者と一緒にするなよ」

 紫蘭生は口角を上げた。

「仁賀は好かれていたけれど、あれは偽善が貧しい村人に受けただけ。自分が奉公に出された当てつけに、売られた子供や塾に行けなかった子供を誘って、昔の自分を慰めていただけでしょう。生き方を新しく変えたつもりかも知れないけれど、結局あの人も昔に囚われている」

「僕と一緒だって言いたいのか」

「ね、他人と重ね合わせられたら、腹が立つでしょう?」

 刀を額に当てようとすると、宝刀で弾かれた。が、何度も打ち込む内に、秋霖の刀捌きが鈍り、とうとう紫蘭生の刀が秋霖の額に当たる。僅かに切れた秋霖の額から血が滴り落ちる。

「ああ、そうだな」

 もう秋霖は泣いていなかった。当てっぱなしの刀に腹が立ったのかすぐにまた弾こうとするので、すぐに刀を引いた。

「でも・・・・・・」

 わからないことが一つだけある。

「なんで仁賀は死んだの?」

 死因が紫蘭生にあるのか秋霖にあるのかということではない。紫蘭生は刀を構えたままで、秋霖は刀を下ろして同時に呟いた。

「謝りたいわ」

「謝りたいんだ」


   継釈一三五年

 秋霖は髪の短い娘の生首を、繁志気へと持って帰った。紫蘭生を討伐するさいに、秋霖と共にいた役人は紫蘭生に殺されたことにした。本当は紫蘭生と一騎打ちがしたくて秋霖が殺したのだが。

 役所で、栗海会の人間と役人にその生首を届けると、保護されていた晃才という男が飛び上がるように喜んだ。

「これで、私はもう出歩けるんですね」

「ええ、行っていいですよ」

 と役人が言うやいなや晃才はすぐに繁志気を去って行った。栗海会が指示し、役人は紫蘭生の人相状を刷るのを止めさせ、方々へ役人をやり、人相状の貼り替えを行うように指示した。悪党は絶えない。紫蘭生が討ち取られたとなれば、また、別の新たな悪党の人相状が貼られる。

「ご隠居されていると聞きましたが、こうも早くに討ってくれるとは。どうですか。これを機に凌遅流の登録をするというのは」

「そうですね。秋霖氏には、ぜひ栗海会の運営にも携わって頂きたい。なんせ宝刀持ちのお供をしてたのですから」

「いや、この人は」

 須々万が訂正しようとしている内容が読めたので秋霖は言葉をかぶせて言った。

「いえ、全て彼の功績です。ですから、私は再び隠居します」

 それでも食い下がってくる栗海会の人たちをなんとか、丁重にお断りして繁志気を出た。出る前に繁志気で聞き込みをして、ここから白湿とは遠い別の場所に行くならどこかと聞いて、村人たちが口々に、でも同じことを言った方向へと進む。

 紫蘭生と同年代の娘を探すのは難しかった。既に嫁いで家にいるか、名家でまだ実家にいるかだ。農民でまだ実家にいる娘となると、どう考えても貧民か器量が悪いかのどちらかだと言わざるを得なかった。そうなると顔を潰さねばならない。紫蘭生は一見なんの苦労もしたことがなさそうな顔をしている。

 そうすると栗海会に怪しまれかねない。髪が長い分には構わなかった短くすればいいのだから。紫蘭生の髪が短くてよかった。もし髪が長ければ余計に苦労をしただろう。短い髪を長くすることはできないのだから。

 紫蘭生と再会して良かったことといえば、腕や指や爪が硬くなっていたことだった。鍛錬の方法を変えたのか。以前は、土いじりを全くしたことがないお嬢さまのような白くて柔らかい腕をしていたものだったが、見違えるように変わっていた。これで似たような娘を探すことができる。持ち帰るのは首だけでいいが、農民は顔と手足が一致しているものだ。苦労している娘を探し出せば、紫蘭生と見間違えるだろう。

 実際は、年齢を重ねて生意気な餓鬼から生意気な娘になっただけで、紫蘭生の顔は相変わらず苦労知らずに見えた。あんな娘が一人で人相状の人物をぶった切るとは誰も思わないだろう。

 墨で描かれた人相状には、紫蘭生の間抜け具合までは描かれていない。ただただ器量よしの悪女だ。

「薬師をしている者です」

 以前渦督を殺してそのままになっていた荷物を少し拝借して持ってきたのが幸いした。年齢より年老いて見える母親らしき女はその言葉に騙されてすぐに秋霖を家に上げた。村で聞き込みをして年頃の娘が病気で臥せっていると聞いたのだった。

 病気が移ると言われて、村八分にされた一家は村から離れたところに一軒だけ建っている家に移り住んでいた。そのおかげで、夜も待たずに母親を殺して、娘も殺せばおしまいだ。母親の話を聞く限り、滅多に村には行かないと言っていた。家を観察したさいに、大量の麦や薪などを見つけた。買い足したばかりなのだろう。しばらくばれることはないはずだ。

 長い髪を短く切った生首を持って帰れば、トントン拍子に話が進んで解決した。顔が痩せこけていたのが心配だったが、目は閉じているしまつげは長かったから、顔は潰さないでおいた。誰もそれが病で痩せこけた顔だとは思わず、死んだからそう見えるのだと思ったようで、紫蘭生以外の人間だと疑う者は一人もいなかった。

 罪のない母親と娘を殺した。罪にまみれた手だ。後悔はない。そうやって生きてきた。昔から欲しいものは奪って、手に入れてきた。性根は変わらない。秋霖は自分が外道だと自覚している。刀を持つのを止めたのは紫蘭生に飽きて欲しかったからであり、罪の意識に苛まれたとか改心したからというわけではない。しかしそれも失敗に終わった。紫蘭生は紫蘭生の道を行くだろう。秋霖ももうそれを止めはしない。

「あ、旦那」

 奇遇ですねとでも言おうとしたのだろうか、一瞬で弾かれた生首が続きを答えることはなかった。晃才を殺して全てを終わらせた。虫や動物に食われるように死体を引きずって、道ではなく、森の奥へと引きずり込んだ。わざわざ拾って一緒に持ってきた生首も森にぶん投げた。


   継釈一三五年

 紫蘭生が玄菜に行くことはできない。行ったらまた、集団私刑に遭うだけだ。紫蘭生も受け入れる気は無い。今度こそ村を殲滅させ、濡れ衣が事実になるかもしれない。だから仁賀の墓まで行って謝ることはできない。

 秋霖はできるだろうけれど、あの性格では墓まで行って謝っても謝り足りないと言ってそのまま仁賀の墓の前で自決しそうだ。でも、秋霖が墓に行かなかったら、そうはならないと思う。

「どう? おいしい?」

 紫蘭生は少しずつ家事を覚えていった。隠れ森の里の住民はまたおかしそうに、でも嬉しそうに何度も何度も聞き飽きるくらい教えてくれたから、楽しく覚えることができた。

 紫蘭生が差し出した椀を受け取った男は、網を買ってきたあの男だ。

「まあまあだ」

 と言ったが突き返さないあたり、食える味ということだろう。

 紫蘭生はあの後森に戻ってさまよい歩いていると、全てを見透かしていたかのように亡正が現れ、隠れ森の里に戻ることができた。

 口々にいろんなことを聞かれたが、それだけは答えられないというと周りは黙って承知してくれた。

 周りが気を遣って、前のように紫蘭生を囲んで話しかけてこないうちに、幾日が経った。紫蘭生は、家事の手伝いを名乗り出て、最小限の会話だけをして、穏やかに日々は過ぎていった。

 そんなある日、亡正が情報を持って帰ってきた。

「お嬢さん。あんた死んだことになってますぜ」

 大方秋霖の仕業だろう。

 周りは紫蘭生の反応をこわごわと伺った。どういう反応が正しいのかわからなかったのだろう。紫蘭生は周りの視線も気にせず、いつもの調子で

「そう」

 とだけ言った。

「あと、詳細はわからないんですが、晃才って男が行方不明でしてね」

「旅人はみんな行方不明だけどね」

「ええ、ですが、移動経路を辿った先の村でも聞き込みをしましたが、誰も見ていないって言うんですよ」

「そう」

 これも秋霖の仕業だろう。小さく息を吐く。決して交わらない人たちだった。

 宝刀を触らせることを許さなかった仁賀だったが、死んだことであっさり紫蘭生は宝刀を手にした。仁賀が望んだように須々万が運営する鵺の会には入れなかったけれど、武芸者とは道とは何かを知ることができた。

 仁賀がひた隠しにしてきた秋霖とも出会った。こうして紫蘭生が世に出ることを手助けしてくれた。決して交わらない人たちに助けられて補強された道だった。たった一人が歩くだけで、壊れるか壊れないかというほどの、今にも崩れ落ちそうなぼろぼろの道だと思っていたし、それが悪いとも思っていなかったが、全く違っていた。

 一人で歩くことは変わらないが、不格好にも何度も補強された跡が残る道だった。紫蘭生が道を切り開いていけば、次まで歩いて行けるが、それは危うく脆い道だった。それでも歩くつもりだったが、知らず知らずのうちに、いつも誰かが補強してくれた。

「お嬢さんも旦那が欲しい頃じゃないか?」

 そんな話を最近されることが多くなってきた。あの時の話ができないなら未来の話ということでそうなったのだろう。

「隠れ森の里が故郷の子ども? 幸せになれると思っているの?」

 と言うと、みんなが黙った。そういえば考え無しの人たちだった。紫蘭生も含めて。今のは、紫蘭生の失言でもあった。

「考えないこともないけど、今はいいかな」

「そんなこと言っているとあっという間に婆になって誰ももらってくれなくなりますぜ」

「それならそれでいいよ。」

 連中たちが笑う。

「そろそろ外に出ようかな」

「急ですね。でも、亡正は出払っていますよ」

「そうですよ。そんな今すぐ出ていかなくても、旦那の話はしませんから」

「怒って出て行くって言っているんじゃないのよ。大分体も休めたし、そろそろ出ようと思っていたところなの」

 隠れ森の里で怪我を治療するのは苦労した。医者には診せられないし、医者を呼ぶこともできない。だからといって薬を買うには知識がない。そんな時に役に立ったのが連中たちの過去だった。大した生き方をしていないので怪我をしたときは自分でなんとかするのが連中の生き方だった。連中は治療を心得ていたのだった。薬がなくても森には薬草がある。それらをすぐに取ってきて、包帯を巻いてくれた。

「完治してからでも良いんじゃないですか?」

「治りかけで動く方が、気分がいいのよ。早く刀を振りたいし」

 立ち上がって、刀を抜いて何もないところに一振りする。

「でも亡正はいませんよ」

 再び同じ事を言った。

「平気よ。帳に連れて行ってもらうから」

「帳? ああ、そういや、そんな奴いましたね」

 帳の元に行き、事情を話すと快く引き受けてくれた。

「隠れ森の里から、道まで送ればいいんですね。それくらいなら私にもできます」

 布が目に覆われる瞬間に目に焼き付いた連中に向かって手を振った。

 了


 


 

 




 



 

















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泉 けしん @sugunikesu88888

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