第2話

 師弟関係を結んでから1週間、あたしたちの初のレッスンが開講となった。あたしのバッグには、アナリーゼ(注2)の教本と、昔から愛用しているドイツ原典版のベートーベンのソナタ全集(全2巻)のうち第1巻、そしてツェルニー30番教本(これは、中級者向けのテクニックを磨くための本だと思ってもらえれば良い。ハノンと似て非なるもの)が入っている。これだけ入れるとバッグがパンパンになってしまうので、教科書類は計画的に置き勉する。

 指の体操としてツェルニーを選んだのは、ツェルニーという作曲家がベートーベンの弟子だったから、という安易な理由である。実際、ツェルニー30番教本に収録されたそれぞれの楽曲を見てみると、連続する早い三連符や典型的なスケール、オクターブ奏法等、ベートーベンのソナタに頻出する様々なテクニックが集約されているようなので、効率が良い気がした。ツェルニーの教本は簡単な方から100番→30番→40番→50番→60番と進むことが多いのだが、彼がピアノを辞めたときには30番の途中だったと聞いている。

 彼が弾きたい曲は、ピアノソナタ8番、通称「悲愴」。できれば全楽章弾きたいが、まずはいちばん惹かれた第2楽章から弾けるようになりたいとのこと。あの後、初回レッスンが始まる前までにLIN○で彼のピアノ歴について教えてもらった。幼稚園児くらいでピアノを開始し、小学5年生の春に辞めてしまい、そのまま再開しなかったらしい。やめてしまった理由を訊くことはしなかったものの、中学受験に専念するために辞め、そのまま気持ちが続かなかったのかな、と勝手に推測している。

 事前リサーチを済ませ、ひととおり楽譜を準備し、準備万端かというと全くそんなことはない。何が問題かというと、あたし自身が悲愴ソナタ第2楽章を弾いたことがなかったのである。何が難しくて、何が大事で、何をどうすれば美しく聴こえる曲なのか、正直全然頭に入っていないのだ。――こんなタイミングで、「ソナタは第1楽章と第3楽章ばっかり弾く主義」が災いするとは。あたしは、特に子どもの頃はとにかく「カッコいい」曲、すなわち「テンポの速い曲」「難しそうに聴こえる曲」が好きだった。一般に、古典的なソナタ形式の第2楽章は「緩徐楽章」と呼ばれることもあり、比較的ゆったりとした、歌うような、なだらかで落ち着きのある曲想であることが多い。実際、悲愴ソナタ第2楽章も御多分に漏れず、あの穏やかなメロディーで有名だ。テクニックと、聴衆をびっくりさせることに懸けていたピアノ全盛期のあたしはそういう曲に目もくれなかった。ちなみに、悲愴ソナタのうち、第3楽章はやや知名度が劣るものの、個人的にはこれが一番好きである。ロンド形式の軽快な曲想がなんとなくハマった――ただし、あまり「悲愴」感がないな、とは思う。まぁ、あたしの好みはさておき、いずれにせよ第2楽章をここに来て勉強しなければならないというわけだ。

 1時間後に、彼は来る。その間、あたしは好きなようにこの部屋を使って、好きな曲の練習をしていれば良いのだが、ついついレッスン曲が気になってしまう。――ただでさえズブの素人が教えるというのに、譜読みすらしたこともない曲をしたり顔で教えるなんてあたしにはできない。

 ピアノソナタ8番、ハ短調。これが「悲愴ソナタ」の正式名称であるわけだ。♭は4つ、シ・ミ・ラ・レ。4つの黒鍵を弾き、首を傾げる。ハ短調って、黒鍵4つも使ったっけ? あたしは第1・3楽章の楽譜を確認し、納得する。あくまで「ハ短調」と記しているのは第1楽章のことであり、第2楽章は調性(注3)が違うらしい。そうなんだ。ソナタって、全部の楽章が同じ調性なんだと勘違いしていた。♭4つを使用する第2楽章は変イ長調。……ふうん、この歳になって、かなり基礎的なところで学びを得てしまった気がする。

 あたしはゆっくりと、左手から練習する。右手のメロディーはあまりに有名すぎて、流石に耳コピでも弾けるだろ、と高をくくっていたのだ。しかし、数小節弾いて異変に気づく。10度(注4)以上離れた音を、左手の4の薬指と人差し指で同時に弾けと……? ベートーベンの楽譜で流石にそれはないと思い直し、自分の勘違いに気づく。この曲は「メロディー」「内声」「バス」の3パートに分かれているのだが(合唱でいうところのソプラノ・アルト・バスみたいなもの)、内声は左手じゃなくて右手で弾くもののようだ。あたしが持っている原典版の楽譜は、内声を下段に書いているので、つい勘違いをしてしまったのだ。改めて弾き直しながら、ショパンのエチュードop.10-3、通称「別れの曲」によく似てるな、と思うなどした。曲調の穏やかさも似ている、3声なのも似ている……あれ、途中で4声になっている、そしてこんなにも穏やかな曲調なのに、意外と弾き難いところも似ている。

 試行錯誤を繰り返しながら譜読みを進めているうちに、背後の防音扉が音を立てる。音漏れ防止のために、あたしは演奏をやめた。


「お待たせいたしました。――それでは、今日からよろしくお願いいたします」


――――――――――

本日の1曲

ベートーベン ピアノソナタ8番 「悲愴」第2楽章


(注2)

アナリーゼ

楽曲分析のこと。「この曲は○長調だ」とか、「この部分のメロディーがあとで繰り返し出てくるんだ」、「ここはフォルテ(強く弾く)で……」といったこと。


(注3)

調性

「ハ短調」「変イ長調」といった言葉が出てくるが、それのこと。♯や♭の数と対応する。楽曲の雰囲気を決める要素となる。


(注4)

10度

音と音がどのくらい離れているかを表す指標。オクターブ(たとえば、真ん中のドから高いドまでの距離)は8度。10度というのは、真ん中のドから高いミまでの距離。片手の小指と親指で同時に弾くことができる人でさえ少ないのに、人差し指と薬指では到底届かない……

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