提示部

第一主題

第1話

 つまり、今回の合唱祭の総括をするならば「我がA組全体としては1番の出来であったものの、あたしの伴奏が1人で足を引っ張っていた」っつーことでOK? 指揮者の親友と並んで写真を撮りながらも、あたしは笑顔がひきつりそうだった。

 毎年恒例のビッグイベント、クラス対抗合唱祭。あたしのクラスは優勝した。大変よろしい。あたしは、伴奏者賞を取れなかった。よろしくない。

 まあでもね、最初から微塵も期待はしていなかったのよ。あたしが伴奏者賞を取るっていうのは、すなわちC組の村松むらまつ 奏音かのん ――昨年度の全国Jr.ピアニストコンクールっていう、国内最大規模のコンクールで1位~3位無しの4位(注1)を獲った子に勝つってことなんだから。流石に無理だろ。

 正直、ピアノの腕にはまあまあ自信のある方だった。小さなピアノ教室では発表会の度に「一番うまかったよ」と、他人の親御さんに褒められたりもした。コンクール出場歴も……一応ある。まあでもあたしのピアノ歴にはブランクがあるし。世界は広いし、日本でさえ広いけどさ。でも、まさかこの中高一貫校の進学校で、ここまでピアノのうまい奴が入ってくるなんて思わないじゃん……


美織みおりのピアノのお陰だよぉ~」


 そう言いながら号泣してあたしに抱きつく指揮者の親友にそんなことないよ、と返す。C組の伴奏者が村松さんじゃなければ、あたしも今、心置きなく皆と号泣できたのだろうか? それはそれであまりピンと来ない。ピアノで成功したとき、あたしはいつだって1人で喜んできた。基本的に孤独な楽器なのだ、ピアノというものは。


 放課後、あたしは制服のまま、さらには教科書の入ったスクールバッグも全部持ったままへと向かった。


「こんにちは、本日16:30から予約しております、高中たかなか 美織です――」

「はいはい、いつもどうも。あれ? 合唱祭、今日だったんでしょ」

「はい。優勝しました」

「おー、おめでとう」


 軽い調子で応対するのは音楽教室のオーナーさん。


 あたしはよくここでピアノを弾いている。レンタルピアノスタジオといったところだろうか、8畳程度の小さな防音室にグランドピアノが置かれていて、1時間800円(学割適用でこのお値段である)で借りることができる。どうやらレッスンを行うことも可能とのことで、たまにあの小さな部屋から子どもとピアノの先生が一緒に出てくることもある。ちなみにあたしは先生には師事していない。本当はレッスンを受けたいところだし、発表会にも出たい。おそらく親に頼めばそれは叶うのだが、プロを目指すわけでもないのにという思いが頭をもたげる。

 オーナーさんに鍵をもらい、2階に上がる。ここに来るのも馴れたものだ、あたしは手早く鍵を開け、防音室の扉を密閉し、空調を整えると椅子の高さを調節する。そして、あろうことかイヤホンを耳に着けるのだ。音楽を聴いているわけではない。あくまで耳栓の代わりである。狭い部屋に置かれたグランドピアノの音は、壁に何度も反響して、鼓膜を極度に疲弊させる。ピアノの練習をする際にわざわざ耳栓までする人間は、限りなく少ないとは思うが。

 ちょっぴり退屈なハノン(指の体操、ウォーミングアップを目的とした基礎的なピアノ教本だと理解してくれれば良い)を簡単に済ませ、本日の楽譜――ショパンのエチュード集を開く。

 今日の気分はこれだ。


 ショパン 練習曲作品op.10-12。「革命のエチュード」とも呼ばれるこの曲は荒々しく重い感情の渦を表しているようだ。むしゃくしゃしたときに弾くと、なんだかうまく気分が乗って気持ちよく弾けるのだけれど、そういうときに限って左手のアルペジオがコケたりして逆にストレスが溜まるのだ。


「あぁもう、このカス!」


 口汚く自らの左手を罵った後、あたしはミスった部分をピックアップして、何度も繰り返し練習する。そうこうしているうちに、どうして今日はここに来たんだっけ? なんて疑問に思う間もなく、曲の世界に浸っていく。

 なんというか、あたしにとってピアノは「儘ならないもの」というイメージがとても強い。得意なはずの曲であっても、本番に限って上手くいかなかったり、結構頑張っているはずなのに、全然上達しないこともある。もう二度とピアノなんて弾いてやるもんかと思った、たったその3年後に合唱の伴奏をしていたりもする。ピアノは常に、心に訴えかけてくる。特にあたしみたいな、すぐに一時の感情に流されるタイプのお子ちゃまは、常にピアノに振り回され、曲にも振り回され、たまに振り落とされてどうしようかと絶望に暮れたりもする。それでもたぶん、あたしはなんだかんだ言いながらも一生ピアノを弾く人生を送るのだと思う。マジでどうかしている。


 そんなことを考えていたら、なんだか「革命のエチュード」の気分ではなくなってきてしまった。この儘ならない気持ちを表現してくれる作品に、あたしはまだ出会うことができていない。






 翌日。あたしはどういうわけか、C組の男子に呼び出されることとなった。恥ずかしげもなく「高中美織さんっていますかぁ」と大きな声で言い放ったの姿を見て、あたしの友人たちはきゃっきゃと湧いた。


「美織、あんたにもついに春が」

「いいなぁ、青春」

「でも確かに美織ってピアノを弾いてるときだけは美少女感出てたもんね、惚れるの分かるわぁ」


 アホ言え、と吐き捨ててあたしは昼休みの教室を後にした。


 恋愛に興味が無いと言うと嘘になる。でも、それはあくまで「未知なる体験、未知なる感情へのあこがれ」といった傾向が強く、自分の元に訪れることはなぜか想定していなくて、正直、困惑している。高校一年生の冬。共学で過ごしてきたのだから、そんなことのひとつやふたつ、有ったっておかしくはないのだけれども。

 屋上にでも連れていかれるのかしら、それとも貸し切りの生徒会室? あるいは体育館裏……は、タイマンか。そんなことを考えていたあたしの想いとは裏腹に、は廊下の端っこで立ち止まり、あたしの方に向き直った。


「お取込み中ごめんね、すぐに用は終わるので」


 彼は案外、あっさりした風にそういった。――まさか、こんなに人通りの多い廊下で公開告白? ムードもへったくれもないな、と思ったときだった。


「単刀直入に申しますと、俺にピアノを教えてほしいのです」

「あたしに? ピアノを習う?」


 どうかこのとおり、と手を合わせる彼の姿は誠実そうなのだけれども、何というかどうかしている。


「……正直めちゃくちゃびっくりしているのですが」

「あ、もちろんタダでなんて言いません」

「いやむしろあたしみたいなズブの素人に金払ってピアノ習うなんて頭おかしいですって」

「貴重なお時間をいただいてしまうわけですからそれは……」

「えっとね、とりあえずお金を取る気は全くないし、個人的には嫌ではないです。ピアノ好きだしね」


 じゃあ、と瞳を輝かせる彼。やめてくれ、そのキラキラのお目目を。


「プロの先生に習った方がいいんじゃない?」

「プロ?」

「普通のピアノ教室に通ったらいいじゃない」

「でも俺、プロになる気はないからさ……なんだかそれは勿体ないなと思いまして」


 その気持ちはとても良く分かる。


「でも、あたしより上手な素人は腐るほどいますよ。なんならこの学校でも……ほら、村松さんとか。C組の村松奏音さんね、伴奏者賞の。あれ、あなたさっきC組って言ってましたよね、同じクラスじゃないですか!」

「ああ、断られました」

「なるほど、じゃぁ仕方ないか」


 校内で手軽にコンタクトを取ることのできる、わりかしピアノのうまい子に順番に声をかけるという作戦か。あたしが村松さんの次であるという保証はどこにもないが、いずれにせよ順番が回ってきた、と。


「哀れな子羊を救う気持ちでどうかお願いします」

「なんでそんなに切羽詰まってるんですか? 逆に怖いです」

「どうしても弾きたい曲があるんです」

「何? ポップス、それともクラシック? ……はたまたロック」

「クラシックですよ。――ベートーベンです」


 興味が跳ね上がった。


「ベートーベン? ……あたし、正直ちょっと得意」

「助かりますぅ」

「自分が弾くのが得意って言っただけ、まだ教えるって決めたわけじゃないです」


 口先ではそう言いつつも、あたしは内心やる気になってしまっていた。


「俺にピアノを教えてくださるのであれば、さすがにお礼無しと言うわけにはいきません」


 話を聞かないやつだ。


「高中さん、しょっちゅう近所のピアノスタジオに行っているっていうじゃないですか。――あそこでレッスンを行うことにしましょう。たとえば、1週間に1時間のレッスンとします。その場合、2時間枠を予約するんです。1時間はレッスンに使用、残りの1時間は高中さんが個人で練習をするため。その2時間分の代金、全部俺が払います」

「よっ、太っ腹」

「あまりないとは思いますが、2時間のレッスンになった場合は、4時間枠を取って、4時間分の代金を俺が支払う。つまり、教えてくださった時間分だけ、高中さん個人の練習料金を払うってことです」

「さすがに乗るしかないですね、その話!」


 ピアノ1時間800円というのはかなり破格な方だということは分かっているものの、塵も積もればなんとやら。正直その提案はとてもありがたかったのだ。



 こうして、あたしと彼の不思議な師弟関係が始まった。――実をいうと、この話が出たその日、あたしは彼の名前すら知らなかった。そう、そのくらいにあたしたちは他人同士で、交わることのないふたりだったのだ。


――――――――――

本日の1曲

ショパン エチュードop.10-12 「革命のエチュード」



(注1)

「……国内最大規模のコンクールで1位~3位無しの4位(注1)を獲った子に勝つってことなんだから。」

⇒1位から3位が「無し」ってどういうこと? と思った方がいらっしゃるのではないでしょうか。音楽コンクールって、かならずしも相対評価ではないのです。多くの場合、コンクールの参加者は複数の審査員によってその演奏を採点(たとえば100点満点で)されます。そして、審査員の出した点数の平均点を算出、その得点で競うことになるわけですが、上から順番に1位、2位……と決めているわけではなくて、「1位は98点以上」「2位は98点未満、95点以上」「3位は95点未満、93点以上」といったようにあらかじめ基準を設けているケースがとても多いのです。

 そうすると、「全国Jr.ピアニストコンクール」での村松さんは、その年に出場していた誰よりも上手に演奏をすることが出来たものの「1位」や「2位」、「3位」という称号を得るほどの得点はとれなかった、ということになります。

 一方で、高得点をマークした方がたくさんいた場合なんかは「1位が3人」等といったことも生じ得ます。


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