第36話

 嫌な夢を見た。

 顔を顰めながら体を起こす。全身汗びっしょりで気持ち悪かった。

 洗面台に向かい顔を洗った。鏡の中には、死人のような顔色をしている少女が映っている。


 ――なんだか熱が冷めちゃったんだよ。もういいかな、漫画は。

 ――ちょっとした遊びのつもりだったんだけど、絵里が本気にしちゃってさ。まいっちゃうよ。

 ――そういうのは卒業しようかなって。いつまでも遊んでられないから。受験あるし。お姉ちゃんは漫画家目指してるみたいだけどね。

 ――ほんと、まいっちゃうよ。


 桃の台詞が反芻される。あの日のことを夢に見たのだ。

 忘れていたわけじゃない。忘れようと思っていたわけでもない。

 ただここ最近、はしゃぎ過ぎていたのは事実だ。

 私は創作者の卵を潰している――その事実から目を逸らすなと夢から警告を受けたのだろう。そう理解する。


「……調子に乗り過ぎるのはよくないよな……」


 自分に言い聞かせ、食事と準備を済ませて外に出た。

 登校していつもの日常を送る。基本はぼっちで、たまに恋ちゃんが絡んでくれた。

 今日は辻本さんとの最終日だ。気合を入れなくては、と拳に力を入れる。


 休み時間中、辻本さんにメッセージを送ったが、既読のつかないまま放課後となってしまった。待ち合わせ場所の教室前に移動する。辻本さんはなかなか姿を表さなかった。

 どうしたものかと思っていると、知らない女子生徒に声を掛けられた。


「辻本さんなら休んでるよ」

「えっ……」

「無断欠席しているみたい」


 女子が離れていく。たぶん辻本さんのクラスメイトだったのだろう。

 一分の遅刻にも厳しい辻本さんだ。連絡を入れずに休むなんて不自然すぎる。


「何かあったのかな……」


 SNSの通話機能を使うが、案の定、繋がらなかった。

 辻本さんの家に行きたいところだが生憎と場所を知らない。担任教師なら知っているだろうが簡単に教えてくれるとも思えなかった。


「……スマホが壊れているにしても、辻本さんなら家電で掛けるよなぁ……」


 不安が大きくなっていく。自分を落ち着かせるためにロジックを組もうとするが、上手くいかなかった。混乱しているせいかもしれない。


 いてもたってもいられず、職員室に足を運んだ。辻本さんの担任教師を捕まえ、いろいろと質問した。すると、意外な話を聞けた。


「昼頃、母親のスマホに電話を掛けてみたんだ。そうしたら辻本は今朝部屋から出てこなかったそうだ。扉越しに登校すると言っていたから、お母様はそれを信じて家を後にしたらしい」

「じゃあ、家にはいるんですね……」


 先生は優しく微笑んだ。


「心配しなくていい。お母様が家に帰り安否確認は済ませているから」

「そ、そうですか……」


 心の底から安堵する。

 しかし、引っかかるポイントはまだあった。

 職員室を出て再びスマホを見る。やはり辻本さんからの連絡はなかった。既読すらついていない。


 不安が完全に晴れたとは言い難かった。しかし、今の私にできることは何もないだろう。そう自分に言い聞かせ、今日は帰ることにした。


 バスに乗り、いつもの場所で降りる。辻本さんの行きつけの喫茶店の脇を歩いた。その際、店内を眺め、「あっ」と声を漏らした。

 いつぞやの失礼な大学生グループがいた。例の一件があって以来気まずくなったのか、店を利用しなくなっていたが、また来るようになったらしい。

 茶髪の男性の姿はなかった。追放されたのかなと想像する。


「どうでもいいことか……」


 そんな呟きを残して先を急いだ。閑静な住宅街を早足に歩いていく。

 二階建ての我が家を視界に捉えた。門の前に知った人物が立っている。私は足を止め、急いで建物の陰に隠れた。胸に手を置き、改めてその人物の顔を確認する。


「桃……」


 学校帰りらしい。紺色のブレザー姿だった。以前にバス停で見かけた時と変わらない姿で佇んでいる。髪は短く切りそろえられていて肌は日に焼けていた。部活で使うようなボストンバッグを肩に掛けている。

 まだこちらの存在には気づいていないみたいだった。


 心臓が早鐘を打つ。汗が吹き出た。

 なぜ、という疑問と、いよいよこの日が来たか、という妙な納得が同時に浮かんだ。

 逃げるのは簡単だった。夜までどこかに潜伏していれば、いずれいなくなってくれるだろうから。


「……いや――」


 拳を握りしめる。

 脳裏に浮かんだのは恋ちゃんと辻本さんの姿だった。

 彼女達は、もがき苦しみながら執筆に励んでいる。それぞれ目的は異なるが進んでいる方角は一緒だ。未来に向けて走り続けている。


 私はどうだろうか。

 過去を言い訳にして足を止めていなかったか?

 謝っても許されない――そう思うことで、思考停止をしていなかったか?

 自分のしたことの結果を見るのが怖かっただけだろ。

 そう自分に言葉を投げかける。

 私は桃の名前を聞くたびにビクつき、耳を塞ごうとしてきた。

 桃は何も悪くないのに。悪いのは全て私なのに。


「もう逃げない……」


 恋ちゃんと辻本さんに対して掲げた目標を改めて口にする。

 桃からも逃げたくない――初めてそう思えた。

 深呼吸をする。逸る気持ちを抑えつけ、私は建物の影から離れた。


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