2 なぜ彼女はナッツを買ったのか?

 恋愛なんてわずらわしい。誰にもチョコをあげるつもりはない。そう言っていた聖澤さんが、どうしてチョコを買ったのか。


 その驚きから漏れた僕の声は、本人にも届いてしまったらしい。前を歩いていた彼女が、こちらを振り返ってくる。


「ああ、白峰君」


「……偶然だね」


 学校の外で、予期せず顔を合わせたからだろう。聖澤さんは若干とはいえ、気まずいような迷惑がるような表情を浮かべる。それを見て、僕も居心地の悪さを覚えていた。


 かといって、挨拶してすぐに別れるというのも不自然だろう。それに彼女には聞いておきたいことがあった。


「聖澤さんの家って、このあたりなの?」


「ええ。白峰君は?」


「親戚の家に用事があって」


 さんざん盗み聞きをしてきた人間が、こんなことを言っても信じてもらえないかもしれないけれど、聖澤さんの家がこの地域にあるとは本当に知らなかった。知らなかったから、届け物を頼まれた時に渋ったのである。


 とはいえ、これが聞きたかったことというわけではなかった。


「聖澤さんは買い物の帰り?」


 僕はなるべく自然な流れを装って、彼女の持つビニール袋に目をやる。しかし、近くで見てみても結果は変わらない。中にはやはり板チョコが入っていた。


 誰にもあげないと言っていた女子が、チョコを買った理由は何か。普通に考えれば、自分で食べる分を買ったというところだろう。でも、聖澤さんに限っては、それは少し不自然だった。


〝聖ちゃん、もういいの?〟


〝甘いものあまり好きじゃないから〟


〝じゃあ、残り食べちゃうよ? 食べちゃうよ?〟


 以前、中ノ原さんの持ってきたお菓子を食べながらそんな会話をしていた。クッキー程度でもこれなのに、積極的にチョコを買うというのはあまりありそうにない。


 次に考えられるのは、誰にもあげないという発言が嘘だった可能性である。聖澤さんには、本当は好きな男子がいた。でも、気恥ずかしいので、中ノ原さんにもそのことを隠しておきたくて……


 いや、よくよく考え直してみれば、やっぱり聖澤さんが自分で食べるために買ったのかもしれない。チョコを食べることは、必ずしも甘いものを食べることとイコールではないからである。


 ビニール袋の中には、板チョコ以外にもいろいろ入っていた。それもひき肉とか、タマネギとか、手作りチョコの材料とは思えないものばかりだった。


 もしかすると、聖澤さんはキーマカレーでも作る気なんじゃないだろうか。チョコはおそらくその隠し味にするために買ったんだろう。そういえば、インスタントコーヒーも使えると聞いたことがある。らっきょうは付け合わせに違いない。


 そういうことにしておけば、ショックを受けなくて済むだろうに、僕はどうしても事実を確かめずにはいられなかった。


「誰かにチョコあげるの?」


「……ええ」


 聖澤さんはますます気まずいような、迷惑がるような表情をするのだった。


 目を背けていたが、袋の中にはナッツも入っていた。聖澤さんはこれをチョコに混ぜるつもりなんだろう。アボカドだのなんだのは、単についでで買っただけだったのだ。


 ただナッツという単語で、僕は再び以前の二人の会話を思い出していた。


〝聖ちゃん、今日は何読んでるの?〟


〝アントニイ・バークリーの『毒入りチョコレート事件』よ〟


〝私はピーナッツ入りがいいなぁ〟


 今日チョコをねだられた時には、面倒だからと断っていた。でも、聖澤さんはなんだかんだ言いつつ、彼女とよく一緒にいる。あの断り文句も口先だけのことで、本当はあげる気になっていたんじゃないだろうか。


「相手は? 中ノ原さん?」


「いいえ」


 正直に言えば、僕もこの予想は間違いだと薄々勘づいていた。ナッツはナッツでも、聖澤さんが買っていたのはマカダミアナッツだったからである。僕でも覚えていた中ノ原さんの好みを、頭のいい彼女が忘れるはずがないだろう。


「ええと、じゃあクラスの女子?」


「いえ、違うわ」


「よそのクラス?」


「そもそもうちの生徒じゃないわ」


 これで僕も候補からはずれてしまったことになる。望み薄だと頭では分かっていたつもりなのに、落胆せずにはいられなかった。


 しかし、落ち込むのはあとでもできる。それよりも、今は相手がどんな人物なのか突き止めることの方が重要だろう。


「なら、中学の知り合いとか?」


「最近引っ越してきたみたい」


 この聖澤さんの回答は、にわかには信じられなかった。


 クラスで一番の友達と言っていい、中ノ原さんにすらあげないチョコを渡すのである。てっきり幼馴染レベルの、付き合いの長い相手だとばかり思っていたんだけど……


「それなのにチョコをあげるなんて、よっぽど仲がいいんだね」


「よくないわ」


 聖澤さんは食い気味にそう否定してくる。


 珍しく感情的になっているらしい。彼女はさらにブツブツと小声で文句まで漏らしていた。


「ほんと、大吉だいきちはいつもいつも……」



          ◇◇◇



 聖澤さんと別れたあと、僕は近くにある公園のベンチに腰掛けていた。


 座り込まずにはいられないほど、疲れてしまっていたのだ。もちろん、肉体的にではなく精神的に。


 中ノ原さんではないというだけで、相手は結局女子なんじゃないか、と最初は考えていた。ただ単に仲のいい女友達にあげるだけだろう、と。


 しかし、そんな一縷の希望も、聖澤さんの口にした『大吉』という名前で否定されてしまった。いくらキラキラネームだ、ジェンダーレスだといっても、女子に大吉とつける親はそうそういないだろう。九分九厘、相手は男に違いない。


 こうなると、その大吉とやらがどんな人物なのか、俄然がぜん気になってきてしまう。


 恋愛に興味のなさそうな聖澤さんが好きになったくらいである。スポーツができて、頭もよくて、当然顔もいい。そんな女子なら誰でも好感を持つような、ハイスペックな人間なんじゃないだろうか。


 一方で、聖澤さんは大吉に対して、不満を持っているようだった。もちろん、愛情の裏返しとして怒っていたのだろうけれど、そうさせるだけの何かが大吉にはあるんだろう。たとえば、時間にルーズとか、マメに連絡をくれないとか、女遊びが激しいとか……


 僕の心の中では、聖澤さんが幻滅するようなひどい男であってほしいという気持ちが半分、聖澤さんを幸せにしてくれるようないい男であってほしいという気持ちがもう半分だった。こうして公園に来たのには、それを判断するという目的もあったのだ。


〝聖ちゃん、そういえば日曜の用事って何だったの?〟


〝読書だけど〟


〝出かけるって言ってたのに!?〟


〝散歩のついでに公園で読もうと思って〟


〝どっちにしろ昨日じゃなくてもできるじゃんかー〟


 前に、聖澤さんと中ノ原さんがそんな会話をしていた。おそらく、その公園とはここのことだろう。


 そして、聖澤さんの生活圏ということは、当然彼女の知り合いである大吉の生活圏でもあるはずなのだ。ベンチで待っていれば、その内に彼が通りかかるかもしれない。


 しかし、二人の会話を改めて思い出して、僕はあることに気づく。


 中ノ原さんの言う『聖ちゃん』というのは、名字の『聖澤』から取ったあだ名である。聖澤さんの下の名前は、正しくは礼奈れいなといった。聖澤さんと大吉の関係も、これと似たようなものなんじゃないだろうか。


 確認のために、スマホで検索をかけてみる。すると、僕の予想した通りの結果が出た。


 ネットによれば、大吉という名字が存在しているらしいのだ。


 もちろん、聖澤さんの言う大吉が、本当にそういう名字の人物なのかはまだ分からない。それに大吉が名字というところまでは正しくても、性別はやはり男というパターンも考えられる。しかし、それなら同じように、女だというパターンだってありえるだろう。


 聖澤さんがチョコを渡す相手はやはり女子だった。彼女はまだ好きな男子なんていなかった。そういう可能性は否定できな――


「バウアウ!」


「うおおっ」


 思わず叫び声が出た。考え事の最中だったせいで、中年男が公園に犬を連れてきたことに気づかなかったのだ。


 すると、僕の悲鳴に味をしめたらしい。犬は今にも噛んできそうな勢いで、バウバウと激しく吠え立ててくる。


 犬種は知らないが、体は大きいし、顔つきも凶暴そうである。恐怖心でほとんど反射的に僕はベンチから立ち上がる。


「驚かせて悪かったな。こいつ人なつっこくて」


「攻撃的な性格で」の間違いじゃないだろうか。僕は顔をしかめる。


 しかし、飼い主の男はそんな風には全然思っていないらしい。あやすような声で犬を注意していた。


「ダメだろ、大吉」


 念のため、このあとスマホで調べてみたけれど、チョコはもちろんマカダミアナッツも、犬にとっては毒になるらしかった。






(了)

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ナッツ入りチョコレート事件 蟹場たらば @kanibataraba

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