QUEEN + アダム・ランバート 東京ドーム公演 あるいは現代の地霊

幸野樫

QUEEN + アダム・ランバート 東京ドーム公演 あるいは現代の地霊

 二〇二四年二月十三日のQUEEN + アダム・ランバートの東京ドーム公演に行ってきた。

 チケットの高さもあり、少し迷ったのだが、いろいろなことを考えて、人生最初で最後になるかもしれないと、参加を決めた。

 

 中学生の時、ドラマの主題歌に「I was born to love you」が使われてQUEENがリバイバルヒットし、ミーハーな父がベスト盤を買ってきたので、わたしのMDにコピーしてもらって、自室で、特に勉強中などによく聴いていた。

 当時のわたしにとって、小さなMDウォークマンはほとんど唯一の自分のための娯楽機器で、家にあったCDのなかで気に入ったものをMDに焼いてもらっては一人の時間に聴いていた。他にはポルノグラフィティとかスピッツとか椎名林檎とかを聴いていた記憶がある。


 コンサートが始まって、まず驚いたのが、ロジャー・テイラーのドラムプレイの恐るべき力強さだった。深く低い、しかしサスティンの短い簡潔なサウンド。直径数十センチのスネアやタムがなっているとは思えない、重い一音一音。ドームコンサートだから、もちろんマイクとアンプ、スピーカーで増幅されてはいるが、その音が二階席のわたしの足元まで揺らす。

 ドラムの響きが、足元から登ってきてわたしのみぞおちを震わせるのを感じながら、とても自然に、「ああ、ロジャーは大地なんだ」と思った。


 では、甘く柔らかく、しかしやはり深く力強いギターであらゆるメロディを歌い上げるブライアン・メイは?

 迷うことなく、彼は天だ。


 ロジャーは大地、ブライアンは天。そして、アダムはその間を駆け回る若い稲妻。


 そう感じた時、もはやそこにあるのは単なる音楽の演奏ではなく、超人的にこの空間を震わせる彼らの魂が、我々聴衆に分け与えられる祝祭だった。


 そして、彼らの背後には、目に見えないながらもはっきりと、フレディやジョンやデヴィッド・ボウイのやさしくうつくしい影が寄り添い、時折歌声を重ねる。

 「Another One Bites the Dust」が演奏され、そしてベースのニール・フェアクロウがステージの前に進み出て、特徴的なベースラインをかき鳴らすとき、そこには確かにジョン・ディーコンの恐るべきビート感が宿る。シンプルゆえにストイックで緊張感のあるリズムセクションは、間違いなく彼の魂から取り出されたものなのだ。


 QUEENは四人全員が卓越したソングライターで、ジョン以外はシンガーでもあるが、やはりフレディというカリスマの死はバンドの個性に大きな穴を開けてしまったようにずっと感じていた。(と言ってもフレディの死はわたしが生まれる前のことであり、そのような意味ではわたしはQUEENのことなど何も知らないと言える)

 しかし、アダム・ランバートはまた素晴らしいシンガーだった。彼が素晴らしいのは、彼はフレディの代わりなどではまったくないということだ。


 フレディの、パワフルさの中に隠しきれないナイーブな柔らかさのある声とは違って、アダムはまさに稲妻のように輝く硬質な歌声だ。空間を切り裂くように突き抜けて、真っ直ぐに聴衆へと届く恐るべき音圧。そして、圧倒的にゴージャスなそのプレゼンス。

 QUEENという伝説的なグループで、かつてフレディが歌った歌たちを歌う。その時に、過去におもねることなく、臆することなく、しかしQUEENの音楽を深く理解して、決してそれを壊すことなく新しく表現してみせる。そんなことができる人間が、この地球にどれほどいるだろうか?


 そしてまた、ロジャーとブライアンが再びQUEENの音楽を人々に届けようと思った時に、かつてのフレディの音源の使い回しや、自分たちでボーカルパートを分担する、というような選択をせず、若く才能のあるシンガーに自分たちの歌を預けてみようと思った、そのことに心動かされた。

 QUEENは「終わった」グループではない。新しい声が、QUEENを再び突き動かす。そういうメッセージのように思えた。


 音楽的で素晴らしいドラムソロの後で、ロジャーが「Under Pressure」と告げた。

 ロジャーのドラムセットの傍にアダムが歩み寄り、特徴的なイントロが流れる。

 フレディのパートをアダムが、そしてデヴィッド・ボウイのパートをロジャーが歌う。

 それまでも涙ぐんではいたのだが、わたしはもうここでたまらなくなって嗚咽し、号泣した。


 デヴィッド・ボウイもまた、わたしにとっては天使のような人だ。「Under Pressure」は、高く柔らかいフレディの声と、低く厳粛なボウイの声が不思議と溶け合い、虐げられた人々、傷ついた人々、打ちのめされた人々を抱きしめるような、大好きな曲だ。

 ボウイは、最後のアルバムのリリースの二日後に、まるで自分が作り出したうつくしい幻影を演じきったように死んだ。


 フレディもボウイもいない世界で歌われる「Under Pressure」。アダムの声もロジャーの声も、フレディとボウイとはもちろん違うけれど、確かにそこにはフレディとボウイの気配が漂い、ときおり歌声を重ねているようにさえ思える。


 わたしは泣いた。


 もう七十歳を超えるというのに、こうもパワフルなロジャーとブライアンだが、たくさんの別離を経験し、傷ついてきたはずだ。

 人は、失い、傷つき、苦しむことなしに生きていくことはできない。

 それでもブライアンはステージに立ち微笑みながらギターを弾くし、ロジャーの叩く一打一打は迷いがない。

 そのかたわらを、もう会えない人たち、死者、生き別れた者が行き交う。それは亡霊の類ではない。やさしく、うつくしい影。


 ある瞬間、ふっと体が軽くなり、「ああ、今日このあと死んでもいいな」と思った。本当に、水道橋の駅のホームから飛び込まん勢いで思った。でもそれはきっとブライアンが悲しむだろうから、やめておこう、と思いとどまった。

 帰り道で、死なないまでも、今ならどんな悪でもなせるだろうなあと考えていた。不思議な感覚だった。わたしの心と体はあらゆる抑圧から解放されて、何より自分が自分を縛っていた、その枷から解き放たれていたのだろう。


 久しぶりに、夜中に一度も目を覚ますことなく深く深く眠った。泣きすぎて頭痛はするし、右のまぶたが内出血でもしているのか、少し腫れた感じがして痛いけれども、ここ数年で一番心地よい目覚めを迎えた。口内炎も治っていた。


 ロジャーやブライアンを評するのに、「神様」みたいな言葉は不足であるように思う。わたしはもはや神様について、実在的な信仰をもたないからだ。ロジャーは、ブライアンは、確かにそこにずっしりとした存在感をもって実在していた。しかしまた、超人的なパワーを聴衆に見せつけていた。

 実在的かつ超人的な者たち——神・地霊・鬼のようなものへの信仰をもはや失った我々にとって、スーパースターだけが体の底から感情を揺り動かし、また驚嘆や熱狂の対象となりうるものなのかもしれない。人々が地霊とともに生き、畏れ、祈っていた時代のことを思った。


 とにかく、わたしの人生はこの日を境にまったく違ったものになったと言える。

 それは、本物の「We will rock you」の「ドンドンチャッ」をやったことがない人生と、やったことがある人生である。

 わたしはやった側に来た。


 それに、「エーオッ」もやった。ただ、ステージ上に映像として蘇ったフレディは、しかしわたしの声を聴くことはないのだ、ということが、やはり無性に悲しかった。

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