名もない君

鳥望 羚

天龍公国

 皇暦××××年――轟々ゴウゴウと火柱を上げる母屋を前に、呆然と地べたに座り込む少女。彼女の周りにはいくつもの亡骸なきがらが討ち捨てられ、その身体からはぬるい液体が流れでる。まだ暖かいむくろの手を握りながら「お母さん……」と呼びかけても、とうに事切れている女の返事はない。

 あまりにもむごい状況で流す涙も枯れてしまった少女のそばに、勢いの増す炎の赤が反射した人影が近いた。

「待っていて」

「ぇ……?」

「必ず、君を迎えに行くから」

 まだ幼さの残る青年の頬が煤に汚れている。

 紫黒しこく色の衣をまとった彼がもどかしそうな表情のまま、着ていた上衣うわぎを脱いでそっと少女の肩にかけると、手を伸ばして彼女の目元を拭うような仕草をし、そのまま無言で背を向けて暗闇に紛れて行った。

 行かないで、という言葉は音にならないまま急な息苦しさを覚えてもがく。呼吸ができなくなって朦朧もうろうとする意識の中で、少女はあることに気づいた。

 ああそうだ、これは――――


「ッ! は、はぁ……また、夢……」

 葉癒イエ・ユウは息を荒げながら架子牀かししょうの上で目を覚ます。天蓋てんがいから覗く光が随分と寝坊したことを知らせ、慌てて靴を履いて身なりを整えた。



 大陸の中央に位置する【天龍ティエンロン皇国こうこく】。ここは神仙しんせん天龍ティエンロン真君しんくんが山々を切り開き建国した仙人の国である。現皇帝・龍鷹陽ロン・インヤン功徳くどくを300善積んだ地仙ちせんであり、皇后や皇族、後宮にある四夫人たちもまた徳の高い仙人だ。

 宮廷では官吏かんりや女官のほかに、修士しゅうしと呼ばれる仙人の卵たちが部隊を組み、国のために様々な務めを果たし、後宮では皇帝や皇后に妃嬪ひひん、皇族とそれらに仕える宦官かんがんや女官たちが多く生活をしている。

 葉癒イエ・ユウは今年に入廷してすぐ、九嬪きゅうひんのうち正二品しょうにほん修儀しゅうぎの位に選ばれた。修士として与えられた仕事は、本来なら出れるはずのない外廷の、とある官吏の下。

 既にいくつか宮廷の外まで出向いたこともある。もちろん官吏のお付きとしてだが、他の妃嬪に比べてかなり自由のきいた身分であることは明白で――あまり目立たないようにと官吏の住まう棟と、私室を行き来できる扉を設けてもらった。これは仙術を用いた陣法で、法力がなければ通ることができず、また記録した法力以外を弾くことができるため、通れるのは配置した官吏と葉癒イエ・ユウの二人だけである。

「失礼いたします。おはようございます」

「おはよう小癒シャオユウ! よく眠れたか?」

「はい、お陰様で……」

 部屋に入ってすぐ、彼女に声をかけてきたのは宦官の李浩然リ・ハオランだ。この棟の持ち主である官吏の部下で、元は没官ぼっかんで内廷に召されたらしいのだが、主に引き抜かれたのだとか。溌剌はつらつとしていてよく気が利く性格らしい事は、同じ任を受ける上でだいぶ分かってきた。出自のことも軽い調子で話していた事からあまり気にしていないのか、両親との折り合いが悪かったことも相まり今の仕事の方が断然いいと言う始末。

あるじは早朝から兵部の会議に招集されててね。小癒シャオユウはひとまず、先日の郊外調査の報告書を書き上げてもらえるか?」

「はい、承知しました」

 墨を擦り、筆が踊る音だけが響く部屋の中でふと、葉癒イエ・ユウは疑問に思っていたことを口にした。

申赫シェンハさまはどうして兵部に呼ばれたのです?」

「あれ、言ってなかったっけ。修士の部隊は〝一応〟兵部の所属でね、定例会議には必ず呼ばれてるんだ」

 若い官吏だと思っていたが、彼は相当な地位にいるらしい。ただの修士ではないと思っていた葉癒イエ・ユウだったが、想像よりも偉いお人だと気づいた彼女は持っていた筆を落とさぬように筆置きに預けると、浩然ハオランの方を向きもう一度疑問を投げかける。

「上位の方がなぜ、私のような女修士を選んだのですか?」

小癒シャオユウ……その言い方は良くないな。君は自分が思っている以上に優秀な仙人になれる人材だよ? 主が見逃すわけがない」

「そうでしょうか」

「特に君の御剣ぎょけんは俺だってびっくりした!」

 それは、仙術の師が凄い人だからだと、葉癒イエ・ユウは言うのを躊躇ためらった。

「君の家のことは知ってるさ。本当は、俺と同じく没官で後宮女官として働かされるところだったのを、とある仙人さまが引き取って育ててくれたってね。とても幸運なことだと思う」

「はい。宗家こそ潰れたものの、私は恵まれていると思います」

 あそこでの生活は、それこそ浩然ハオランと変わらないと葉癒イエ・ユウは感じていた。

 ――彼女はあの家の本当の娘ではない。赤子の頃に拾われた養子だったのだ。

 幼い頃はそれなりにいい待遇を受けていたが、成長するにつれて宗主からいやらしい視線が向けられていることに、当時の少女は気づいていた。

 あの夜。まだ未熟な少女を、下衆な笑みをたたえた宗主が強引に部屋まで連れ込み、事に及ぼうと衣を剥いだ、その時。天罰が降ったのだと思った。

「君を後宮という閉鎖された場所に献上したのは、きっと仙人さまの善意だと俺は思うなぁ」

「そうだと、いいのですが」

 拭えない腕の感覚に慰めの手を重ねながら、葉癒イエ・ユウは窓の外を見る。すると向こう側が騒がしいことに気づいて、少女は法力を使って聞き耳を立てる事にした。

「親王殿下はどちらか!」

「また何処いずこかれましたか?!」

仙師せんしである殿下がいなければ、此度の軍議はどう終結するのだ?」

「まあまあ。早朝からお呼び立ててお疲れでしょうし、午後からでも間に合いますでしょ」

 会議が終わったのだろうか。ガヤガヤと人が波のように行き交い、宮廷内は途端に騒がしくなる。衣の色を見るにそこそこ位の高い人たちなのだろうが、品格もなく随分と大股で歩く者もいて。近くを通った女官が形容し難い顔で睨んでいたのを、窓越しに見てしまった葉癒イエ・ユウの口元が思わず緩む。

 そんな人波の合間を縫って棟の門をくぐってきた男に気づいた浩然ハオランが、部屋の入り口に立つと寸分違わずきっちり扉を開ける。そこへ滑り込むようにして身を翻した男が、花咲くような微笑みと共に玲瓏れいろうな声を響かせた。

「おはよう然然ランラン、それから阿癒アーユウ。いい天気だね」

「おはようございます主。ご機嫌斜めですね」

「おはようございます申赫シェンハさま」

うん。全く……この僕がいなくてもどうにかなるだろうに」

 牀榻しょうとうに腰掛けた申赫シェンハは、ふうと大きなため息をついてから調息を始める。邪魔をしないように椅子へ座り直した葉癒イエ・ユウを見ながら、浩然ハオランはお茶の用意をするため席を外すのだった。

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名もない君 鳥望 羚 @fsgnaki

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