小説と評論、その間

刻堂元記

またの名を怪文書、あるいは無題

 小説家とは何か。突き詰めて考えると、小説家とはエンタメ術師と言える。なぜか。小説家は求めに応じて、あらゆるストーリーを作り出す。ラブ、ホラー、ファンタジー。白く真っ新な場所の上に表現されたテキストは、解釈などという厄介な概念を通じて、バラエティ豊かな感情を、読者たる存在に想起させる。


 それは偶然湧き出たものでは無い。読者たる存在が、自らの経験と価値観を、ストーリーの中に没入させて完成する、2つとない産物。ゆえに小説家は、あらゆるジレンマを抱えながら、心動かすストーリーを生み出そうと躍起になるのだ。


 しかし、その理想は小説家を大いに、苦しませる。妥協なき遂行を繰り返すあまり、掲げた目標が達成されず、さらに自己を追い詰めるからだ。そして小説家は、そのスパイラルに陥り、やがては精神さえも破壊する。


 なんという恐ろしい書き出しなんだろう。不安にさせる内容が、延々としばらく続いている。頭が痛くなりそうだ。


 ゆえに小説家はその思いに勝手に囚われ、頭をひどく痛める。すぐには終わらない。気にしまいとする意識が、神経をすり減らし、身体全体を疲弊させる。考えず、他を楽しむ。それが処方箋というのに、実行は一部でしかされない。


 そこに依存し、のめり込む小説家ほど、回復は遅れる。見えない鎖。無限のドラッグ。重圧と中毒こそが、自由を蝕む犯人的要素。


 不自由なる小説家がそれを考える。普通でない以上、異常に気づけない。侵食された思考がある限り、異常は影のようにどこまでも付きまとう。その深追い模様は、文字への拘りを示す小説家の執念と、非常によく似る。切ろうとも切り離せない、運命と言う名の呼称表現。


 それゆえに、これと出会ったのもまた運命かもしれない。


 と思うのであれば、やはり小説家。それに近い存在と呼ぶもいい。文字を進める間、その期間だけ役割は、はっきり明確に分かれる。書き進める小説家、読み進める読者。ケース変われば、小説家も書く存在から、読む存在へと流れる。


 小説家、読者。重なる2つの役割は、時に混乱の渦へと落とす。その犠牲は常に、小説を書き、読者ともなる熱心な小説家。ストーリーを絵の輪郭の如く表現するたび、その疑問は狂気となって頭の中で芽を生やす。


 お前は誰だ。私は小説家。私は読者。矛盾の無い2つの役割を、変えろ変えろと頭が騒ぎ、手が動く。小説家の頭はストーリーを考える最中、とてもうるさい。


 煩いが、小説が表す煩さは他にもある。


 その原因として挙げる対象は、大抵一致する。キャラクターである。テキストの主要部分を占めるキャラクターの台詞は読み込むほどに、確かな再現性を以て、頭の中で再生され、その声は煩わしく思うほど、記憶の片隅に寄生する。そうして強く結びついた記憶は、忘却を乗り越え悪夢となって、小説家を怖がらす。


 フラッシュバック。トラウマ。その他多くが、睡眠を阻害し、かつての嫌な記憶も一緒に掘り起こし得る。記憶の土壌はあまりに浅い。


 不要なものは忘れて、そのままにする。それが出来ないのは、小説家ならではの記憶構造か。それに近い存在も同じならば、全体的且つ共通の脳内設計。と、こう結論付けるのが定石となる。


 しかし小説家は、定石を崩すのが得意な言葉の魔術師。


 そうであるが故、小説家は仮のシミュレーションを駆使して、存在の無いルールを作る。それを元にストーリーを書き起こす。当然、記憶の絶対忘却もテキスト上は可能と、小説家によって修正される。


 このルールは、小説家にも適用されるのか。小説家自身、あまり考えない。にも関わらず、小説家は容易に自身の存在を、ストーリーから消す。びっくりするほどミステリー。だがミステリーは、犯罪という逸脱を伴い、課題をクリアする。


 そこで小説家は、ある前提を読者に理解させる。逸脱行為の明示。犯罪という名のレッテル貼り定義。特殊な状況はこれを任意ではなく、必須として扱う。犯罪ミステリー。これはテキストに乗せられた架空ストーリー。その認識があり初めて、犯罪はストーリーの中でのみ許される。


 では現実は。戦争という事象が、線引きを曖昧にさせる。


 しかし戦争は、非常時という名目により、多くが犠牲と我慢を強いられる。一部のエゴで始まる対立が、戦火を散らし、国全体を巻き込むからだ。


 そうなるからか。あるいは元からか。戦争という言い訳を後ろ盾に、一部が殺し、一部が性的虐待を繰り返す。冷酷無比な大衆非難。無力な子ども。それらを前にして、留まることを知らない逸脱者がなんと多いのか。


 だが、小説家は犯罪の描写を止めない。むしろ書くことで、自制する。その自制という響きの素晴らしさ。その理由があり、社会は言葉の自由を保証する。自己を律し、他を抑制する。言葉の波に吞まれる小説家の務めである。


 だが言葉は変遷し、時に廃れもする。


 それがあって、小説家は読書に励み、辞書を持つ。小説家は、言葉の変化に強い関心があるのだ。辞書では足りず、業界用語や方言を追いかける存在もいる。


 しかし、それほど熱心な言葉収集も、外には発揮されない。母語。小説家は生まれ育った生活圏をベースに、生活する。したがい、小説家特有の言葉収集は、接点の無い外国言語にまで広がらず、国内言語のみとなる。


 そして読者はよく、小説家をアプリに例える。記憶容量の有限性、定期的な情報上書き、全体拡充。それら全ては丸ごと、小説家の言葉収集に置き換われる。


 ひっくり返してみる。


 すると、新たな例が誕生する。実に面白い。言葉遊びのような高度なテクニックは、このようにして作られるのである。


 だというのに小説家は、どれだけかけてもワードコンボの辞書を作らない。いや、作れないのか。ワードコンボの魅力は、リズムとコントラスト。その両立無くして響かせることはおろか、刻みつけることさえ出来ない。


 何が言いたい。ワードコンボとは、読者を動かす力の源泉。つまりはそこに、読者という存在が必要になる。読者に響かせ、読者に刻みつける。もはやホラー。正気の沙汰とは思えない。足りないのは何か。心のスパイスか何か。読者のハートにリズムを響かせ、コントラストとして刻まれるのは、読者の感情そのものだ。


 ならば小説家はある意味で。


 そして小説家は別の意味で、言葉の料理人とも言う。与えられた白紙の上に、自由な形で命を吹き込む。課題の無い創作料理。スパイスは文章。隠し味も文章。誰もが扱う文字に、表現に、オーダーメイドでフレーバー仕込む職人芸。


 完成品は料理と違い、何時までも当時の仕上がりを保持する。腐ることも、質の低下もない。変わるのは、読者の感じ方それひとつ。


 経験。価値観。人生の歩み。生き方違えば、出てくる答えも千差万別、ひとつにあらず。面白さという曖昧レッテルは、時代とともに変化する。古きは剥がされ、新たなレッテルがその身を晒す。見ただけでは分からない脱皮前後のように、オニオンの皮のように、幾つものレッテルが読者的存在の無意識下で生成される。

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