ありふれた異世界で、ありふれたハッピーエンドを君に
迷迭香
Prologue to Epilogue
「シン……ありがとう」
小さく、溢れるような吐息に、ありったけの感謝を乗せた少女——シャルティーナの最期の言葉と共に、シンと呼ばれた黒髪の青年の肩にもたれかかっていた彼女の頭が、膝に滑り落ち、エルフ特有の艶やかな金色の髪がフワリと空中を踊った。
「……おやすみ、シャル」
それを自らの膝で優しく受け止め、必然的に膝枕をする形になったシンは、子供を寝かしつける親のように、優しくその髪を撫でる。
「……また、ダメだった……くそッ!!」
しかし、次第に暖かく見守っていたその表情は悔しさに歪んでいき、少女を撫でていた手が緩やかに動きを止めていく。
瞳に涙を滲ませ、反対の手でギュッと砂を掴むが、それはやがて薄れていくシンの手をすり抜けていった。
(あぁ、時間か……)
数えること都度10度目の感覚に襲われてシンはただ空を仰ぐ。しかし空には少し雲がかかった満月が夜の闇を細やかに照らしているのみだった。
(まったく、何回見ても無駄に綺麗だな……ちくしょう……)
何度体験してもこの瞬間の虚しさには慣れない。この夜空をいつか彼女と一緒に見たいと願うシンは、徐々に形を失い空間に溶けていく自らの身体よりも、この場に彼女を置いていってしまうことを嘆いた。
「————シャル、俺は」
眼下の穏やかな表情で永遠の微睡みに沈む少女を見つめ、最後に誓いを絞り出す。
「————今度こそ、お前を守る」
次の瞬間、シンの肉体が空に消え、少女の亡骸だけがそこに残された。
————————————————————
シンが目を覚ますと、どこまでも真っ白な空間に立っていた。
彼の前には、1つの鍵付きの扉とミニテーブルに置かれた1本の小さな金色の鍵がある。
彼が「ホワイトルーム」と呼ぶこの空間にくるのも、10度目となった。
「今回の方法もダメ……次は、次は……」
シンは次の方策を練り、来る11周目に備える。
彼が戻るのは、あの最後の瞬間から5年前。シンがこの世界に送られてから初めて目を覚ました瞬間だ。
彼は、この5年間を繰り返し続けている。目覚めた世界で勇者パーティの一員となり、3人の仲間たちとおよそ4年半にわたる大冒険を繰り広げ、その果てに2人の仲間を失い、残った最愛の少女もその半年後に失う。そしてその瞬間、自らの意思とは無関係にこのホワイトルームへ戻され、新しい力を1つ授かりまた始まりへ戻る。
10度繰り返しても変わる兆しのない未来に抗うために、彼はこの小さな円環の中を彷徨う。
「次は……次、は……ッ!」
涙を堪えながら次の策を練ろうにも、別のことに思考を奪われる。
思い返すのは、始まりの世界。まだこのループを知らなかった頃の記憶。
初めて仲間達と、シャルティーナと絆を紡いだあの5年間の記憶だった。
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忘れもしない、初めての異世界、初めての命のやり取りの最中にその瞬間は訪れた。
「ほう、タイラントベアを相手に1人で渡り合うか」
声が、戦場のひりつくような緊迫感を切り裂いた。
反射的にそちらに視線を——送る前に、目の前の4mはあろう巨熊が横一閃に斬り裂かれ、その首が落ちる。
力なく倒れる熊の亡骸の向こうに、銀色の光が立っている。否、それは光ではなく青年だ。
風に揺れる短い銀色の髪に、激しく燃え盛る爆炎を凝縮した瞳を持ち、いっそ暴力的なまでに整った容姿の青年は、胴と手足につけた鎧を微かに鳴らし、剣に残った血を一振りして払うとこちらに歩み寄り、爽やかに微笑みかける。
「君、すごいね。怪我はないかな?」
「——あ、あぁ。助かりました……ありがとう、ございます」
その存在感に、シンは思わず一瞬返事を忘れた。
最初こそ、神に特別な力を与えられてこの世界に降り立ち、自分こそ勇者なのではと淡い妄想に浸っていたが、この青年を前にした途端にそんなものは傲慢な幻想だと嫌でも魂が理解した。
目の前の青年は存在の格が違う、世界が彼を中心に動いているのではないかと錯覚すら覚えた。
「それはよかった。僕はユーシャ。ユーシャ・ブレイヴハート。人々からは勇者と呼ばれている。君の名前を聞いてもいいかな?」
「えっと、俺はシンって言います」
いきなりの距離感にたじろぎながら、シンは握手に応じる。
「そうか、シン。早速で悪いんだが、率直に聞くよ。私と共に魔王を倒す気はないか?」
もしここに女の子がいたなら、100人中100人が惚れてしまいそうな優しい笑顔でこちらに手を差し出し、物騒な口説き文句で誘ってくる。
しかし、そんなどこかキザなところも嫌味は一切なく、素直にカッコいいと思えてしまう。
その手を掴んだ瞬間から、シンの運命は定まった。
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その後、シンはユーシャに連れられ勇者パーティのメンバーと顔合わせすることになった。
「2人とも、ついに見つけたぞ! 彼が最後の1人だ!」
「この度、
少し興奮気味なユーシャに気圧されながら、簡潔に自己紹介を済ませる。
前方の2人からはパチパチと細やかながら温かい歓迎を受けたことが彼を少し安心させた。
「ようやくこれで本格的な旅が始められますね。私はマハト・ガブリエル、この国で神父兼癒術師をしています」
「ハッハッハ」と小気味よく笑うのは初老というには些か早い、一目で聖職者だとわかる上品な衣を身に纏ったおよそ40〜50代相当の白髪の男、マハトだ。
少しずつシワが入り始めた顔に慈愛に満ちた表情を浮かべ、その目を細めて父親が子供に向けるような、温かい眼差しをシンに送る。
「私はシャルティーナ! シャルティーナ・ヴァレンライト! 中衛を担当してるの。困ったことがあったらいつでも相談してね!」
対するもう1人の仲間、シャルティーナは一言で言えば、とても美しい少女だった。
腰まで伸びた金色の髪と、長い耳が特徴的で、日本人が思い浮かべるエルフ像を体現したような容姿だ。
その面差しにどこか幼さを残しながら朗らかに笑う彼女の姿は、真夏に咲き誇る向日葵を彷彿とさせる。
民族衣装だろう緑色を基調とした動きやすさを重視した服は、肩こそ出しているが、しかし露出が激しいわけでもなく、彼女の左耳より少し高い位置に止まる蝶の髪留めも、彼女という美しい華の添え物でしかない。
思わず見惚れそうになるシンを他所に「よろしく!」とシャルティーナはぴょこっとシンの前まで駆け寄ると、笑顔でシンの手を取って握手。
「さて、頼もしい仲間が揃ったところで。今日は歓迎会だ!」
「もう、ユーシャはそう言って事あるごとにお祝いしたがるよね」
「まぁまぁ、いいではありませんか。日々何かを祝えるのは喜ばしいことですよ」
この一連の出来事は、体感で50年以上経ってしまった今でも鮮明に覚えている。まだ冒険に心躍らせていたあの頃、愉快な仲間とみんなで悪い魔王を撃ち破ろうと、そんな子供みたいな約束を本気で交わした。
シンにとって、数少ない輝かしい思い出の断片だ。何度やり直すことになろうと、この時の誓いが、シャルティーナのあの笑顔が、シンに諦めることを許さない。
だから——
「……行かないと」
——シンは、また鍵を開けるのだ。
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人類最強と謳われる勇者ユーシャ・ブレイヴハートの死が訪れるのは、いつだって魔王軍総出での奇襲戦によるものだ。
魔境と呼ばれる境界を超えた先、どこまでも広がるなだらかな平原で、両陣営は向かい合っていた。
「待ち侘びたぞ、ユーシャ・ブレイヴハート」
一際異彩を放ち、空からこちらを見下ろす黒衣の魔人は、魔王軍【元帥】ファンクションだ。
彼が引き連れる総数10万を超える軍勢に四方八方を囲まれながらも、ユーシャは臆することなく剣を構える。
しかし、シンだけは知っている。この後に待ち受ける結末を。
「ぐっ……ガハっ……!!」
マハトが聖典の魔法を魔力の許す限り惜しみなく使って、仲間達を幾度となく死の淵から掬い上げ、シャルティーナが秘伝とされる精霊術の秘奥義で敵の布陣に風穴を開け続け、シンが神に与えられた力の数々で仲間達を強化支援、ユーシャが物理法則から逸脱した機動力から放たれる渾身の一撃を幹部たちに叩き込み一体ずつ確実に屠っていく。
しかし拮抗状態にあった激戦は、パーティの要であったマハトの死によって、一気に不利に傾いた。
魔王軍の幹部たち全員を相手取り、絶えず死闘を繰り広げていたユーシャは、回復が届かなくなったことで徐々に消耗し、ついには魔王軍【元帥】ファンクションの放った魔法に、心臓をアーマーごと貫かれ、口から大量の血を吐き出す。
そこからのユーシャの行動は、とても迅速で実に合理的なものだった。
「ガフッ、ハァハァ……シィィィィン!!」
ユーシャが最期に血に濡れた声でシンの名を叫び、何かを投げ渡した。
シンはそれの正体も、その意図も正確に理解している。だから、迷うことは許されない。
「
シンはそれを受け取った瞬間に、シャルティーナの方へ駆け出す。否、空間を跳躍したと言った方が近い。
10回目に授けられたこの力は、視界内ならどこへでも瞬時に移動できるというものだ。
「シャルっ! この手を掴め!」
シンは傷だらけになり、肩で息をしながら尚も剣を振るい続けるシャルティーナに手を差し出す。
「シン!? ……わかった!!!」
シャルティーナはその突然の要請に対し、一瞬の驚愕の後、理解、納得、疑問などあらゆる思考を置き去りにし、仲間への信頼でそれに応えた。
シンがユーシャから受け取ったのは、思い浮かべた場所まで使用者と使用者に直接触れている者を送り届ける転移結晶だ。
シャルティーナがシンの手を掴んだ瞬間、シンは転移結晶を剣の柄に思いきり叩きつけて砕く。
すぐに2人の体が量子にまで分解され、その場から消え失せた——
——そこは魔境から遥か遠い森の最奥。
突如空間が揺れ、ブォンという鈍い音と共にシンとシャルティーナが出現した。
「……今の、転移、結晶……? それにここって……」
理解が追いついていないシャルティーナは、息を整えながらあたりを見回す。
そこは高く生い茂る木々の中央に聳える一本の大樹が目立つ、半径25m程度の広場だった。
エルフの隠れ里ともまた違った秘境中の秘境であり、シンの用意していた切り札の一つである避難拠点だ。
「あぁ、ここは大密林の最奥にある古い隠れ家。もしもの時のために用意してた俺の秘密基地みたいなものだ」
「尤も、今回ここに来るのは初めてだが」という補足は飲み込んだ。
「シンってば、すごいね……こんな場所まで……」
「
正確には過去の周回で得た知識によるものだが。
ひとまずシンは、大樹の根元まで歩いて行き、人間が通れるほど大きな木のうろに取り付けられた木製の扉を開け、初めて訪れた隠し拠点の中へ久しぶりに足を踏み入れる。
(相変わらず埃っぽいな……)
中はもう何十年も使われておらず、辺り一面灰色の雪に覆われていた。
仕方ないので、シンは風魔法を掃除機のように使い、かき集めたその塊を外へ運び出すと火炎魔法で焼き払った。
その後、5分程度魔法や権能を駆使して掃除を行い、ひとまず部屋の中をある程度清潔な状態まで戻したシンはシャルティーナに声をかける。
「入ってくれ」
案内されるままにシャルティーナが部屋に入ると、その中は4-5人は共同で暮らせるほど、広々とした空間に、大テーブル、4人分の椅子、広々とした厨房、そして半螺旋状に上階のテラスへ続く階段の先に5つの扉が設置されたツリーハウスが広がっていた。
「……うっそ」
シャルティーナは、その光景に呆気に取られていた。
思えば、彼女とここに逃げ込むのは初めてだ。今までは「
「ここなら奴らの危険もない。傷の回復に専念できるはずだ」
「……うん、ありがとう」
ひとまず傷口を止血、消毒し、包帯を巻き終えて一息つく。
沈みかけていた太陽もすっかり顔を隠し、気がつけば月明かりが森を照らしていた。
席について、温かい飲み物で一息ついたところで、ついにシャルティーナが切り出した。
「ふぅ……それじゃあ、ユーシャのこと、聞かせてくれる?」
マハトの名前を出さないのは、シャルティーナも彼の結末をわかっているからだ。
そして、おそらくユーシャのこともおおよそ察しはついている。
「あぁ、ユーシャは——」
シンは、ゆっくりとあの時、彼の身に起きたことを話した。
シャルティーナは時々頷きながら聞き、決して長くないその話を聞き終えると、とうに空になったカップをもう一度だけ傾けてゆっくりと息を吐き出す。
「そっか……ありがとう」
「……やっぱり、シャルは強いな」
「そんなことないよ。ただ、もしかしたらそうなる時が来るかもって覚悟してただけだもん」
そんなシャルティーナを見て、シンは内心、やはりシャルティーナの強さを再確認する。
シンとて、悲しくないわけではない。まだループの存在を知らず、初めて仲間を失った時は情けなくも戦場で取り乱し、ユーシャに転移結晶で1人だけ逃されたりもした。今だって、知っていたから耐えられているだけだ。
しかし、目の前の少女は今まで仲間の最期を前にして、一度としてシンの前で涙を流してこなかった。シンはその変わらない強さに敬意を払うと同時に、最期の最期まで誠実で誇り高かったユーシャとマハトを偲ぶ。
マハトは何度繰り返しても、変わらず自分の回復より他の3人への支援を優先し続けたし、ユーシャは一度として保身に走って逃げ出したり、弱気になったりしなかった。
シンと共に冒険した仲間たちは誰も彼も強く、気高く、凛々しく、高潔だ。
「ごめんね、ちょっと1人にさせてほしいな……」
「あぁ。2階の手前の部屋以外は全部個室になってる。好きなところを使ってくれ」
「うん、ありがとう。おやすみね」
だからこそ、シンはシャルティーナの声が微かに震えていたことは、今回も気づかないフリをするのだ。
シャルティーナが1番奥の部屋に入り、シンも1人になったところで、シンは物思いに耽る。
(今回も目立った変化を起こせなかった。シャルは、おそらくあと半年で死ぬ……でも、何が原因なんだっ……!!)
前回、前々回とシンは既に7度にわたってシャルティーナを看取っているが、その死因の特定には未だ至っていない。
あの傷が後遺症になるのかと考えたこともあったが、それは検討外れだった。
かと言って、外部からの新たな要因も考え難い、前回などは、逃亡した後は2人で隠居して、戦闘なども極力避けて生活していた。
にも関わらず、シャルティーナは半年後にシンの目の前で命を落とした。
この繰り返されるループの中で、シンに立ち塞がる壁の一つが、シャルティーナの死因なのだ。
これを解き明かさないことには、仮にユーシャとマハトを守り通し、あの奇襲戦を超え、魔王すら倒せたとしても彼女を失ってしまう可能性が高い。
(思いつく要因は、前回まででおおよそ潰した。あとはシャル自身に原因があるとしか考えられない……だが、彼女に自殺癖があるとも思えない。くそっ、また行き止まりだ!)
背もたれに寄りかかって椅子を傾けながら思考するが、一向に進展の兆しが見えない。
そして、考えすぎるあまり椅子を傾けすぎて、ついに後ろに椅子ごと思い切り倒れ込んでしまった。
「あったたた……久しぶりに頭うった……あら?」
とその時、彼女がいつも肌身離さず身に付けていた蝶形の髪飾りが机の下に落ちているのを発見した。
もう5周以上前の出来事だが、あれは彼女にとって亡くした姉の形見だと聞いたことがある。
(どうしよう、大事なものだろうけど今は1人がいいだろうし……明日渡すか?)
きっと今頃、彼女は枕を濡らしているだろうと察し、髪飾りは翌朝渡すことにして、シンも今日は眠りについた。
——翌朝。
「シャル、起きてるか?」
コンコンとノックをするが、反応がない。まだ寝ている可能性も考慮し、朝食を作ってから出直すことにした。
「さーて、それじゃ腕によりをかけて作りますか〜」
いつまでも暗い気持ちでいても仕方ない。シンは、2度目のやり直しで授かった権能「
(
人や生き物は入れられないが、無機物や死んだ動物くらいならいくらでも入れられる、彼が勇者パーティの
「ふふん〜ふふふん〜♪ っと完成だ!」
鼻歌混じりに食材を切って順番に鍋に入れ、下味をつけて弱火から中火で煮込むことおよそ20分。
ついにスープが完成した。あとはこれに、「
ちょうど日も登り、いい時間になったところで、満を持してシャルティーナを起こしに行く。
「シャル? 起きてるか? ご飯できたぞ」
再びノックをするも返答はない。
「まだ寝てるのか? ……入るぞ?」
最後にもう一声だけかけて扉を開ける。
扉を開けると、いきなり中から焦ったような声が聞こえてきた。
「えっ、待って! ちょっと待ってってば!」
(そういえばこの扉、弱防音効果付いてるの忘れてたな。そりゃ声なんて聞こえないわけだ)
しかし、それに気づいたとて、反射的に扉を開ける手を止めることは難しい。
既にそう考え終わることには扉は完全に開いてしまっていた。
かつて、意図せずに彼女の着替えを覗いてしまい、こっぴどく怒られたこともあったが、その時は誠心誠意謝ってなんとか許してもらえたことだし、もしそうだったなら、今回もちゃんと謝って許してもらおう。と思ったところで、シンの思考は全て奪われてしまった。
「待ってって言ったのに! シンのえっち!!」
部屋の中には着替え途中で下着姿のシャルティーナがいた。
その直後、可愛らしい悲鳴と共にシャルティーナが手近な小物を投げつけてきたが、仮にも勇者パーティの一員であるシンに今更そんな攻撃は通用しない。
それを意にも介さず、シンは室内へ一歩足を踏み入れ、足早にシャルティーナへ詰め寄る。
「え、ちょっとなになに!? そこは「ごめん!」って言って出ていくとこでしょ!?」
「…………」
そんな戸惑い混じりのシャルティーナの声に応えることなく、シンは歩みを進める。
「ねぇまって、シン、怖いよ? シン、お願いだから外に……」
後退り、反射的に脱いだ衣服で体を隠して戸惑うシャルティーナの目の前まで来たシンが、その細い腕を掴む。
「シャル……」
「シン……」
観念したのか、悲しげにシャルティーナがシンから視線を逸らす。
シンは、掴んだ手に力が入りそうになるのを必死で堪えながら、次の言葉を絞り出した。
「いったい、なにがあったんだ……」
体を覆い隠していた両手を退けて見ると、シャルティーナの服の内側に隠されていた輝くばかりに透き通るほど白かった肌には、無数の傷跡……のみならず、夥しい数の皺と染みが刻みこまれ、胸部から腹部にかけてはすっかり痩せこけて骨が浮き出てしまっている。
かつてチラとだけ目にした、記憶の中の彼女の美しかった肢体は見る影もなく、その身体は傍目から見ても死相が見え、エルフとしてはまだまだ若く、真夏の向日葵よりも強く美しく咲き誇っていた筈の彼女は、死を待つばかりの老人のように干からびて萎れてしまっていた。
「あはは……シンに着替えを覗かれるのは二回目だね……」
苦笑いで誤魔化そうとするシャルティーナ、しかし今は思い出に浸る時ではない。
「シャル、答えろ。これは一体どういうことだ」
「わかった、全部話すよ……だから、着替えさせて?」
「あ、あぁすまん」
急いで手を離すと、先ほどまでの剣幕はどこへやら、足早に部屋を出て扉を閉めた。
1分ほどすると、内側から扉が開く音が聞こえ、中からシャルティーナが姿を現した。
いつもの民族衣装に身を包み、先ほどまでの悲惨な姿は綺麗に隠されている。
「まずは、飯でも食おう。それからゆっくり話を聞かせてくれ。俺たちに与えられた時間は長くないが、そのくらいの時間なら、まだまだあるんだ」
冷めかけてしまったスープをもう一度温め直して、2人で朝食を取る。
シンもシャルティーナも何も言わず、ただ静かな空間に食器とパンを千切る音だけが響く。
「「ご馳走様でした」」
「そういえばシャル、これを」
シンは、懐から髪飾りを取り出してシャルティーナの差し出す。
「あ、それ……無くしたと思ってたんだけど、シンが拾ってくれてたんだね。ありがとう」
決していつもほど明るくはないが、暗く沈んでもいない様子で髪飾りを受け取ったシャルティーナは、それをいつもと同じ左耳の上に付ける。
「……それじゃ、聞かせてくれるか?」
「うん……私の体がこうなっちゃったのはね、昨日の戦いで私が使った秘奥義のせいなの。私たちエルフに伝わる、精霊術の効果を爆発的に引き上げる秘奥義。それを使って、私はシン達と一緒に戦った」
「まさか……それの代償だっていうのか!? あのたかだか数時間の戦いで、こんな……」
無意識に語気が強くなり、声を荒げてしまったシンをシャルティーナは何処か優しい目で見つめ、心なしか少しだけ表情を明るくして話を続ける。
「うん。具体的には「自身の命が持つ未来の可能性と爆発力を丸々精霊術に注ぎ込む」それが『命転秘奥・スピリットサクリファイス』なの。知ってる? 生命の持つ爆発力って凄まじいんだよ?」
まるで弟に物事を教える姉のような慈愛に溢れた声で語って聞かせるシャルティーナ。
しかし、シンの心中は穏やかではない。表情が強張り、自然と声が低くなってしまう。
「……どのくらいだ? 何年、使った?」
「……私の寿命のほぼ全て。最初はセーブしてたんだけど、大事な仲間がやられそうなのに、出し惜しみなんてできないでしょ?」
「ほんとは最後まで隠しておくつもりだったんだけどね」と切なげな表情で微笑むシャルティーナに、シンは何も言えず、ただ拳を握りしめた。
(ようやく合点がいった。今までもシャルはこれを……!)
悔しさで食いしばった奥歯がギリギリと軋む。
「あ、ほら。まずはお片付けしないと! それから今後のことも話さないとだからさ! ほら……ね? せめて最後まで、シンの力にならせて……」
シャルティーナが立ち上がり、小走りで机の反対まで回ってシンの手を取るが、徐々にか細く消え入るような声になり、最後にはシンの胸に顔を埋めて懇願する。
「……わかった」
シンは優しくシャルティーナを抱きしめ、一言だけ言葉を返す。やがて、自然とその体が離れた。
そして太陽が木々の真上に上がった頃、いつもの雰囲気を取り戻した2人は、使い終わった食器を片付けて今後の方針会議に移る。
「さて、まず最初に言っておかないといけないことがある。こうなってしまった以上、残された時間で当初の目的である魔王討伐は不可能だ」
「……うん。残念だけど、しょうがないよね」
それにはシャルティーナも異論はない様子で、少し悔しそうな声で賛同した。
「だから、残った時間はここでシャルの安静を第一に、一緒に暮らしながら武具の製作に当てようと思うんだ。どうかな?」
「そうだね、それが一番だと思うよ。それじゃあ少しの間だけど、2人での共同生活だね! なんだか新婚夫婦みたいでドキドキしちゃう」
「新婚夫婦……か。ふふっ、そうだな」
思わぬシャルティーナの言葉に「いつか本当にそうなれたらいいな」という願いを抱きながら、2人の新生活がスタートした。
と言ってもやることはあまり変わらない。
「
人っ子1人寄り付かない大密林の最奥はとても穏やかなもので、それまでの騒乱の日々からは想像できないほど優しい時間だけが流れていった。
そして
「————できた!! 完成だ!!」
日も沈みかけた午後、ついに出来上がった剣を掲げて歓喜の声を上げるシン。
まだ微かに熱が残り、風に吹かれてシュゥゥと湯気を吹く純黒に輝く刀身を見て、ここ半年間ずっとそばで見守り続けていたシャルティーナも思わず「おおお〜」と拍手する。
「これで予定していた武具は一式作れたな」
「おめでとう! でも、そんなにいっぱいの武器や防具、全部シン1人で使うの?」
首を傾げるシャルの視線の先には、既に完成させた2本の剣、4人分の防具、そして4人分の腕輪があった。
「ん? あぁこれは——」
と言いかけたところで言い淀む。まさか「次のお前たちに使ってもらうんだ」などとは口が裂けても言えない。
咄嗟に「次の仲間達に渡そうかと思ってな」と嘘をついた。
シャルティーナは納得したような、しかしどこか寂しそうに「そっか」と言葉を返す。
「さて、それじゃあどうしようか。シャルがまだ動けるならまた森の外を一緒に旅してもいいけど……」
シンは武具一式を「
「それじゃあさ、1つお願いしてもいい?」
「ああ。できることなら、なんでも叶えるぞ」
何気なく頷き、シャルティーナの言葉を待つ。この後何を頼まれるか、シンは既に知っていた。
「ありがとう。お願いって言うのはね、私をもう一度あの場所に連れていって欲しいの。私はもう長くないから、最期はみんなと同じ場所がいいな」
「あの場所」がどこを指しているかは聞かなくてもわかる。ユーシャとマハトが眠るあの平原だ。
「……わかった。準備するから、少しだけ待っててくれ」
「やったー!」と喜ぶシャルティーナ、しかし昔のように抱き付いては来ない。その事実からシンは必死に目を逸らして、必要な物と「
こうして何度目かになる、2人きりの最後の冒険は太陽が顔を隠すと同時に始まった。
————————————————————
「すごいすごい! 楽ちんだー!」
「そいつはようござんす」
背負子でシンの背中に固定されたシャルティーナが、子供のような歓声をあげる。
「
森を抜け、街の外周を横切り、山を越え川を越え、とうとう魔境と呼ばれる大森林に到達する。
魑魅魍魎悪鬼羅刹、凶悪極まる大小様々な魔獣達が蔓延る夜の魔境を駆け抜けるなど自殺行為もいいところだが、シンにとっては対処できる魔獣より、刻一刻と迫り来る
「シン! あっち!」
「おう!」
背中のシャルが、魔獣のいない道を探し当て進路を示す。
魔境とは言え、森の中においてエルフに索敵能力で勝るものはない。
お陰で戦闘することもなく、2人は順調に魔境を踏破していた。
「不思議……前は魔獣達の気配と重圧に耐えながら進んでたのに……こんなに堂々と走り抜けられちゃうなんて……」
「まぁ、俺も経験豊富な勇者パーティの
軽口を叩いている間に、ついに魔境の出口が見え始める。徐々に大きくなる光に向かって駆け込めば、その先には穏やな風の吹く大草原が広がっていた。
そこにかつてのような軍隊の待ち伏せはなく、だだっ広い草原にはただシンとシャルティーナだけがある。
「ここ、こんなに広かったんだ……」
背後から、どこか感動したようなシャルティーナの声が聞こえた。
「この先だな……」
もう「
「ここで、いいかい?」
シンとシャルティーナがたどり着いたのは、小さな岩の前。そこには半ばで折られた見慣れた1本の剣と、血で固まって開かなくなってしまった一冊の本が落ちていた。
2人は岩に背を預け、並んで座り込む。
ここに来るまでに出発から丸々1日と少しほどかかってしまったが、どうにか間に合えたことに今回もシンは少しだけ安堵した。
「綺麗……」
すっかり月が昇った満天の夜空を見上げて、シャルティーナが小さく感嘆の声を漏らす。
「ああ……そうだな」
そしてシャルティーナは、傍らにある亡き仲間の遺留品に視線を向け、誰にともなく語りかける。
「……ただいま。2人とも。私たち、戻ってきたよ……ねぇ、2人とも。シンってば、こんなにすごかったんだよ。1人で私をここまで連れて来れちゃうくらい……知らなかったでしょ」
どこか懐かしむように語りかけ、満足したのか、シンの肩にトンと頭を預ける。
「…………ねぇ、シン」
「……なんだい?」
「初めて会った時のこと、覚えてる?」
「もちろんだ。あの時、歓迎会だーなんてはしゃぐユーシャと満更でもない2人を見て、俺には勿体無いくらい素敵な仲間に恵まれたって思ったよ。そしてそれは今も変わらない」
それは本心からの言葉だ。
何度繰り返しても、変わらず自分を迎え入れてくれる。大事な仲間たちとの色褪せることないかけがえの無い思い出を懐かしみ、シンの表情が緩む。
「えへへ、あの時のシンってば、緊張して全然会話に入って来なかったよね〜」
「あれはなんていうか、まだ距離感を掴みあぐねていたんだよ」
「でも、スカウトしたユーシャはともかく、マハトにはすーぐ懐いたクセに、私には全然声かけてくれなかったの、地味にショックだったんですけど」
「あはは……それはなんていうか、マハトは甘えやすかったというか……いや、もっと正確には照れちゃって上手く話せなかったんだ。こちとら一目惚れした女性を前にした年頃の青少年だぞ」
誤魔化そうとして、シンはそれを止める。もう彼女の余命は幾許もない、これを最後にするためにも、最後くらい本音を伝えることにした。
「へぇ〜そうだったんだ〜。シンも初心なところあったんだね〜」
「いいだろ、今はこうやって気兼ねなく話せてるんだし」
「ふふっ♪ それじゃあシン、半年前、私が新婚夫婦みたいだねって言ったことは覚えてる?」
シャルティーナは恋する乙女のように笑って、シンの手を両手で優しく包み込む。
「あぁ、すごくドキドキしたよ。もし本当にそうなれたらって心底思ったね」
「うん。私もね……同じ気持ちだよ。ああやってシンと2人で暮らして、時々ユーシャやマハトと思い出話に花を咲かせて……そんな日々を、夢見てたんだ」
「もう叶わないけどね」と静かに涙するシャルティーナの手を、シンはそっと優しく握り返す。その手は、少しずつ冷たくなっていた。
「でもいいの。半年だけだったけど、夢見たいな日々だった。あの日、大好きなシンが一緒に暮らそうって言ってくれて、本当はダメだけど、すごく嬉しかったの」
「あぁ、俺もシャルと、大好きな人と一緒に暮らせて、すごく嬉しかったし楽しかったよ」
「ふふふっ♪ もっと早く言えばよかったな……」
「それは俺のセリフだ」
シャルティーナが自分のことを好きだとは、今まで知らなかったシンは心底そう思った。
そのままおかしくなって2人で笑い合う。しかし、そんな幸せな時間は決して長くは続かない。
「シン、ありがとう。私をここまで連れてきてくれて、私を好きになってくれて。貴方は……間違いなく、世界最高の運び屋だわ…………」
小さく微笑んで、ぐったりと、シャルティーナの体から力が抜ける。首が頭を支えられなくなり、上体が倒れるのに合わせて、シャルティーナの頭が肩から膝にずり落ちてきた。
「……おやすみ、シャル」
徐々に冷たくなっていく彼女の手をギュッと握り、空いた手でシャルティーナの頭をそっと撫でると、シャルティーナはとても安心したような、穏やかな顔で眠りに落ちた。
そしてすぐにあの感覚がやってくる。
シンは、消えてしまう最後の瞬間まで、優しくシャルティーナの手を握り、慈しむような手つきでその頭を撫で続けた。
————————————————————
ホワイトルームに戻されたシンは、しかしこれまでと違って悲嘆に暮れることはしなかった。
ただ前を見て、自分の為すべきことを魂に刻み込む。「今度こそ魔王を撃ち倒し、
そしてシンは、今回の権能を授かる。
「ははっ、こりゃいいや。どうせならもっと早く寄越してくれりゃよかったのに」
シンは、与えられた権能を確認して、ようやく活路を見出したと言わんばかりに笑った。
彼が手に入れたのは——
「「
「作ったばかりのユーシャ用の剣は無駄になっちまったな」と心なしか嬉しそうなシンは、迷わず鍵を手に取り扉を開いた。
「待ってろ、まだ見ぬ魔王! 次はお前の喉笛を掻っ切ってやる!」
————————————————————
鬼に金棒という諺があるが、シンによって聖剣を与えられたユーシャの力は以前の比ではなく、彼を筆頭にかつてない快進撃を繰り広げる勇者パーティの4人は本来なら3年以上かかる道を大幅に省略し、わずか2年で踏破。また余談ではあるが、今回シンが思い切って告白した結果、無事にシャルティーナと結ばれ、まさに全てが順調に進んでいた。
そして、いつもより短い冒険の果ての忌まわしい平原の大激戦……も、聖剣を手にしたユーシャの無双とシンの采配により、目立った損害もなく無事に突破。もちろんシャルティーナは秘奥義を使っていないし、マハトも五体満足で立っている。
なぜか【元帥】ファンクションが驚き怒り散らしていたが、既に斬ってしまった以上その真意は聞き出せない。
「やはり、聖剣の力は凄まじいな……」
自身の手に収まり、白い光の鞘を纏う聖剣を見つめ、ユーシャが驚愕と感嘆が入り混じった声を漏らした。
「バカ言え、それは製作者の俺が一番思ってるんだから」
シンのそれは、紛うことなき本音であった。
(勇者にはやっぱり聖剣がないと! って作った剣が、あそこまでなんて思わねぇよ! まぁ嬉しい誤算だが)
そう、嬉しい誤算なのだ。この場をこれだけ万全の状態で突破できるなど、これまでは想像もつかなかった。
「ふむ、どうしますか? 予想以上の成果です。一度休憩と武具の手入れをしたら魔王城に乗り込みますかな?」
「うん、私はそれでもいいと思う!」
「そうだね、消耗も少ないし、休めば十分戦えるだろう。残りは魔王ただ1人だ」
3人がそれぞれ頷き合う中、シンは1人物思いに耽る。
そこへシャルティーナが駆け寄り、後ろから抱きついた。
「ねぇ、シンはどう思う?」
「おわっ!? えっと、ごめんなんの話?」
「もー、聞いてなかったの? 武器の手入れがてら休憩したら、みんなで魔王城に乗り込もうかって話だよ!」
「あー、そういう。うん、俺も異論はないよ」
「満場一致だね!」
そんな2人の様子を少し離れたところで見る2人は——
「若いというのは素晴らしいですな、はっはっは」
「まったく、シンが羨ましい限りだよ。でも、とてもお似合いだ」
共に温かい目で2人を見つめ、微笑む。
まさにいつの日か、思い浮かべていた情景がそこにはあった。
しかし、シャルティーナに抱きしめられるシンの表情は明るくない。
(変だ、いくらなんでも順調すぎる。ハードモードだったゲームの難易度をイージーまで一気に下げた時みたいな感覚だ……聖剣一本でここまで変わるのか?)
拭いきれない嫌な予感を抱えながら、それでも彼は仲間達の元へ戻り魔王戦に備える。
最後の戦いは近い——。
————————————————————
意を決して魔王城に足を踏み入れる……が、そこは想像していた古風な城でも、魔族の頂点に立つものの棲家でもない。
そこは、言わば研究所のような場所だった。この世界には似つかわしくない科学の産物、スーパーコンピュータと呼ばれる近代文明の演算装置や培養液の満たされた何かのカプセルの数々が設置されていた。
「これは……いったいなんだ?」
しかし、科学技術のあった世界に生まれていないユーシャたちは首をかしげる。
そして、決して広くはない魔王城の最奥の扉を開けると、そこには白衣に身を包んだ1人の男が立っていた。
「ほう?
こちらに振り返った男は、白衣の下に白いワイシャツと、黒と水色のストライプ柄のネクタイを巻き、短い黒髪を無造作に靡かせながら、顔を覆い隠す笑う道化師のような仮面を被っていた。
「お前が魔王か!」
ユーシャが聖剣を構えるのに合わせて、全員が武器を構えて戦闘態勢に入る。
「いかにも。私がこの城の主であり、君たちが言うところの魔王……そうだね、シンカー、とでも名乗ろうか。よろしく頼むよ」
「
「悪いが、俺たちによろしくしてやる義理はない!!」
そう言って開口一番、聖剣の力を全力解放して放たれるユーシャの長射程斬撃。まともに食らえば光に飲まれて分子まで分解されるその一撃を、しかしシンカーは2歩右にズレるだけで躱した。
「まったく、血の気が多いことだ。少しはこのくだらない語らいを楽しんでみようとは思わないのかね。意外と見えてくるものがあるはずだよ、自分のことくらい知っておきたまえ」
シンカーは飄々と言葉を返すのみで、両手を白衣から出すことすらしない。
その様子に、珍しく怒りを滲ませた様子のユーシャが応じた。
「人々を脅かすお前と、一体何を語らえと?」
「あぁ、そのことか。この世界は私にとってなかなか都合が良くてね、実験場としてあまりに最適だったものだから、あれこれ研究させてもらったよ。まぁその過程で死んでしまった人がいたみたいだが……治験や実験に危険はつきものだろう?」
至極当然のことのようにそんな疑問を投げかけるシンカーに、ユーシャ以外の3人も静かに激怒した。
「人々の命を実験動物扱いか、なるほど。確かに魔王と呼ばれるだけあるみてぇだな」
シンは「
「
しかしそれは、シンカーの言葉一つで勢いを失い、その場に落ちてカランカランと小さく金属音を響かせた。
「物理はダメ、ならばこれは如何かな?」
マハトが魔法を放つと、シンカーの足元から、彼を取り囲むように光の柱が立ち上り、光の檻が出来上がる。そして、その内側に凄まじい熱量が集まり、凝縮されたそれが狭い空間で瞬時に爆ぜた。
空間爆撃とでも言うべきそれを直に受けてなお、シンカーの衣服を少し焦がした程度で、傷は愚か仮面にはヒビすら入っていない。
「無駄の多い技だ。それに、そんなものでは私は殺せないよ」
正しく余裕綽々、未だ両手を白衣から出さずにただその場に立ち続けるシンカー。
続いてシャルティーナが踏み込もうとする直前、シンカーがついに右手をポケットから出して、真っ直ぐ4人の方へかざすと、再び言葉を紡いだ。
「
シンカーが単語を紡ぐたびに、彼の周りに奇妙な炎が浮かび上がった。
「せっかく来てもらって悪いが、リスタートだよ」
シンカーが不敵に笑い、伸ばした右手でこちらを指差した時、ふとシンは、彼と目があった気がした。気がしたのだ。
「
しかし次の瞬間には、摂取6000度を超える熱量に包まれ、4人揃って焼け焦がされてしまい、それを確かめることはできなかった。
————————————————————
「ほう?
およそ2年と少しに及ぶ旅の果て、再びこの場へたどり着いた勇者パーティ、そしてシンは、何度目かもわからないそのセリフに迎えられた。
「お前が魔王か!」
ユーシャが聖剣を構えるのに合わせて、シン以外の2人が武器を構えて戦闘態勢に入る。
ここも以前までと同じだと、シンは既視感に苛まれる。
「いかにも。私がこの城の主であり、君たちが言うところの魔王……そうだね、シンカー、とでも名乗ろうか。よろしく頼むよ」
「
「悪いが、俺たちによろしくしてやる義理はない!!」
そう言って聖剣の力を解放しようとするユーシャの前に、しかしシンが立ち塞がり、待ったをかける。
「待て、ユーシャ。現状、こいつ相手に真正面から勝てる可能性は皆無に等しい」
「そんなの、やってみないとわからないじゃないか!」
「ほう? そちらの彼は、冷静かつ優れた観察眼をお持ちのようだ」
シンのその突然の行動に対する両者の反応は正反対だ。
ユーシャは、珍しく怒りを露わにして今にも斬りかからん勢いなのに対し、シンカーは感心したようにシンを観察する。
ユーシャの後ろの2人も、言葉にしないだけで訝しむような視線をシンに送っていた。
しかし、覚えている限りでも10度以上この男に戦いを挑み続けた記憶のあるシンにはわかっている。どうあがいても正面戦闘でこの男に勝つ事はできないと。
「まぁ聞け。何も戦わないとは言っていない。ただやり方を変えるだけだ」
「興味深いね。正面から挑まないなら、一体どうやって、私を倒すつもりなのかな?」
「何、簡単なことだ。俺たちはお前と言う敵に対してあまりにも無知だ。故に剣よりも言葉を使うだけだ」
「なるほど、ますます感心だね。闇雲に斬りかかって来ないだけでなく、因縁の敵を前に言葉を交えようと言うのか、君は。くっくっく......くははははっっ!! いいだろう! 実に面白い! ここは一つ、君の作戦に乗せられてあげようじゃないか!」
何やら、シンカーはシンの反応がお気に召した様子で、上機嫌に笑う。
「さて、ではご要望通り、私のことをお教えしようか。この私、シンカーはこの研究所である研究をしているのだよ。さて、ここで1つ問題だ、それが何かわかるかな?」
ポケットに両手を入れたままシンカーが4人に問いかける。
「大方、効率よく人を殺す研究でもしているんだろう」
忌々しげにユーシャが答えた。
しかしその解答にシンカーは「いいや、違うよ」と返す。
「なら、より強力で扱いやすい魔獣でも作る気?」
続いてシャルティーナが解答。
しかしシンカーはこれにも「それも違うね」と返した。
「ならばなんだね、新しい兵器でも作ろうって言うのかね」
マハトが少し呆れた様子でため息をつきながら答えた。
これにシンカーは「いい線をいっているよ。当たらずとも遠からずだ」と返答。そしてシンに視線を向ける。「君の答えはどうかな?」と。
「解答の前に1つ聞かせてくれ」
「何かな?」
「シンカー、お前の敵は……俺たち人類か?」
シンカーの仮面に彫られた二つの窪み、その奥にあるだろう目を見てシンは問いを投げる。
「ほう……実にいい質問だ。ご推察の通り、私が敵視しているのは君たち勇者一行殿でもなければ人類ですらない。もっと悍ましく厄介なものだよ」
と、シンカーはこちらに敵意を持っていないことをあっけらかんと明かした。
「なるほど、ならば先ほどの問題に対する答えはこうなる。お前は、その厄介な敵とやらに対する対抗手段を確立するための研究をしている……違うか?」
何周前か、シンの意識が落ち切る寸前にシンカーはこんなことをこぼしていた。
『全く、奴らの脅威が控えていると言うのに、邪魔をしないでもらいたいね』
その言葉を聞いたシンは、もしかしたらシンカーと戦わなくても勝てる手段があるのではないかと言う思考に至った。
そして、その仮説の答えが今出ようとしている。
「本当に、素晴らしい洞察力だ。御名答、大正解だよ」
シンカーは、初めて両手をポケットから出して、パチパチと小さく拍手を送った。
「君が睨んだ通り、私は来たる脅威に備えて有効手段を探っている。その過程で一部の人間に被害が出てしまったのは申し訳なく思うが、どのみちアレを見過ごせば一部は愚か、全ての生物が消されてしまう。必要な犠牲だと思ってくれたまえ」
「それで、このまま引き下がればお前は俺たちを無事に帰してくれるのか?」
「もちろんだとも。君たちが敵対して来ないなら、こちらにも君たちを害する理由はない。私は無益な殺戮は好まないのでね、お帰りいただけるとありがたい。ああ、そういえば君たちは『勇者パーティ』だったね。魔王討伐の証として、その辺に転がってる大型魔獣の角でも折っていくといい。魔王の角だといって持って帰れば民は安心するだろう。こちらも、人々を巻き込む恐れのある実験は既に全て終えている。お互い無難な落とし所だと思うが?」
《考える人》の名に相応しく、実に合理的で妥協案としては申し分ない提案をするものだと、シンは敵ながら少し感心した。
しかし、他の3人が納得できるかと言われれば、それは否だった。
「確かに、提案自体は素晴らしいものだ。だが——」
「これまで殺された人々を、必要な犠牲だと割り切る事はできかねますので」
「私たちは、貴方を倒して、その敵とやらも打ち砕くわ!!」
当然といえば当然だ。肉体時間では、数年前にこの世界にやってきたばかりのシンと、生まれた時からこの世界で生き、暮らしてきた彼らとでは価値観が違う。
「ふむ、残念だ。交渉決裂だね」
その言葉と共にシンカーがこちらへ右手を翳した。
《5秒後、獄炎の嵐が正面から襲ってくる》
やり直しで新たに手に入れた権能「未来視の魔眼」が死の危険をシンに伝えた。
それと同時に——
「マハト! 正面、水の防壁! 最大威力で!!」
シンが少し後ろに立つ仲間へ指示を飛ばす。
それを受けたマハトは、何も聞かずに持てる最大の出力で、4人の前に分厚い水の壁……切り取られた海を思わせる澄み渡った蒼い盾を作り上げた。
直後、シンカーの放った獄炎がマハトの盾とぶつかり、ジュッ! と水が蒸発し、気化していく音が響く。
5秒ほどの衝突の後、海が完全に炎を飲み込み、たち消えていった。
「ほう、今の一撃を防ぐか。面白い、そこの黒髪の君。名前を聞こう」
「……シンだ」
「そうか、ではシン。なぜ私が炎を出すとわかった? 他の可能性もあっただろう」
「そんな気がしただけだ」
シンはそっけなく答えて問答を打ち切る。
「クックック、本当のことを言う気がないのか、あるいは歴戦の猛者の勘と言うやつかな? どちらにせよ面白い。ではこれは防げるか、試してみようか!」
シンカーが、今度は左手を翳した。
《3秒後、横凪ぎの風の刃が首の高さで飛んでくる》
その未来が見えた瞬間に叫ぶ。
「しゃがめっっっ!!!!」
全員がシンの声に反応して姿勢を低くする。
次の瞬間、吹き荒れる暴風が刃となり、4人の背後にあった扉を打ち砕いた。
「素晴らしい、風の刃が防げないと見抜いたか。一体どう言うカラクリなのか、実に興味深いねぇ。もっと色々検証を……いや、残念だがタイムアップのようだ」
好奇心を刺激され、少し興奮気味のシンカーの声音が一気に冷え込む。
それと同時に、砕かれた扉の向こうから何かの鳴き声が聞こえた。
「ギシャッ! ギシャァァァ!!」
室内に入り込んできたそれは、一見すると紫色の目玉に小さな手足の生えた手のひらサイズの不気味な化け物。
しかし、それがただの化け物でない事は、シンカーの反応が示していた。
「幸い、まだ一体だけのようだ。おっと、君たち、そいつに攻撃してはいけないよ。殴ればその分増殖してしまう」
とても冷静にそれを見つめたまま4人を静止する。
「アレこそ、私が先ほどの言った『厄介な敵』だよ。アレは観測していないとこちらに危害を加えてくる化け物だ、下手に殴って数が増えると対処不可能になって全員死ぬぞ」
「なら、どうすればいいって言うんだ!」
行動を封じられて、ユーシャが苛立ち混じりに叫ぶ。
「まぁ待ちたまえ、その為の研究、対抗手段だ。まだ試作段階だが、アレを使ってみよう」
そう言ってシンカーが視線を逸らした瞬間だった。
「「ギシャッッ! ギシャァァ!!」」
さらに10体ほどの目玉の化け物が雪崩れ込んでくる。
「クソっ! 外の魔獣どもがウイルスを増やしたか!」
ここへきて初めてシンカーが声に焦燥を滲ませた。
そしてウイルスと呼ばれた化け物は10体にとどまらず、20、30と入り込んでくる。
そうなればもちろん、死角に入る個体も出てきて———
「うぐっ、あぁがっ……!?」
突然、ユーシャが胸を押さえて疼くまる。
それだけではない、マハトも、シャルティーナも同様に胸を押さえて倒れ込んでいた。
「くそっ、間に合わんっ!!」
シンカーが何かの装置を起動しようとしたところで、胸を押さえて、やがて倒れ込んだ。
そしてそれはシンも例外ではなく——
「「「ギシャッッ!! ギシャァァァァ!!」」」
「ぅぐっ、あ゛あ゛あ゛あ゛っ゛!!!」
響き渡る不気味な大合唱に、苦悶の声を上げる仲間の声が混じり、やがてそれも収まる。
シンの意識もそれを最後に、視界いっぱいのウイルスに飲み込まれた。
————————————————————
その後も10周、20周と繰り返すが、ウイルスへの対抗手段が見つからない。
時にはシンカーと手を組んだり、シンカーの元に行かない選択も取ってみた。
しかし、どんな選択をしても、やがてウイルスの波に襲われて全員仲良く倒れる。
そして厄介なのが、周を重ねるごとに、それまでは有効だった対抗手段が次々無効にされてしまう点だった。
シンカーの研究成果も、10度目にはほぼ全て無力化されてしまい、本人すら驚愕していたのを覚えている。
(まさか、ウイルスはリセットの影響を受けないのか……?)
そんな仮説を立て始めた頃には、既にスタートして2年でウイルスが出現するようになっていた。
「ギシャッッ! ギシャァァァァァ!!!」
野営のために薪を収集していたとき、嫌というほど聞いたあの声が耳に届いた瞬間、シンは狂気の沙汰とも言える賭けに出た。
「みんな! 何も聞かずに今すぐ俺の手を掴んでくれ!」
すぐに野営地に戻り、そう叫ぶ。
仲間達は、あまりにも鬼気迫る勢いのシンに疑問を抱きながら、その手を掴んだ。
「えっと、シン——」
「これでいいの?」と全員を代表してシャルティーナが言い切る前に、景色が変わる。
そこは、シンにとっては見慣れた、しかし他のみんなにとっては未知の空間、シンカーの研究室であった。
「シンカー! ウイルスが出た! 奴らはお前の研究成果も既に全て学習して克服している恐れがある! 何か新しい手……そうだ、エンクロージャーを完成させないとダメだ!」
転がり込んで開口一番、この世界では初対面となるシンカーにそう伝えた。
エンクロージャーとは、以前の世界でシンカーが言っていた「世界の外側へ行く為の装置」だそうだ。
他に手段がない以上、消去法でそれを当てにしなければならないことにシンは内心悔しさで歯噛みしつつ、話を進める。
「……君がなぜ、初対面のはずの私の名前やウイルスに関する研究、挽いてはまだ構想段階のエンクロージャーの事を知っているかは、今は聞かないでおこう。それで、ウイルスが出たというのは本当なのかね?」
実験を中断してこちらへ振り返ったシンカーに、なおもシンは続ける。
「あぁ、ギシャギシャ鳴いてる目玉の化け物のことだろ!」
「ふむ……どうやら本当のようだね。となると、その後の君の発言もある程度根拠に基づいたものなのだろう。いいだろう、全ての実験を中断してエンクロージャーの完成を急ごうか」
と、ここへきてシンと全く知らない仮面の男の2人で話を進められ、混乱の最中にいた3人を代表してシャルティーナが口を開いた。
「ねぇ、シン。どういう事なの? 私たちの敵は魔王じゃないの? それにそこの人、一体誰なの?」
至極当然の疑問だと、自分でも思った。
しかしそれをなんと説明しようか迷っていると、意外な人物から助け舟が出た。
「その通り、君たちの敵は魔王ではない。今この世界を脅かしているのはウイルスと呼ばれる魔物だ、私は……いや、そこの彼もだね。私たちはウイルス打倒を目指している。おっと、名乗り遅れたね、私はシンカー。この研究所の所長をしている。よろしく頼むよ」
無駄な衝突を避けるためか、魔王とは名乗らずに簡潔に状況を伝えたシンカーはすぐにエンクロージャーの設計へ戻る。
「あぁ、そこの君。名を聞こう」
「シンだ」
「そうか、ではシン。エンクロージャーは完成までおよそ3ヶ月はかかる。故に3ヶ月後にまたここへ来てくれたまえ。ずっとここにいられると研究の邪魔になってしまうのでね」
そう言ってシンカーは無造作に転移結晶を投げ渡してきた。
それを受け取ったシンが、仲間たちを連れて転移する直前、「ああ、そういえば」と切り出したシンカーの声が聞こえた。
「時に、君たちはタイムリープという言葉を知っているか?」
と、そんな何気ない問いかけをされ、シンはゾクっと背筋が凍る思いがした。
この問いに人間的な反応を返してはいけないと、シンの本能が強く警鐘を鳴らしている。
他の3人は初めて聞く言葉にキョトンとした顔をしていた。
幸い、シンの顔はちょうどシンカーからは見えない。咄嗟にゆっくり振り返って「なんだそれは」と言おうとしたその時、答えを返す前に再び景色が切り替わる。
「ふむ……仮説の検証ならず、か。まぁいい、エンクロージャーが出来上がればいずれわかることだ。クックック……3ヶ月後を楽しみにしているよ、シン」
その場には、クツクツと笑うシンカーだけが残された。
シンが3人を連れて飛んだのは、かつての世界でシャルティーナと暮らしたあの隠れ家。初見の光景に3人は、終始驚きを隠せない様子だった。
(まさか、ここを4人揃って訪れることになるとはな)
「シンってば、すごいね! こんな場所まで用意してるなんて!」
一際興奮した様子で、子供のようにはしゃぐシャルティーナを見るシンの目は温かい。
以前ここを見た時の表情がどれだけ取り繕ったものだったかを改めて痛感しながら、中を手早く掃除して3人を案内した。
4人で食事を済ませ、片付け終えると仲間達は全員席についてこちらに視線を送っていた。
「さて、それじゃあシン。聞かせてくれるかい?」
ユーシャは「何を」とは言わなかった、おそらく全てを聞いているんだろうと、シンは魂で理解する。
「やっぱり、もうバレちまってるよな」
「ハハッ、当然ですよ。一体どれだけ一緒にいると思ってるのですか」
「シンのことなら、大体なんでもわかっちゃうんだから。隠し事は無しにしてよね!」
今回はまだ2年と少ししか一緒に過ごしてないというのに、相変わらず頼もしくも愛おしい仲間達は、まるでそれ以前からずっと一緒にいたかのように言ってくれた。
シンはそれが嬉しくて、そしてどこか寂しくもあった。だから、そんな仲間達に応えたいと真に思えたから、今までは恐れや諦観から口にできなかった事を話してみてもいいんじゃないかという結論に至れた。
「うん、何から話したらいいかな……ひとまず、さっきシンカーの言っていたタイムリープについてからでも話してみようか」
と、そんな切り出しで未だに自分でも纏まりすらついていない話を始める。
タイムリープがどういうものなのか、そして自分がその当事者であること、やり直すたびに不思議な力を与えられていたこと、何度も仲間を失ったこと、魔王がシンカーだったこと、シンカーが本当の敵ではなかったこと、ウイルスのこと、ウイルスに対処できずに、何度も血を吐いて、今も悩み通していること、嬉しかったこと、辛かったこと、何度繰り返しても変わらない仲間達からの信頼に応えたいと言うこと、あの時にシャルティーナに誓った約束のこと。
思い当たった事はなんでも話した。今この瞬間の彼らに誠実でありたかった。シンは話しながら、時には無念を思い出して泣き崩れたり、突破口の見えない絶望に改めて打ちひしがれたりもした。その度に仲間達が落ち着くまで寄り添い、励まし、支えてくれる。その事が殊更シンに罪悪感を抱かせた。
「————そして、今回、俺はこうしてシンカーの最後の策に頼ることにしたんだ」
そして、そんなシンの突拍子もない話を3人は驚愕こそあったが、ただ最後まで静かに聞き届けた。
「なるほど。時折君がどこか遠くを見たりしてたのも、未来を見てきたんじゃないかってくらい正確に出来事を言い当てるのも、全部合点がいった」
「初対面の時、シンに既視感を抱いたのはそういうことだったのですな」
「私たちも少なからず、るーぷ? の影響を受けてるのかもね! それにしたってシンってば、私がオッケーすることわかってて告白してきたんだ、ズルいとこあるじゃん〜?」
「……ズルくても、後悔するよりずっといいからな」
悪戯な笑みを浮かべてシンを揶揄うシャルティーナに、シンは目元が真っ赤に腫れ、ぐしゃぐしゃになってしまった顔を拭いながら答える。
そんなシンにマハトが孫を見る祖父のような優しい目を向け、優しく、しかし力強くその頭を撫でた。
「いい事です。でも私とユーシャのことも忘れないでくださいな?」
「忘れられるわけないだろ……」
覚えている。そう、シンは確かに覚えているのだ。マハトがこうやってシンを撫でてくれたことも、ユーシャがいつだって自分を親友と言ってくれたことも、シャルティーナがあの夜に溢した最後の願いも。
そんな感傷に浸るシンを他所に「大いに結構!」というマハトの一声と共に、賑やかな仲間たちによる大宴会が始まった。
シンが再び悲しんでしまわないように、楽しく騒がしい記憶で埋め尽くそうという3人の計らいが温かい。シンは改めて、この仲間達を守り抜こうと強く誓う。
そしてそんな仲間達に流されるように、シンもその日は涙を忘れ、飲んで歌って朝まで楽しい時を過ごした。
床に倒れて眠るシンの寝顔が、幸せそうだったことは本人すら知らない。
————————————————————
仲間たちとあの隠れ家で潜み、密かに鍛錬を積んで早3ヶ月が過ぎた。
「……やぁ、久しぶりだね。君たち。ちょうどエンクロージャーが完成したところだよ」
「それは上々……で、それを素直に使わせてくれるかな?」
転移時の着地の足音を感じ取り、こちらへ振り返ったシンカーが不敵に笑う。
「フフッ、さて、それはシン。君の返答次第だ。私は君がタイムリーパーだと推察しているのだが、いかがかな?」
「はっ、何を言い出すかと思えば。何を根拠にそんな突拍子もないことを?」
「ほう、どうやらタイムリープという言葉は知っているようだね。何、根拠なら単純な話だ。3ヶ月前、君は私の名前と研究の内容、ましてこのエンクロージャーのことまで口にした。しかし、私は君と会った記憶などないのでね。あえて突拍子もない仮説を立ててみたまでだ」
「しまった」と思った。3ヶ月前、仲間達はタイムリープという言葉を知らなかった。そしてその反応はシンカーもチラとではあるが確認している。しかし、シンは怯まずにあくまで平静を装って続けた。
「……で、その仮説とやらは立証されたのか?」
「あぁ。君のその反応で、十分すぎるくらいにね。ひとまず、今回はエンクロージャーを使わせてあげようじゃないか」
そう言って一歩右にずれて道を開けるシンカー。
ゆっくりと、一歩ずつ歩み寄っていく。疑いながら「未来視の魔眼」の反応に注視するが、魔眼は何も映し出さない。
そのままシンカーがエンクロージャーと言った装置——研究所の最奥にさまざまな配線と装置で固定され、表面を透明な半円状の強化ガラスに覆われた繭のような巨大なカプセルの前まで無事に辿り着いた一行。
「さぁ、存分に使うといい。これが、君の求めた研究成果だよ」
と、使い方などは一切説明せずに様子を見守るシンカー。
シンがタイムリープで使い方を熟知していることを前提とした反応だ。
しかし、4人は……否、シンは何もせずエンクロージャーの前で立ち止まり、3人はシンの様子を見つめている。
「どうした? 使わないのかな?」
「説明も無しに初見の装置を使えるわけがないだろう」
あからさまなカマをかけてきたシンカーに対して、至極当然と言わんばかりに返すシン。
「ほう、過去の私は君に使い方を教えなかったか。あるいは完成しても使わせなかったか……まぁいい。私が実際に使って見せよう、君たちは私の真似をして後に続けばいい」
と言って、シンカーがエンクロージャーの中に入り、強化ガラスの膜を閉める。すると中で寝そべったシンカーの姿が覆い隠され、ガラス膜には「ログイン中」の文字が表示された。
ひとまず4人も順番にカプセルに入っていく。
そして、4人は急激な眠気に襲われ、眠りに落ちる。
「——システム起動。個体識別名、β7892、σ4622、ω401、η51078。ログイン確認、肉体の生成を開始します」
どこか遠くでそんな声が聞こえた気がした。
————————————————————
「おはよう諸君。ここが世界の外側、さしずめ深層世界とでも言おうか」
声をかけてきたのは、見覚えのある仮面の男。しかし、身に纏う衣は、もはや服ですらない無機質な白い布きれ一枚に変わっていた。
「ここが……世界の外側だと?」
シンはそう言ってあたりを見回すが、そこは暗い部屋の中に、研究室で見たようなカプセルが幾つも立ち並ぶ部屋だった。
それだけではない。今、自分達が出てきたのもそのカプセルのうちの一つだと理解する。
「そうだとも、あるいはゲームの中とでも言おうか? こちらの世界は何やら物騒でね。私たちは見つかれば、たちまち射殺され、あの研究室に送り返されてしまう。だが重要なのは、ここに来たことと私は結論を立てた」
「なんだと?」
シンのみならず、他の3人も同様に頭に?マークを浮かべている。
「何、じきにわかるさ……」
クツクツと笑うシンカー。
次の瞬間、奥の扉が開き、数人が駆け込んでくる足音が聞こえた。
「こちらハウンド1。対象を5体発見。射撃を開始する」
という男の声と共に、胸に衝撃を感じ、自然と自らの体が後ろに倒れ込むような感覚に襲われる。
「
そんな無機質な声を最後に全員の意識は暗転した——
———そして、間も無くしてあの研究室で目覚める。
「おいシンカー。どういうことだ、あんなものでどうやってウイルスに対処するんだ」
エンクロージャーの実態を知り、シンがシンカーへ詰め寄り、胸ぐらを掴み上げる。
対するシンカーは未だ余裕綽々と言った様子で、
「じきに分かると言っただろう。あとは君自身で考えてみることだ」
ハッハッハと高笑いするシンカーを突き飛ばした。そして、その時だった、忌々しいあの声が聞こえてきたのは。
「「「ギシャ! ギシャァァァァァ!!」」」
少なく見積もっても100体以上のウイルスがこの研究室へ殺到する。
シンは咄嗟に「
「なんだ、予定より随分早い到着だね。だがいいさ、私は目的を果たした。あとは実験の結果が出るのを待つだけだよ」
シンカーだけは、苦痛に晒されながらもどこか晴れ晴れとした様子でいた。
それに不気味さを覚えながら、また勇者パーティは命を落とした。
————————————————————
シンがエンクロージャーの真の価値を理解したのは、その次の周回で仲間と出会った時のことだった。
本来ならば初対面として始まるはずだった彼らとの出会いが、思わぬ形で崩される。
「おい、お前まさかシン! シンか!?」
と、いつもと同じように、タイラントベアを倒し切らないように戦っていた時、ユーシャの声が聞こえてきた。
わけが分からず困惑するシンに、ユーシャは続ける。
「あの後何があった!? ウイルスはどうなったんだ!」
その問いかけでようやくシンは事態を理解した。
(なんで、ユーシャに記憶が残っているんだ!?)
ひとまず、半ば困惑混じりに興奮した様子のユーシャを宥め他の仲間とも合流したが、その反応はやはりユーシャと似たり寄ったりだった。
唯一違う事があるとすれば、シャルティーナだけは泣いて抱きついてきたことだ。
そんな感動の再会も早々に、4人の行動は早かった。
シンは通常の支度に加えて、前回新たに手に入れた権能「思念通話」に必要な結晶を埋め込んだ腕輪を全員に渡して、転移結晶でシンが単独でシンカーの待つ研究所に乗り込む。
「やぁ。そろそろ来る頃だと思っていたよ。シン、エンクロージャーの効果はわかっていただけたかな?」
出迎えたシンカーは、さも当然と言わんばかりにシンを歓迎した。そして、その背後には——
「エンクロージャー!? 完成はまだ先のはずじゃ!」
「驚くことではないだろう、記憶を持ち越しているんだ。最短で研究成果を上げられるのは至極当然のことだ。そして、私は既に深層世界へのログインを済ませてある。これがどういうことかわからない君ではないだろう」
そしてシンカーは「仮説立証だ」と言って再びクツクツと笑い、シンに試すような視線を送った。
「さて、君が、いや今回は私達か。タイムリープしていることが証明されたところでどうする? どうやって君はこの絶望的な状況を打破し、私を倒す?」
「さてな。だが、1つまた新たな疑問の解消はできそうだぞ」
「聞かせてもらおうか」
「お前は知らないだろうが、過去の周回でお前は俺にこんなことを漏らした『スワンプマンという思考実験を知っているか』と」
「面白い。続けたまえ」
「生憎、俺は知らなかったのでな。それはなんだと、素直に聞いてみたんだ。そうするとお前は存外素直に答えてくれた。『スワンプマンとは、いわばドッペルゲンガーのようなものだ。沼に落ちて死んだ男がいたとして、その直後、なんという偶然か、雷がその沼に落ち、死んだ男と全く同一、同質形状の生成物を生み出してしまう。この存在のことをスワンプマンと呼ぼう。スワンプマンは、死ぬ直前までの記憶を正確に保持しており、死ぬ以前の男となんら差異はないように見える。ではその時、スワンプマンは死ぬ前の男と同一の存在と言えるのか? というものだ』と」
「それが一体何の関係があると?」
「あぁ、当然、俺もそう思ったさ。だから同じこと聞いた。しかしお前は『その意味は自分で考えてみるといい。ヒントは既に出尽くしているぞ』と言った。実際、お前が突然無関係な話をするとも思えなかったのでな、ずっと考えていたんだ。だが今回、改めてお前をみて確信したぞ」
「ふふふっ、言ってみたまえ」
あくまでもシンカーは余裕を崩さずに飄々と立ち続ける。
「お前は、俺のスワンプマン、あるいはドッペルゲンガーだ。違うか?」
「面白い考察だ、根拠はあるのかな?」
「根拠なら、これまでお前が散々示していたぞ!」
言葉と共にシンは行動を起こす。
そう、シンは確信していた。奴が自分と同一の存在であるならば……この考察が正しいのならば、この目論見が成功しないわけがないと。
「ユーシャ! マハト!」
シンは腕輪に魔力を流して仲間の名を叫ぶ。宝珠がチカチカと点滅したのを確認できれば、それ以上は必要なかった。
シンカーの足元から光の檻が出現し、ユーシャの聖剣の一撃がシンカーに迫る。
「その程度の攻撃が通用しないことくらい。君が一番よくわかっているはずだがね。
シンカーの言葉に従って、ユーシャの放った光の奔流がシンカーの目の前で急停止する。
「
そして、シンカーはシンの方に真っ直ぐ手をかざすと、周囲に浮かべた黒い箱の数々にユーシャの攻撃を繰り返し反射させて、四方からシンを狙う攻撃に昇華する。
しかし、その攻撃は過去にも見た事があった。
シンはそれを「
「面白い技だ。魔法系統の攻撃はどうやら効かなそうだね」
「どうだろうな、物理攻撃も効かないかもしれないぞ」
「ククッ、実に面白い。ではここで一つ、君の思考を当てよう。君は、待っているのだろう? 仲間から連絡が入るのを。だが残念だ、その手は封じさせてもらったよ」
ポケットに手を入れて優雅に佇むシンカー。
反射的にシンは腕輪に魔力を流して、もう一度仲間の名を叫ぶが、宝珠は光らない。
「通信はもう届かない。さて、次はどうするというのかな?」
一歩、シンカーがこちらへ歩を進めた。
対するシンは、以前剣を構えたまま動かない。
一歩、また一歩とシンカーはシンに歩み寄る。
「どうした? 手が尽きたのかな? ならば——」
ついにシンカーがシンの手の届く距離まで来た時だった。
——パキンッ!
小さく乾いた破砕音が、シンカーの胸元で鳴った。
シンが、シンカーの胸元に投げ込んだ転移結晶を剣で突いて砕いたのだ。
すぐにシンカーの姿が粒子になって消える。
直後、シンも転移結晶を砕いて消え去った。
————————————————————
2人が飛んだのは、あの隠れ家の前……シンにとってはかけがえのない思い出の場所だった。
「こんなところへ連れてきて、一体どうしようというのかな!」
「お前の言葉を借りるなら……じきにわかるさ!」
言葉と同時に、シンカーは両手で別々の魔法を行使。右手に凝縮された熱量と、左手には吹き荒れる暴風の刃を生み出し、直後に放たれたそれを「
対するシンカーは、後退しながらそれを交わし、ついに大樹に背がつくと再度生み出した風の刃でそれを受け止める。
シンの推察通り、この瞬間、2人は寸分の狂いもなく拮抗した。
「どうだ? 打ち払えないだろう。当然だよな、お前と俺は全く同じ存在。鍔迫り合えば拮抗しないはずがない!」
「それがどうしたというんだい。それは君も同じこと。まさか、拮抗したままウイルスに滅ぼされるのを待つつもりか?」
「いいやまさか。シャルっ!」
シンは、何かを確信している様子でニヤリと口角を上げ、その名を叫ぶ。
次の瞬間、シンの背後から翠緑色の光が2人に殺到した。
「な…………にぃ!??!?」
しかし驚愕に声を上げたのも、その翠緑の光の暴力に飲まれたのもシンカーただ1人。
シンは、その光にどこか暖かさを感じながらシンカーを抑え込む。
「通信が切れた程度で、俺たちの絆は切れやしない」
続けてシンカーの右方向から、先ほどと同じ光の奔流が、左方向からは眩く迸る紫電が迫る。
「お前の敗因は、信頼できる仲間がいなかったことだ」
その3方向からの攻撃に打たれるシンカーの力が微かに弱まり、天秤が一気に傾く。
細かい打ち合わせなどはしていない。時間が足りなかった。だが、シンはただ信じたのだ、仲間たちを心から。通信などなくてもシャルは自分の声を聞き逃さないし、マハトもユーシャもこの瞬間を俺が作り出すことを確信して転移してきている、と。
「ぐっ……がはぁっ……!!」
そして、ついにシンの刃がシンカーの胸を貫き、大樹に縫いとめた。
すぐに背後からシャルティーナが現れ、左右からはマハトとユーシャが姿を現す。
「ぐっ……ふっ、まずは、見事と言っておこう……だが、私を殺しても無駄だ」
ついにその仮面が砕け、素顔が明らかになる。口から夥しい量の血を吐きながら、それでもなお笑うその顔はシンと全く同じものだった。
「うっそ……本当にシンが2人いる!?」
「聞いていたとはいえ、なかなか気味が悪いな」
シンから聞かされていた通りの事実を前に、仲間たちが驚愕に目を開いたが、シンはそれに取り合わない。
「私を殺したところで、ウイルスが消えるわけでもなければ……タイムリープも終わらない……君1人、という意味なら、私は勝利を讃えるがね」
「死に際の戯言にしては、荒唐無稽だな」
「ふっ、好きに捉えるがいい」
最後にそれを言い残して、シンカーの目から光が失われた。
自分と同じ存在を殺したことに些か嫌悪感がないわけではないが、それを気にする時間は与えられなかった。
『条件の達成を確認。個体識別名、β7892の強制ログアウトを実行します』
という、聞こえるはずのない無機質な音声と共に意識を奪われてしまったからだ。
————————————————————
シンが再び目を覚ましたのは、一度だけ訪れたことのある。シンカーが深層世界と呼んだ場所だった。一つ違うとすれば、部屋は狭く、カプセルも一つだけということ。
やがて間もなく、コツコツと緩やかに歩み寄るような足音が響き、ウィーンと音を立てて薄手の扉が左右に割れるように開く。
「おはようございます。ぼっちゃま、ご気分はいかがですかな?」
突如現れた燕尾服の執事らしき初老の男に、上品に一礼されてシンは困惑する。
「気分って話なら悪くはないんですけど……えっと、あなたは?」
戸惑いながら目の前の男の素性を尋ねると、男は快く答えてくれた。
「はい。私めは、ぼっちゃま専属執事のアルベルトと申します。どうやら、ぼっちゃまは未だ長期にわたる
アルベルトに連れられた先には、シンの身体にピッタリとサイズの合う、部屋着のような着心地の良い衣服が一式用意されていた。
「アルベルトさん、あのまだ理解が追いついてないんですけど……ここはなんなんですか? それに、ぼっちゃまって……」
「では、順番にご説明致しましょうか」
そしてアルベルトによる、子供でも理解できるほど、わかりやすい解説が始まった。
彼曰く、どうやらシンは本来はこの深層世界、改め現実世界の人間で、この建物を所有する企業の御曹司らしい。
しかし、不慮の事故で一度瀕死の渋滞、というより実際一度死に、肉体こそ復元、回復したが、死亡時のトラウマから精神障害を引き起こしていたそうだ。
それを電子的に治療するために利用されたのが、あの仮想世界。シン以外のあの世界の者は皆、シンの脳が作用して生み出された自律思考システム……つまり生命のない人形たちのようなものだったという。
中でも、シンを取り巻いていた3人の仲間とシンカーは重要な存在で、シンを予定通り現実世界に返すために生み出されたのが勇者パーティのメンバーであり、シンの無意識的な恐れが生み出したのが、あのシンカーという存在だった。
そして、これも気になっていたことだったが、シンがずっと体験していたタイムリープとは、仮想現実装置のバックアップ動作によるものだったらしい。
シンが訪れたあのホワイトルームは、いわばバックアップ用のサーバーとでも言うべき場所で、シンが授かった力は、彼の無意識の要望を仮想現実装置の官制システムが叶えたものだった。
そして散々彼を悩ませたあのウイルスたちは、仮想現実装置のセキュリティプログラム。本来予定されていない動作を検知したら、すぐに出現してバックアップを働きかける。というものだそうだ。
そして最後には、シンが自分の意思で、恐怖の象徴であるシンカー打ち破れたからこそ、無事に帰ってこれた。
そんな説明を受け、ふとシンは、おそらくシンカーは、あの時わざと攻撃を受けたのではないかと思い至った。
思えばシンカーは終始一貫して「敵意はない」と言い続けていたし、あれもシン自身なのだから、その理由は十分に納得できるものだ。
「いやちょっと待って。それじゃあ、ユーシャは? マハトは? シャルはどうなる!?」
「ご安心ください。あなた様がお目覚めになられたことで、仮想現実装置は機能を一時停止しております。無事ですよ」
落ち着いて聞いてみると、3人の思考アルゴリズムは、バックアップデータに保存されており、俺の意思一つでこちらに受肉させることも、あの世界へ会いに行くこともできるそうだ。
「よかった……ありがとうございます、アルベルトさん」
「いえいえ、それとぼっちゃま、私めに敬語も敬称もおやめください。その方が自然でございます」
その後、シンはアルベルトに連れられ、軽い健康診断の後、入院手続きと、記憶復元処置を受けて家族との対面を果たした。
そして月日は巡り、それから2週間が経った頃———
ついにシンに医者から退院許可が降りた。
その日は朝からシンはソワソワしていた。
なぜなら——
「退院祝いだ。息子よ、お前の友達をこっちの世界に呼んでおいた」
という連絡が、朝一番に父から届いたからだ。
「アルベルト、後どのくらいだ?」
「はっは、じきに着きますよ。ぼっちゃま」
もはや何度繰り返したかもわからない会話をしながら、小気味良く笑うアルベルトが運転する高級車の後部座席で揺られる。
そして、ようやく念願のその場所へ辿り着いた。
「…………ただいま」
ここへきて、少し緊張しながら扉を開けると、
「やぁ、シン。退院おめでとう。もう平気なのかな?」
椅子に腰掛け、本を読んでいた手を止め、こちらへいつものようににこやかに微笑みかけるユーシャ。
「お帰り、シンが元気そうで私も嬉しいですよ」
そして側には、将棋の対局の最中こちらに笑顔で手を振るマハトと父の姿。
「あっ! シン! 待ってたんだよ!」
そして最後は、一際嬉しそうな声をあげて奥から駆け寄ってくると、いつものようにシンに抱きついてくるシャルティーナがいた。
三者三様の歓迎を受け、シンは帰宅する。
(やっと、全部終わったんだな……)
と、あの繰り返される絶望の日々からは考えられないほど、穏やかで平和な日常に戻ってきたシン。
これが物語ならば「超展開乙!」「ご都合ハッピーエンドですねわかります」などと大バッシングを受けたかもしれないが、シンはそれでもいいと内心思う。
(やっぱ、現実も物語もハッピーエンドが一番だもんな)
と、両手で最愛の少女を抱きしめながら、穏やかに笑うシンを見て、アルベルト、ユーシャ、マハト、父の全員が温かい目(最後の約1名は生温かったが)を向ける。
そしてその日の晩、シンはシャルを連れてある場所を訪れていた。
そこは、かつて何度も訪れた平原の岩場。
悲しい記憶しかなかったそこに、今度こそ2人で腰をかけて夜空を見上げる。
「わぁ……綺麗……」
「いつか、一緒にこうやってこの空を見たかったんだ。ようやく、叶えられた」
思わず見惚れるシャルティーナの隣で、シンが感慨深そうに呟いた。いろいろなことがあった、と昔を懐かしむのもそこそこに、すぐに視線をシャルティーナの方へ向ける。
「でもあれだな、こうやって改めてみると」
「うん?」
「シャルの方が、ずっとずっと綺麗だ」
シンが真っ直ぐ見つめる先、その瞳にキラリと月の光を反射させ、徐々にシャルティーナの頬が赤く染まっていき、スッと視線を逸らす。
「もう、シンってばどこでそんなの覚えてきたの?」
シンにはそれが照れ隠しだとわかっているからこそ、逃がさない。
「俺の素直な感想だよ」
その言葉を合図に、どちらからともなくそっと唇が触れ合う。
シンはいつかの時間軸で、最後の瞬間にシャルがこうしたいと願っていたことを確かに覚えていた。
このありふれた異世界で、ありふれたハッピーエンドを
「おかえり、シン」
「ただいま、シャル」
唇が離れ、至近距離で見つめ合い、幸せそうに笑い合った2人は……とても満たされた表情をしていた。
〜Fin〜
ありふれた異世界で、ありふれたハッピーエンドを君に 迷迭香 @Rosemary_45
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