8 バレンタインの終わりに

 あれから上若と話すことはなくなり、3年になってクラスと委員会が離れてからは顔を合わせることすらほとんどなくなった。

 家の本棚を見ては苦しくなり、上若から教えてもらった本とその著者を見ては胸を痛め、図書館に行くたびに上若の姿を探していた日々すらも徐々に遠くなる。俺が工業高校に進学を決めるころには、図書室へも図書館へも感傷なく行けるようになっていた。

 工業高校は女子が少ないが、特に俺の学科は女子がひとりもおらず、必然的に女子と会話することなく高校を卒業した。幸いにも文学少年なのになぜか工業高校に来てしまった人と仲良くなれたため、高校はそこそこ楽しく過ごすことができた。

 でも、あの半年を超えたことはなかった。

 そのまま在学中に取った電気工事士の資格を活かして働き始め、3年が経過したころ。

 バレンタインで、事務員の子から義理であのブランドのチョコを渡されて、上若のことを思い出していたそのときだった。

『現役大学生・芥川賞作家の村田純さんインタビュー』

 たまたまつけていたNHKの番組で、そんなコーナーが組まれているのを目にした。

 その本は、俺も読んだことがある。すばる文学賞受賞作という触れ込みのときに読んだのだが、そこから芥川賞ノミネート作になり、今度は芥川賞受賞作になってしまった。デビュー作がこんなに広く評価されるだけでもミラクルなのに、特に現役大学生──俺と同い年で芥川賞を受賞するなんて、まったく別次元の、ファンタジーの出来事のように思える。

 しかしあの物語にはリアリティが満ちていて、次回作が出たら買おうと誓ったほど、俺はあの物語に魅了された。

 精神保健福祉士の主人公が、精神病院の患者と面接してゆく中で、その人生を追体験するようなストーリー。てっきり著者も精神保健福祉士という仕事をしているのかと思ったが、どうやら名門大学の社会福祉学科で学んでいる学生なんだそう。

 ざっくり物語の説明と著者プロフィールを紹介したところで、いよいよ顔出しのインタビューに移る。

「……え」

 声が出る。1Kに置かれた小さなテレビからは、鈴の音のような声が響く。

『どうしてこの物語を書こうと思ったかというと、精神保健福祉士の実習やインターンシップをする中で──』

 大人になった上若聖奈が、画面に映っていた。まっすぐ背筋を伸ばして、姿勢よく座っていた。

 見間違いかと思った。けれど、見間違えるはずがない。俺が、他でもなく、上若聖奈の顔を。

 上若は、たくさんの照明に照らされていて、いっそう美しく見えた。テレビの向こうの、別次元のひと。もう交わることのないひと。そういう状況が、より彼女を美しく見せているのかもしれない。

 上若は、純文学を好きなまま大人になった。長い黒髪を赤いヘアゴムでおさげにすることはなくなって、ストレートのまま伸ばす大人になった。涼しげな一重をアイプチか整形をして、二重にする女になった。俺の知らないどこかで福祉の分野に進もうと思って、俺の知らない世界を見て、小説を書こうと決意して、そして評価された。

 ──ああ。

 涙が出てきて、画面に映る村田純かみわかの姿が歪む。

 ──見たかったなぁ、いちばん近くで。

 どのタイミングで、何があって福祉系の学部に行こうと思ったんだ? どの小説を読んだあとで、どういうことがあって、どういう出会いがあって、小説家を本格的に目指し始めたんだ? その小説を書いているあいだ、どういうことを思ったんだ?

 どのタイミングで、おさげをやめたんだ? どういうタイミングで、二重にしようと決めたんだ?

 画面の向こうの上若が答えてくれるのは、ごく一部の内容だけだった。もともとワンコーナーに過ぎないから、あっという間に上若は画面から消えてしまう。

「あぁ……」

 俺が決めたことだったはずなのに、置いてけぼりにされたショックと、上若がちゃんと美しく大人になったことへの喜びで涙が止まらなかった。

 やっぱり、上若の人生を見ていたかった。釣り合っていなくとも、上若を汚すことになったとしても、いちばん近くで、ずっと、彼女の変化を追っていたかった。

 でも俺は名もなき小市民で、上若は『村田純』になっていた。きっと俺が上若に会えたとして、村田純じゃない彼女にはきっと会えない。もう二度と、上若に会うことはできない。

 俺が2年2組で図書委員会の『真川凛』で、彼女が『上若聖奈』だったころは、もう二度と戻ってこない。

「う、ぁ」

 声を出して泣くのはみっともないとわかっていても、涙が出てきた。ついには我慢できなくなって、叫ぶように俺は泣いた。

 ──上若はもういないのだから。


 本棚には村田純の本が増えて、俺は誰とも付き合えないまま、27歳になった。

 あの14歳の日々からは、もう13年も離れている。しかし13年も磨かれた記憶はもはや宝石のようになっていて、俺の心をつかんで離さない。

 あのとき、チョコを受け取っていたら今ごろどうなっていたのだろう、と暗闇のなか意味もなく想像する。

 14歳の俺は、あの日の俺は、本当に愚かだった。自分の気持ちに従っておけばよかったんだ。

 自嘲して、笑ってみせる。去年、この日は村田純の結婚記念日になったのに、俺は何をやっているんだろう。

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バレンタインの日に思い出すこと 夏希纏 @Dreams_punish_me

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