橘氏の■■

黒本聖南

◆◆◆

 時折、馬形まがたを見掛けるのだと、作家仲間の橘英弥たちばなひでみが告げてきたのは、二軒目のバーでのことだった。

 年季の入ったその店に、客は俺達を含めても四人しかおらず、一人はテーブルに突っ伏していびきをかき、一人は虚ろな目で壁の写真にぼそぼそと話し掛けている。カウンターにいる俺達の会話内容を気にする輩はいないだろう。


「馬形って、馬形庚子郎こうしろうのことか?」

「ええ、その馬形ですよ……。それ以外の馬形がいるのなら、お目にかかりたいものです……」


 つまらなそうに鼻を鳴らし、橘は飲みかけの酒に口を付ける。俺の分もまだあるが、もう飲めそうにない。

 酔いは覚めた。

 馬形の名前にはそれだけの効果がある。正直、楽しい酒の場で聞きたい名前ではないのに、その名を口にした張本人である橘は、なぜ何事もなかったかのように酒を飲めるのか。

 さて時平ときひらさん、なんて俺の名前を呼びながら、俺には一切視線を向けない。黒々としたその瞳は何をみているのか。


「時平さんは馬形とは……どの程度の仲でしたか……?」

「どの程度、とは」

「こうして一緒に酒を楽しむような仲だったのか……会えば話をするような仲だったのか……すれ違ったら会釈をするような仲だったのか……」

「最後のだろうな。馬形とはいつもすれ違うだけだった。……そういえば、打ち合わせがてら出版社に顔を出しに行った時に、向こうは足早に建物から出てきて、すれ違いざまに肩をぶつけられたことがある。謝罪はなかった。よっぽど急いでいたらしい」


 あの日の馬形を脳裏に描く。ぶつかった拍子に視線を向ければ、殺さんばかりに睨まれて、風のように奴は去ってしまった。謝罪を求める気持ちは特に湧かず、それよりも約束の時間に間に合うかの方が重要だった。橘と話していなければ、思い出すこともなかっただろう。

 怒っていたのですよ、なんて、グラスを揺らしながら橘は言う。


「私の作風を真似するのはよせと、担当に言われたそうです。何度も何度も言われてきたせいか、かなり頭に来たようで……二度とあんたの所でなんか書くもんかと、勢いで縁を切り……私の元に怒鳴り込みに来ました。それ以来、彼は一週間ほど我が家に居座っていたのですよ」


 居座っていた?

 疑問を目に宿して橘を凝視すれば、口元を笑みの形に歪めながらその顔を俺に向けてくる。その瞳には何の感情もない。底無しの闇が広がるばかりで、どこか不気味に感じるというのに目を逸らすことはできず、無意識に唾を飲み込んでいた。

 売れっ子作家・橘英弥と──妙な亡くなり方をした無名の作家・馬形庚子郎。

 馬形とはすれ違うだけで会話をしたことはなかったが、風の噂で、馬形が橘の熱烈なファンである、という話を聞いたことがあった。


 ──時平さん、馬形が小説を書くようになったのは、私のせいなのですよ。


「私達が出会った時……私は高校を卒業する間近で、彼はまだランドセルを背負っていました。遊ぶ友達もなく、家族は留守なのか、いつも玄関に座り込んで……空を睨んでいるような子供でした。外出するたびにそんな姿を見掛けるものだから、つい魔が差して、おやつをあげるだの適当なことを言ってうちに連れ込み……書き途中の小説を読ませたのです。私はまだデビューもしていない作家志望者で、客観的に作品を読んで意見を言ってくれる第三者が欲しかった。家族でも友達でも駄目なんですよ……彼みたいに適当な他人が好ましい。もちろんちゃんとおやつをあげましたし、不適切なこともしませんでした。望みは読まれること……ええ、それだけでしたから」


 舌を湿らせたくなったのか、グラスを傾ける橘。俺も水が欲しくなったが、声を発する気になれない。余計な口を挟まずに続きを待った。


「分からないと、彼は言いました。私の小説は分からない……よく分からないと。何が分からないのか、可能な限り言語化させて、問題点を潰していき、その内……新人賞もいい線を行くようになりまして、今の担当に出会えました。口論になることもままありますが……その分いいものを共に作れているんじゃないかと思います。初めて出した本を馬形に渡せば、彼は自分のことのように喜んでいて……お役に立てて良かったです、なんて満面の笑みで言うものですから、それが少し癇に障りまして……君には何の関係もないのに、何故そこまで喜ぶと、つい言ってしまったのです。彼はしばらく私の元に来なくなりました」


 一月ひとつき二月ふたつき、間もなく三月みつき


「それだけの時間を掛けて、馬形は小説を書いてきました。つまらない日常小説です。老いた男が猫と暮らしながら、近所の少年と時折おやつを食べるだけの、それだけの話。あまりにもつまらないものですから、こんな展開にすればもっと面白くなると告げると、馬形はその通りに書き直しました。……私達の関係は変わった。その必要がないから、私はもう馬形に小説の意見を聞かなくなったのに、その必要がないにも関わらず、馬形は私に批評を求めてくる。暇な時はそれでも良かった。その内、仕事が増えてくると……面倒になったので引っ越しました。これで終わりと思いたかったのに、馬形は編集部に手紙を送ってくるようになりました。読ませる相手を間違えましたよ」


 吐息を溢してグラスを傾け、虚空を眺めて動きを止める。固く閉じた口はなかなか続きを語らない。

 語れないのか。

 その口振りからして楽しい内容ではないのだろう。数多の傑作を生み出してきたその頭は、俺に何を語り何を語るべきでないか選別しているのかもしれない。


「手紙を受け取り、読む。返事はただの一度もしませんでした。捨てるのも作品に悪いと、押し入れの奥の方に隠しました。視界の入る所にあってほしくなかったのです。その内……私のように誰かに拾ってもらえたのでしょう、文芸誌で彼の名を見掛けるようになり……いつぞやの忘年会で、話し掛けられました。彼は私とあまり背丈が変わらないほどに成長していました。けれど顔は変わっていないので、一目で彼と分かり……諦めて、また会うようになりました。彼にも担当がいるというのに、相も変わらず私に批評を求めてきました。私は応じてあげましたよ……少々辛口にね。彼はそれでも喜んでくれていた」


 ──その辺りから、でしょうか。


「私の書く小説に、変化が起きたのは」

「……」

「やはり時平さんもご存知でしたか。ええ、以前の私は死人が出るような話を極力書いてこなかった。特に赤ん坊が死ぬような話は。ですが、馬形の小説を批評する内に、自分ならどう人を殺すだろうと考えるようになって、指が勝手に虐殺の言葉を書き連ねるようになりました。そうしたら世の人々はそれを喜んだのです。こんなに素晴らしき物語はないと。残虐な殺しを描くことで生の尊さを語っているのだと。私にそんなつもりはありませんし……それは、馬形の小説にこそ言われるべき言葉でした。馬形の小説は……そんな話ばかりでしたから」


 残念ながら、馬形の小説を読んだことはない。

 仲間たる橘の小説はいくつも読んできた。作風がどこで変わったのかもすぐに思い出せる。世の評判通りの作品だった。目を逸らしたくなるような描写も多々あったが、それでも橘の書く話には、どんなものにも最後まで読ませる力があった。

 その橘にこんなことを言わせるくらいだ、馬形の小説を今更ながら読んでみたくなったが、あの無名作家、単行本を出したことはあったのだろうか。なければ掲載誌を取り寄せるしかない。


「ある日……馬形は顔を赤黒くさせながら怒鳴りつけてきました。何故奪う、これは貴方の与えてくれた自分だけのものだ、と。与えた覚えなんてありません。彼が最初から生まれ持ち、育ててきたものです。……奪うつもりもありませんでした。彼にひたすら怒鳴られて、私は……ただただ、頭を下げました。彼はそのまま私の家で夜を明かし、一週間、書斎の隅に居座りました。気にはなりましたが仕事がありましたので、彼を放って机に向かえば、遠くから言葉を浴びせてくるのです。罵声でも怨み言でもありません。物語の断片です。筋書きも登場人物も何もかも違う、彼の物語未満。飲み食いもせずに彼はずっとそうしていた」


 ──そして、一週間が経つと家を飛び出し、馬形庚子郎は死んだのです。


「自宅の川の傍で、利き手と両脚をとんかちで砕いた挙げ句、首を掻っ切ったそうで」

「らしいな。凶器は馬形の自宅にある物を使ったとも聞く」

「……私の迷惑にならない死に方をしてくれた」


 その言葉に思わず眉根を寄せれば、失礼と口元だけで笑んで、橘はグラスを傾けた。溶けきっていない氷が、小さくカランコロンと音を立てた。


「こんな不謹慎なことを思っているせいか、それだけ強い感情を私に向けてくれていたのか、時折、家にいると馬形を見掛けるのです。どこかしらの部屋の隅にいて、小さな声で言葉を紡ぐ。上手く調理すればそれらは立派な物語になることでしょう。ですが、馬形にはもうできません。馬形は死んだのです。死人に物語を世に広める手段はないのですよ。……誰かがやらなければ、虚空に溶けるだけ」

「──橘、まさか」

「ええ、そうですね……書きます、書こうと思うのです。馬形の紡ぐ断片にはそれだけの価値がある。……時平さん、今日貴方とこうして酒を飲んでいるのは、ある種の決意表明であり、告白、いや懺悔でもあるのでしょう」


 少し飲み過ぎましたと言って、橘は椅子から立ち上がり、懐から財布を取り出して金をカウンターの上に並べていく。橘の分にしては多い。もう少し飲んでいくからいいと告げても、橘は首を横に振るばかり。


「今日で私の物語は終わるのです……何かしら、証が欲しい」


 ──たとえば、この店のレシートとか。


「それを見るたび、私の終わりに付き合ってくれた人がいたのだと……私の告白を聞いてくれた人がいたのだと……思い出させてほしいのです」

「──橘!」


 椅子から腰を上げた時には、既に会計は済み、橘の手には奴が欲したこの店のレシートがある。

 向けられた背に手を伸ばしても、この指は何も掴まない、掴めない。遠退く橘の背を見送るばかり。──やがて、カランコロンとベルの音が響き、橘がこの場からいなくなったことを俺に告げた。


「……」


 何も言えなかった。

 引き留められなかった。

 俺は、これでも橘の書く小説を好いていたはずなのに。失いたくないのなら引き留めるべきだった。


「……っ」


 そのチャンスは、今日しかなかったはずなのに──拒絶する背中に何故屈した。

 床に崩れ落ちた俺に、話し掛ける者はいない。いびきと、ぼそぼそとした話し声が聞こえ……いや、いびきしか聞こえない。顔を上げて、辺りを見回すが、俺とテーブルに突っ伏している奴以外に客はいない。


「……気付かなかった」


 馬形は橘の傍にずっといるのだ、橘はもう馬形から逃げられない。──だからこそ、向き合うことにしたんだろうか。


 奪うつもりもなかったのに奪ってしまったその償いを、しようだなんて思ってしまったのだろうか。

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