第7話 ゆっくりでいい

薫がこの店に勤め始めたのは約2年前。穏やかな毎日に思えるが、ここに辿り着くまでに薫は壮絶な人生を経験している。



薫の実母は、街で出会ったどこの誰ともわからない男性と結ばれ、18歳で薫をら妊娠、出産。産んだはいいが、生活能力の無さから薫はネグレクトに遭い、4歳の頃に児童養護施設に保護された。そこから高校を卒業するまで施設で育ち、その間学校では酷いいじめに遭い続けていた。

小学校に上がると、"親がいない"という、ただそれだけの理由で馬鹿にされ、運動会や授業参観など、保護者が観に来る行事を、薫は毎回欠席していた。

中学生になると、"コイツの親は犯罪で捕まったんだ"、"今も刑務所にいるんだ"とある事ない事言いふらされ、その噂は広まり、いじめはエスカレートした。持ち物が次々になくなったり、教科書や机をボロボロにされたり。暴力を受けることもあった。


小学校から続いたいじめを、薫は誰にも相談できず、そもそも相談する相手もおらず、一人静かに孤独に耐えていたが、暴力を受けるようになり、体中傷だらけで施設に戻ると、さすがに職員は異変を察知してくれた。

「自分で転んで出来た痣。」

そんな言い訳も通用するはずがなく、問い詰められ、14歳の時に薫は初めていじめを告白した。施設の職員は、

「学校なんか行かなくてもいいんだよ。」

と味方してくれた。その次の日から卒業まで、薫は学校に行くのを辞めた。


その後、高校を卒業し、施設を出て、遠回りもしたが一般企業に就職。学生の頃から人付き合いを自然と避けていた薫にとって、会社は非常に息苦しく、気疲れする場だった。

さらに、薫がほんの些細な事でもミスをすると、"高卒"な事を必要以上にいじったり、控えめな性格なのをいい事に、

「やる気あんの?」

「使えない」

「給料分はちゃんと働け」

などと悪意のある言葉を浴びせる上司や、自分の仕事を押し付けてくる同僚もいた。


仕事量と人間関係がストレスになり、薫は体調を崩す事が増えた。会社に行く事を想像すると憂鬱で眠れず、仕事中も目眩や吐き気に襲われ、トイレに駆け込み、症状が治まるのを待った。学校は休めば良かったが、会社はそう簡単にはいかなかった。逃げ道がなく、症状はどんどん深刻になり、心療内科を受診。"適応障害"と診断され、医師からこのまま仕事を続けるのは反対された。

ストレスの原因となるものから離れること。それが症状から楽になれる方法だと言われたが、今の上司に体調不良を打ち明け、退職を切り出すことの方が、薫にとってはいじめよりも何よりも苦痛だった。


病気を隠して働き続けていたが、ある日会社に行こうとベッドから体を起こすと、胸にとてつもない不快感が押し寄せ、その日一日ベッドから動くことができなかった。限界はとっくに超えていた。"もう会社に行くのは無理だ"と悟った薫は、寝転んだまま課長に電話で退職の旨を伝えた。



そこから約半年間は、体調を整えることに専念し、何もせずただただ時が流れていった。

徐々に動けるようになり、アルバイトを転々としていた頃、施設で幼少期を共に過ごしていた友人と再会。体調を崩して仕事をやめ、しばらく休んでいたがまた就職先を探している事を伝えると、その友人は自分の勤め先の上司に薫の事を相談してくれた。

それは街の小さな工場で、その友人や上司を含め、従業員は皆優しくて温かい方ばかりだった。薫もすぐに環境に馴染むことができ、そこから数年間は穏やかに過ごした。



3年が過ぎたある秋。職場の先輩の誕生日をお祝いするために、職員分のケーキの買い出しに行った薫は、新しくオープンした近くのケーキ屋を訪ねた。

「いらっしゃいませ!」

きらきらと出迎えた女性店員に、薫の胸が小さく高鳴った。その女性、葵の人柄と笑顔に惹かれて、そこから何度も店に通うようになった。一目惚れだった。連絡先を交換して、やがて2人で食事や買い物、旅行に行くようになり、付き合って1年で薫から葵にプロポーズをした。

控えめな性格の薫とは対象的に、いつも明るくよく喋る葵は、薫にとって心の救いであり、光だった。薫は、葵の話を聞いているだけで幸せで、一緒に居ると自然と笑顔になれた。

やがて2人は子どもを授かり、「紬」と名付けられた可愛らしい女の子が産まれた。薫は父親になり、家族3人で、人生で初めて家庭を持った。壮絶な生い立ち、数々の辛い経験を経て、やっと薫は幸せを手に握りしめ、ここから新しい人生がスタートする。


はずだった。



紬が1歳の誕生日を迎えて間もない頃、職場で昼食を食べながらテレビを見ていると、速報でニュースが飛び込んできた。電車が脱線して住宅街へ倒れ込み、多くの死者、怪我人がいるとの内容だった。薫はふと、今朝の葵との会話を思い出した。


「今日どっか行くの?」

「友達の結婚式があって、お昼頃の電車で行ってくるね。紬も連れて。あでも、帰りはそんなに遅くならないと思う。」

「そっか。気を付けて行ってきてね。」

「うん、ありがと!」


胸騒ぎがした。

急いで葵に電話をするが、何度かけても繋がらない。無理を行って仕事を早退させてもらった薫は、家に向かう前に事故のあった駅へ向かった。その途中、警察から電話があった。

悪い胸騒ぎは、的中してしまった。



電車の事故で、最愛の妻と娘を亡くした薫は、生きる希望も失くし、無気力なまま、生きているのか死んでいるのかもわからないような、そんな日々を過ごした。


帰宅ラッシュの駅のホームで、何本も電車を見送り、薫はただ立ち尽くしていた。終電間際、ホームいた人も少なくなり、しんと静まり返る夜。薫はようやくフラフラと歩き出した、線路へと向かって。一刻も早く、このどうしようもない悲しみと心の傷みと絶望から開放されたかった。

遠くから微かに聞こえる電車の音が近付いてくる。だが、薫の足は歩みを止めなかった。ゆっくりだが、一歩ずつ線路へと近付き、薫の様子に気付いた周りの人はざわつき始めた。汽笛が聞こえ、薫の片足が空中に浮いたその瞬間、もう片側の腕を誰かに強く引き戻され、ホームに投げ出された薫の前を猛スピードで電車が通過した。

薫を助けれくれたのは、50代半ばの男性だった。その男性は、震える薫の体を支えてゆっくりと立ち上がり、

「僕の店、行こうか。喫茶店やってるんだ。コーヒーでも飲んで、な。今は息が詰まってしんどいと思うけど、ちょっと休んで落ち着いたら、気持ちが軽くなるはずだから、ね。行こう。」

と言って、2人は少しずつ歩き始めた。



男性は、街の外れにある喫茶店の店主だった。一人で切り盛りしており、店終いをして家に帰るところで薫を見かけたのだった。深夜にも関わらずもう一度店を開けてくれた店主に、薫は心が傷みながらも、"この人に話を聞いてもらいたい"と思い、自然と口から言葉がこぼれ落ちていった。

「僕、4歳の時、親に捨てられたんですよ。」

「うん。」

「施設に預けられて、高3までそこに居たんですよ。」

「うん。」

「学校に行けばいじめられて、だから学校も行けなくなって。」

「うん。」

店主は、温かいコーヒーを淹れながら、薫の話を静かに聞いていた。

「職場でも居心地悪くて。居場所がなくて。それで体調崩して…。」

「うん。…ほら、どうぞ。」

「ありがとうございます。」

店主がオレンジ色のカップに淹れたコーヒーを薫の前に差し出した。薫は温かいカップを両手で包み込んだまま、話を続けた。

「僕なんか、居ても居なくてもいいんだろうなって。居なくなっても、誰も気付かないんだろうなって。そう思ったら、もう全部どうでも良くなっちゃって。」

「うん。」

「だけど、結婚したんです。娘も生まれて。」

「うん。」

「初めて家族ができて、居場所ができて、初めて、"この人たちのために生きよう"、"妻と娘を守ろう"って思えたんです。自分が生きている事の意味を、生きてる実感を、幸せを噛み締めながら…過ごしてたんですけど…。」

薫はコーヒーを一口飲み、目に溜まっていた涙をぽろぽろとこぼしながら、何とか話を続けた。

「この間、事故で亡くなって。…妻も娘も。一瞬でした。朝まであんなに元気だったのに…。」

「辛いね。」

「もう僕は…僕はっ…。」

店主が薫の隣に座り、噦り上げる薫の肩に手を添えた。

「僕はもう…どうしたらいいかっ、わからないんですっ…。もう僕が生きている意味はないんじゃないかって。…もう無理だよ…僕は葵や紬がいないと…一人じゃ何にもできないんですっ……っ…。」

静まり返った深夜の喫茶店に、薫の泣き伏す痛ましい声だけが響いた。しばらくして、店主がゆっくりと口を開く。


「君の話を聞いて、"辛かったな"、"大丈夫だ"なんて簡単には言えない。でもなぁ…。生きていれば、きっと何かある。"生きていて良かった"と思える出来事が。」

「…。」

「君、コーヒーは好きか?」

「…はい。」

「じゃあ一つ相談なんだけど、僕はもうすぐこの店を畳もうと思っているんだ。」

「え。」

「いろいろと事情があってな…。だけど、ここには毎日、少ないが確かにお客さんがやってくる。憩いの場を求めて、コーヒーの温かさを求めて、そして助けを求めて。」

「助け…?」

「どんなに悲しくても、辛くても、投げやりになっていても、逃げ出したくても…ここに来て、コーヒー飲んで一息ついて、抱えている事全部吐き出して、そしたら皆来た時よりもスッキリした顔で帰っていくんだ。そうゆう場って必要なんだと思う。だから…。」

薫は泣き腫らした顔を上げた。

「僕の代わりに、ここに居てくれないか?君に、僕の後を次いでほしい。コーヒー淹れて、お客さんの話聞いてやるだけでいい。そしたら、いずれやってくると思うんだ。君が、"生きていて良かった"と思える日が、瞬間が。ゆっくりでいいんだよ。」

薫は、カップの持ち手をぎゅっと握りしめた。

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