第5話 子どもが1歳なら、お母さんも1歳

「いらっしゃいませ、よう…こそ…。」

この日薫が迎えたお客様は、小さな赤ちゃんを抱きかかえ、泣き腫らした目でこう呟いた。

「少し休ませていただいても良いですか?」

「もちろん。こちらへどうぞ。」

薫は店の看板を、"OPEN"から"CLOSE"に裏返すと、お客様をテーブル席へ案内し、側にはベビーチェアを起いた。その女性は、抱いていた女の子をベビーチェアへ座らせると、自分も椅子に腰掛けた。


「何か飲まれますか?」

「じゃあ…何か温かいのを…。」

「では、ホットコーヒーをお持ちしますね。…娘さんですか?」

「はい。1歳6ヶ月です。」

「お名前は?」

「陽毬(ひまり)って言います。」

「ひまりちゃん。可愛いですね。…あっあくびしてる(笑)」

「いっぱい泣いたから眠くなっちゃったかも。」

「すみません、ここベビーベッド置いていなくて…。」

「あっもうお構いなく、この椅子で十分です。ありがとうございます。私もこの子も、少し休憩させていただきます。今日一日、もうヘトヘトで…(笑)」

「ごゆっくり。コーヒーご準備致しますね。」

薫はキッチンの方へ離れた。薫がコーヒーを淹れている数分の間に、その女性、小宮栞奈(こみや かんな)も陽毬もすやすやと眠りについた。



この日は朝から忙しない一日だった。陽毬の1歳半検診があった為、一日仕事を休みにしていたのだが、今朝になって上司から連絡が入った。栞奈が担当していた仕事でトラブルがあり、担当の栞奈がいないとその場では解決できないとの連絡だった為、大急ぎで準備をして、午前中だけ陽毬を保育園に預けることになった。

突然起こされた上に、時間がなく朝ご飯を食べられなかった陽毬は最高に期限が悪く、登園中の満員電車の中で泣き喚いていた。周りの乗客からは、迷惑がる声や舌打ちが聞こえており、栞奈もこのまま陽毬と一緒に泣いてしまいたかった。


大急ぎで仕事を片付けたが、検診の予約時間には間に合わず、病院には電話で遅れる旨を伝えて、大急ぎで陽毬のお迎えに行った。

保育園に着くと、担任の先生が申し訳なさそうに陽毬を抱っこで連れて来てくれた。

「お母様すみません、今日ひまりちゃん、またお友だちに噛み付いてしまって…。」

「そうだったんですね…申し訳ございませんでした。」

陽毬が保育園で他の子どもに噛み付いてしまったのは2度目だった。全く噛まない子どももいるらしい。我が子が他の子を傷付けてしまっている事を受け入れるのは苦しく、栞奈は自分に落ち度があるのではと傷付いていた。


その後、大急ぎで1歳半検診を受けに病院へ向かった。検診では身体発育、歩行や言語の発達などをチェック項目で診られるのだが、陽毬は指差しができず、更に発語もまだない事が引っかかり、"発達に遅れがあるかも"との結果だった。この結果には、栞奈もかなりダメージを食らっていた。

他の子と比べたことはなかったが、陽毬は歩き始めたのも確かに最近、保育園にお迎えに行くと、何か話しながら近寄ってくれる同じ学年の子に対して、陽毬は全体的にのんびりだった。

だが、陽毬は"他の子と違う"…一度そう思うと、いろいろと心当たりが浮かび、不安に押しつぶされた栞奈は、泣きながら電車に揺られ、気付けばここ、珈琲喫茶kaoruに辿り着いたのだ。



「美味しい…温まります。」

コーヒーを飲んで、ほっと一息つく栞奈を見て、薫は隣のテーブル席に腰掛けた。

「今日はもうお客さんは来ないと思うので、ゆっくりおくつろぎくださいね。」

「ありがとうございます。あの…ちょっと今日、しんどい事があって…聞いていただいてもいいですか?」

「もちろん、僕で良ければ。」

栞奈は黄色いコーヒーカップを握りしめ、今日一日の出来事を薫に打ち明けた。


「初めての子育てで、右も左もわからないまま、シングルなので夫に頼ることもできず、それでも自分なりに一生懸命育ててきました。でも…やっぱり一人では限界があって…しかも今日、病院で言われた事が、頭から離れなくて…。もし私の育て方に問題があったらとか、ちゃんと父親がいたらとか、いろいろ考えて辛くなってしまって。」

栞奈の瞳から涙がこぼれ落ちた。

「お母さんのせいではないですよ。絶対に。ひまりちゃん、体の発育に問題はなかったんですよね?」

「はい…。」

「でしたら、お母さんが今日までひまりちゃんを大事に、大切に育ててきたおかげで、こんなに元気で可愛い女の子に成長しているんだと思います。他の子と比べたら、"自分の子はどうして"って不安になってきりがないですよね。でも、ひまりちゃんはひまりちゃんです。世界でたった一人、のんびり屋さんで可愛いじゃないですか?ほら…あっ、起きた!」

「陽毬…起きたの。おはよう?」

目を覚ました陽毬は、栞奈を見てにこっと笑いかけた。

「のんびり屋さんなんだよね。でも、その方が陽毬らしくて可愛いよね。私ものんびりだし、ままとおんなじだね。」

「陽毬ちゃんも、お母さんも同じです。子どもが1歳なら、お母さんも1歳。お母さんがのんびりなら、子どもものんびり。お父さんがいなくても、お母さんの愛があれば大丈夫です。」

「ありがとうございます。何だか、少し不安がなくなった気がします。」

「それは良かった。でも、出産や子育てって、男の僕が想像するよりも遥かに大変な事なんだろうなって思います。だから、僕の立場でこんな偉そうな事、本当は言ってはいけないと思うんですけど(笑)」

「そんな事ないですよ。星名さんはお子さんはいらっしゃらないですか?」

「…。」

「あ、あの…すみません余計な事…。」

「いえ、何ていうか…今はいないと言うか…。」

「今は…?」

「…いや、僕の話はいいので(笑)」

これ以上踏み込んだ話はできない、そう思った薫は立ち上がり、キッチンへと向かった。


「本当にありがとうございました。コーヒーもごちそうさまでした。また来てもいいですか?」

「はい、ぜひ。お待ちしております。ひまりちゃんも、ばいばい。またね。」

薫が手を振ると、陽毬はしばらく薫の顔をじっと見つめた後、にっこりと笑いかけた。


2人が店を出た後、薫はテーブルを片付けながらぼんやりと呟いた。

「ひまりちゃん、可愛かったなぁ…。」

レジ横の写真立てを手に取り、愛おしそうに見つめる。

「紬と同じくらいかなぁ。」

今は亡き、薫の家族の写真だった。家で娘の1歳の誕生日パーティーをしている写真。そこに映るのは、プレゼントや風船を抱える薫、そしてその隣に、ケーキを指差す妻の葵(あおい)、真ん中にはカメラ目線できらきらと笑う娘の紬(つむぎ)。幸せで溢れていた。


しかし、その幸せは一瞬で奪われた。薫にとって、できれば思い出したくない悲劇。だが脳裏に焼き付いて、忘れることができないのだ。

あの日をきっかけに、薫は今の店を始めた。

「会いたいなぁ…葵に、紬に。」

すっかりと暗くなった空に並ぶ、2つの星を薫は見上げた。

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