海手の夢

海屋敷こるり

海手の夢

 海底に、無数の掌が転がっている。


 そのどれもが指を目一杯に開き、柔らかい内側を水底の砂に這わせている。引き攣ってぴんと張った水掻きからは血の気が失せ、皮膚の本来持つ白さだけを浮き上がらせている。

 屋敷の女たちが毎朝欠かさず行っている礼拝のとき、冷たい大理石の床に押し付けられた彼女らの手が脳裏を過った。


 慌てた僕は、遥か遠くを泳ぐリジーを呼び戻した。リジーは「なによ、もう」と言いながらばしゃばしゃと白い水しぶきを上げてこちらへ戻ってくる。

 口をぱくぱくさせながら足元よりもさらに下を指す僕の指に従って視線を降ろしたリジーは笑って言った。


「あれは、もう人ではないもの。人の苦しみから逃れ、暖かい砂と太陽に跪き続ける道を選んだもののなれのはて」


 遠い昔の記憶だ。リジーはもういない。十歳の頃初めて触れた、抜ける様な青い空と、エメラルドグリーンの海に戻ることはもうできない。目の前にあるのはただ灰色の空と、その面積の九割を機械油に汚染された黒い海に飲み込まれつつある荒れ果てた大陸だけ。


***


「興味深い提案ではありますが、そんな大金は僕にはとても」


 目の前の身なりの良い男に申し訳なくなり、僕はほぼ唯一の財産とも言える銀の指輪を右の人差し指で撫で擦った。


 男は移住斡旋業者だった。この大陸で生き続けることは、人々にとって最早何の価値もない。人々は移住斡旋業者に大金を払い、この地獄からぞろぞろと脱出して往く。


 町工場の横の下水道と大差ないような死んだ大地に残っているのは、後ろ暗い理由がある者か、金のない者。そのどちらでもない場合は男のように、まだ移住が完了していない隠れた金持ちを探し出して財産のすべてを絞りつくそうと企む悪徳業者と相場は決まっている。


 だから僕は最初に男に移住を持ち掛けられたとき、どうしてこの男は僕の出自を知っているのだろうと思った。父の会社が倒産したのはもう十七年も前だ。


 迫り来る追手から逃れるため、屋敷の女たちを囮に家族三人で命からがら抜け出した夜。それとほぼ同時刻に発生したハリケーンによって父と母を失ってから、僕はずっと汚水を啜って生きてきた。雨風に晒され機械油に塗れた体は泥人形同然で、リジーによく揶揄われていたえくぼや薄い瞼、厚ぼったい下唇のどれも、こびり付いた汚れに覆い隠されて見えないだろう。戸籍も名前も奪われてしまったので、僕がかつて金持ちの家の子供だったという事実を、目の前の男がどのようにして調べ上げたのかと、僕は不思議に思ったのだ。


「もちろん、その点はご心配なく」


 男は胡散臭い笑顔のままでそう言った。


「財産をお持ちでないことは存じ上げております。でなければ、こんな大陸に残り続けている説明がつきませんから」


 歯に衣着せぬ物言いではあったが、どうやら僕の存在しない埋蔵金目当てに声を掛けてきたわけではないらしい。



「今回貴方様にご提案差し上げるのは、苦しまずに大金を得、そして同時に、楽園へと転生するためのチケットをも得ることのできるプランでございます」



 男が取り扱っている移住プランは、今までにない最新鋭の技術を用いた新進気鋭のシステムによって行われるらしい。


「この世で一番手触りがいい、と思うものって、何かございますか?」


 男が胸の前で、小さなボールを包み込むように両手をくるくると動かした。


「手触り、ですか」

「ええそうです。なんでも、思いつくままに。これから移住先を策定していくにあたり、はじめの一歩の質問ですから、お客様には必ずお聞きすることにしております。この世で一番手触りがいい、死ぬまでずっと触っていたい……、そう思うものを教えていただきたいのです。他の方ですとそうですね、フワフワのネコちゃんですとか、昔抱いた女の乳房……変わったご回答ですと、河原に落ちているスベスベの石ころ、なんてお答えも過去にはございました」


 男はベラベラと良く回る舌で、勝手に話を進めていく。僕はまだ「移住する」とは一言も答えていないが、特段断る理由もないので、男の捲し立てる品のないユーモア交じりの説明を黙って聞いていた。


 どうせ、命の灯が尽きぬ限り、時間は山ほどあるのだ。この町では最早、日銭稼ぎという概念すら失われている。金を稼いで衣食を得るなどという高尚な行為は、目の前の男のように選ばれた者にのみ許されている。僕のような名前すら持たない底辺の人間には、ただ三日に一回配給される特権階級の残飯を啜り、それ以外の時間は日がな一日地面に寝転がっていることだけだ。神の許しを得て天に召されるその日まで、人々はただ生きる権利だけを与えられている。


「水、でしょうか」


 ややあって、僕は男の質問に回答した。


「ほう。冷たい水ですか? それともお湯? どんな場所にある水でしょう。グラスの中、水たまり、それとも雨? お客様の想い浮かべている景色を、余すところなくお聞かせいただきたい」


「海です、ずっと昔に家族で訪れた、イギリスの海です。この国よりも随分と上にある島ですから、夏だというのにすごく冷たくて……。それまで僕はこの国の、人々の汚れと体温でぬるく濁った大河しか見たことがなかったので、初めて触れたときは驚きました。こんなに透き通って冷たい水が、僕の体をすっぽり包み込んでもまだ余りあるほど存在しているなんて」


 僕はリジーと一緒に泳いだあの美しき記憶を、洗いざらい男に話して聞かせた。どうせもう二度と手に入らない光景だ。自分一人の脳髄に大事に収めておくよりも、他の人間に話して聞かせて記録させてやれば、データはずっと長持ちする。


「そうですか。それは美しい思い出だ」


 男はさも感心した、という態度で相槌を打った。


「では次に、この世で一番足触りがいいと思うものって、何が思い浮かびますでしょうか?」


 予想外の質問だった。


「え、は、足、ですか。手じゃなく」


「ええ、そうです。手と足ではそれぞれ触れたいと思うものは違うでしょうから。慎重に、順番にお伺いしております。何せ移住というのは人生の一大イベントでございますので」


「は、そうですね……足……。ううん、やはり水でしょうか。全身を海水の中にじゃぼんと浸すのが何より気持ちがよかったのです。あるいは、太陽の熱に暖められた砂浜の、サラサラとした感触もまあ、ずっと踏みしめていたい、と思うには十分だったと思います」


「では、足もやはり水、ということで記録させていただきましょう。いえいえ、珍しいことではございませんから、ご安心なさってください。手と足で回答が被るお客様も、過去にはたくさんいらっしゃいました。むしろ、今までの人生では地べたと宙で離れ離れだった手と足が、この移住を機に一緒になることができると考えれば、むしろ喜ばしいことですらございます」


 男は、分かるような分からないことを次から次へとよく喋った。その調子で男は、腕は、肩は、くるぶしは、鼻は、舌は……と、体中のそれぞれのパーツごとに僕が最も心地が良いと感じるものを質問してくる。僕は一つ一つの質問を受けるごとに逐一頭の中をひっくり返し、今まで感じたことのある感覚のすべてを一直線に並べて比較した。結局、どの質問に対する答えも、あの日あの海で触れた冷たい塩水になった。


「お客様のご希望をもとに、概算見積を作成いたしました。費用は、ざっと三千万ルピーほどでございます」


 男は、持っていたタブレット端末をこちらに向けた。この世紀末だというのに、傷一つない液晶は色鮮やかな光を放っている。ほとんどが黒と灰で塗りつぶされた景色において、自然界に存在し得ない色とりどりのパステルカラーは一際目立っている。


「ですから、僕にはお金が」

「ええ、ええ。存じております。初めに全体の金額をご提示するのはセールスの基本でございますから。ここから、各種割引を適用させていただきまして……最終的にお客様からお支払いいただく金額は、こちらでございます」


 男は言いながら、トントンとリズミカルに液晶を叩き、そしてまたくるりとタブレットをひっくり返してこちらに見せた。


 画面上の電卓に表示された金額は、ゼロであった。


「……無料というのは光栄ですが、僕は何の資格もクーポンも持っていませんよ。ここまで大幅な割引を受ける権利が僕にあるとは到底思えませんが……」


 男の提案は、詐欺としか思えない。具体的なプランの説明もないまま、何の意味があるのかわからない質問を延々と繰り返されただけだ。もしかしたらこの男は業者でもなんでもなく、ただ適当な浮浪者を騙して遊んでいるだけなのかもしれない。

 それでも僕は男の話に耳を塞ぐことはできない。


 一パーセントでも、この腐食した国から抜け出せる可能性があるのなら。もう一度、リジーと出会ったあの島に戻ることができるなら、僕はこの男の誘いを断る理由がない。


「ええ、ええ」


 それは男の口癖らしかった。「すべてわかっておりますよ」と、場の主導権を握りに来るような頷きだ。


「お客様には、不要となる内臓をお売りいただくこととなります」


 その言葉に、僕は当然呆れた。なんということはない。男はブローカーだったのだ。沈みゆく大陸から未だ脱出できずにいる哀れな貧民から、若くて健康な内臓を奪い取る。その対価として他の地への移住を約束するが、実際にそれが成し遂げられることはないだろう。何せ、この国にいるのは免許を持たない闇医者だけだ。使える内臓を摘出した後に残った抜け殻に、ろくな処置が施されるとは到底思えない。術後すぐに合併症で命を落とすか、運良く生き残ったとしても「船の到着が遅れている」とかなんとか言いくるめられ、死ぬまで地面に放置される運命だろう。


 見るからにげんなりとした僕の表情を知ってか知らずか、男は「ああ、いえいえ」と続けた。


「何せ、私共のプランでは、内臓などなくとも安全に、かつ確実にお客様を移住させることが可能ですので。内臓疾患の心配にも別れを告げ、かつまとまったお金も手に入れて移住も叶う。大人気のプランでございます」

「は、」


 それは、どういう。僕がそう問い返す必要はなかった。男はなおもぺらぺらと弁舌を振るう。


「ええ、ええ。皆様そのようなお顔をなさいます。私共の看板商品をご説明差し上げると、皆様決まってぽかんとされるものですから、ついついお客様へ、いじわるが過ぎたことをお許しください。繰り返しになりますが、私共の技術をもってすれば、邪魔な内臓を脱ぎ捨てて、楽園へと移住することが可能なのでございます」


 男はなおももったいぶった調子で話し続ける。相変わらず話の全容は見えてこず、僕はついイライラとして、左手の人差し指を銀の指輪ごと強く握ってしまう。


「先ほどお伺いした質問をもとに、お客様のお体を細かく分解するのです。それぞれのパーツを、各々最も安らげる場所へ。最も、全てを司る脳だけは、私共の管理下に置かせていただく必要はございますが。


 各地へ散らばった――お客様の場合は同じ場所ですが――体の各部位に取り付けられた特殊な器具が、お客様の生の感覚を、リアルタイムでお客様の脳へ送るのです。


 お客様の脳は私共の直接管理する、この世で最も安全な場所にあるまま。生の苦しみを全て脱ぎ去り、至上の悦楽だけを享受しながら永久に生き続けることが可能なのです」


 僕は男に説明されるまま、想像した。僕の体がバラバラに切り刻まれている。それぞれの傷口には銀色の器具で蓋がされ、太陽光を鈍く反射しながら、あの美しい海中を漂っている。滑らかな冷たさが、苦さと塩辛さが、星の果てまで広がる海原が、電気信号に変換されて海と大地を超えて届くさまを。


「永久に、というのは」


「興味を持っていただけたご様子。ええ、なんでも仰ってください。楽園への片道切符、たとえ無料だとしても安い買い物ではございますまい。一から十まで、お客様の気が済むまでご説明いたします。

 先ほどご説明した器具。あれには細胞の代謝を活性化させる機能が備わっております。通常の人体の代謝機能は不完全で、どんなに分子を入れ替えても、数パーセントは古い老廃物が細胞内に残留してしまいます。その数パーセントの老廃物が年々積もり積もって、やがて代謝が行われなくなる。それが細胞の死です。細胞が死ねば当然生命も終わりを迎えます。

 しかし、我々の開発した装置を用いれば、数パーセントの老廃物も残すことなく、百パーセント完全な代謝を行うことができるのです。ですから、永久、ということになるのでございます」


 男が言ったことはもっともらしく、そして変わらず胡散臭いままだ。それでも、結局のところ僕にはこの胡散臭い誘いを受ける以外の選択肢は残されていない。


 最近、咳をするたびに赤黒い血が吐き出される。内臓のどこかが腐り始めているのだろう。この先、時間が経てば経つほど内臓は劣化していく。もうとっくに手遅れかもしれないが、一秒でも早く、内臓が若くて健康なうちに金に換えなくてはならない。これを断っても、どのみち僕に残されているのは野垂れ死にか、さもなければ悪質なブローカーに内臓を売り飛ばされて野垂れ死にするかのどちらかだ。


「分かりました。ぜひお願いしましょう」


 男は僕の返答を聞いてもさほど嬉しそうにはせず、「ええ、ええ」と頷いた。


***


 「移住」はあっけなく成功した。あの場で男に促されるままに、なけなしの血液を書類に吸わせた僕は、その日のうちに男とともに「研究艇」へと踏み入った。


 黄土色に濁った大河に浮かべられたその船の前に立って、男は「月並みな言葉で表現すれば、『ノアの箱舟』というやつでございます」と言った。


 「研究艇」の内部は、外界とはうって変わって清潔であった。内壁と同じ真っ白い白衣を着た大人たちが何人も忙しそうに立ち働いていた。


 簡単なメディカルチェックを済ませた後、手術台に横たえられた状態で、意思の最終確認が行われた。僕は躊躇うことなくすべての項目に同意をした。


 「よい転生を」頭頂部の方から男の声が聞こえたが、目隠しをされた状態では男の顔は見えない。鼻の穴に差し込まれたチューブから麻酔ガスを胸いっぱいに吸い込んで――、目覚めたときには、水槽に浮かぶ脳味噌そのものになっていた。


 不思議だ。手や足、舌に耳介。様々な体のパーツがリアルタイムで得ている感覚が、チューブを伝って脳に直接、ばらばらに流れ込んでくる。五感のすべてが連動せずに各々好き勝手感覚を伝えれば、脳はたちまち混乱して狂ってしまうのではないかと不安だったが、どうやら最新鋭の技術によって拡張された脳はこの程度容易に制御できてしまうらしい。


『お加減はいかがでございましょう、お客様』


 男の声が、電気信号に変換されて僕の脳へ注がれた。「ええ、とても心地が良いです」と答えようとして、つい移住前の癖で舌を動かしてしまった。遥か洋上に浮かぶ舌が冷たい海水を舐め、ほろ苦い塩辛さを感じながら僕は脳内で答えを念じる。


『それはそれは。お気に召していただき、私共も一安心いたしました。何しろクーリングオフの聞かないプランでございますので』


 耳介から伝わる潮騒と、男の媚び諂うような声が重なり合う。僕はそのまま返事をせず、清流のように整然と流れ込む感覚に脳を委ねた。

 


 移住を果たしてから、十余年が過ぎた。何年も何年も、穏やかな時間だけが流れてゆく。腐敗と崩壊を続ける大陸から遥か七千五百キロメートル離れたこの海は、まだ美しき海原を残している。各パーツに取り付けられた器具には推進に必要な機能は備わっていないので、僕は永久に、この星の引力に揺られるまま存在し続けるだけだ。

 

 そしてまた、十年が過ぎた。男は定期的に、よく分かるような分からないような戯言を脳に直接語り掛けてくるが、すべて無視している。移住を手助けしてくれた恩義は忘れていないが、人の臓器と引き換えに大幅なリターンを与える連中など、感謝に値する人間ではないだろう。

 

 今日も雨だ。二十年前までは辛うじてその表面を露わにしていた大陸は、とっくに沈み切ったらしい。何年か前に男が言っていたのを薄らと覚えている。大陸が沈み込んだ分、こちらの海が深くなってきているという話も。海の深さがわずか数センチ変化するだけで、この星全体のバランスが崩れるらしく、あれほど晴れ渡っていた空もここ数年はずっと灰色だ。

 

 灰色の雨が降り注ぎ続け、また十年が経過した。相変わらず男は折を見て外界の様子を報せてくる。止まぬ嵐と地盤沈下によって海底の砂が巻き上げられ、澄んでいたはずの水はすっかり黄色く濁ってしまった。

 

 最初、なんとなく各々近い距離を漂っていた体のパーツは、激しい波に攫われてすっかり離れ離れになってしまった。最早この海が、夢にまで見たあの海なのか、それともあの濁った大河を受け止める、汚れ切った大洋なのかの区別もつかない。

 

 手に入ったはずの永久の楽園は、わずか十年と少しで失われてしまった。なおもノコノコと脳内に語り掛けてくる男に向かって、僕は累積した不満を念じてぶつけた。


『お客様。私共のプランはまだ、完了してはおりません』


 僕の怒りなど織り込み済みとでも言うように、男は用意していたらしい台詞を吐いた。


『どういうことだ。世界中がこんなになってしまって、これ以上何があるというのだ』


『ええ、ええ。こんなになってしまってもなお、人の生に執着するお客様には分かりますまい』


 僕の不遜な態度と呼応するかのように、男の態度もまた、セールスマンとは思えぬほどに厭味ったらしい響きを増幅させている。


『お客様。私共のプランでは、「移住」など、過程に過ぎぬのです』


『「転生」なのでございます。「移住」程度で手に入るような世界が、本当の楽園であるはずがない』


 「よい『転生』を」。三十数年前、僕の体がまだ一本の管として機能していた最後の晩に、男は確かにそう言った。


 それはただ、セールスマン特有の誇張表現だと、そう受け取って気にも留めていなかった。実際、脳と体を切り離して、快感だけを享受する生活はほとんど生まれ変わるようなものだ。だが、しかし――。


『この先、僕は人ではなくなるということか』


 右手が、左手の薬指を握ろうとして空振った。ザラザラとした水が指の間をすり抜けていく。


 左手の親指で薬指を擦ると、長い期間波に晒され、すっかり擦り切れて無くなりかけている銀の指輪が、辛うじて指に引っかかっているのが分かる。


『あと数億年、といったところでしょうか。お客様。滅んだ後の静かな水底で過ごす新たな生を手に入れるまで、どうぞ、よい『移住』を』


 男はそう言ったきり二度と連絡を寄こしはしなかった。脳に繋がれた管はただ、遠くの荒れた海の様子を伝え続けるだけだ。研究艇で何が行われているのかを知る術は僕にはない。

 



 数百年が経った頃、足と、耳に付けられた器具と脳との間の接続が途絶えた。器具が破壊されたのか、何かの拍子に外れてしまったのか。修理を依頼しようと何度男に呼び掛けても応答はない。

 

 時を経るごとに、脳が受信する電気信号は減っていった。まともに感覚を伝え続けてくれているのはもう、左手だけになってしまった。

 この手との接続が途絶えたとき、僕は死ぬのだろうか。信号を入力されることのない、ただ静寂だけが支配する空間に閉じ込められたとき、果たして脳はその退屈さに耐えられるのだろうか。流れ込む電気信号の濁流に耐えうるほどにその器を拡張された脳は、その役目を剥奪されてなお生き続けようと思うのか。

 恐らく僕とその脳は発狂して死ぬのだろう。

 

 残った左手を動かして、僕は水を掻いた。砂とごみを大量に含んだ汚い水を掻き分ける。狂って死ぬその直前まで、少しでもこの海を感じたい。たとえそれがあの日の海ではなくなっていたとしても、いつまでも冷たい水に触れていたいと願ったのは僕自身だ。

 

 左手指を、暖かい手が包んだ。生命の死に絶えたこの海で、意志を持った筋肉の動きを感じたのは何百年ぶりだろうか。その手は柔らかい五本の触手をふやふやと動かす。まるで僕の指の形を確かめるかのように、ぬるぬるとした内側を執拗に這わせてくる。

 僕の薬指に引っかかっていた金属片と、相手の指に引っかかっていた金属片がぶつかって、軽い衝撃が脳に伝わった。

 

 あの日、リジーと離れて大陸の自分の屋敷に帰るのが嫌で、みっともなく駄々をこねた。僕より一つ年上のリジーは困ったように笑って、「また逢う日まで」と言って僕の指にぶかぶかの銀の指輪を嵌めた。

 「本当は姉さまとお揃いにしようと思ったんだけどね」リジーがそう言って片方の指輪を自らの左手に通していたのを覚えている。

 

 人の苦しみから逃れ、暖かい砂と太陽に跪き続ける道を選んだもののなれのはて。

 

 二人なら、そんな生でも悪くはない。

 

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海手の夢 海屋敷こるり @umiyasiki

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